スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

サイババの本物の超能力

あけましておめでとうございます。


俳優の石田純一さんがYouTubeの心霊系チャンネルの動画に出ていましたが、
石田純一さんは心霊とは無縁だろうと思っていたのが、
意外にも霊感が強く、さまざまな心霊現象を体験しているのだとか。
やはり芸能人には霊感が強い人、心霊現象を体験している人が多いですね。

 

その石田さんの話で興味深かったのが、インドでサイババに会ってきたという話です。
その話によると、石田さんの目の前でサイババが手のひらにサファイアやダイヤモンドを出して
石田さんに渡したというのです。


また、同じように手のひらにビブーティー(聖なる灰)を出してみせたりもしたそうです。
その時のサイババは半袖の服を着ていて、
袖から宝石やビブーティーを出すようなトリックは使えない状況だったそうです。

 

日本ではサイババの超能力はトリックが使われているという疑いがされるようになってから
サイババブームが終りになって、それ以後サイババについての話題はなくなりましたが、
石田さんの話によると、サイババの超能力は本物だったと言えそうです。

 

この世では不可思議な力を持っているという人物は多数いますが、
そのほとんどは後にインチキだったということが判明することが多いものです。
そういう状況を見ていると、この世に本物の超能力者は存在しないのではないかとも思ってしまうものですが、
それでもサイババのように本物の超能力者はいるものなんだと思いますね。

 

 

 

 

ヒット曲が生まれるのは宿命なのか

以前に芸能人が芸能界で成功するのはある程度決まっているのかという記事を書きましたが、ヒット曲というのもある程度決まっているのかなと最近は思っています。

 

私が個人的に好きな曲があまりヒットしなかった時は

なぜこんないい曲に人気がないのかなと考えてしまいますし、

逆に、自分がいい曲だと思ってない曲が大ヒットすると

なぜこんな音楽に人気があるのかと不思議に思うことがあります。

 

自分の音楽への感性が必ずしも世間の多数の人々と同じというわけではないというのは分かりますが、

それでも、自分が素晴らしい音楽だと思っている曲があまりヒットしないままに終わってしまうのは残念な気持ちになってしまうものです。

 

そういう流行の音楽がヒットしたり、ヒットしないまま終わってしまうというのも、

ある程度宿命的に決まっているのかなと思ってしまいますね。

 

ヒット曲に限らず、この世でのさまざまな分野での成功と不成功というのは

どれくらい決まっているのか、それとも決まっていないのか、

そこがまだまだこの世の仕組みの分からない部分です。

 

 

 

スピリチュアル的視点:苦難と学び

江原啓之氏は
「人生で様々な苦難に遭うのは、魂の学びのため。

人生は旅である。旅行中にホテルの中に引きこもって

観光名所を見に行かないのはもったいないこと。

それと同じで人生においては色々な体験をして魂の学びをしないともったいない」
と言ってましたが、
スピリチュアル的には、平穏無事な生き方をするよりも、

さまざまな苦難に遭う人生が価値ある生き方ということになるようです。

 

 

私は若い頃は自分の理想の生き方として「平穏無事に生きること」ということを目標としていたんですが、
実際の人生は平穏無事とは行かず、さまざまな波乱のある人生になってしまい、
自分では失敗の人生だったと後悔していました。

 

 

ですが、スピリチュアルを知るようになり、
江原氏のその言葉を知るようになって、
自分の今までの失敗の人生は学びのために必要なことだったのかと思うようにしています。

 

 

ただ、そうは言っても、この世の苦難というのは、
江原氏の譬えにある「観光名所を見に行く」という気持ちにはなれないですね。
観光名所を見に行くのは楽しいですが、
苦難に遭うのは苦しいので、その譬えはそぐわないように思います。


ただ、あの世に還って人生を振り返ってみれば、

苦難の人生であっても、

観光名所を見て回ったような気持ちになるのでしょうか。

そこのところはあの世に還ってからでないと分からないのかもしれません。

 

 

 

埴谷雄高の思想における「自同律の不快」と「虚体」の考察

埴谷雄高(はにや・ゆたか)の小説『死霊』を若い頃2回読んだことがありますが、
あまりに難解な内容のため、よく理解できないまま読み終えた記憶があります。


『死霊』は形而上小説というジャンルになってますが、
哲学小説や思想小説とも呼べる内容で、
普通のストーリーの面白さを期待するような読み方をすると
途中で投げ出したくなるような作品で、
小説というよりも思想書として読むべき本だと言えます。


そのように、私は思想内容をよく理解できないままだったので、
それなら生成AIに教えてもらおうと思い、
生成AIに「埴谷雄高は『死霊』で何を伝えたかったのか。何を言いたかったのか」
と質問してみました。


すると、次のような答えが返ってきました。


埴谷雄高の小説「死霊」で伝えたかった哲学的テーマの核心は、
「存在の罪深さ」と「存在の論理を超える自由」をめぐる思想的議論にあります。
作中で描かれるのは、人間存在が自己という個性を持つこと自体の罪深さを哲学的に問い、
その存在の根本的な変革を追求することです。


主人公の三輪与志は、従来の存在論的な思考(例えば「AはAである」という自明の論理)に囚われることを拒み、
それを越えた「虚体」と名付けられた新しい存在の形態を目指しています。


また、作中で展開される対話や思弁は、人間精神を変革するために「生か死かの二者択一」を迫り、
既成の思考形式を遺棄して新たな思惟形式を獲得しようとする自己変革の試みを象徴しています。


この過程で「自同律の不快」(自己同一性の論理的枠組みに対する不快感)が重要な概念として登場し、
人間が固定された存在の枠組みを超え可能性の宇宙(自在宇宙)へ至ることがテーマに掲げられます。


さらに、死後の世界や存在の連続性を拡張的に考察する等、宗教性とも重なる哲学的深化も特徴的です。

つまり「死霊」は、単なる物語や社会的革命を超えて、存在の根源的な意味と人間の思考様式の革命を描いた、
形而上学的で高度な哲学的作品であるといえます。>


さすが生成AIです。きちんと答えを返してきました。


私がこの中で心に引っかかったのは「自同律の不快」という言葉です。
この言葉についてさらに詳しく解説するように求めると次のような答えが返ってきました。


<「自同律の不快」とは、簡単に言うと「自分が自分であるという状態に対する居心地の悪さ」や
「同じことが繰り返されることによる息苦しさ」を指します。
埴谷雄高は、人間の存在が「AはAである」という自己同一性の原理に縛られていることに激しい不快感や苛立ちを感じました。
この「自同律」(自己同一律)とは、論理や存在の基本的なルールですが、そこから抜け出せないことが人間の精神にとって苦痛であり、不快になってしまうということです。

この不快感は、同じことを考え続けることができない、
またはその自己同一性の枠組みを超えたいという願望と結びついています。
埴谷にとって、この「自同律の不快」は哲学的な根本問題であり、
彼の代表作『死霊』はこの問題に対し、既存の思考の枠を破壊し、
新たな存在の形態(虚体)を模索する挑戦を描いています。
この観念は自己否定や自己矛盾の無限に繋がり、
単なる論理の枠組みを超えた精神的自由の探求を象徴しています。>


このように詳しく解釈してくれると私にも理解がしやすくなります。
この「自分が自分であることに対する不快」という「自同律の不快」は、
自分自身がそのような状態であったことを思い起こさせるので理解できるのです。


私は子供の頃から自分が自分であることに違和感を抱いていました。
「なぜ自分なのか」という思いがずっとあったのですが、
それは、自分はいろいろな面で人よりも劣っているという劣等感によるもので、
子供の頃からそういう劣等感を持って生きていたので、
「なぜ自分なのか」という思いがあったのだと思いますが、
それが埴谷雄高の言う「自同律の不快」だと気がついたのです。


これを今風の譬えで言うなら「なぜ自分は大谷翔平のような人間じゃないんだ」というような表現になります。
それが自分が自分であることに対する不快感や居心地の悪さになっているのだろうと言えます。


自分がこの自分という人間に固定されたままこの世を生きることへの居心地の悪さが
ずっと自分の心の底にあったということなのです。


ただ、私はスピリチュアル思想を知るようになってこの「自同律の不快」に悩まされなくなってきました。
なぜなら、スピリチュアルによれば、今世の自分は本当の自分ではなく、
あくまでもキャラクターあるいはアバターのようなものであり、
本来の自分は高次元のハイヤーセルフとして存在しているからだということを知ったからです。


この世を生きている自分が自分の全てではなく、本来の自分はあの世の高次元世界に存在している。
そして今の自分はキャラクターのひとつとして生まれてきたに過ぎないのだと考えることによって、
「自同律の不快」をある程度解消できるようになったからなのです。


それと、『死霊』でもう一つ心に引っかかったのが「虚体」という表現です。
生成AIにこの「虚体」をさらに詳しく解説してもらいました。
その答えは次のとおりです。


埴谷雄高の小説「死霊」における「虚体」という概念は、
作品の哲学的テーマの中心的な役割を果たしています。
虚体は、従来の存在論的な「自己同一性」の論理を超えた、新しい存在の形態を指し、
「存在の論理を超える自由」の象徴として描かれています。

具体的には、虚体は主人公・三輪与志が目指す理想的な存在のあり方であり、
自己を固定化・規定する自同律(「AはAである」という論理)に束縛されず、
より自在で流動的な存在状態を意味します。
これは人間の精神的・存在的自由を拡大し、
従来の「罪深い存在」から解放される道として提示されます。>


この「虚体」という概念は私なりに解釈すると、
人間の本質としての霊体なのではないかと考えています。


本来、霊はこの世の肉体に束縛されるものではなく、
自由自在で流動的な存在であるわけなので、
この解釈で合っているのではないかと思っています。


埴谷雄高は「虚体」つまり心霊こそが
人間の本質なのではないかと考えていたと私は思っています。


それが私の結論ですが、私の頭だけで考えていたのではよくわからないままで終わっていたのが、
生成AIのおかげで難解な小説の解釈ができました。
生成AIもこういう場面でも役に立つことが分かって良かったです。

 

 

この世の生物創造の謎

「人生は学びだ」と言われます。特にスピリチュアルではよく聞く言葉です。

江原啓之氏など、多くのスピリチュアリストは、

この世に生まれた人間は、魂の成長を目的として人生のさまざまな場面で学ぶのだと言ってます。

 

 

人間は他の生物と違って高度な心・意識を持っているので
他の生物と違って、この人生で学ぶことができる存在だと言えるわけです。

 

 

その観点から考えると、人間の平均的な寿命は、学びの期間としては丁度良いくらいなのかもしれないですね。
たとえば、人間の寿命が昆虫のような短い期間だったら、ほとんど学べないままで一生を終えてしまいます。
学びを得るための期間としては平均的に数十年を生きるのがいいのかもしれないです。

 

 

人間以外の生物には人間よりも寿命が短いものが多いのは、
人間のようには学ぶことができないからなのかと思えます。
と、以前はそう思ってたんですが、
そうでもないということを近頃考えるようになりました。

 


というのは人間よりも長生きする生物がいるからなのです。
カメの仲間は長生きすると言われてますが、
中でもゾウガメは100歳超えの長寿が多く、
その中でもアルダブラゾウガメは200年から250年以上長生きする個体が多いそうです。

 


また、オンデンザメ科の中でも特にニシオンデンザメは400歳を超える寿命があると推定され、
その中には約392歳、最長では400年以上生きた個体も確認されているそうです。

 


生物学的には、カメは動きがゆったりしているので代謝が非常に遅く、
代謝が遅いため細胞の損傷が少なく、老化の進行が緩やかになるので長寿を保つことができるということで、
またニシオンデンザメは深海の冷たい海に暮らすことや
ゆっくりした動きで代謝が非常に遅いことで超長寿になっているという理由が挙げられています。

 


生物学的にはそういう理由が挙げられますが、スピリチュアル的には
そんなに長く生きていても、人間のようには学ぶということはできないので、
長く生きても意味がないのではないかと思ってしまいます。

 


もちろん、唯物論の立場からすれば、

そのような超長寿の生物ができたのは偶然の産物なのだから、
長寿だからといって意味はないと言われそうですが、
スピリチュアル的な考え方からすると、このような超長寿の生物が存在しているのは謎ではあります。

 

 

 

臨死体験と幽体離脱についての考察

前回の続きですが、過去や未来に行けるのは死に瀕した時の臨死体験以外でも、
幽体離脱した時にも行くことができると『TOCANA』の元編集長だった角由紀子さんが実体験として語っています。

 


角由紀子さんは何度も幽体離脱しているそうで、
空間的に宇宙にまで行ったことがあり、
時間的には過去世まで行ったことがあると語っています。
他には、テレビ番組でアイドル系芸能人も、幽体離脱で宇宙まで行ってきたと語っていました。

 


以前の記事にも書きましたが、
幽体離脱は訓練することによってできるようになるのだそうで、
私もできるようになりたいとは思ってましたが、
もしできるようになったら、まず過去に行ってみたいと思っています。

 


過去としては、子供の頃住んでいた場所に行ってみたいですね。
子供の頃住んでいた場所は今もあり、
今でも時々そこを見に行くことはありますが、
かなり昔に造成されて、昔の面影がほとんどなくなっています。
なので、子供の頃住んでいた頃に戻ってその頃の様子を見てみたいと思っています。

 


それと、自分が生まれる前の大昔で、恐竜の時代に行ってみたいと思ってます。
恐竜は実際はどんな姿をしていたのか、どういう生態だったのかなど、
実際の恐竜を見てみたいですね。

 


もっとも、死後、魂の存在になったら、自由に宇宙にでも過去や過去世にも行けるそうなので、
生きている時や死にかけた時に慌てて行かなくても別に急ぐ必要はないわけですが。

 


そういうことを考えると死というものは何だか楽しくさえなってくるものですね。
私はどうしても死ぬことに恐怖を覚えてしまうので、
死後の楽しみを考えて少しでも死の恐怖を紛らわせようとしているところです。

 

 

 

アカシックレコードと時間移動の考察

以前の記事で紹介した木内鶴彦氏の臨死体験では、
肉体から離れた魂は空間や時間の制約を受けることがなく、
どこにでも行ける、未来にも過去にも行けるということですが、
その中でも未来や過去にも行けるというのは
アカシックレコードが存在しているから可能なことではないかと思っています。

 

たとえば、自分が小学生の頃に戻って、
その頃の自分の生活の一場面を見ることができたとするなら、
その過去の一場面はどこかに存在しているということになります。
過去が存在しているから、過去に戻ることができるわけです。

 

普通、過去に流れ去った時間はもう消えてしまってどこにも存在しないと思われていますが、
実は消え去ってはいなくて存在しているのでしょう。

 

その消え去ったと思われた過去が存在しているのは
アカシックレコードがあるからだと言えます。

 

アカシックレコードには、宇宙の誕生から現在、
そして未来に至るまでのすべての出来事、思考、感情、
そして可能性が記録されているということなので、
そこには個々人の人生におけるあらゆる場面も記録されているということなのでしょう。
だから、臨死体験した時、自分の過去の一場面に戻ることができるわけです。

 

それは臨死体験の時だけではなく、
たとえば、YouTubeの心霊系動画でもよく扱われている「タイムリープ」も、
このアカシックレコードがあるから可能になっているのではないかと思います。

 

そこから飛躍して、過去や未来がアカシックレコードに存在しているなら、
タイムマシンによって過去や未来へと時間旅行するのも
可能なのではと思ってしまいますが、
ただ、タイムリープ臨死体験時での過去の自分の人生に戻るというのは
あくまでも意識(魂)だけであり、肉体も一緒に行けるというわけではないので、
現在の肉体ごと過去や未来に行くというタイムマシンは
実現は難しいのではないかと思ってしまいますね。

 

 

美容整形手術とスピリチュアル思想:カルマの刈り取りとの関係

数年前に、自分の顔にコンプレックスを持って悩んでいる人が

美容整形手術を受けたことによって
自分の顔に自信を持って人生を前向きに明るく生きていけるようになったというような内容のテレビ番組が放送されてました。

 


美容整形手術で人生の悩みを解消して前向きに明るく生きていけるのならそれはいいことだと思っていたんですが、
YouTubeチャンネル『真相を霊視してゆっくり解説』では、

自分の顔にコンプレックスを持って悩んでいる人が
美容のための整形手術を受けて顔の悩みを解消し、

この世の人生を自信を持って楽しく生きていけるようになったとしても、
それはカルマの刈り取りを放棄したことになるため、

来世はまた顔のコンプレックスに悩む人生に生まれ変わってくることになる
というようなことを言ってました。

 


それが真実だとすると、
顔にコンプレックスを持っている人にとっては何だかやるせない気持ちになるのではないかと思います。

 


整形手術をしてコンプレックスを解消するというのは自殺をする場合と違って
この世での修行を完全に放棄するわけではないので、
それくらいは許されるのではないかと思っていたので意外に感じました。

 


顔にコンプレックスを持っている人は
その顔のままで最後まで生き抜かなければカルマの刈り取りにならないということのようですが、
厳しすぎるように思ってしまいますね。

 


芸能人には整形手術をしている人が多いということを聞きますが、
その場合はどうなんでしょうか。

芸能人の場合はコンプレックスに悩んでいるというよりも
芸能界で活躍できるように顔を見栄え良くしているだけでカルマの刈り取りではないから別に構わないのか
とも思いますが、真相はどうなのか分からないですね。

 


顔の美醜というのもこの世に生まれる前に自分で決めてくると言われてますが、
カルマの刈り取りのためにあえてコンプレックスのある顔に生まれてくるから
整形手術でその顔を美しくしてはいけないということなのか。
ということは、顔の美醜は宿命であって運命ではないから変えられないということになるようです。

 


美容整形というのは悩みを解消するひとつの手段だと言えますが、
スピリチュアルでいう真理からするとカルマの刈り取りを放棄する行為ということになるということで、
スピリチュアル思想にはまだまだよく分からないところがありますね。

 

 

 

真理についての様々な考え方:デカルトの場合

哲学者や思想家の学説など見ていると、
いろいろな考え方があって面白いですね。

例えば、17世紀の哲学者だったデカルトは「我思う故に我あり」という言葉が有名です。
この言葉の意味は、 デカルトは「すべてを疑ってみる」ことから哲学を出発し、
目に見えるもの、聞こえるもの、自分の体の存在、果ては数学の真理さえも疑えると考えました。


しかし「疑っている」という自分自身の意識(思考)は、どんなに疑っても疑いきれない。
疑っている『自分』そのものは、少なくとも今存在している、としか言えない。
つまり「考えている(思考している)自分がいる」ことだけは、絶対的な真理として残る、
という発見から生まれた言葉です。

 

要約すると、「自分が思考するから、自分が存在することは疑いようがない」ということで、
これは、主観的な意識の存在を証明する根本的な真理として、近代哲学の出発点になっています。


この考え方からすると、デカルトの思想は「精神(認識・知覚)」を根本だとする観念論かと思えますが、
しかし、デカルトは精神も物質も「実体」として同等に認めていて、
観念論でも唯物論でもない、「心身二元論」という考え方を主張していました。


精神・思考の存在を確実に認める一方で、
物質世界(延長的実体)も存在するとしました。
つまり、「精神」と「物質」はそれぞれ独自の実体だとみなしていたわけです。


スピリチュアルの立場では、物質は実体ではなく、
意識・精神・霊的なエネルギーが根本になっているという主張なので、
ここがデカルトの考え方とは違うところです。


また、デカルトの考え方で面白いのは、
人間には「精神(思考、魂)」があるが、動物にはそれがないと考えていたことです。
動物は精神を持たず、体だけで反応する「自動機械」のような存在だと主張していて、
動物の行動は、物理的な体のしくみ(筋肉、神経、血流など)によるもので、
意識や思考によるものではないとしていたことです。

 

この考え方を「動物機械説(動物機械論)」と言いますが、
確かに下等動物を見ていると本能だけで生きていて、
自分で考えて生きているようには見えないので、
自動機械のような存在に見えなくはないですが、
しかし、スピリチュアルでは下等動物であっても魂によって生きていると主張しています。

 

もちろん、下等動物にも魂があるとは言っても、
人間のように考えることはできないですが、
この世を生かしめるためのエネルギーという存在が魂であるわけです。


この世を生きて活動するには動力になるエネルギーが必要で、
そのエネルギーになるものがなければただの物体にしか過ぎず、
この世を生きることはできないとしています。


魂がその物体を生きた存在とするエネルギー体になるわけで、
魂が宿っているから肉体を持ってこの世を生きていると言えるわけです。


私もこのスピリチュアルの考え方が正しいと思っています。
「自動機械」のような単なる機械仕掛けの存在では生物とはなり得ないでしょう。

 

「動物機械説(動物機械論)」は真理とは言えませんが、
それでもデカルトの「我思う故に我あり」という考え方は
確かに自分という意識の存在証明になっていると思えます。


ただ、唯物論の立場からすると、
その意識は物体としての脳によって発生している現象に過ぎないとしていて、
脳がなければ意識も存在しないということになるようですが、
デカルトは意識は単なる現象ではなく、実在としたわけで、
その点は、観念論やスピリチュアルに近いと言えます。

 

 

 

知らないよりは知っていた方が良いスピリチュアル

前回の記事で、釈迦仏教では形而上学的な事柄は「無記説」といって何も説かずに
沈黙を貫いたということを書きましたが、
その理由として原始仏典(阿含経)に「毒矢の譬え」が説かれています。


それによると、釈迦の弟子マールンクヤが「宇宙には果てがあるのか」「世界はいつまで続くのか」などと世界の本質や存在について釈迦に質問し、

「質問に答えてくれなければ出家をやめて在家に戻る」と言ったそうです。

それに対して釈迦は「ある人が毒矢に射られたとする。彼はまずその矢を射たのは誰か、どんな弓を使ったのか、矢の材料は何かを知りたいと言って、矢を抜くことをためらったら、結局命を失ってしまうだろう。」
という譬え話をし、現実の苦しみから解脱することを最優先することが大事なのだから
形而上学的な事柄に関することは説かないのだと言ったというのです。


その釈迦の答えは確かに一理あるとは思いますが、
しかしそれでも私の場合は、我々の死後はどうなるのか、
あの世の世界はどうなっているのかなどという真理としての本質を知っていた方が
より良い生き方ができると思っています。


人はどういう生き方をすれば死後どういう世界に行くのか、
そして来世はどういう人生に生まれ変わってくるのか
などということが分かっていれば、
この世の生き方も変わってくるのではないでしょうか。


少なくとも私の場合は死後の世界などを知っている方が自分の生き方をよく考えて生きられると思っています。
実際、高橋信次氏や江原啓之氏などのスピリチュアル系の書籍を読んで、
この世の人生と死後の世界の関係を知るようになってから、
自分の生き方を反省できるようになり、
どういう生き方をすべきかよく考えて生きられるようになりました。


そのように、私の場合、死後の世界など形而上学的なことは知らないよりは知っていた方がより良い生き方ができるのではないかと考えます。

 

なので、釈迦仏教の釈迦の教えは古舘伊知郎氏が推し活しているように、
合理的で科学的でさえあるので私も傾倒している思想ではあるんですが、
ただ、死後の世界はどうなっているのか、我々はどういう生き方をすれば死後どのような世界に行くのか
などということも教えてもらった方がより良い生き方ができると思っています。


その釈迦仏教の欠如している部分を補っているのがファンタジー的表現をしている大乗仏教であり、
スピリチュアル思想だと言えます。


スピリチュアル思想はこの世界の全てを網羅して解き明かしていると思えるので、
私の場合はスピリチュアル思想が最も自分に合った思想だと思っています。

 

 

 

釈迦仏教と大乗仏教の考察

近頃、YouTube古舘伊知郎氏の動画を見ています。
中でも、仏教についての動画を見ています。

古舘氏のチャンネルの動画を見て意外に思ったのは、
古舘氏はスピリチュアル的な考え方を持っているということです。

私のようなスピリチュアルを完全に信じているというところまではいってないようですが、
人は死んだら終わりという考え方ではないようです。

今まで古舘氏はガチガチの唯物論者ではないかと思っていたので、
これは意外でしたね。

 


古舘氏がスピリチュアル的な考え方を持ったのは、
近親者の死に直面したことによることが大きいようですが、
普段、唯物論的な考え方をしている人であっても、

近親者など親しい人の死に直面したら、
たとえ一時的であっても、多くの人がスピリチュアル的な考えを持つのではないかと思います。

そういう場面においても唯物論的考え方を貫き通すことができるのは、
大槻義彦氏ばりの筋金入りの唯物論者くらいのものではないでしょうか。

 


それからもう1つ、古舘氏が仏教にハマっているというのも意外でした。
古舘氏というと政治経済など社会の分野について通暁しているというイメージを持っていたんですが、仏教にハマっているというのが意外でした。
そして仏教についてよく勉強していて、仏教の思想や歴史に通暁しているところも意外でした。

 


ただ、細かいことを言えば、動画で古舘氏は、釈迦が亡くなった時、
弟子の舎利弗たちが釈迦の教えを書き記したというようなことを言ってますが、
舎利弗は釈迦よりも先に亡くなっているので、
釈迦が亡くなった時、舎利弗がその教えを書き記したというのはあり得ないということになります。


そういう細かいところの間違いはありますが、
仏教の思想についてはよく勉強されているという印象があります。

 


その古舘氏は仏教の信者ではないけれども、仏教思想に傾倒していて、
中でも釈迦仏教を推し活しているということですが、
古舘氏が推し活している釈迦仏教というのは初期仏教や原始仏教とも言われており、
経典でいうと阿含経に説かれている釈迦の教えを言います。

 


仏教と一口に言っても、大乗仏教小乗仏教南伝仏教、北伝仏教、
初期仏教、原始仏教、部派仏教、上座部仏教チベット仏教などなど、
いくつもの区分や名称があって混乱してしまいそうですが、
古舘氏が推し活しているという釈迦仏教は初期仏教あるいは原始仏教に区分されるもので、
歴史上の釈迦が実際に説いたとされる教えの仏教ということになります。

 


仏教の思想成立の過程や歴史的過程というのはとても複雑で簡単には解説できず、
この記事で仏教になぜ大乗仏教小乗仏教などの区分があるのかなどということについて解説をしようとしたら、
記事の内容があまりに長くなってしまうので、
その辺のところは割愛します(仏教の思想成立や歴史的過程についてはネットで検索すれば、詳しい解説がすぐ見つかるのでそちらでご覧ください)。

 

 

古舘氏が釈迦仏教に傾倒しているのは、
古舘氏が言っているように、その思想内容が「合理的で科学的でさえある」というところにあるようです。

 

 

古舘氏は「釈迦仏教と大乗仏教、どっちが良い悪いではなく、
どっちが本当の仏教ということではなく、
どっちも素晴らしい教えだ」と言っていて、
大乗仏教も仏教として認めて高く評価していますが、
それでも理詰めで物事を考える古舘氏には、ファンタジー調の大乗仏教よりも
合理的な考え方の釈迦仏教が合っているようで、
だから釈迦仏教を推し活しているのでしょう。

 

 

私の場合は仏教関連書籍を読み漁っていって、
初期仏教・原始仏教としての釈迦仏教を知るようになり、
古舘氏のように、その思想の理詰めによる合理的な思想に傾倒していったものです。

 


そして、大乗経典は釈迦が実際に説いたものではなく、
後世に創作されたものという意味の「大乗非仏説」と言われていたこともあり、
「初期仏教・原始仏教としての釈迦仏教こそ本物の仏教であり、
後世になって現われた大乗仏教はニセモノ仏教だ」と、一時は考えていたことがありました。

 

 

ですがその後、考えが変わり、今は古舘氏のように「大乗仏教も仏教に違いはない」と思っています。


そのように考えが変わった理由としては、ひとつには、古舘氏も言っているように、
「釈迦は諸行無常を説いた。この世にあるものは全て移り変わり変容していく。
それは釈迦が説いた仏教も例外ではない。仏教も変化していくものだ」という考えに至ったからです。


諸行無常なのだから、仏教は初期仏教や原始仏教の釈迦仏教から部派仏教へと変化していき、それから大乗仏教へと変化していったわけです。

 


大乗仏教が興起したのは、それまでの仏教教団が教義の哲学的解釈の研究や部派間の教義解釈を巡っての論争に明け暮れて、衆生救済のための説法教化を行なわなくなったためであり、
それに不満を抱いていた人びとが「釈迦の教えに還れ」という理念のもとに大乗仏教運動を始めたのであり、

そこから考えると大乗仏教が起こったのは必然であり、「起こるべくして起こった」と言えるでしょう。

 

 

それと、もうひとつの考えが変わった理由としては、
スピリチュアルでは大乗仏教にも高級霊が出現していると言っているからです。


「空」の思想を説いた龍樹(ナーガールジュナ)、
唯識思想を確立した無着(アサンガ)、唯識思想を大成した世親(ヴァスバンドゥ)、
一念三千論を説いた天台智顗(てんだいちぎ)、また日本では空海など、
大乗仏教には優れた思想家が生まれていますが、
それらすぐれた大乗仏教の思想家たちもスピリチュアルでは高級霊だと言っているので、
大乗仏教もまたスピリチュアルから見て真理の現われだと言えるわけです。

 


天台智顗の一念三千論は高橋信次氏もスピリチュアルの観点から、
心の法則として引用して強調していました。

そういうわけで、今は大乗仏教も仏教であると考えています。

 


また、別の言い方をするなら、釈迦仏教では大乗仏教にあるような壮大なファンタジー的表現が少なく(全然ないというわけではないですが)、

弟子の「霊は存在するか」とか「あの世はあるのか」といった形而上学的なことに関する質問に対して、
釈迦は「そのようなことは解脱に役立たないから説かない」と言って明らかにしていません。


それは釈迦の教えはあくまでも解脱することを目的として説かれた教えだからなのですが、
思想として考えたら、あの世のことや人間の本質としての霊性について説いていないため、
思想的に完璧とは言えず、不備があると言えるわけです。

 

 

大乗仏教は極楽浄土などのファンタジー的表現が多いですが、
釈迦仏教がそういう形而上学的なことに関して明らかにしていないことを、
大乗仏教があの世に地獄や極楽があるなどという表現で真理としての思想を補ったとも言えるわけです。

そういう観点から考えると、大乗仏教もまた真理として正しいと言えるわけです。

 

最後に、古舘伊知郎氏の動画を参考までに貼っておきます。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

自殺との境界線について

前回の記事の続きになりますが、
前回の記事では、スピリチュアル思想によると明確な自殺でなくても、
わざと早死するように体に悪いものを摂取したり危険なことをして亡くなった場合、見た目には病死や事故死のように見えても、
当人が早く死にたいという思いを持ってわざと早く寿命が尽きるようなことをした場合は、あの世では自殺扱いになってしまうということを書きました。

 

今回はそれについて補足として書いておきたいと思います。


わざと危険なことを行なって死んだ場合、あの世では自殺扱いになるのなら、
危険な場面での撮影で演技するスタントマンや、
命綱なしで高所での綱渡りを行なったり、
何台もの車の上をバイクでジャンプして飛び越してゆくなど、
新記録達成を成功させるために危険なことに挑戦している人たちがいますが、
そういう人がそれで事故死した場合はどうなるのかという疑問が湧いてくると思います。
そういう場合、その時の気持ち・思いがどうであったかということで判断されるスピリチュアル思想であるのなら、
その場合は、死ぬことを目指しているわけではなく、
危険なことに挑戦して新記録を達成させて成功したいという思いがあるわけなので、
自殺扱いにはならないのだろうと思います。


つまり、たとえ死と隣り合わせの危険な行為に挑戦しても、
成功させて生き抜く気持ちでいるので自殺扱いにはならないと思います。


外面的には判断がつかないようなことでも、
スピリチュアルではどういう気持でいたのかということで判断されるので、
同じ行為であってもその時の気持ち・思いによって違ってくるのだと思います。


そのように、真理というのはただ機械的に運行しているのではなく、
一人ひとりの思いによって結果がケースバイケースで違ってくるものだと言えるでしょう。

 

 

スピリチュアルでの自殺の判定

スピリチュアルでは、自殺すると地縛霊になって苦しみ続けることになるから
絶対に自殺しないで寿命が尽きるまで生きなければいけないと言っています。

 

その自殺の判定について、近頃まで疑問に思っていたことがありました。
それは、たとえば、この世の人生を生きたくないと思っている人が
わざと体に悪いものを摂取したり危険なことをしたりして
早く寿命が縮むようなことを行なって亡くなった場合、
これは自殺になるのかならないのか。

 

「明確に自殺したわけではないからこれは自殺じゃないんだ」と当人が考えていれば
自殺にならないのか。

そういう疑問を持っていたんですが、
『真相を霊視してゆっくり解説』でその疑問に答えるような内容が動画に上げられています。


それによると、たとえ明確な自殺でなくても、
わざと早死するようなことをすれば、あの世では自殺扱いになるということです。


スピリチュアルでいう真理の法則というのは心が根本になっているので、
その時、どういう気持であったのかということで判断されるということらしいです。

確かに心が根本になっているのだからそうなのだろうと思います。
いくら事故のように見せたり、
単に病気にかかって寿命が尽きたというように見せかけても、
早く死にたいという気持ちがあって、
わざと死を早めるようなことをしたのなら、
その時の気持ちで判断されるということなのでしょう。


つまり、それは自分自身にはごまかしは効かないということであり、

真理に対してもごまかしは効かないということなのでしょう。

 

 

スピリチュアル思想と哲学思想

漫画家・水木しげる氏は若い頃、哲学書を読みふけっていて、

特にゲーテの思想に共感していたそうですが、

勉強嫌いだったという水木氏が哲学書を読んでいたというのは意外でしたね。


それは当時、若者は戦争に駆り出されていた時代だったので、

死への恐怖から哲学や思想の探求へと入っていったということらしいです。

 

私も勉強嫌いだったというのは同じなんですが、

私の場合、スピリチュアル思想を知るようになってから、

哲学者や思想家はスピリチュアル的なことについては

どういう考えを持っていたのかということを知りたいと思ったのが始まりで、

哲学書を読んでいくうちに哲学者のいろいろな考え方を比較することが面白くなり、

そこからさまざまな哲学書思想書を読んでいったものです。

 

その中で、特に私が関心を持ったのが観念論です。

観念論は「世界を成り立たせている根本は精神的なものである」と考える哲学なので、

心(霊性)を根本にしているスピリチュアルに近い思想なので関心を持ったわけです。


観念論としてはカント、スピノザフィヒテシェリングヘーゲルライプニッツ、バークリー、ショーペンハウアーなど有名な哲学者がいますが、

それぞれの考え方にも違いがあり、それらの思想を比較するのが面白かったですね。

 

中でも、古代ギリシャプラトンが唱えたイデア論は、

「この世界にあるすべての物事には、それを成り立たせている完全で永遠の理想的な実在=イデア が存在する」

「あらゆるものの「本質」はこの世の中にはなく、この世とは違う実在界=イデア界に存在している」

という思想で、

この世にあるものは実在界からの投影であるとしているところが特徴になっていますが、

「この世にあるものはすでに霊界にある」

「この世で発明されたものは、その前に霊界で造られたものである」

というスピリチュアル思想によく似ているので特に関心を惹きつけられました。


よく似ている思想なので、スピリチュアル思想はプラトンイデア論を基にしたのかと思ったほどなんですが、ただ、普遍的な真理というものが実在しているのなら、

それぞれの哲学者が説いている思想に共通するものがあるのは当然とは言えるでしょう。

そして、あの世の実在界(イデア界)を知っていたプラトンは霊能者でもあったのかと思えますね。

 

スピリチュアル思想は単なる迷信などと片付けられる傾向にありますが、

哲学者が追求している真理がスピリチュアルに違いないと思います。

 

 

スピリチュアル思想と科学の葛藤

近頃はエベン・アレグザンダー氏や矢作直樹氏のような医学者・科学者でも

死後の生やあの世の存在、生まれ変わりなどを認める人たちが出てきてますが、

それでもまだスピリチュアル的な考え方を否定する医学者・科学者は多いです。

どちらかというと知識人とかインテリとされる立場にある人たちにそういう傾向が多く見られるようです。

 

それは、ひとつには、科学的にはっきり立証できないものは非科学的であり、

そういう非科学的なものを信じるのは幼稚だとでも考えているからではないかと思います。

 

また、スピリチュアル思想についてよく調べもしないで誤解しているということもあります。

以前、テレビのある討論番組でスピリチュアルをテーマにしていたことがありましたが、

出演していた評論家などが、「人生をリセットすればまたこの世に生まれ変わって人生をやり直すこ

とができるというスピリチュアル思想を信じて自殺する若者が増えている。

スピリチュアル思想が広まれば自殺者が増える危険性がある」と語っていたものでしたが、

これなどはスピリチュアルを誤解している典型例でしょう。

 

江原啓之氏など多くのスピリチュアリストは自殺すればより一層苦しい目に遭うだけだから

決して自殺してはいけないと繰り返し警告しています。

スピリチュアル思想をしっかり学べば自殺をしてはいけないということがわかるはずなんです。

 

そのように、まだまだスピリチュアル思想に対する知識不足による誤解を持っている人達が

知識人やインテリ層には多いようです。


また、中にはスピリチュアル的な現象を認める知識人もいますが、
その場合でも、死後、人間の意識はすぐに消滅することはなく、
しばらくは残存思念として残っても、その後やがて消滅してしまうというように、
霊の存在とかあの世の存在を認めようとはしないようです。

 

霊とかあの世とか生まれ変わりを認めるのは科学的ではなく幼稚な考え方だと思っているからで、それで頑なに霊の存在やあの世の存在を認めたくないのだと思います。

 

しかし、いずれ人はこの世の人生を終える時が来るので、

その時に嫌でも真実が分かるようになることでしょう。