2025年1月15-21日
・廣田龍平『ネット怪談の民俗学』
・赤松啓介『性・差別・民俗』
・鳥飼玖美子『歴史をかえた誤訳』
・アーノルド・ファン・デ・ラール(福井久美子、鈴木晃仁訳)『黒衣の外科医たち 恐ろしくも驚異的な手術の歴史』
・伊坂幸太郎『ロングレンジ』
・ジャナ・デリオン(島村浩子訳)『ワニの町へ来たスパイ』
以下コメント・ネタバレあり
・廣田龍平『ネット怪談の民俗学』
1983年生まれの作者が、2000年代から現在に至るまでのネット怪談を体系的にまとめた本です。実際に大学時代から2chなどに入り浸っていたという作者の体感も交えた内容ですが、さすが「民俗学」と学問を名乗るだけあって網羅的で詳細な内容でした。卒論のテーマは「コトリバコ」だそうで…。
私が疑問に思ったのは、怪談のデータベース化についてです。
私たちはここに、レフ・マノヴィッチが一九九〇年代のニューメディア(デジタル・コンピュータ技術によって可能になったさまざまなメディア)について指摘したこと――データベースがナラティヴに対して優位に立っている――を見つけることができる。マノヴィッチによると「文化的形態としてのデータベースは、世界を項目のリストとして表象しつつ、そのリストを秩序づけようとしない。それに対して、ナラティヴは見かけは秩序づけられていない項目(出来事)どうしの因果関係の軌跡を作り出す。したがって、データベースとナラティヴは天敵どうしである」。
と書かれており、
私たちは、ナラティヴでないとしたら、データベースに何を構築するのだろうか。本章では「怖さ」や「恐怖」とともに、「不穏さ」という表現を多用してきた。これは英語圏でアナログホラーやリミナルスペースなどにしばしば付けられるdisturbingやunsettlingなどの表現を日本語にしたものである。直訳すると前者は「かき乱す」、後者は「落ち着けない」のようになる。こうした感情は、データベースそのものへの反応というよりも、ナラティヴの欠落への反応といえるのかもしれない。リミナルスペースの不穏さは、何かがあったのではないか――しかし分からないという、繰り返される答えのない問いに留めおかれることに由来すると言われる。これはナラティヴを構築できないことへの不安であるとも言い換えられる。そして本章で取り上げてきたネット怪談/ネットホラーの多くは、そのような不安や不穏さこそを中核にしている。もはや恐怖に物語(ナラティヴ)は必要ない。
ともあります。つまり、インターネットの台頭によって恐怖からナラティヴが不要になったような印象を受ける文章です。
でも、ネット時代以前から「耳袋」って存在したよね?私は『新耳袋』(木原浩勝 、中山市朗)が好きでときどきパラ読みするのですが、これはデータベースであってナラティヴではないのでは。単に「こういうことがあった」という出来事が淡々と書き連ねてあるだけで、特に「〇〇の呪い」とか「〇〇の因習」みたいな解釈はされていません。気のせいじゃないの?というような些細なこともあったりするし、単に「不穏な」だけで、多くの話にはヤマもオチもありません。もともと怪談って、データベースとナラティヴを行き来する存在なのではないだろうか。『耳袋』は読んだことないですが、これは江戸後期の逸話集だそうです。日本の怪談にはもともとそういう側面があったのでは?海外のことは分かりませんが、外国人による「データベースとナラティヴは天敵どうしだ」「ニューメディアの台頭がデータベースをナラティヴに対して優位にした」という発言をそのまま日本の怪談文化に当てはめてよいのだろうか?英語圏にも「耳袋」的データベースは存在するのだろうか?
特にキリスト教圏ホラーって、物語的解釈をしようとするとどうしても宗教の影響が避けられないという印象があります。エクソシストとか最たるものですけど。一方日本の怪談やホラーは、特に宗教の縛りを受けている印象はありません(今昔物語とかそういう時代のものは別として)。そのためもともと恐怖にナラティヴは不要だったのではないかと私は思ってます。なんか怖い、なにかがおかしい、そういうヤマもオチもない話を解釈する必要がなかったのでは。
とまあ考えたりもしますが、私の考えには根拠がなく全て印象ベースなので実際のところは分かりません。
全体的にとても面白く読み応えがありましたが、「三回見ると死ぬ絵」のあたりが笑えた。
インターネットにはびこる絵画の怪談となると、古典的なのは「見ると不幸になる」とされる絵画だろう。特に現在までよく知られているのは「三回見ると死ぬ絵」である。実際にはズジスワフ・ベクシンスキ(Zdzisław Beksiński)というポーランドの画家が一九八一年に描いた作品であって、何回見ても死因にはならないのだが、不吉な感じを醸し出してはいる。
という文章とても笑いました。確かに家族が突然死して検視されたとして、「死因は絵を3回見たことですね…」とか言われたらこの医者どうした?ってなるよな。
そういえば最近「きさらぎ駅」の映画見てみたのですが、きさらぎ駅はどこで、その異世界は何の目的で人をどうこうするのか?という解釈には触れないまま、異世界からの7年越しの帰還という元ネタをいかしつつストーリーにしていて、それなりに面白かったです。怖くはないのでホラーを期待すると微妙かもしれませんが、女優さんの演技と伏線回収におおってなったよ。まあ、でも、登場人物が状況を2chに書き込んだりは全然せず普通に圏外だったので、書き込みをリアルタイムで楽しんでいた人たちには不満かもしれないとも思った。続編も出るらしいですね。
・赤松啓介『性・差別・民俗』
先日Xで「文系の論文はお気持ち表明」とかいうポストが賛否両論を巻き起こしているのを見ました。『ネット怪談の民俗学』はちゃんとした学問だなと感じましたが、これはおじいちゃんの思い出話(エロ話)みたいな内容で、正直これで学問(民俗学)を名乗ったらお気持ちって言われてもしょうがないな…と思った。てかもうまえがきからこの人何言ってんの?なんか変な本買っちゃった?と焦ったくらい主張が強かったです。あらすじ?には「夜這いなどの村落社会の性民俗、祭りなどの実際から部落差別の実際を描く」とあったのですが、部落差別みたいな内容はとても薄かったような…。こんな「昔はこうじゃった…昔はよかった…」みたいな内容が民俗学なのか?
私は柳田国男の著作は知りませんが、「柳田民俗学は性や差別の問題を避けているからそこに切り込んだ」という主張はもしかしたらそうなのかもしれない。そして戦前の検閲の話とか、大正~戦前の(上流社会ではなく)ムラで生きていた人々の生活の実態を垣間見ることができたのは面白いといえば面白かったです。でも、性に関する内容はなぁ。実態としてそうだったということは理解するしそれはいいんですが、「これがありのままの人間の性生活で、それを維持する社会を作るべき」みたいな主張はどうかな…。村落共同体で共有し合う性生活が維持できるのは、基本的に誰もそこから能動的に移動せず、構成員の氏素性が明らかで、ほとんど誰も財産を持たないか貧富の差がなく、共同体全員で子育てをし労働力を分け合うことができる場合のみですよね。そんなん無理じゃね?と思ってたら、著者は筋金入りの共産党員だそうです。え、じゃあ「それを維持する社会を作るべき」という主張はマルクス主義のたまものなのか?それとも単に懐古趣味なだけ?
著者は「本籍」を廃止し、「家」を解体し、夫婦同姓は撤廃し、一夫一妻制も廃止し、共同生活を送りたい男女が共同生活し、財産は所有せず、子供は双方の合意により育て、育てたくなければ国家に委ね、それが真に「人間的」な社会で一切の差別を解消させる道であると主張しています。とても左翼的な思想です。しかし現代のリベラルとは一線を画する点があり、それは明らかに「私の身体は共同体のものである」という点だと思う。そうははっきり言ってないけど、著者の理想の社会の実現には共同体からの移動の制限、労働力の供出、男性であれば兵役、女性であれば性労働とそれに伴う出産への従事が必然であることは明らかです。
極右の「富国強兵」(「私の身体は国家のものである」)を非難してるけど、でも極左である著者の思想も「私の身体は共同体のものである」という点でほとんど同一ではないか?オーウェルが『動物農場』で描いたように、極端な全体主義と共産主義は区別がつかなくなるというのは面白い現象だと思います。右翼的な発想だと、男は軍隊へ、女は慰安婦へ(あるいは子供を作る機械へ)ってことになりますけど、ここで書かれている村落共同体も似たようなものです。「祭」はもともとムラの軍事力の誇示であり若衆は兵だったと書いてあるし、夜這いは「双方の合意のもと」と書いている一方で、夜這いの拒否権が(女性にも、その家族にも)実質的になかったことを示す資料も提示しています。つまり男は軍隊、女は性処理の道具or産む機械だったことに変わりなくない?本文中には女も性に積極的だったという記載が散見されますが、それは本当に実態を反映しているのか?むしろ著者が「農村が“おおらか”だったからこういう文化があったのではなく、単にこういう実態だっただけ」と自分で書いているように、単にそこで生きていくためにはその生活を受け入れるしかなかっただけでは?「ムラでは子供がごく幼い頃から性教育を受け、13歳には男女とも大人の手ほどきで性生活に参加し、主体的に性を謳歌している」「女性は自らの意志でセックスを受け入れ楽しんでいた、それを無理矢理性を売らせる方向にしたのは軍国主義の台頭によるものだ」と書いていますけど、もともと寒村では飢饉の際は口減らしをしたり女児を売ったりしてたわけだし、明治以降に都市が近代化・資本主義化されると長兄一子相続のムラ社会における次男以降の男児は都市で低賃金の工場労働者や軍人になり、女児は女中や工場労働者、娼婦になったりしたわけで、共産主義的村落共同体は右翼的国家と持ちつ持たれつで維持されていたのではないか?それに当時、右翼にせよ左翼にせよ上流階級にせよ部落民にせよ、「自分の身体は自分のもの」という意識を持っている人がいたかどうかも疑問です。(セックスや労働を)したくないという発想を持つことそのものが考えられなかったのでは?したい人がいるならしたくない人だっていたはずで、まるで当時は性教育が成功していたから男女ともに性を謳歌していたみたいな書き方してるけど、実際はそんな個人の意志が介在する余地なんかなかったのではないかと思う。小児に対する強姦の事例も本に書かれているし、同性愛者など異性との性的接触を持ちたくない人の存在は無視されてるし、ムラの性生活を理想郷みたいに描かれるの違和感満載すぎる。その時代の生活を「維持する社会を作るべき」「それがありのままの人間の姿」とか、ちょっとなくない?という感じです。
またこういう人の移動の少ない原始社会では「暗黙の了解」というか、ハイコンテクストなやり取りや掟が機能していたんだと思うんですよ。この本でも書かれているように、宗教施設や祭りが男女の乱交の場だったというのもおそらくその一つで、「ここに行くということはセックスをするということ」という暗黙の了解があったのかもしれない。でもそれは人の移動が多くなり、共同体の共通認識を知らない人間が入り乱れるともう成り立たない文化ですよね。祭りに行ったからセックスをするとか、温泉行ったから芸者と遊ぶとか、そういう「暗黙の了解」ってもう持ちえないじゃないですか。結局共同体の意志というものは、人間の物理的な移動や身体の自由、精神の自由を制限することでしか行使できないのでは?
私は、個人的には、過去よりも現在、未来の方が「人間のありのままの姿」に近いと思ってます。放っておけばエントロピーって増大していくものじゃないか?あとこの本では共同体での性生活(夜這いとか、集団内の男女が婚姻関係の有無や年齢問わず相互に肉体関係があるとか)について書いてますが、子育てについては全く触れてないのがとても不満です。だって性行為があったらその帰結として必然的に妊娠、出産、子育てがあるわけですよね?共同体全体で子育てし、全体で子供を労働力として使っていたのか?それとも基本的に養育は女性に委ねられていたのか(母系社会だったのか)?あるいは誰の子だろうと建前としては婚姻相手の子として養育されたのか?ヤリっぱなしで「女も楽しんでた」とか書いて満足し、その後の子育てについては一切記載しないってのがまあ男のすることって感じだし民俗学という学問としても片手落ちでは?
・鳥飼玖美子『歴史をかえた誤訳』
時々手に取るのですがなかなか読み進まず途中まで…を繰り返してようやく読み終えたので、トータル的に何が書いてあったのかよく思い出せません。一冊の本を何週間も何か月もかけて読める人ってほんとすごいなといつも思う。だって私の場合、そんな時間かけたら最初の方忘れちゃうんですよ。確か内容は政治関係のけっこう有名な誤訳?による行き違いの話や、後半は詩歌の翻訳に関する話なども広く触れてあって、読んだ時はとても面白いと思ったんですけど。。あとは機械翻訳の話も書いてあったけど、これについては隔世の感ですね。今chatGPTなんて精度の高い翻訳してくれますもんね。
とはいえ、通訳が不要になるとまでは思わないです。やっぱり話者の背景なども含めた翻訳ってまだAIにはできないんじゃないかなと思います。
・アーノルド・ファン・デ・ラール(福井久美子、鈴木晃仁訳)『黒衣の外科医たち 恐ろしくも驚異的な手術の歴史』
外科の歴史と面白い症例集みたいな内容でした。外科っていうと癌の手術!心臓の手術!みたいなイメージですが、尿路結石は昔会陰切開して取り出してたとか(もちろん無麻酔)、腹腔鏡手術は婦人科分野から発展したとか、虫垂炎(盲腸)が腹膜炎の原因だと誰も思っていなかったとか、そういう小ネタがとても面白かったです。割礼に関する記載が面白くて、
その後に続いた暗黒の時代に、西洋文明は道に迷ったようだ。古代の哲学者たちは、存在の本質、国家の理想的な形、および倫理学といった高尚な問いの答えを模索し続けたが、中世の偉大な思想家は、包皮の問題に関心を持った――イエスが昇天日に肉体と共に天国へと昇ったのであれば、幼い頃に切り取られた包皮はどうなったのか? ギリシアの思想家レオ・アラティウスが主張したように、包皮はキリストとは別に天国へむかったのだろうか?
この問題についてバチカンは公式な見解を発表していないが、「観光」という概念ができる前から、旅行業者は聖なる包皮が地球上のどこかにあるのではないかとの人々の期待につけ込んだ。町や村が収入源を確保するには、聖遺物があると主張すれば良かった。巡礼者はヨーロッパ発の旅行団体で、当時でも、観光業はもうかるビジネスだったのだ。ケルンには東方の三博士の聖遺物があり、コンスタンチノープルには洗礼者ヨハネの手、トリールには聖衣、ブルージュには聖なる血が保管されており、聖十字架の欠片は大陸中に散らばっていた。フランスのシャルーという小さな町がイエスの包皮があると主張したところ、ヨーロッパ各地にある一〇か所もの町が後に続いた。ベルギーのアントワープも加わった。包皮の最後の一片は、一九八三年にカルカータというイタリアの小さな村から盗まれたという。
ですって。宗教って時にばかばかしいことに真剣になってて笑えます。仏舎利もこんな感じ?
最初はおっさんの不倫話かぁー、と思って読んでいたのですが、実話の小説化らしくてそう考えると面白かったです。まあ奥さんがかわいそうだったけどね…。時代を思うとね…。見合い結婚だったみたいだし、他に人生の選択肢もなかったみたいだし。詩人の夫は平凡な結婚を捨て、友人の奥さんと不倫してボロアパートに住んで詩を書きまくり、妻も不倫相手も精神的に病んだりして色々あった後自分は病気で死にます。今「ざまあ系」流行ってますけど、こういう人種に不倫による因果応報を求めても無駄で、因果でどん底まで落ちてもそれを芸術の糧にしちゃう人たちですからね。安定より破滅を求める芸術家の生き方が悪いとは思わないけど、巻き込まれる方も破天荒じゃないとやってられないですよね。
・伊坂幸太郎『ロングレンジ』
恋愛小説なのかな。漫画や小説に時々登場する「マドンナ」的な存在って、現実にいるのだろうか。この小説でもマドンナ的な女性が登場し、その人はダメ男とデキ婚してしまうのですが、それでも「あいつと別れたら子供込みで俺が幸せにする」みたいに言ってる人が出てきます。そんなことってある?男性作者が書いているわけだしそういうこと言う男性もいるのか?なんかこう、女としてはピンと来ない。
これは何かのスピンオフみたいで、これだけ読んでもよく分かんなかったです。オチはちょっと笑えたけど。
・ジャナ・デリオン(島村浩子訳)『ワニの町へ来たスパイ』
ヘマしたCIAエージェントの女性が一時的に身を隠すために別人を装って田舎町に潜伏するも事件に巻き込まれ…みたいな内容です。主人公は自称凄腕エージェントですが、基本的には間抜けなので全体的にコメディです。田舎町を仕切っているのはシルバー独身女性団体で、彼らとのやり取りがとても面白いです。一冊のボリュームも手ごろで内容もライトで読みやすく、面白いので続き読もうかな。他のミステリシリーズも面白かったけど、今の私にはちょっと重いんじゃ…。