昨年から韓国のエッセイを読むようになり、ふと数年前に1冊読んだことがあったなぁと思い出しました。けれど案の定 内容をよく覚えていないのです。
今回は久しぶりに再読してみようということで、『死にたいけどトッポッキは食べたい』の感想をネタバレを含みながら綴っていこうと思います。
どんな本?
韓国のソウルで生まれた とある女性。彼女は文芸創作学科を卒業したあと、出版社に5年程務め、広報営業の仕事をしていました。SNSチャンネルを担当し、コンテンツ制作からアップロードまでこなしていたのです。
仕事には満足している彼女ですが、実は悩みがありました。それは心の病です。病院をいくつか転々としたのち、2017年に新たな病院に通い始め、カウンセリングと薬物治療を開始することになりました。
我慢できないほどつらい時も、友だちの冗談に笑ったり、そうしながら心のどこかで虚しさを感じ、それでいてお腹がすいたからと、トッポッキを食べに行く自分が可笑しかった。ひどく憂鬱なわけでも幸せなわけでもない、捉えどころのない気分に苦しめられた。これらの感情が同時に起きるということを知らなかっただけに、なおさらつらかった。
(P4-5 より引用)
本書は、12週間に渡って行われたカウンセリング記録し、彼女があらためて自分自身を見つめ直そうとしたエッセイです。
私はいつも得体のしれない渇きを覚え、自分によく似た人から共感を求めていた。そして、そういう人たちを探して彷徨うよりも、私自身がそういう人になってみようと思った。ほら、私、ここにいるよと、力いっぱい手を振ってみようと思ったのだ。誰かが自分とよく似た私のサインをキャッチして、こっちに来て一緒に安心できたらいいなと思う。
この本は気分変調性障害(ひどい憂鬱症状を見せる主要憂鬱障害とは違い、軽い憂鬱症状が続く状態)にかかった私の治療記録をまとめたものだ。個人的で、くどくどした話でいっぱいだが、暗い気持ちを解きほぐすだけではなく、私に起きた具体的な状況を通して根本的な原因を探し、健康的な方向に向かうことに重点を置いている。
(P5より引用)
気になったところ
・なんだか、ちょっと憂鬱で
心の病と聞くと、どんなものを想像するでしょうか。幻聴や幻覚におびえ、何かに追われているのでは、監視されているのではと思い込む。または、自らの手で自分の体や心に傷をつけるような自傷行為をする。けれど、そういった”症状”がでているものだけが、心の病とは限りません。
ちょっとした風邪でも身体の具合が悪くなるように、ちょっとした落ち込みが人の心に病をもたらす。
(P12より引用)
著者は幼い頃から内気で、どちかと言えば前向きな方ではなく、頻繁に暗い気持ちになっていたそうです。そういった症状は高校生くらいから更に強くなり、目の前にあるトラブルが解決しても消えることはありませんでした。
その憂鬱さは、いつもというわけではなく、波があった。ひどく気持ちがダウンする日もあったし、幸せな気持ちで眠れる日もあった。ストレスで胃がもたれ、憂鬱な時は泣いた。私は生まれつき憂鬱な人間なのだと思い、だんだん暗くなっていった。
(P12より引用)
それでも著者はそれを周囲に悟られないように、周囲の前では大丈夫な自分を演じていたのです。けれど、それが更に自分を追い込むこととなり、カウンセリングを受けることになったのでした。
本書のメインテーマともいえるのが”自己肯定感”。著者は家庭環境など様々な理由で、自己肯定感が低い傾向がありました。また、心の中では自立した女性になりたいと思いつつも、恋人に過度に依存してしまうという一面もありました。
先生 そうなんですね。詳しく話してくれて、どうもありがとう。いろいろ検査をしないと正確なことはわかりませんが、あなたは依存傾向が強いようですね。感情の両端はつながっているので、依存傾向が強い人ほど、依存を嫌います。例えば、恋人に依存している間は安定感を感じる一方で不満があたまり、恋人から解放されると自立心を得られる代わりに不安感と空虚感に苛まれる。もしかしたら、仕事にも依存しているかもしれませんね。成果が上がることで自分の価値が認められて安心できるから依存するのですが、その満足感というのが長くは続かないのが問題です。これでは堂々巡りです。湯鬱さから抜け出そうと努力するのに失敗して、また努力と失敗の繰り返しの中で、情緒そのものが憂鬱になってしまう。
私 そうなんですね。(この言葉に慰められ、目からウロコが落ちた気がした)
先生 切り替えが必要ですよね。憂鬱と挫折の悪循環から抜け出すためには、自分が考えもしなかったようなことに挑戦してみるといいでしょう。
私 何からすればいいのかわかりません。
先生 今から探しましょう。小さなことでいいので。
(P18-19より引用)
以前、読んだときにも思ったこと。それは著者の全てではないものの、理解できることが非常に多いこと。私も自己肯定感や、依存で悩むことがあるため、先生の言葉は私にとっても参考になる言葉でした。
私 それと、SNSに少しずつ盛った内容をアップしてしまうのです。幸せなふりをするってわけじゃないのですが、好きな本や風景、文章などを紹介しつつ、自分を特別に見せたいというか。「私って実はこんなに奥が深くて、イケてる人なんだ」というのをアピールしたいみたいな。それと、自分の基準で他人を判断し、評価してしまうんです。自分がいったい何様のつもりなのでしょうね、他人の評価などできるわけないのに。おかしいですよね。
先生 お話しをうかがっていると、あなたはまるでロボットになりたいみたいですよ。何か絶対的な基準を持った人になりたいような。
私 そうなんです。そんなの不可能なのに。
(P19-20より引用)
これも少し前の私なら、わかるなぁと。そういう「わかるボタン」があれば、連打しているところだったでしょう。今はある程度、落ち着てキラキラしてなくていいんだと思うようになりました。けど20代~30代の前半は、そういったところでも誰かに承認されることを求めていたように思います。
更に著者は、自分の中のルールに苦しめられていると言います。他人に迷惑をかける行為をしている人がいると、注意したくてたまらないのです。そういった強迫観念のようなものにも苦しめられていました。
私 人間が多面的だということは分かっているんです。でも、それを受け入れられないみたいです。
先生 人を一つの面だけで見ていると、他人に対してだけではなく、自分を見る時もそうなります。一度ぐらいは怖い人になってもいいんじゃないでしょうか。例えばあなたが理想とする人物を思い浮かべて、「あの人でも怒るでしょう?あの人だって全ては許さないでしょう?」と考えてから怒ってもいいんです。そのせいで他人にキツイと思われてもね。あなたはどうも、これまで経験したことと考えたことの中で、いちばん理想的な部分だけを追い求めているようにみえます。「私はこんなふうになるべきだ!」みたいに。しかも他人の考えや他人の経験を拝借して。
でも、さっきおっしゃったように、人には皆いろいろな面があるんです。表向きはカッコよくても、裏では汚いことをしていたり。勝手に期待して、がっかりすることもありますよ。そんな時はむしろ「あの人も普通に息を吸って生きてる、ただの人なんだ」と考えれば、自分に対しても寛大になれます。
(P22-23より引用)
人の多面性。自分の心の中ばかりみていると、どうしても一面しかないように感じてしまうことがあります。「私は一貫している、あの人もきっとそうだから、あの人が私に見せるものは、あの人の全てなんだ」そんな勘違いをしてしまうことがあるのです。
けれど、夫と暮らしてみて、人って本当に多面的だなぁと思うようになりました。夫とは職場で出会い、交際するようになりました。職場での夫は論理的で、デジタルに詳しくて、とても理性的で知的な人に見えました。
けれど実際は、感情的に物事を発言することもあるし、休みの日も旅行の予定をたてている時間以外は、床に転がってスマートフォンをポチポチしているし、阿呆な冗談ばかり言うし。
どちらが本当というわけではなく、どちらも夫がもっている一面なのだと思います。そう思えるようになってからは、態度の悪い人がいると、もちろん不快にはなりますが「あぁ、きっと疲れているんだな」とか「恋人と喧嘩でもして、気がたっているんだな」と、普段のその人ではない状態なのだろうと想像するようになりました。今みているのはあくまで一面に過ぎないんだろうなぁと。そう思うだけで結構楽になるものです。
先生 実際にすぐ共感するタイプなのですか?
私 はい、すごく。だからわざと共感していることを隠すこともあります。ちょっと難しい人に見えるように。
先生 でも、他人に言われたことで、あまり自分をラベリングしない方がいいですよ。もっと共感してあげなきゃと意識した瞬間から、それは宿題になってしまいますから。そうすると、かえって共感能力が落ちてしまうかもしれません。ご自分が関心のないことには、関心を示さなくてもいいでしょう。
(P24より引用)
他人からのラベリングってよくありますよね。親兄弟や友人などの周囲の人間から「あなたは〇〇な人間よね」と言われると、それを演じなくてはならなくなる。あなたは面倒見のいい人と言われたとすれば、そういった行動からいつ出すした行為はNGになってします。そういった行為をしたら、失望されてしまうかもしれないから。
これはある意味、呪いの言葉だなと思うんです。誰かにも、自分にも極力使いたくはないなぁと思いつつ、ついやってしまうんですよね。
私 あ、それと、相反する感情を持ってしまうのは、どうしてなんでしょう?
先生 自責感とよく似ています。「首を絞めてやりたい」と思ったら、同時に自責感が湧くでしょう。腹を立てると同時に罪の意識を感じてしまう。これは一種の自己処罰的な欲求でしょうね。自分の中にとても強力な超自我が芽生えるからです。(実際に自分が経験したことではなくても、あちこちから基準になる考え方を拝借して、理想の自分を積み上げていったということ)でも、それは文字どおり理想ですから、現実ではありません。だから、毎回その理想には届かず、自分を罰してしまうでしょう。そんな厳格な超自我があると、そのうちに罰を受けることに満足するようになるかもしれません。例えば、自分が愛されることに疑問を感じて、わざと相手になじられるような行動をとって、相手が自分を捨てれば逆に安心するような状態になる。実際の自分というより、外部からコントロールされていることが多いのです。
私 そうなんですね。一人が好きなのに、一人が嫌いという感情は?
先生 そんなの当たり前じゃないですか?
私 当たり前ですか?
先生 ええ。程度の差こそあれ、みんなそうじゃないでしょうか?人は他人との関係のかんで生きていかなければなりませんが、自分だけの空間だって必要ですから。
(P26-27より引用)
相反する感情。そばにいてほしいけど、一人になりたいときって、ありませんか?自分でもとても矛盾しているなぁと思うんですけど、心は寄り添ってほしいけど、でも構って欲しくないからなのか。上記の内容とは異なりますが、こういうことって多々ありますよね。恋愛における試し行動も、そういうのが根底になるのだと思っています。
私 見た目についての強迫観念もひどいです。化粧せずに外に出られない時期もありました。太ったら、誰も私を見てくれないんじゃないかと思ったり。
先生 外見のせいで強迫観念が起こるのではありません。理想化された像があるから、外見にも執着するのです。その基準の幅を狭く、高くしすぎです。「体重が50キロを超えたら終わりだ!」みたいに。要は、あれこれ少しずつやってみながら、自分が何を望み、どのぐらいがちょうどいいのか、試してみるといいでしょう。自分の好みを知って、不安を減らす方法がわかれば、自分に対して満足感も生まれますよ。誰かに何か指摘されても、受け入れたり、拒否できるようになるでしょう。
(P28-29より引用)
ここは目からウロコでした。私は自分の外見に対してコンプレックスがあり、こうでなければいけないんだ。こうではない今の私はダメなんだと思ってしまう事が、日常的にあります。
これまでずっと、私の外見のせいだ…!と思っていたのですけれど、そっか、理想が狭く高すぎるのか…。なるほど。勉強になります。
・私って、ひょっとしたら虚言症かも?
著者は日常的に小さな嘘を重ねてしまうのだと言います。
私 理想のハードルを下げることって、可能でしょうか?
先生 自分に自信が持てれば可能でしょう。完璧さを求めたり、理想を追ったりする気持ちそのものがなくなるかもしれません。
私 自身が持てるようになりますか?
先生 おそらく。
私 私って、かまってちゃんなのだと思います。承認欲求も強いし、だから虚言癖もあるのだと思います。笑いをとろうと話を盛ったり、大げさにしたり。相手に合わせたいがために、「私もそんなことがあった」と嘘をついたり。後でとてもつらくなります。だから、もう小さなことで嘘は言わないようにしています。その方が気が楽だし。なのに、土曜日に治療を受けた後で、友だちと飲みに行って、酔っていたとはいえ記憶ははっきりしているんですよね。そこで、嘘をついたんです。
先生 それも、相手に合わせるためですか?
私 いいえ。ただ、気を引きたかっただけだと思います。わざと相手に合わせたような話ではありませんでした。
(P32-33より引用)
小さな嘘。私も日常的に、小さな嘘を重ねてしまうことがあります。話を盛って伝えたり、興味のないことでもあるふりをしたり。これが一概に絶対悪であるとは思わないけれど、控えないといけないとは思っていて、でもつい口をついて出てしまうんですよね。
相手のための小さな嘘はまだしも、利己的な嘘はつかないように、これからも気を付けたいと思います。
・私が私を監視する
幼い頃に周囲から誹謗中傷された経験から、自分を監視するようになってしまった著者。
そんなふうに自分自身を厳しくチェックしていくうちに、いつしか自分の声まで録音して聞くようになっていた。心では余すことなき苦痛を感じながら、誰かに嘲笑されるのではないかと怯えているのだ。
(P46より引用)
カウンセリングや仕事の会議、更にはプライベートなサークル中でまで彼女は自分がどんな話をしたのかを録音し、家で聞いて確認しているのだと言います。カウンセリングに関しては、通院記録の整理として理解できますが、プライベートな時間までとなると、少々過度な気がしてしまいます。ただ、私がいろいろと記録をとっているのも、傍から見ると同じなのでしょうか…。
更に著者は自分の学歴コンプレックスについて先生に相談します。けれど、学歴って”友人”や仲良くなることに、そこまで関係ってあるのでしょうか。
先生 大学は高校の成績で決まりますが、そこから先の本人の関心によって、深さや広がりは本当にいろいろですよね。高校の時の成績が残りの人生を保障してくれるわけでもないし。
私 そうですよね。
先生 相手が自分より優秀だと思ってしまう、そんな時は同じ条件で他の人を比べてみてください。例えば家の事情で高校も出てないのに、頑張って努力して何かを成し遂げた人が、テレビに出たとします。学歴重視の見方をすると、その人の努力の価値も切り捨てられてしまいます。でも、そうでしょうか?
私 違います、違います。
先生 そうでしょう。自分が有利な時にはそういう基準を持ち出さずに、不利な時だけ持ってくる。たしかに社会的には大学のレベルが高いほど有利な面はあるでしょう。でも、もしあなた自身が今、就職をしようとするなら、学歴よりも履歴のほうが重要じゃないですか?
私 そう考えるように、努力すべきですよね
先生 オートマティカルな思考方式を少し抑える努力をされた方がいいですね。
(P54-55より引用)
個人的に救われるなぁと思った文面。私も学歴というか、勉強ができないことに諦めと、コンプレックスの綯い交ぜになったような感情がありました。でもその感情は自分にのみ反映されるんです。
例え 目の前に、自分より偏差値の低い学校に行っていたり、最終学歴が違っても、マイナスに思うことってないのに。プラスであれば、凄いねぇと思えるのに。
私の中に学歴至上主義の一面もあって、それが許してくれないのか、勉強しなかったことへの後悔からなのか。どちらにせよ、学歴ばかりに捕らわれるのは視野が狭くなっているのかもしれませんね。
・20歳の私が今の私に
「他人がどうこう言うことよりも、自分が嬉しいことの方が大切なんです。人にどう見られるかより、まずは自分自身の要求に応えてあげないと」
いつも未来から過去を振り返っている。そう思ったことがある。35歳の私が、28歳の自分を見たらどうだろう?28歳の私が20歳の私を見たらどうだろう?過去の自分に会ったなら、そんなに頑張らなくてもいいよと言ってあげたい。
(P60より引用)
未来から過去を振り返る。私は意識したことのない視点でした。”現代の自分から過去を見る”ことはあるけれど、”未来の自分から過去を見る”となるとなかなか。でも、未来から現在の自分を見るというのは、何となくわかります。とても嫌な気分になりましたけれど…
私は十分に一生懸命生きてきた。そして自分がやりたい仕事をして暮らしている。果たしてこれが望んだ仕事だろうかという不安はない。ただ、もっといい仕事をしたいだけ。それだけでも十分なのに、どうして高いところばかり見て、自分を苦しめるのだろう。20歳の自分が今の自分に会ったら、きっと泣いてしまうと思う。うん、それで十分だよと。
(P60より引用)
20歳の頃の自分が今の私を見たら、どう思うだろう?20歳…というと、本当に人生のどん底で、心も体もボロボロだった頃。今の自分は、決して20歳の自分が求めていたものを持っているわけでも、誇れる何かがあるわけではないけれど、のんびりと幸せに暮らせている。ときたま不調になる心と体ではあるけれど、それでも当時に比べると随分と安定している。”へぇ。よかったね”くらいには思ってくれるかもしれません。
感想
本書が発売されたのは2020年。そして前回読んだのは記録によると2022年6月頃のようです。最初はほとんど忘れているなぁと思ったのですが、読み進めるうちに思い出し、あぁこんなことも書いてあったななんて思いながら読み終えることができました。
読みやすい文章かと言われると、個人的にはNoでしょうか。対談形式に慣れていないというのもありますが、どことなく文体が読みづらく、頭に内容が入り込みづらかったように思います。世界観に入り込むのに非常に時間がかかりました。
本書は前2/3くらいは”先生と私”の対談、後1/3は散文集になっています。個人的には、散文集の方が読みやすく、また興味深いと感じました。
ですがこういった心の変化の記録を読む機会ってなかなかありませんから、非常に勉強になりました。カルテを読んでいるわけでもない、だからといって小説を読んでいるわけでもない。ルポルタージュと言えばいいのか、不思議な感じでした。
対談はたった12週間ですからざっくり3ヶ月。完治したり大きな変化があるわけではありません。そのため読後感がすっきりしているわけでもありません。そのため、万人におススメというわけではありません。けれど心理学やメンタルクリニックに興味のある方であれば、寄り添いながら読めるのではないでしょうか。読んでみると「わかるわ~」みたいなところがあるかもしれません。
2022年の頃の私
以下は2022年6月に私が本書を読み終えて、感想として記録していたものです。懐かしいのと、読み返してみると新鮮だったので、こちらにも。
大袈裟な話ではなく、希死念慮というものは私にとって、2軒隣に住んでいる住人くらいの距離感で常に存在している。隣人ほど密接な距離感ではない。例えば隣人であれば目覚まし時計の音、クローゼットを閉める音、洗い物で皿や金属がこすれる音、ベランダに出て話す声、それらが1日の中で数回、ささやかながら聞こえてくる。しかし、2軒離れるとさすがに日常の生活音まで聞こえてくるということはほとんどない(あくまで私の住環境では)。しかし全く何もないのかというとそんなこともない。数週間に数回、少なくとも月に1回は、ふとしたことで2軒離れたその家を意識するのだ。廊下ですれ違ったり、ポストに入れられたままの新聞であったり。それくらいの距離感で昔から付き合っている。
ただ私の場合、希死念慮があるからといって、行動にうつすわけではない。ふとした瞬間に頭をよぎるだけで、実行にうつすことはない。それに実際に死のふちに立たされたのであれば、きっと恐怖するだろう。それでも、あぁ死んでしまいたいと思いながら仕事にむかい、帰宅して家事をして、休日になると何かしらを楽しんだりしながらも、現実と理想の落差を感じて、またあぁ死んでしまいたいと思うのを繰り返すのだ。
大人は皆、そういうものなのだと思っていた。しかしながら、そうではないらしいと最近知った。心身ともに健康な人間は、まず「死にたい」と頭をよぎらないらしい。興味深い事実だった。あぁ死んでしまいたいと思いながら、チョコレートにかじりつく日が今までどれくらいあったか知れない。
この当時の私…といってもまだ3年くらい前なだけなのですが、こんなことを思っていたようです。今振り返ると随分とフランクに希死念慮のことを考えているようですね。あらあらまぁまぁ。
不思議なもので、希死念慮は随分と消えてしまったように思います。だからといって今も0になったわけではないんですよね。ふいに、顔を出すこともあるんです。この頃ほど隣人ではなくなり、随分と遠方に来てしまいました。更に今は”死ねない”という思いも強くなりましたから、そういったものが浮かんできても沈めることができるようになったのだと思います。
1回目に読んだ際、気になったのは容姿のコンプレックスのことだったようです。
個人的に一番興味深かったのは、9章「度が過ぎた容姿コンプレックスと演技性人格障害」のお話。
自己肯定感が低いが故に、周りからどう見られているのかが気になる著者は外見に対する強迫観念が強いと主治医に相談する。自分の容姿に対するコンプレックスや、他者からの評価に関して思うところがあるらしい。
世の中には、人の容姿を勝手に評価する、なんとも有難迷惑な存在が、本当に実在するのだ。そしてそれをわざわざ報告してくるような人間も、悲しいかな存在する。「知人が『お前の彼女、全然美人じゃなくて不細工やん』と言っていた」と報告してきた恋人が昔いた。
この件に関する疑問は、いつ私が「私、美人です」と自己紹介したのかという点である。いった記憶もないというのに、勝手に評価して、勝手に批判して、良いご身分ではないか。私は芸能人か?そして、それを聞かされて、良い気持ちになるはずがないというのに、わざわざ報告してくる人間の思考回路が甚だ疑問である。過去の嫌な思い出はこのあたりでおいておこう。
これは逆もしかりである。「うちの会社で一番かわいい××さんです~」なんて他人に紹介されてしまっては、相手も気まずいし、こっちも気まずい。向こうは向こうで思ってもいないお世辞を言わなければならないだろうし、こっちはこっちで不愉快極まりないのだ。往々にして、「そんなことないですよ、△△さんが一番美人でうちの会社でマドンナなんですよ」なんていう返しを期待してなのだろう。そのあたり含めて面倒である。
相手に可愛いと告げる、カッコいいと告げるのは良いが、それを第三者を巻き込むという方法は美しくない。反面教師として、しないように心がけようと改めて思った。
この著書は前半がこうした問題の対談、後半が著者本人のブログ記事のようなものだった。あぁわかると思うようなことも多いし、実際対談に関しては自分でも無意識にしていたことを再確認することができたように思う。
ものすごく面白く、誰かにオススメ!という本ではなく、枕元に適当に置いて気が向いたら読む、それくらいの距離感で楽しめる本だった(褒めてる)。私は韓国に関しては、全くと言っていいほど知識がない。K-popも全然であるし(そもそもJ-popもあまり解らない)、文化や、価値観というものも解らない。日本のそれらともきっと違いがあるのだろう。それでも、一個人が書いた 心のおはなし が国が違えど さしたる差分なく、あぁわかるわかると思えることが興味深かった。
まぁ概ね、今と同じようなこと言ってますね。変わってないなぁと思いつつも、文章に随分と棘があるなぁなんて。今ではこういう文章は書けないでしょうね。
あ、ちなみにわざわざ美人じゃない、不細工だと言ってこられたのは18歳(大学1年)の頃でした。それなりに傷ついたようで、そのシチュエーションとかも結構覚えています。大学の通学路にある坂を上りながら、当時交際していた男性に言われたんですよねぇ。
別に元々、自分が美人だと思っていませんけれど、だからといって不細工と言われるのはさすがに いかがなものかしらん?突然殴られたようなもんですから。今では治安の悪い所に身を置いていたんだなぁ…と思うようにしています。
とはいえ私の自己肯定感はこの頃に打ち砕かれたものが多いので、大人になってから少しずつ修繕しているような感じでしょうか。今は随分と平和な場所に身を置いているような気がします。
よもやま話
韓国の方が書かれたエッセイもこれで4冊目。どれも心に寄り添うような本でしたが、そういうムーブメントがあったのでしょうかね?
今まで読んだのがこちら↓
気になっている作品はまだあるので、また読了したらここで綴れたらと思っています。はてさて、次は何を読みましょうかね~
