2025年は福島県の会津エリアに行くぞー!ということで。会津と所縁のある大河ドラマ『八重の桜』見まして。これまで4回に分けて1~20話までについて綴りました。
20話ではついに鳥羽伏見の戦いの戦いが始まってしまいます。会津は薩摩の圧倒的な武力を前に退却を余儀なくされるのでした。今回は21話~についてネタバレ交えて綴っていきたいと思います。
第21話 敗戦の責任
鳥羽伏見の戦いが始まり、味方が次々と散っていきます。そんな中、敵軍が錦の御旗を掲げているのを発見します。
神保修理「錦の…御旗?しまった!あれは帝の軍勢の旗印だ!」
これまでは幕府に正義がありと戦ってきた者も、天皇の象徴である錦の御旗に向かって戦うわけにはいきません。錦の御旗に発砲するということは、天皇に発砲することと同じだからです。薩摩方に錦の御旗があがったという話が戦場を駆け巡り、味方は更に減ることになってしまいました。
更に、弟・三郎も戦場に立つことになりました。銃を持って前線に立つのは大変危険な役目です。山川大蔵は後方に控えるように諭しますが、三郎自ら前に出ます。彼の着物には南天の刺繡がありました。三郎が江戸に出る前日に「難が転じるように」と願いを込めて、付けられた刺繍です。
しかし八重たちの願いも悲しく、三郎は敵の銃撃をうけてしまいます。なんとか搬送することはできましたが、最期まで兄・覚馬、姉・八重のことを思いながら息を引き取るのでした。
幕府軍は淀城まで撤退することになりますが、賊軍になりたくない淀藩が寝返り、受け入れを拒否されてしまいます。例え兵の数が幕府軍が勝っていても、これでは勝ち目がありません。そこで神保修理は慶喜にある提案をします。
修理『兵たちを率いていったん江戸に戻り、戦略を立て直すべきかと存じまする』
慶喜「江戸に戻る…なるほどのう…」
ただこの提案を今、戦っている者たちが簡単に受け入れるはずもありません。
佐川官兵衛「修理殿!貴公、御宗家に何を吹き込んだんだ!大阪で戦いぬくお覚悟が、お主の進言で撤退に変わったと聞いたぞ」
修理『戦を続けては無駄に兵が失われるだけだと申し上げたのでごぜぇやす」
官兵衛「んだら、先に死んだ者の命は無駄になっても良いっつうのか!総大将が出陣すれば兵たちの士気はあがる、形成は一気に逆転する。にし(主)の発言がその好機を無駄にしたんだぞ!」
その頃、容保も慶喜に戦闘継続を説得していましたが、返ってきた言葉は想像を超えるものでした。
慶喜「江戸に戻る。ついて参れ」
容保『兵たちが引き挙げている途中にございまする』
「兵はおいていく。我らが城を出ることを家臣たちにも口外無用」
『なんと…』
「榎本(武揚)の軍艦が停泊している。今宵の内に乗り込む。江戸に向かうのだ」
『それはなりませぬ!最後の一基まで戦い抜くと仰せになったではありませぬか!』
「あれは皆の動揺をしずめる方便だ。いったん江戸に戻り、再起を図る」
『ではなおのこと、全軍を率いて戻るべきにござりまする』
「馬鹿を申すな!それでは江戸につくまでに、また戦となる。そなた一人で余と共にくるのじゃ」
『いいえ、某は藩士と共に残りまする』
「ならぬ!そなたがここにいては、会津兵がいつまでたっても戦を辞めぬ。偽物とは言え、錦旗があがったうえは、兵を引かねば徳川は朝敵となるのだぞ!会津の家訓に徳川を朝敵にせよとの一条があるのか?会津殿、この策は神保修理が戦況の報告の折に進言したものぞ」
『まさか…』
「皆を救うための策じゃ。これしかない。家臣たちが朝敵の汚名をきて死んでもいいのか?」
こうして容保は、孝明天皇から賜った御宸翰と御衣を残して消えてしまいます。その夜、慶喜は容保と桑名公を連れ、大阪を離れるのでした。暫くして、容保が消えたことに気が付いた修理は、自分の意図とは異なる形で慶喜が江戸に向かっていることに気が付きます。そして御宸翰と御衣を持って後を追いかけるのでした。また、他の会津兵たちも容保を追うように江戸に向かいます。結局、容保は官位を剥奪され、会津は朝敵と呼ばれるようになってしまいます。その頃、長らく蟄居していた西郷頼母が家老として復職することが決まったのでした。
会津にも自分たちが今度は朝敵になってしまったという報せが届きますが、当然納得がいきません。八重は皆で戦えば負けないと尚之助に訴えます。けれど尚之助は形成を立て直すためにも恭順すべきだと八重を諭すのでした。
そんな中、覚馬は京の都に取り残されてしまいました。戦をとめようと、目が見えない状態で屋敷を飛び出し、敵軍に捕まってしまったのです。それを知る会津兵は誰もいませんでした。
会津のために慶喜に進言した神保修理ですが、その進言を慶喜の良いように使われてしまい、逆に会津藩士たちを裏切る形になってしまいました。
容保『江戸に戻ったのはわしの過ち。責めはわしが負うべきものを』
秋月「あのときは誰の目にも、修理様が殿を連れ出したように見えましたゆえ」
『出してはやれぬか、あの部屋から』
山川大蔵「幽閉をとけば、命が狙われましょう」
梶原平馬「殿が庇われるほどに、怒りが強まるばかりで…」
『その怒り、まことはわしが引き受けるべきものを。皆を集めよ。我が過ちのすべてを説き聞かせる』
梶原「修理殿はそれを望んではおられませぬ。誰にも一言も告げずに殿を追いかけられたのは、殿の名を守らんがため」
修理は慶喜の策略により騙されてしまった容保を何も言わずに庇い、更に藩士たちの不満を一身に浴びることを選びました。そのため、屋敷の一室で幽閉されることを甘んじて受け入れたのです。
その後、慶喜は新政府軍に降伏し、老中を解任されます。そして会津藩は登城禁止となってしまい、会津藩をはじめ徳川と共に戦った諸藩は江戸からの立ち退きを命じられたのでした。
容保『そなたをこのような境遇に落とし、詫びる言葉が見つからぬ』
修理「殿…」
『会津は都を追われ、今また江戸を追われる。その憤りがそなたの身一つに向かってしまった。どうやっても…どうやってもそなたの名誉を取り戻すことができぬ。修理、切腹申し付ける』
「ありがたく承ります」
『さらばじゃ』
修理はすべての責任を自分一人で負うことに決め、切腹を受け入れるのでした。しかしその後、秋月が修理のもとにやってきました。秋月は警備をわざと手薄にしてあることを告げ、ここから逃げ出すように説得します。それが容保の願いでもありました。けれど修理がそれを聞きいれることはありませんでした。
修理「殿は全てをわかっていてくださる。それで充分ではないか」
そして翌日 切腹し、容保の代わりに負け戦の責任を取ったのでした。享年31歳でした。
第22話 弟のかたき
5年ぶりに、容保たちが会津の地に戻ってきました。その頃、会津から江戸に出向いていた尚之助も共に戻ってきたようです。しかしその中に、覚馬や三郎の姿はありません。そして尚之助の口から、鳥羽伏見の戦いで三郎が落命したこと、覚馬が目を患っていたことや薩摩兵に捕らわれ、捕らわれた者たちが四条畷で処刑されていることを知らされます。八重は当然受け入れることができません。けれど尚之助が持ち帰った三郎の形見の中には、彼の遺髪と衣服があり、その衣服には八重が三郎のためにと刺繍した南天の模様があったのでした。
父・権八「討ち死には武士の本懐。未熟者だけどもお役に立ったならば、三郎は本望だべ。覚馬は無念であったべ。目を傷めたのが戦故ならやむを得ねぇ。息子たちの最期、確かめてくれてありがとうごぜぇました。両名とも山本家の男として恥ずるところはねぇと存ずる」
尚之助「はい」
ただ、三郎の形見はありますが、覚馬の遺物は一つもありません。そのことから、八重は頑なに覚馬は死んでいないと言い張るのでした。山本家、川崎家の皆が悲しみに暮れます。その後も三郎の死を受け入れることができない八重は、砲術を教えている少年を三郎と呼んで、厳しく躾けようとしてしまいます。八重は抑えきれず三郎の仇を討つと鉄砲を持って城下へ駆け出してしまうのでした。
八重『尚之助様、教えてくなんしょ。三郎の仇を討つにはなじょしたらよかんべ⁉』
1868年、容保も責任を取るために藩主を辞任し、家督を養子である喜徳に譲り、更に御薬園で謹慎を受けることになります。しかし、喜徳を補佐するために、また会津の鶴ヶ城へと戻ることになるのでした。
容保『会津はあくまで恭順を貫く。もとより朝廷に歯向かう心はない。ただし、攻めてくるならば全藩をもってこれと戦う』
頼母「お言葉を返しまする。今、会津は薩摩、長州相手に一戦するにはあまりにも無勢にござりまする」
『軍制改革を行う。逃げるところはもう、何処にもない。戦はこの会津でおこるのだ』
そして会津もこれまでの古い戦い方を捨て、新しい知識を吸収するようになりました。また、武体は年齢ごとに玄武・青龍・朱雀・白虎の4つに分けられ、白虎はまだ16~17歳の青年でつくられました。
その頃、京。薩摩藩が管理する牢屋の1つに覚馬が弟子の青年と共に入れられていました。目はほとんど見えなくなり、更なる病気のため声はかすれ、また足もうまく動かないようです。大垣屋のはからいによって、覚馬は紙と筆を与えられました。そして覚馬は弟子に嘆願書を代筆してもらうことができました。
もう一方、新政府軍としては一度振り上げた拳をどうするか…です。彼らの威厳を示すためにも、会津は討たなければなりません。そして降伏を許すためには、容保の首を差し出せと要求することにしました。
またその頃、江戸での戦を回避するために勝海舟が西郷隆盛を説得していました。
勝『嘆願、お聞き届けいただけるなら、一身に変えて江戸城は無事に引き渡す。だが、攻められればこちらも応戦する他はない。そのときは、この江戸市中は火の海になる。考えてみてくれ、あの屋根の1つ1つ下には人間が住んでいるんだ。戦とは関わりのない、無辜の民だ。あんたがつくろうとしている新国家はそんな人たちから家や命を奪うのか?それがあんたの目指す国づくりか!?』
勝は西郷の説得に成功し、誰の血も流さずに江戸のまちを守ることができました。これが世にいう無血開城です。けれどそれは、振り上げた拳の先を更に会津へと向けてしまうということでもありました。
西郷の元には勝海舟だけでなく、覚馬の嘆願書も届いていました。覚馬に興味を持った西郷は、覚馬が閉じ込められている牢屋を訪ねます。
西郷「おはんの書いた嘆願書をば読んだ。万国公法を知っちょったのか」
覚馬『敗者が恭順を示しているとき、これを殺すことは世界の法に背きまする。薩摩のお方にお願い申し上げる。何卒奥州討伐、おとどまり下され。会津に朝廷に歯向かう心はございませぬ』
「この者、医者にみせてやりやんせ。処刑は取りやめじゃ」
最後の声を聞いて、覚馬はやっと話している相手が西郷隆盛であることに気が付きます。そして掠れる声を必死に張って、西郷に会津を救ってほしいと頼むのでした。しかし、覚馬の思いは届きません。会津には、新選組や新政府軍に反対する人々が集まり、一大勢力となろうとしていました。薩摩としては、これを見過ごすわけにはいかなかったのです。
会津にいる八重は、怪我をした兵たちの治療を手伝っていました。その中で、新選組の斎藤一と出会い、覚馬の話になります。まだ覚馬が生きていると信じている八重に斎藤は、余計な望みは持たない方が良いと言葉を掛けます。けれど八重は、絶対に覚馬は生きていると諦めることはありませんでした。
第23話 会津を救え
慶応4年(1868年)3月、新政府軍が仙台までやってきました。参謀の世良修蔵らは、仙台藩にも会津を倒すように要求します。新政府軍は白河口、日光口、越後口の3か所から会津を攻めるため動いているようです。
慶喜は水戸藩の弘道館 至善堂で謹慎をうけることになりました。幸い、御宗家は相続されることが決定しました。
長州は変わらず容保の首を出すことを求めますが、理不尽さを感じる仙台藩は米沢、奥羽などの他藩と結束し、会津救済の嘆願書を提出します。諸藩としては、会津を攻めたくはない。けれど、新政府軍に自分たちが攻められても困ります。その中でも嘆願書を提出してくれたのでした。
その頃、新選組の土方は怪我により一時戦線を離脱することになり、斎藤に後を任せます。新選組たちは白河口を守ることになりました。また新政府軍に捕まり、斬首された新選組局長の近藤の墓が会津の領内に建てられたようです。
土方「刀の時代はおわったな…」
まるで自分たちの時代が終わってしまったかのような言葉を残し、土方は去っていくのでした。
八重や尚之助は米沢藩の人々に砲術について指南することになりました。戦が近付いてきています。
そんななか、奥羽諸国による嘆願書が世良によって勝手に破棄されてしまいます。仙台藩士らはそれに怒り、世良を暗殺してしまいました。新政府軍としてはこれで、旧幕府軍を攻める言い訳ができたのです。こうして、新政府軍と会津・奥羽軍との間での戦いが始まってしまい、慶応4年(1868年)5月1日 白河城への攻撃が始まります。
白河城は西郷頼母が指揮を任されました。けれど元々恭順派で、敵の強さを理解できていない頼母は斎藤たちの進言も聞かず、采配ミスをしてしまします。何よりこちらの砲撃は到底届かないのに相手の砲撃は届くという、圧倒的な武器のレベルの差によって、会津は300人もの犠牲者を出し、城は新政府軍のものになってしまうのでした。
第24話 二本松少年隊の悲劇
京都にいる覚馬は新政府軍にこれ以上の戦をしないよう、獄中で建白書を書くことに。覚馬が口頭で伝え、弟子がそれを書いていきます。しかし、書いたそばから書かれた紙は、牢屋を管理する男に破られてしまうのでした。
白河は新政府軍に落ち、取り戻すことがかないません。
八重『白河が取り戻せねぇなら、もぅ時はねぇのでは…』
八重の想像通り、新政府軍は着々と会津の鶴ヶ城に進んでいるようで、秋田が敵に下ります。山川大蔵が守る日光口は今のところ無事ですが、このままでは二本松が最後の砦となるでしょう。
鶴ヶ城内では西郷頼母が再び恭順すべきだと訴えますが、もはやこの戦は会津と新政府軍だけの問題ではありません。奥州諸国との関係もあり、そう簡単にやめることもできません。そもそもいま追い詰められているのは、白河城を奪われたことが原因でもあるのだと梶原平馬たちは言い争い状態です。
会津藩内で戦を継続するか恭順するかで分かれているのと同様に、新政府軍でも内部で意見が分裂しているようです。長州の桂小五郎は頑なに会津を討とうとし、岩倉具視もその姿勢です。しかし、越前の松平春嶽は違うようです。
春嶽『歪んでおる。あなたがたのつくる新しい国は、踏み出したその一歩から既に歪んでおる。誰のための国づくりぞ。とくとお考えあれ』
桂が会津を徹底的に討とうとしているのは、新しい国のためだけではありません。数年前、八月十八日の政変の恨みを晴らすために、会津を叩いているのです。そんな私怨のために、軍を動かし、双方の兵を削っていることを、春嶽は諫めているのでした。
その頃、新政府の板垣退助の軍は二本松までやってきました。そこには、以前、尚之助と八重が出会った木村銃太郎や、彼が砲術を教えていた子ども達の姿がありました。彼らは、会津を裏切って生き延びることよりも、命をかけて同盟の信義を貫く道を選んだのです。しかし、新政府軍に数でも武器でも負けている彼らに、勝てるはずがありません。木村は銃弾を受け最期の力を振り絞り、子ども達を逃します。
けれど逃げ込んだ城下で、子どもたちは兵士に見つかってしまいます。子ども達は立ち向かい、兵士になんとか怪我を負わせることができました。それでも隊にいた板垣はまだ子どもであることを理由に見逃そうとします。しかしそれでも引こうとはしなかった子ども達は、一人、また一人と命を落とすことになってしまうのでした。八重が以前、達磨の置物を与え励ました子も、その一人です。二本松少年隊の子ども達は、日新館の治療所に運ばれます。そして八重に達磨を手渡し、息を引き取るのでした。
第25話 白虎隊出陣
慶応4年(1868年)8月19日。太陽暦で10月の頃。会津を含めた奥羽ではそろそろ冬がはじまり、雪の気配がしてくる頃です。新政府軍としてはそれまでに会津を討とうと考えます。
その頃、会津では中野竹子を中心に会津の女性たちが薙刀を手に立ち上がることになりました(娘子隊)。自分達が盾となって照姫様を助けようと考えたのです。八重も誘われましたが、丁重に断ります。
そして8月20日。佐川官兵衛と山川大蔵が家老に抜擢されます。そして、容保は皆で会津を守ろうと士気を高めます。
新政府軍は二本松城を落とした後、藩境にある母成峠も突破しました。そこで猪苗代城を守るため、会津軍は更に兵を集めなければなりません。15歳から60歳までの男性は皆、城に入る命令が出され、父・権八や尚之助も城に向かうことになりました。
八重『おとっつぁま、私もお供させてくなんしょ。鉄砲の腕は誰にも負けない。会津を、城を守り、三郎(弟)の仇を討ちたい』
母・佐久「八重!お許しもなく、おなごを戦場に連れてくるわけがねぇべ!余計な事言って大切なご出陣の邪魔をしてはなんねぇ!」
権八「行って来る。三郎の仇はわしが討つ」
その頃、土方は戦場に戻り、斎藤と今後について話していました。土方は会津ではなく、榎本武揚の艦隊がある仙台に向かおうとしているようです。けれど斎藤は会津で戦うと言います。土方はあと2~3日もあれば、会津の城下まで攻め入られ籠城戦になると読んでいたので、斎藤をとめます。
斎藤『今、会津を!…今、会津を見捨てるのは儀にあらず。生死を共にした仲間を捨てるのは士道に背きます』
土方「お前…会津に惚れた女でもできたか?」
『えぇ。相手は女ではなく、愚かなほどにまっすぐな会津という国です』
「どうやって戦う気だ。銃も弾も底をつきかけてるぞ」
『弾がつきても、まだ刀がある!』
「そうか…ならば俺は、俺の戦をしにいく!」
こうして斎藤は会津に残り、土方は仙台、函館と北上していくのでした。
戦況はますます悪化し、容保も皆とともに戦うため出陣することになりました。しかし城にはもう先鋭部隊は残っていませんでした。そして容保を守るため出陣することになったのが、まだ若い白虎隊だったのです。白虎隊の中には、八重が砲術を教えていた近所の少年もいました。鉄砲の腕が良いからと、年齢は若いですが隊に加えられたのです。その後、白虎隊は戸ノ口原へ向かい、山中で待機することになりました。
また籠城の準備が始まり、藩士の家族は城に上がり、町方・村方の者は城下を出るようにお触れがありました。八重たちも城に上がらなければなりません。
八重『私は三郎と一緒にお城へ上がりやす。今から私が三郎だ。逆賊呼ばわりして会津を滅ぼしにくる者たちを、私は許さねぇ。私は戦う』
八重は三郎が最期に着ていた南天の刺繍の入った服を着ていました。八重は戦うための衣服で、戦うためにお城へと向かうのでした。

よもやま話
いあぁあ…21話からは本当に辛い話が続きます。密かに推していた神保修理が無実の罪で切腹したシーンは涙、涙でした。ブログに綴るときも目頭があつくなりましたよ。演じられていた斎藤工さんが、穏やかな良い表情をされるので余計に。
更に、二本松少年隊や白虎隊、特に八重が鉄砲を教えていた少年(伊東悌次郎)が隊に加わり、出陣していく姿は辛い…。彼はまだ15歳だったという記録があります。そんなまだまだ子どもの彼らが、戦場に出なければならないというのが、いかに異常な事態だったのか…。でも敵軍だって鬼ばっかりじゃなくって、ちゃんと子どもだから…と見逃してくれるシーンもあり。戦場には異常性と儀の両方があったんだろうかなんて思ったり。あくまで私がみたのはドラマとしてのフィクションですが、こういったことが史実として実際に起こっていたのだ…と思うと尚更辛いですね。
『八重の桜』で今のところ「戦なんてしちゃだめ!」って言っているのが、西郷頼母と兄の覚馬だけなんですね。実際はもっといたと思いますけれど。で、こういう作品だと、どうしても主人公が「戦を避けるには…?」とか「みんなっ、お願い武器を置いて!」みたいな感じになりそうなのに、むしろ主人公が「戦って会津を守り、弟の仇を討つんだ!」と好戦的(…と言っていいのか)に描かれていることにびっくりです。これがすごい良いなぁと思っています。当時のリアルってきっと、そうだった人が多いと思うんです。
少し話がずれますが、戦争映画って伝えたいことは戦争反対!っていう主旨ですよね。それは間違っていないし、私も戦争は反対です。ただ少し違和感があったのが、私が小学生の頃に見た戦争関連の映画の多くは、主人公やその近しい人々が戦争に反対していて、世間から叩かれる。それでも戦争は良くないんだ主張を貫いていて…という、映画ばかりだったのです。でも実際はどうだったんだろう?と。
そう思うきっかけになったのが、『この世界の片隅に』という映画でした。映画では広島に投下された原爆や、その後の玉音放送についても触れられています。作中、玉音放送の後、自分はまだ戦えるし死んですらいないのになぜ負けを認めるのか、負けを認めてしまったらこれまで死んでしまった人々の無念はどうなるんだという主人公の悲痛な叫びがあるんですよね。
八重さんを見ていて、このシーンが何度も思い出されたんです。戦は良くない。でも当時からしてみれば、後からなんとでも言えるんじゃ?って話なんです。
覚馬は、未来を見ることができる象山や勝の言葉を聞いていたから10年先、100年先の会津のことを考えられた。でも当時の会津の人は当時の会津を見ていたわけですから、戦う事が正義になるのも不思議じゃないよねって。そういう”今の感覚”で作品を描いているわけじゃないんだなぁっていう点で、八重の桜は好きです。
はてさて、5回に分けて25話まで綴りましたが、やっとこれで半分でございます。今回はこの辺で❀