澱ノ道

澱みに浮かぶ塵芥は 身どもの心の有り様で

澱ノ道の労働観

んべろんべろ

 

・怠惰への賛歌

哲学者・数学者のバートランド・ラッセルの著作の中に
「怠惰への賛歌」という本があります。

100年前に書かれたものなので、ところどころ
現代にはそぐわない箇所がありますが
その内容の主軸は今でも全く色褪せてません。

その題名どおり「怠けることを肯定する」内容の
皮肉と知性に満ちた名随筆です。
ただの“サボり推奨”ではなく、
近代社会の労働観そのものを問う、良質な哲学的エッセイです。

「現代の技術水準であれば、人間は一日四時間働けば十分である。」

当時の(いえ現代においても)社会では、
「勤勉」「生産性」「労働の美徳」が絶対的価値でした。
しかしラッセルは、そうした価値観に真っ向から異を唱えます。
「多くの人が必要以上に働きすぎており、その結果世界は多くの悪に満ちている」
と彼は書き出します。

つまり、先進諸国にとって
“働きすぎこそが、戦争・貧困、そして不幸を生む原因だ”
という逆説的な主張なのです。彼は著作の中でこう説いてます。

 

余暇(idleness)は創造の源:

偉大な発見や芸術、思想は「暇な時間」から生まれる。
本を読む、音楽を鑑賞する、自然を眺める─それらが人間を深くし社会を豊かにする。
したがって、怠惰は退廃ではなく、文化の母である。

社会正義とは「暇の分配」である:
富の分配だけでなく、「余暇の分配」が必要。
すべての人がほどよく怠けられる社会こそ、幸福な社会だ。

ラッセルの怠惰は、怠け心の礼賛ではなく、
「創造的余暇(creative leisure)」のための怠惰です。
働かない時間を、退廃や無為に使うのではなく、
人間らしい精神活動──芸術や思索──にあてよう、という提案。

これ、澱ノ道の「静けさ」と同じ地平にありますね。
つまり、どちらも「働かないこと」そのものが目的ではなく、
“生きる質を取り戻すための間(ま)”としての怠惰なんです。

「人類は働きすぎている。
働くことが徳だと信じ込まされ、
怠けることの幸福を忘れてしまった。
世界を救うのは勤勉ではなく、
ほどよい怠惰なのである。」と。

・ブルシット・ジョブ

いわゆるブルシット・ジョブ(bullshit job)という
社会学者デヴィッド・グレーバーが提唱した概念。
やっている本人ですら“存在意義がない”と感じる仕事」のことです。
形式的には給与も出て社会的には“働いている”ことになっているのに、
中身は空虚で魂をすり減らすような労働。

ブルシット・ジョブの時代にこそ、澱ノ道は生きます。
“意味のない仕事”があふれるこの社会の中で、
あえて“意味を探さない”態度を取る。
それが、現代の澱者の静かな反逆です。

法に触れず、誰かを損なわず、何らかの形で
自分の食い扶持だけを確保して生きる。
それで十分。
それ以上を望むと、途端に心は濁っていきます。

澱ノ道の考えでは、
「経済的自立」はあくまで“澱むための地盤”にすぎません。
つまり働くのは目的ではなく静かに暮らすための最低限の行動

 

 

急いで付け加えますが、これは澱ノ道としての考えです。
人に勧めたりないし、賛同できなければ笑い飛ばして構わないモノです。
澱ノ道は強制せず押し付けず、信条でも義務でもなく自由な澱みです。
誰にも押しつけず、誰の否定もせず、
ただ「自分の澱」を静かに観る者の道です。

(現代の労働問題については、ワーキングプアの問題もありますが
それは次回の記事で論じます。)

 

社会の速度を少し外れた位置で、
それでも法と倫理の枠の中で、
ひっそりと自分の時間を守りながら澱む。

それが、澱者の実践する“静かな自由”なのです。

—そういう静けさの中に、本当の自由があります。

ただ一心に 澱みを想って

んべろんべろ

ただ無心に 心の澱みを映して

んべろんべろ