東京の図書館から、今回から4回シリーズで、府中市立図書館のライブラリである、ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団によるシベリウスの交響曲全集を取り上げます。
日本フィルハーモニー交響楽団は日本のプロオーケストラで、小澤征爾との確執などで知られていることが多いのですが、そもそも日本に於いてシベリウスの交響曲を広めた役割のほうが大きいオーケストラです。渡辺曉雄の指揮によるシベリウスの交響曲全集はかつては日本におけるシベリウスの交響曲全集としてスタンダードでもありました。
そして日本フィルは、府中の森芸術劇場どりーむホールで年4回ほど公演を行っており、実は府中市とも縁があるオーケストラです。ゆえに府中市立図書館に全集が収蔵されていると言えましょう。こういう例は各地の図書館で結構あります。以前「神奈川県立図書館所蔵CD」のコーナーでも横浜のアマチュアオーケストラである港北区民交響楽団のCDを取り上げたことがありますが、そのような例は意外とあるものなのです。府中の場合は府中市民交響楽団さんがCDなどを出していない関係で、プロオケで市内で公演を行っている日本フィルのCDが選択されたと言えるでしょう。
さて、その日本フィルはフランチャイズは杉並公会堂大ホールですが、それ以外で拠点として使っているホールがサントリーホールです。この全集は3つがサントリーホールでの公演、そして一つが横浜みなとみらいホール大ホールでの公演が収録されています。意外なんですが日本フィルのCDでフランチャイズである杉並公会堂大ホールでのCDは少ないのが現状です。杉並公会堂大ホールに足しげく通っている私としては杉並公会堂大ホールでの公演もCD化してほしいところです・・・
今回の第1集には、交響曲第1番と第3番が収録されており、いずれもサントリーホールでの公演を収録したものです。いずれも2013年のツィクルスからの収録です。シベリウスとなると確かに祖国フィンランドのオーケストラで聴きたくなりますが、実は日本フィルもステディかつ情熱的な演奏をすることで有名です。そのため、借りたと言うわけでした。
①交響曲第1番
シベリウスの交響曲第1番は、1898年に作曲が着手され、1899年に完成した作品です。通常作曲家の最初の交響曲は明るいものが多いのですが、シベリウスの第1番は何処かくらい表情に支配されているのが特徴で、第4楽章もフィナーレが暗くあっけなく終わるのが特徴となっています。
「チャイコフスキー、ボロディン、ブルックナーの影響が随所にうかがわれる。」とウィキペディアでは記述がありますが、特にこの曲に於いてはチャイコフスキーの影響が強いと私は見ています。それが強力に感じられるのが最終第4楽章の終わり方。これは明らかにチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を想起させます。
指揮するインキネンもそれを感じているのか、徹頭徹尾美しさと力強さのバランスに配慮している印象で、特に最終第4楽章の最後は、かなり悲劇的に終わらせる演奏も多いのですがむしろ烈しさの中にも哀愁が漂う印象を受ける美しさが支配しており、ふわっと終わります。聴いていてこれはいいなと思います。当時のシベリウスが酒浸りで自堕落な生活をしていたのは、恐らく幼少期の心の傷が、当時の社会情勢によって再びえぐられた結果だと、対人援助の仕事の経験がある私は見ており、インキネンもその視点で作品を解釈しているように思うのです。そして、その解釈に対し真摯に応え表現する日本フィルの演奏も情熱的で素晴らしい!
ホールもサントリーホールであるということもいい方向に働いていると思います。日本でもトップクラスの響きを持つサントリーホールはベルリンのフィルハーモニーを模範として作られましたが、そこでシベリウスと取り上げたのが評価が分かれるヘルベルト・フォン・カラヤン。カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団がシベリウスの交響曲を広めるのに果たした役割は大きく、日本フィルハーモニー交響楽団もその精神を付け次いで、日本でシベリウスの演奏をするならばサントリーホールということもあったかと思います。勿論第一は観客動員数だとは思いますが、それでも収支という点では民間のホールなので杉並公会堂大ホールでの公演に比べてどうなの?という所はありますから・・・それでもサントリーホールでやるということは、明らかにカラヤンの功績というものが念頭に置かれていると個人的には感じるところですし、またその心意気が演奏に現われているようにも思います。気合も十分ですし何よりも団員が作品の魂に共鳴や共感している様子すら、音だけなのに随所に感じるのです。本当に力強いフォルティシモがあると当時にそれは美しく、それはピアニシモでも一緒。その技法がしっかりと表現となり表情となっているんです。
シベリウスが第1番から自分の個性や魂を表現しようとしたことに、指揮者もオーケストラも共感している様子がわかるんです。こういう演奏が日本のプロオケで聴けるわけですから、海外オケは高くて聞けないからと言って悲観する必要はないんです。
②交響曲第3番
シベリウスの交響曲第3番は、1907年に作曲された作品です。都会の刺激的な生活や社会情勢により自堕落な生活に陥り健康を害していたシベリウスが郊外へ引っ越して健康を取り戻した後に着手された作品でもあり、その精神性が如実に反映された作品だと言えます。
この第3番は三楽章制になっていますが、第3楽章はスケルツォとフィナーレが一緒になっていると言われ、私もそのように感じていますがかといって事実上の4楽章なのかと言えば個人的にはそう考えてはいません。確かに通常スケルツォが第3楽章で別途フィナーレたる第4楽章があるのでそれをただ連結しただけという解釈も成り立ちますが、それならシベリウスは第2番のように献血していても別の楽章にしたはずです。それをなぜこの第3番では一つの楽章としたのかが、この曲の魂を示していると考えるからなんです。
以前にも言及したかと思いますが、この曲は健康を回復するということが喜びであり、それは祖国フィンランドの独立ということとオーヴァーラップするため、「自由」ということで三楽章になっていると考えるのが適切だということです。特に第3楽章では短調長調が入り乱れ、まるで精神の回復のようにらせん状。近代精神医学が反映されているとすら言える構造になっています。勿論シベリウスがこの曲を作曲した時はまだ「らせん状の回復」などと言う、精神医学の見地は発展途上で知られていないはずなんですが、恐らくシベリウスが自らが回復する過程を振り返ってみた時に、らせん状だと感じたのだろうと個人的には解釈しています。
その解釈をインキネンもしているように感じます。それがどこかもどかしくとも最後の頂点へと至る演奏に現われています。また第1楽章も回復の喜びを表すかのような明るさと美しさ、そして力強さ。第2楽章はその回復へと至るまでのさみしさを表現しているかのよう・・・
そんな近代医学の見地からのような解釈にしっかりと応え、表現しているのが海外オケではなく日本フィルだという事実。これは私たち日本人は誇りに思うべきだと思います。これだけのオーケストラが普通に公演を行っているということがいかに幸せなのかということなんです。
クラシック音楽以外のジャンルは確かに新しい曲にあふれています。それはそれで楽しいですが反面刹那的でもあります。一方クラシック音楽は長い歴史の中で残ってきている普遍性を持つ作品たちばかりだと言えます。勿論クラシック音楽でも新しい作品は生み出されておりそれらの作品も今後演奏されるべきでそうじゃないとクラシック音楽は残って行かないと思いますが、かといって古いからと言って罵倒したり批判するのはいかがなものかと思います。なら避難している人自身がどんどん新しい「惹きつける魅力」にあふれる作品を書けばいいわけで、魅力さえあれば人気が出て演奏されるわけですから。この演奏は「新しいものを追いかける事だけが正義なのか」という問いかけにもなっているように感じます。
その意味でも、日本フィルが歩んできた歴史というものは貴重ですし、その歴史がまた近代的な解釈でもしっかりと表現できるだけの土壌を培ってきたと言えるでしょう。歴史や伝統というものはそういうものだと個人的には思いますし、その大切さをいきなり第1集から演奏で示してきたと言えるでしょう。
聴いている音源
ジャン・シベリウス作曲
交響曲第1番ホ短調作品39
交響曲第3番ハ長調作品52
ピエタリ・インキネン指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
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