ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【纏向】吉備と大和の繋がりを考えるツーピース【孤文】【桃太郎伝説】

ホケノ山古墳展(終了)の関連展示で見た #纏向石塚古墳 出土の #孤文円板(複元)。展示会場の #橿原考古学研究所付属博物館(常設)に展示されていた #特殊器台 紋様とそっくり。共通するデザインから吉備と大和(纏向)の関係を考察 #桃太郎伝説 #吉備津彦

目次

本文

見事なデザイン。纏向石塚古墳の孤文円板

先日、ホケノ山古墳展(橿原考古学研究所付属博物館、終了)で展示されていた纏向石塚古墳の孤文円板(復元)の美しい造作に、思わず見とれてしまいました。

纏向石塚古墳から出土した木片から複製した孤文円板

石塚古墳は円部:方部の長さが2:1くらいの纒向型前方後円墳というカタチで、いわゆる弥生時代末期の墳墓に属します。(そういう意味で古墳とは言いません)

石塚古墳を含む纏向型墳墓群と纏向遺跡との位置関係(二つの画像は南北が逆)

纏向型弥生墳墓は、本格的な前方後円墳箸墓古墳(260〜300年)より少し前、具体的には西暦180〜250年の間に築造されたとされる墳墓で、ホケノ山古墳(250年頃)も含まれます

ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸墓古墳の東

この石塚古墳の周濠から出土した木片が、展示されていた孤文円板です。

年輪測定では、西暦180年頃との結果も出ており、同じく出土した庄内式土器*1の時代とあわせて、纏向型墳墓の第一号であると考えられています。

吉備と大和を繫ぐ桃太郎伝説

展示会場の橿原考古学研究所付属博物館(常設)では、墳墓や初期古墳から出土した 特殊器台 も展示しています。

石塚古墳の孤文円板のデザインは、特殊器台に施された紋様と共通しており、むしろ、元にしたと考える考古学者も少なからずいます。

吉備(岡山県)を中心に出土する特殊器台。箸墓古墳でも出土

案内パネルの通り、特殊器台は主に吉備(岡山県)の墳墓・古墳で出土しており、大和(奈良県)でも纏向の箸墓古墳などから出土しています。

大和と吉備と言えば、第七代・孝霊天皇の黒田廬戸宮跡(くろだいほどのみやあと、田原本町、法楽寺)には 桃太郎の誕生伝説 が残っています。

皇子の 吉備津彦彦五十狭芹彦命)は桃太郎のモデル とされています。

そして、孝霊天皇吉備津彦の時代(西暦150年頃〜数十年間)が、纏向型墳墓の時代にやや先行して重なっているのがたいへん興味深いですね。

纏向に吉備の文化があらわれるのは、孝霊天皇親子の歴史と関係していそうです。

このあたりを踏まえて、日ごろ参考にしている出雲伝承*2をあらためて読み返し、頭を整理してリンク記事内に追記しておきました。

興味があればご覧ください。

www.zero-position.com

記紀ベースで日本の古代史を考える限界

日本古代史は謎が多く、むしろ謎のままというテーマがたくさんありますが、その最大の理由が日本書紀古事記記紀)でしょう。

先の追記(リンク先)で、例えば吉備津彦は第十代・崇神天皇の時代の 四道将軍 の一人として吉備を征服したことにされていますが、第七代の皇子が第十代の時代に活躍するには約百年の誤差が生じ、さすがに無理があります。

出雲伝承では、これをひとつの根拠に四道将軍日本書紀の作り話としていますが、私も違う観点から同じ結論に達しています。

「四道」と言うには東西南北の方向認識が前提になりますが、稲作の弥生時代には、太陽と月の軌道、つまり、東西の概念が中心で、国土に南北を加えた概念は未成熟だったと考えるからです(ゆえに当時は東北も関東も「東国」と呼ばれた)

この点は、前田晴人(歴史学者)の説*3も参考になります。

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*1:大阪府豊中市庄内の遺跡から出土。底部が尖ったカタチと2ミリの薄型であることから真下に火をくべて、はやく煮える土器。成熟した弥生稲作文化から生まれた、熱効率性のよい土器のカタチ

*2:この件は大元出版、親魏和王の都

*3:wiki四道将軍より。前田晴人の2014年時点での見解は、四道という語は6世紀の国造制再編による影響によって導入された中華思想的な概念とする。論拠として、5世紀の倭の五王の一人である武(雄略天皇)が出した上表文には、「東西南北」ではなく、「東西」を平定したといった内容が記され、東西を基軸とした国家統治を基本として、本来、こちらが弥生期から続く伝統的な観念であり、『古事記』においても、「西道」(吉備国)の記述がなく、これにともなって「四道」の語もないことから、4世紀時点に四道の語はなかったとする