ルイ16世 (フランス王)
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| ルイ16世 Louis XVI |
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| フランス国王 ナバラ国王 |
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ルイ16世(アントワーヌ=フランソワ・カレ画、1788年、ヴェルサイユ宮殿蔵)
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| 在位 | 1774年5月10日 – 1792年8月10日 |
| 戴冠式 | 1775年6月11日 於 ランス・ノートルダム大聖堂 |
| 別号 | アンドラ大公 |
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| 全名 | Louis-Auguste ルイ=オーギュスト |
| 出生 | 1754年8月23日 ヴェルサイユ ヴェルサイユ宮殿 |
| 死去 | 1793年1月21日(38歳没) パリ コンコルド広場 |
| 埋葬 | 1815年1月21日 サン=ドニ サン=ドニ大聖堂 |
| 配偶者 | マリー・アントワネット |
| 子女 | |
| 王朝 | ブルボン朝 |
| 父親 | ルイ・フェルディナン・ド・フランス |
| 母親 | マリー=ジョゼフ・ド・サクス |
| 宗教 | キリスト教カトリック教会 |
| サイン | |
ルイ16世(フランス語: Louis XVI、1754年8月23日 - 1793年1月21日[1])は、ブルボン朝第5代のフランス国王(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日[1])。ナバラ国王としてはルイス5世(バスク語: Luis V.a)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。
在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止し、翌年処刑された。1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」と呼ばれた [注釈 1]。
生涯
誕生
1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王(兼ザクセン選帝侯)アウグスト3世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生。ベリー公となる。1760年9月8日、ヴォギュヨン公爵が家庭教師となった。1761年の復活祭の日、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフが結核で薨去し、1765年に父の薨御により
無口な子供であり、自尊心に乏しく、ヴェルサイユ宮殿での日々は彼にとってくつろげないものであった。兄弟と比較されると1番下に置かれ、同時代人たちからはその内気さや鈍重な立ち振る舞いを知性の欠如によるものと誤解され、それは父親の肥満しがちな体質を受け継いだ容姿によってさらに強められた。ちなみに、金髪碧眼はドイツ人の母親譲りである[2]。王妃の侍女の1人だったカンバン夫人はルイについて、「足取りは重く、挙動に高貴さはみじんもありません。身なりにはまったく無頓着で、髪結い師が日々努力しているにもかかわらず、ぞんざいに振る舞うので髪がすぐ乱れてしまいます」と描写しているが、これは例外的なものではなかった[3]。
同時代人たちは、彼が錠前造りや石工仕事のような、君主の余暇の楽しみ方としてふさわしいとは思われない手仕事を好んでいることにも困惑した。そのような中で、人々の期待と先王たちのイメージの両方に合ったのが狩猟だった。青年期には毎日のように狩りに出かけ、パリ周辺にあった複数の王室御料林で狩りを行い、小道や脇道を覚えた。国王となった後も、狩猟となると戦時下でも外国の大使たちとの面会を取りやめてまで出かけることがあった。狩猟についての正確な日誌をつけており、そこには撃ち取ったり猟犬に追い詰めさせ仕留められた雄鹿、猪、兎、燕が14年にわたって20万近く記録されている[4]。
王太子になってからは彼に対する教育は相応の配慮をもって行われた。勉学に励んだ彼は、英語、ドイツ語、イタリア語を習得する。細部を記憶する能力に優れ、天文学、地理学、歴史に秀で、家庭教師の助けを得てエドワード・ギボンの翻訳も試みた。生涯にわたって読書を続け、自分が熟読した新聞各紙についてときにコメントすることもあり、1777年には百科全書を買い求めている。地図が大好きで、フランスの地理について並外れた知識があり、王国巡幸の旅程を計画することもあった[5]。
事実や数字も好きで、宮殿すべての召使いと猟犬係の名前と職務について、11歳以降に乗ったすべての馬(128頭)の名前と特徴について、王室狩猟林で見かけた動物について、日々の家計費のそれぞれの細目についてなどをリストや要約表にして作成した。個人的な日記もつけていたが、これもまた基本的には事実をふまえた活動の要約であり、そこでも狩猟が主に記述され、個人的な感慨や考えを窺わせるものではなかった[6]。
家庭教師は「わが宗教の教養を心に深く刻むこと」をルイに誓わせた。彼は生涯にわたって毎日ミサにあずかった。支配する権利が神から授けられたものであることを疑わず、教理問答の最初の貢に「私を統治者として選んでくださったこと、それは神の賜物であると私にはわかっている」と記した[7]。啓蒙思想を家父長的温情主義のもとで理解しており、国王は人民の安寧に責任を負うという信念とともに、啓蒙思想の精神とはかけ離れた、地位と身分から成る階層的で貴族的な感覚を保持していた。彼もまた啓蒙専制君主と称される君主たちと同じ、民の安寧と特権と王の権威の維持という相矛盾した目標を有していた。これらに基づいて判断する際、自身の判断力に病的なまでに自信が持てないことや助言者たちの意見が対立していることによって、意思決定はルイにとって苦痛であった[8]。
婚姻
長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリアのマリア・テレジアにより娘マリア・アントーニアとブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフとの政略結婚が画策されていたが、ルイ・ジョゼフは1761年に死亡する。そのため次にマリア・アントーニアの結婚相手としてルイ・オーギュストが候補に挙がり、1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣された。この結婚にはルイ・フェルディナン(ルイ・オーギュストの父)が反対していたが1765年に死亡し、その後の1769年6月になってようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの豪華絢爛な結婚式が挙行された。以後、王太子妃はフランス語名のマリー・アントワネットとして知られることになる。
即位
1774年5月10日にフランス国王となり、1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。この時の歓迎ぶりは彼の心に残り、後に1786年パリからシェルブールを旅したさい、歓呼する群衆の間を馬車で進んでいった時のことも、自身の治世の最も幸運な瞬間のひとつとして語っている。そして生涯の終わりまで、群衆が国王万歳と叫ばなかったり、叫びに十分な熱意がなかったりすると深く傷ついた[7]。
1775年4月、各地で食糧危機に対する暴動(小麦粉戦争)が起き、5月2日、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に応えている。
結婚当初から王妃とは性格の不一致があったが、結婚生活の最初の7年間、この夫婦は性的機能不全にも悩まされた。国王には性器奇形があり、性的結合を果たすことが苦痛でほぼ不可能だったためである[9]。
1777年4月、子供が生まれず性生活を疑ったマリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世が、新婚生活を送っていたラ・ミュエット宮殿(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区)の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じ、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。また、若くして結婚したため子作りの方法を知らなかった国王・王妃は、義兄・ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられたという。その甲斐あって結婚7年目の1778年には長女マリー・テレーズ、1781年長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、1785年次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、1786年次女ソフィー(夭折)が誕生する。
アンシャン・レジームにおいては2種類の拷問があった。1780年8月24日の国王宣言により、死刑の決定した受刑者に対し共犯者を引き出すために行われた、処刑先行拷問が廃止されている。また1788年5月1日、訴訟手続きの途中に 一定の場合に自白を引き出すため行われた事前拷問が廃止された[10]。
国王の持つ気取りのなさ、宮廷から距離を置くこと、容姿への無頓着さは民衆に好感を抱かせた。この肯定的なイメージは彼らの間に流布し続け、革命当初の数年間はこれが強められさえした[11]。
政治的な作為
1786年8月20日、財務総監カロンヌは国王に意見書を提出し、再生の窮状を告げた。年間の財政規模が4億7500万リーヴルであるのに赤字は1億リーヴルに達し、1776年以降の累積借入金は12億5000リーヴルに上っていた。その上、アメリカ独立戦争のために設けられた第三次二十分の一税は翌1787年には終了することになっていたのだった[12]。アメリカ独立戦争へのフランスの参戦は、1763年の北米大陸での支配権の損失による雪辱を部分的には果たした。しかし、植民地の人々の勝利がもたらした知的高揚は、フランス本国での社会的・政治的批判を先鋭化させ、10億リーヴル以上、すなわち通常の国家歳入の倍以上の出費は国庫にも大打撃を与えた[13]。戦争を支援した理由は、一部には「私に助けを求めてきた抑圧された人々を支援する」ためであったが、何よりもまず、過去に「フランスの名誉を傷つけた」ことに対して、「わが王家の宿敵であり不倶戴天の敵」であるイギリスに一矢報いるためだった[14]。
戦争参戦が直接のきっかけとなって、もともと大きかった財政赤字がさらに拡大し、国庫の破産を恐れた金融業者は1786年、これ以上の国庫の借入には応じないことを宣言する[15]。ただちに対策を講じなければ、国庫の破産は必須であった[12]。
1786年9月26日にはイーデン条約が結ばれた。これはグレートブリテン王国(イギリス)とフランス王国の通商条約であり、アメリカ独立戦争の講和条約であるヴェルサイユ条約(1783年)で締結を義務付けられた条約だった[16]。英仏間の輸入禁止制と禁止的高率関税を原則として廃止し、航海と通商の自由を定めた[17]。条約により英仏間の貿易額は大幅に上昇したが、フランスの対英輸出よりイギリスの対仏輸出の上昇率が高く[18]、結果フランスにおける工業危機を招き、アンシャン・レジーム崩壊の一因になった[19]。
国王は、報告書を読み顧問官たちと話し合うのに長い時間を費やした。彼は国王になってから、モールパとヴェルジェンヌ(英語版)の両伯爵の助言と決断を頼ってきたが、2人は1781年と1787年に相次いで世を去った。残った大臣たちの間で策謀や内紛が激化するなか、国王は助言者に意見を求めて回った。一方で、狩猟に費やす時間が年々長くなり、記録される獲物の数は跳ね上がっている。臣民のために最善を願うもののその目標を達成する術がわからない状態に置かれた結果、1780年代後半に国王を身近で観察した人々は、彼を無気力とも言える状態に陥っていたとした。元々無口で意思疎通を欠いていたのが、いっそう要領を得ない態度を取るようになり、議論の最中に居眠りをすることもあった[14]。
国王の治世では初めの数年間、王妃を政策決定と顧問会議から一貫して排除していた。それでも彼女は間接的に影響力を行使し、1775年にチュルゴーを、1781年にネッケルを一度目の罷免にする上で宮廷の陰謀に関与していたのだが、1780年代後半になると王妃の政治的影響力がしだいに強まっていく。これは最も信頼していた人々を失い、さまざまな改革が失敗するにつれて国王が自信を失い、何事にも王妃の助言を頼るようになった結果であった。1788年までには、国王は特定の顧問会議に王妃を招き入れるようになり、彼女が出席していないときでも相談のため議論の最中に部屋を出て行くこともあった。これは大臣たちを当惑させた[20]。
カロンヌのみならず、モプー(英語版)、チュルゴー、ネッケルなど1770年代以降の大臣・官僚が等しく目指してきた改革の方向は、フランス王国全体を1つのものとして視野に収め、王国内部の区別や差異をできるだけ解消して均一化するとともに、実質的統治化が進んだフランス王国を王権が一元的に把握・統治するような国制だった[21]。国王の意思といえどもそれだけでは国家の正式な決定とはならず、高等法院に王令として登録されねばならないことは、改革の実現において重大な問題になる。社団の影響力を牽制しようとする改革を実現するには、ある意味で最強の社団ともいえる高等法院の合意を得なければならないというのが、18世紀フランス王政の基本的な矛盾もしくは限界だった。そこでカロンヌは直接に高等法院と対決するのを避け、160年ぶりに諮問会議である名士会を召集して改革案を審議・了承させ、その決定をもとにして高等法院が登録を拒否する大義名分をあらかじめ消滅させようと考えた。国王政府が提案する改革案にも比較的容易に賛同が得られるだろうとカロンヌは期待していた。しかし1787年2月22日に開かれた名士会はカロンヌの提案は受け入れられなかった。名士会議員にとっては、期限を区切らない永続的な税を設けること、身分別に考慮せず収入額に比例して課税することは、ともに国王と臣民の伝統的な合意に違反するものだった[22]。
1788年、ブリエンヌとネッケルの台頭によって、国王は悪化しつつある状況を諮るため全国三部会の召集に踏み切るよう説得された。こうして政策がつねに変動することは、国民の間に不確実と不安定に対する感情を芽生えさせたが、一方では断続的で気まぐれな改革を通じて国民を教育し、大規模な変化の可能性に慣れさせる役割も果たした[23]。
アメリカ独立戦争における働き
それまでもひそかにアメリカへ金銭援助や武器の貸与を行っていたが、フランスの海軍派遣によって戦局は大きく変わった。フランス海軍は20艦の増強といった行動により、イギリスの打倒を考えていたが、これによって財政難に陥りフランス革命へと繋がってしまう[24]。フランス革命に対して、多くの政治思想家は否応なく賛否を表明しなければいけなくなり、これはアメリカにおける党派形成のきっかけになった。エドマンド・バーグの『フランス革命の省察』、トマス・ペインの『人間の権利』はこの時期に書かれた[25]。フランス革命の大義を支持する協会が各地で結成され、ここでは君主政や貴族政は過去のものとして否定的に捉えられ民主政が訴えられた[26]。
ルイ16世の処刑後、当時のアメリカ大統領ワシントンは中立を宣言する。フランス革命は民主政の大義を掲げていたため、心情的にはフランスの味方をしたい市民が多かったものの、イギリスとフランスという大国のどちらかに加担することは複雑な情勢に巻き込まれることを意味していたため、ワシントンはどちらからも距離をとるという選択をした。これは市民から、アメリカ独立を支援したフランスに対する裏切りと受け止められた[27]。
フランス革命
全国三部会
全国三部会の開会式に先立って、議員は国王に謁見した際、特権二身分は国王の私室で1人ずつ謁見したが、第三身分は代表1人が個別に謁見したものの、それ以外の議員は国王の寝室を集団で並んで歩き、国王の前を通り過ぎただけだった[28]。
1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿のムニュ=プレジールの間で全国三部会が開かれた。国王は王室財政の赤字という問題についてのみ語り、ネッケルは財政赤字に関わる種々の数字を3時間羅列し続けた。2人とも、全国三部会の議題を財政赤字の解消のみに限る意志を示したのだったが、議員の方では、まだ革命など考えていなかったにせよ、漠然となんらかの政治改革を期待していた。王権側と議員たちの間の落差は最初から大きかった[29]。
各議員の資格審査に移ろうとしたところ、ここで問題が生じた。審査は身分ごとに行われる予定だったが、議員1人1票の投票制度を求める第三身分の議員たちは、身分ごとの審査が行われたことで1身分1票の投票が決まってしまうことを恐れ、他の二身分に対して議員資格の共同審査を呼びかけた[30]。後にこの第三身分の議員たちはシエイエスの提案に基づいて国民議会と名乗りはじめる。6月19日、第一身分は149票対137票で国民議会への合流を決めたが、議長(司教)は即座に閉会して、国王に介入を求めた[31]。
国王は自ら出席して三身分合同で開く親臨会議の開催を決め、その準備のため6月20日に第三身分の議場となっているムニュ=プレジールの間を閉鎖させた。それを知る由もない第三身分の議員たちは宮殿内の室内球技場に集まり、そこで行われたのが球戯場の誓いになる。
親臨会議は同月23日に開かれ、特権二身分の議員は直接に議場へ案内されたが、第三身分の議員は雨の中を小門の前で待つことになった。そこで国王が提案した主要なものは、
- 第三身分の諸決定はすべて無効とする。
- すべての命令委任権を、一人一票の投票を禁じている命令も含めて破棄する。
- 議員の資格審査を身分別に行い、資格に不審な点のある者のみを合同審査する。
- 全体の利害に関するもののみを三身分の共同討議と一人一票の投票によって決する、ただし封建的諸権利の問題は除く。
- 租税への同意権、臨時上納金の使途決定権を全国三部会に与える。
- 特権層が租税負担の平等を可決し次第、それを裁可する。
- 教会十分の一税、領主的権利、封地に付着する実質的および名誉的権利は、所有権一般の一部として維持する。
- 人身的負担(賊役など)は通常の税で置き換える。
- 人身と出版の自由を認める。
- 州三部会が地方行政を担当する、州三部会は第三身分の議員は特権身分の倍とし、一人一票で決する。
- 全国三部会は制度改革の権利を持つ。
- 王室用賊役と領主のマンモルト(直系卑属を持たない農奴が死亡した場合、その財産は領主に帰属する制度)を廃止する。
というものになる[32]。国王は「かくも見事な案を諸君らが見捨てるならば、私は1人で人民の幸福を考える」と述べて議会の解散を示唆し、「諸君がただちに解散し、明朝、それぞれの議員に割り当てられた議場に赴いて議論を再開することを命じる」と述べた。貴族議員は国王の命令に従ってすぐに退席したが、聖職者議員の一部と第三身分は席に残り、シエイエスはここで「議員諸金は今日、昨日までと同じ資格を持っている」とした。それを受けた国民議会は第三身分の議論を無効と宣言した国王の演説にもかかわらず、議員の不可侵性を宣言した[33]。国王は第三身分の議員を実力で排除するために近衛兵を派遣したが、ムニュ=プレジールの間の入り口にいた自由主義貴族が彼らを説得し、引き揚げさせた[34]。
全国三部会の開催はブルジョワジーと同様、民衆層にも明るい希望を与えた。彼らの間では「国王は常に善意で庶民の生活を気にかけてくれているのだが、それにも関わらず自分たちの生活が苦しいのは、王を取り巻く貴族たちが王の目や耳をふさいで、庶民生活の実態が国王に伝わらないようにしているからだ」とする考えが一般的であったが、国王が陳情書を通じて一般庶民の要望を受け入れ、自ら対処しようとしてくれるのだから、これからの世の中はきっとうまくいくと考えられた。一方で、貴族が黙っておとなしく引き下がるはずはないとも考えられ、不安は合同審査の呼びかけに特権身分、とりわけ貴族議員が執拗に抵抗したことで強化された[35]。
バスティーユ襲撃
7月11日、国王はネッケルを罷免し、翌日の朝この知らせはパリに伝わった。人々は国王政府が議会を武力で蹴散らす意図であることを理解して憤慨するとともに、パリが軍隊に襲撃されることを恐れた[36]。1789年7月14日、バスティーユ襲撃が起き、国王は国王衣装係のリアンクール侯爵から報告を受けたが、後年、『日記には「なにもなし」と書いて寝てしまった』との逸話が語られている[注釈 2]。
15日、事件を知った国王は国民議会に出席し、その席で議員たちは国王に、パリとヴェルサイユの周辺にいる部隊を退去させることと、ネッケルを呼び戻すことを要求した。これらは16日に承諾され、17日には国王自身が32名の議員とともにパリを訪れ、群衆が国王万歳ではなく国民万歳と叫ぶ中を市庁舎に入り、新市長であるバイイから赤白青の三色の徽章を受け取って自分の帽子につけた。これはブルボン王家のシンボルカラーである白をパリのシンボルカラーである赤と青ではさんだもので、国王とパリの和解のシンボルだった。さらにパリ市の民兵団(後の国民衛兵)の設置とラファイエットの国民衛兵司令官任命、およびバイイの市長着任を承諾した[38]。
議会は封建制廃止令と人と市民の権利の宣言を国王に承認させたかったが、自分たちだけの決定で正式な決議ができるとは思っていなかった。国王の同意が必要だと考えられていたのだが、国王は受動的ながらも抵抗し、議会の働きかけにも言を左右にして、同意を与えなかった。そこで議会は国王に対する駆け引きとして彼に法案の拒否権を提示した。この頃から保守化しはじめた一部の議員にとっては、国王と妥協して革命の進展を止めるための措置だったのだが、それでも国王は動かなかった[39]。愛国派の議員たちは、国王が6月23日の演説で保守的な貴族の立場をかたくなに支持し、国民議会の存在を否定したことに深く失望した。だがその後、革命家たちにとって明らかに有利に転じた出来事の中ですぐに許された。愛国派のほとんどは、国王は善意の人で、国民の最善の利益を願っており、6月23日の演説は悪しき助言を受けた善王の典型的な例であると確信していた[40]。
この頃、国王は愛国派の議員たちが自分の長男の死に無感覚だと受け取り、また、国民議会が彼に絶対的な拒否権を与え損ねたことも不満に思っていた[41]。
ヴェルサイユ行進
9月末、フランドル連隊がヴェルサイユに到着し、10月1日にその士官たちを歓迎する宴会が宮殿で開かれた。その席で会食者たちは三色の徽章を投げ捨てて踏み躙り、ブルボン家を表す白や王妃の祖国オーストリアを表す黒の徽章を身につけた。このニュースは3日、パリに伝わり、5日に起きたヴェルサイユ行進に繋がった。午後4時頃、雨の中を進んできた女性たちがヴェルサイユに到着し、代表が議会の議場に入って、パンの供給とフランドル連隊の退去を要求した。狩りから呼び戻された国王は、何人かの議員にともなわれて宮殿に参内した女性たちの代表に面会し、パリに小麦を送ることとヴェルサイユにあるパンもできる限り供給することを愛想よく約束した。女性たちは満足し、一部はパリに帰り始めた。国王は事件は片付いたと思い近衛兵を解散させた。夜9時すぎにパリ国民衛兵の先遣隊が到着し、大臣のサン=プリーストは国王を脱出させようとしたが、国王はそれを拒み、先手を打って、8月と9月の諸法令をすべて受理する旨を議会に通告した[42]。
翌日、野外で一晩を過ごした女性や野次馬たちが、たまたま開いていた所から何人かが中庭に入ったのを近衛兵が見とがめてトラブルになり、これが騒乱に変わった。国民衛兵が割って入ってなんとか収まり、国王一家とラファイエットがバルコニーに姿を現すと歓声が上がったが、誰かが「パリへ」と叫ぶとそれを皆が唱和し、国王も議会もその声に服す以外に手はなかった。午後1時頃、パリの国民衛兵、小麦や小麦粉を積んだ馬車、パリの女性や若者、国王一家と近衛兵などが列を作ってパリに向かった。国王一家は市役所に迎えられ、夜10時頃になってようやくテュイルリー宮殿に入ることができた。これに伴って議会もパリに移った[43]。
それから何週間も、国王一家は建物の外に出ることも拒み、付随する庭園を散歩することもなかった。この時期、国王は従兄弟のスペイン王に手紙を書いている。彼はその中で、フランス革命のほぼすべてを非難し、バスティーユ襲撃以降「王の権威―威嚇によって私から不法に奪われてきた―に背くそのような行為すべてに抗議した。「私の王朝がときの試練を経ながら証してきた国王の権威をいかなる点においても損なわせはしないと保証することは、私が自分自身に対して負う義務であり、私の子どもたちに対して負う義務であり、私の家族全員に対して負う義務である」。そして、6月23日に行った保守的な宣言のみが自分が同意するであろう唯一の方策である、と表明した[44]。
国王も王妃も、パリの急進派の小集団であるジャコバン派が国家の支配権を握ったが、首都の外に住む大多数の国民は国王を全面的に支持しており、自分たちの愛と服従を王に示す機会を待っていると信じるようになっていた[44]。
1790年7月14日、全国連盟祭(英語版)が開催された。1年前のバスティーユ襲撃を記念したこの祭典には、様々な地方から4万4千人もの代表者たちが出席している。会場はシャン・ド・マルスで、有志の者たちが地ならしを行った。ルイ16世、タレーラン、ラファイエットが30万人のパリ市民を前に新たな秩序を宣言した。国王は「国家の基本法によって自らに与えられた権力を使用し、国民議会が決議して自分自身も受諾する憲法を守り、また法律を施行すること」を誓った[45]
6月23日の親臨会議で国王への反抗を主導した議員の1人であるミラボーは、1789年末頃から民衆の暴力を嫌って革命の終結を諮るようになり、審議中の憲法においては立憲君主制のもとできるだけ国王の権限を強化する方向で活動するとともに、国王にも密かに接触を求めた。国王もミラボーを受け入れ、活動資金を提供していたが、ミラボーは1791年4月2日に病没した[46]。状況がどんどん複雑で不確かになるにつれて、国王は助言と導きを求め、ますます王妃を頼るようになった[47]。
1791年4月18日、復活祭を祝うためにサン=クルーの城に向かおうとした国王一家が、テュイルリー宮殿を出たところで集まった群衆に阻止されるという事件が起きた。当時のフランスのカトリック教会は、聖職者を選挙で選ばれる公務員とする聖職者民事基本法によって、この法を受け入れる宣誓聖職者とそうでない非宣誓聖職者に分裂していたのだが、群衆は、宣誓聖職者が行う復活祭のミサを国王が嫌ってパリを離れ、サン=クルーで非宣誓聖職者の行うミサに与ろうとしているのだと疑ったのだった。国民衛兵が出勤したが、彼らは指揮官ラファイエットの命令を無視して群衆に加担した。結局、国王一家はサン=クルー行きを諦め、馬車を降りて徒歩で宮殿に戻った。そしてその後、国王を取り巻く貴族・聖職者は制限・追放され、宮殿の中は以前よりも寂しくなった。この頃に、国王は本気で逃亡を決意したとされている[48]。
ヴァレンヌ事件
革命家たちを油断させるため、1791年前半とりわけ4月18日以降、国王夫妻は意識して欺瞞戦略をとっていた。諸外国の指導者たちへの密書ではことあるごとにフランス革命を非難していたが、夫妻は愛国派の機嫌をとり自分たちが議会を支持していると思わせるため全力を尽くした。4月19日、国王は自ら国民議会に出向き憲法を受諾すると繰り返し、4日後に同様の公言をすべての大使に伝えた。夫妻は立憲派聖職者による復活祭のミサにも参加している[49]。
1791年6月20日から21日にかけての深夜、一行はテュイルリー宮殿を抜け出し、ベルリンと呼ばれる大型馬車で、現在のルクセンブルクとの国境に近いモンメディを目指した(ヴァレンヌ事件)[50]。この計画では、パリから離れた安全な場所に国王をただ移すだけでなく、国王が外国の軍隊の支援を得られるか、少なくとも外国軍の支援という脅威をもたらす国境まで、確実に逃亡させることが目指された。そこで大挙して彼に従う民衆を見出し、忠実な兵士たちに囲まれ外国の抑止力によって後押しされ、他のフランス人たちも国王を支持するため国中から結集するであろうと考えられた[51]。この時、国王は1786年シェルブールを旅行した際に着用した豪華な赤と金の礼服を持っていっており、これを国境で忠実な軍隊の指揮を執る時に身につけるつもりだった[52]。
ヴァレンヌで足止めされ、町議会議員のソース(フランス語版)の家で正体がばれた際、国王は「いかにも、私はあなた方の王である」「私はそなたたちとともに生きるために来たのである。わが忠実なる子らよ、私はけっしてそなたたちを見捨てたりはすまい」と言い、町議会の議員たちを1人ずつ腕に取って抱擁した。彼は事のいきさつを、パリの宮殿を脱出せざるをえなかった。少数の狂信的な革命家であるジャコバン派がパリ市を乗っ取った。さらに悪い事に、これらの扇動者らは一家全員の命を繰り返し危険に晒した。ドイツに逃げるつもりなど毛頭なく、国境近くのモンメディ要塞まで行くだけである。パリの暴徒から遠く離れたそこならば、王国の支配権を取り戻し、しだいに猛威を振るうようになってきた混沌と無秩序を終わらせることができようと語った[53]。
町議会議員たちは、国王がパリの雰囲気について語るのを聞き、それが新聞や町長からの通信をもとに彼ら自身が理解していたこととは合致していなかったことから、王は本当に状況を掌握しているのだろうかと疑問に思った。また、国王の顧問官たちが信用できないことや、王本人の意図がいかに立派であるにせよ、王が影響されやすいことを聞き知っていた[54]。ソースと一部の議員は、「王は臣民に愛されており、王の力は臣民みなの心の中に宿っており、王の名前は臣民みなの話題の中心です」と保証し、「でも、王の住まいはパリであり、地方に暮らす者たちですら王がそこに戻るようひたむきにまた切実に祈っているのです」と言った。また、「王の出立によって生じうる血生臭い出来事」への恐怖と「国家の救済は憲法の完成にかかっており、憲法それ自体は王の帰還にかかっている」という確信を表明した[55]。
その後、何をすべきかと尋ねられた国王は「命令することは何もありません」「私は囚われているのですから」と答え、やがて追いついた伝令たちから「誘拐ならばそれを阻止し、国王一家の前進をはばみ、立法府にただちに通報するべく、ありとあらゆる必要な手段を講じる義務を負うことになる」という法令を差し出された時、「フランスには国王はもういないのだな」と呟いた[56]。国王一家はパリに送り届けられることになり、途中でバルナーヴ、ペティヨン(フランス語版)、ラトゥール=モブール(フランス語版)の3人の議員と合流して、25日の晩にパリに帰還した[50]。
国王夫婦を尋問するため、著名な法律家である3人の議員が議会によって選ばれた。国王への聴取は6月26日夜に行われたが、王妃は入浴中として面談を翌日まで延ばし、その間に国王と示し合わせて話を作った。それによれば、国王は国を出るつもりはまったくなく、パリで経験した威嚇や侮辱から自分と家族の身を守れるモンメディに旅行しただけであり、外国勢力と関りを持ったことはない。そして旅のあいだにフランスのいたるところで人々が新憲法を支持しているのがわかって驚いたと語られた[57]。
パリでは国王がフランス国民に宛てた手紙も発見され、大勢の人々が街路で手紙の写しを読んだり議論したりした[58]。そこには「あまりに多くの犠牲を払った唯一の代償が、王国の破壊を目撃すること、あらゆる権力が無視され、私的所有権が侵害され、人々の安全がいたるところで危険に晒されるのを見ることであった」「フランスの人民よ、とりわけパリの人々よ、余の先祖が『素晴らしきパリの都』と呼んで喜んだ都市の人々よ、偽りの友たちの妄言に注意しなさい。そして、君たちの王の元へと戻って来るがいい。彼は常に君たちの父親であり、親友なのだから」と書かれていたが、この時、民衆の間に漂っていた空気は悔恨というよりも憤慨だった[59]。逃亡事件は、民衆の国王に対する意識を変化させた。逃亡のニュースが伝わった21日のうちに、街中にある君主制のシンボルが破壊されはじめた。また王の肖像画は廃棄され、国王を動物、とりわけ豚の姿で描くカリカチュアが現れるようになる[60]。
議会では、当初ほぼ誰もが国王は拉致されたか誘拐されたのだと話していた。しかし国王自筆の手紙の発見により事態は一変する。これは6月21日午後2時に議会で公式に読み上げられ、議員たちを驚愕させた[61]。国民議会では議論が交わされ続け、7月13日、国王は脅迫と圧力によって決定の自由を奪われており、精神的な意味で誘拐された。従って、その軽率で無責任な行動は道徳的には非難されなければならないが、法的な責任を問うことはできないとされた[62]。この決定がパリ市内に伝わると、コルドリエ・クラブなどいくつかの民衆協会では抗議の声があがった。比較的に裕福な地区では議会を支持する者も多く、市中で小競り合いも生じた。コルドリエ・クラブのメンバーは決定の再考を求めて議会に赴こうとしたがロベスピエールやペティヨンに阻止され、翌16日、共和制の樹立を含む長大な請願書を用意し、翌日にシャン=ド=マルスにある祖国の祭壇で請願書に署名することを呼びかけた。ここに集まった人々に国民衛兵が法の定める手続き(3回にわたる警告)なしに発砲し、シャン=ド=マルスの虐殺が起きた[63]。
1791年憲法
1791年9月3日、立憲君主制への移行と王権神授説の破棄が明記された1791年憲法が完成した。その晩の9時頃、200人を超える議員団が国民衛兵たちにともなわれて行進し、テュイルリー宮殿で国王に文書を渡した。もし国王が憲法を拒否したなら、国民議会は彼を玉座から降ろし、定められた王位継承者である王太子のもとに摂政を立てなけらばならないと考えられていた。しかし同月13日、国王は憲法を受諾すると宣言した。その翌日には署名し忠誠の宣誓をするために国民議会に姿を現し、自らの立場を説明する声明文を出した。これは実際には彼の大臣たちの1人によって書かれていた。その中では、自身が6月21日に民に宛てた宣言書にはいっさい触れず、パリの徒党や暴力を逃れたかっただけであると主張された。「私は、あらゆる党派から自分自身を切り離し、国民の希望は本当はなんなのかを知りたいと思った」。新政府が「フランスほどの強大な国の多様な部分を支配し統合するために必要なすべての活力」を有するかどうか、まだ納得はしていないと認めつつもそれを試してみるのにやぶさかではないとし、「やってみなければ、それがうまくいくかどうかを判断できないだろうと私は思う」。そして、憲法を施行するために全力を尽くすと誓約した[64]。
ヴァレンヌ事件以降、テュイルリー宮殿に幽閉されていた国王は、立憲君主政の役割を担うべく、行動の自由を許された。憲法の完成を祝う、一週間にわたる祝賀行事のいくつかにも顔を見せ、市中を移動している時には歓呼と「国王万歳」の叫びに迎えられた。国民議会では、全ての役人と将校が宣誓することが求められている正式な忠誠の誓約に、国王という語をふたたび入れることを投票によって決議した。9月の終わり、国民議会は選出されたばかりの立法議会議員たちにその権力を譲り渡し、正式に解散した。少なくとも理論上、ここでフランス革命は終わった[65]。
しかしこの時期、広く流通した国王の風刺画では、彼は2つの顔を持つ姿で描かれている。人々の疑惑の裏では、国王も王妃と共に、逃亡未遂後も以前と変わらず表裏相反する行動をとっていた。彼らはヨーロッパの君主たちとの秘密通信を再開し、憲法支持という公的な言明を内輪では否定していた。6月21日にはレオポルト二世に、「自由を取り戻し」「国のために最善の利益を願うフランス人たちに加わる」ことができなかったのは遺憾であると述べた。国王はずっと、自分自身を己の運命に翻弄されている囚人のように感じており、義兄にこの事実を知ってほしかったとし、「国王とフランス王国を助けに来てほしい」と懇願して軍事的介入を希望した[66]。
一方で、亡命した2人の弟に宛てた手紙では、最善の策は待つこと、そしてそれ自体の不合理によって革命的な政府が瓦解するに任せることであると主張した。そして戦争がもたらす結果を恐れて、戦争を煽らないようにと勧告している。また、「人間の権利」という観念自体が「まったく狂気の沙汰」であるという確信を表明してもいた。平民の中には「自然が定めた身分からのし上がりたいと望む」者が今やいるにせよ、自分自身と貴族との紐帯は「わが王冠のなかで最も古く最も美しい宝石である」と国王は信じていた[67]。
1791年12月までにはふたたび方針を翻し、亡命中のブルトゥイユ男爵に宛てた手紙の中では「軍隊によって支援された、ヨーロッパの主要列強による会議」を立ち上げるよう勧めた。これは「より望ましい状況をふたたび打ち立て、我が国を苦しめている害悪がヨーロッパの他の諸国に及ばない事を保証するため」の最善の方法であろう、とされた[68]。
開戦支持
1791年10月20日、ブリソは議会でヨーロッパ列強に対する戦争を示唆した。彼は、人には居住地を選ぶ自由があるのだから亡命全般は問題ではないとし、外国において祖国に敵対的な行為をする者に攻撃の的をしぼる。そして、そのような亡命者と結びつき、彼らを支援する諸外国こそがフランスにとって真の問題なのだと述べた。これ以降、開戦が重要な政治的課題になった。国王の宮廷が革命をつぶすために企んでいる陰謀を暴き出すのが、その目的だった。また、食糧問題に関心が向きがちな民衆の目を外に向けさせることも意識されていたし、君主国と闘って革命の理念を諸外国に広めようという一種の理想主義もあった[69]。
開戦に反対したのはロベスピエールやマラーなどごく少数であり、2人とも立法議会に議席は持たず、ジャコバン・クラブを足場に活動していた。ロベスピエールは開戦に反対する理由のひとつに、現下の最大の敵は諸外国ではなく、国内の反革命勢力なのであり、国王は革命に反対なのだから、その政府に戦争遂行を任せるべきではないというものがあった。「これらの敵のうちでもっとも多く、もっとも危険なのはコブレンツにいるのだろうか?いや、我々の中にいるのだ。宮廷や内閣にそれらの敵が見つかると思うもっともな理由があるのではないだろうか?」[70]。
レオポルト二世に開戦の意思はなかったが彼は1792年3月1日に急逝した。跡を継いだフランツ二世はフランス革命に激しい敵対意識を抱いていた。同月10日、フランスではそれまでのフイヤン派内閣が辞職し、15日にジロンド派の内閣が召集された。戦争をして敗れることでフランス革命をつぶそうとする国王と、戦争を通して宮廷の陰謀を暴くとともに、革命の理念を諸外国に広めようとするジロンド派が開戦という思惑で一致した。25日、フランス人亡命者の送還を強く求める最後通牒がフランツ二世に対して発せられた。彼がこれに応じなかったため、4月20日、立法議会は圧倒的多数でフランツ二世に対する宣戦布告を国王に提案し、国王はすすんでこの提案を受け入れ即座に実行した[71]。こうしてナポレオンの時代になっても続くフランス革命戦争が始まった。
当時のフランスは、指揮官層の亡命によって軍の組織が乱れていた。5月6日には王立ドイツ連隊が、舞台全体として敵側に移るという事件も生じている。アンシャン・レジーム以来の友好国も失っており、スペインとスウェーデンの中立をとりつけるのがやっとだった。逆にプロイセンは、同年2月20日に調印した同盟条約に基づき、オーストリア側についた。当面はフランスの敗戦と退却が続くことになる[71]。
5月27日、立法議会は小群で能動的市民20名の要請があれば非宣誓聖職者を国外追放にできる法令を採択した。戦争対策の一環として、国内の騒乱要因を取り除こうと考えられた。6月8日には、全国から連盟兵を徴募して、パリに駐屯させる旨の法令も採択された。連盟兵を用いて宮廷を含む反革命勢力から首都と議会を守ろうとしたのだった。国王は6月11日、2つの法令に対して拒否権を行使した。内務大臣ロランはこれに抗議したが、国王は翌日、ロランをはじめとするジロンド派大臣を罷免し、13日にフイヤン派の人物を大臣に任命した。国王のこれら一連の措置を不満とするパリのサン=キュロットは同月20日に蜂起し、立法議会を行進した上でテュイルリー宮殿に押し寄せ、国王に拒否権行使の撤回とジロンド派大臣の呼び戻しを要求した。民衆は午後2時から10時まで国王の居室にとどまり、国王は民衆の要求に従って赤いフリジア帽をかぶりワインで乾杯したが、政治的な譲歩はいっさい拒否した。結局、民衆はなんの成果も得られずに引き上げている[72]。
また、立法議会において、穏和な中間派は居住地の選択に関する私的自由に配慮し、亡命者に関してもフランスに対して武器を取らない限りは寛大な扱いを取るように主張していた。ジロンド派は逆に、国民的一体性を重視するとともに、公安の維持のためには自由は制限されうるとし、亡命自体を犯罪とみなした。11月9日に採択された法令では両者の妥協の産物で、国境を越えた所に集結するフランス人は祖国への陰謀の容疑者とみなすとともに、1792年1月1日にも集結を続ける場合には有罪とすること、重要人物(王弟)および公務員(聖職者と役人)に帰国を求め、この日までに帰国しない場合には、王弟は王位継承権の喪失、公務員は有罪とすることにした。国王は同月11日、この法令に対して拒否権を行使した[73]。
なお、7月30日パリに到着したマルセイユの連盟兵が道中で歌い有名になった歌がある。これが現在フランス国歌になっているラ・マルセイエーズである[74]。
8月10日事件
7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュヴァイクの名前で声明が出された(ブラウンシュヴァイクの宣言)。これは28日に国王に、8月3日にパリ住民に伝わった。ここではパリ住民が即座に、かつ無条件で国王に服従しない場合にはパリを徹底的に弾圧することが示唆されていた。これは民衆を委縮させるよりも、むしろ怒りに火を注ぐ結果になり、外国軍に保護された王である国王に批判が向かった。この声明はフイヤン派からジャコバン派まですべての革命派の反発を買うとともに、1791年国王の後援のもとモンモラン(英語版)が設置した秘密警察[75]『オーストリア委員会』の実在を確信させた。8月3日、国王はブラウンシュヴァイクを批判し、国民と憲法への忠誠を議会で明言したが、無駄だった[76]。
同じ日には、新たにパリ市長になっていたペティヨンが議会に赴き、パリの48のセクションのうち47の名において国王の廃位を要求した。この請願は同月9日に審議されたが、その日になると議会はこの請願を取り上げることなく散会した。その日の深夜に警鐘が鳴らされ、主にフォブール・サン=タントワーヌ(英語版)とフォブール・サン=マルセル(フランス語)のサンキュロット、およびマルセイユとブレストから来た連盟兵を中心として、人々が動員された。これに先立ち、ダントンが議会を務めていたテアトル・フランセ・セクションの集会は受動的市民と能動的市民の区別を廃し、すべての住民が『敵』と戦うべき時だと定めた[76]。
翌10日、朝5時頃から蜂起が始まり、6時頃には市庁舎に蜂起コミューンが組織された。10時頃、国王はテュイルリー宮殿は安全でないと見て、立法議会の議場に非難した。その頃から民衆とスイス人部隊の間に銃撃戦が起こり、昼頃には宮殿は陥落した(8月10日事件)。午後1時、議会は国王の監禁とその権限の一時停止、および男子市民の普通選挙制によって選挙される国民公会の召集を布告した[77]。
13日、議会が国王一家をリュクサンブール宮殿に住まわせようとしたのに対して、パリのコミューンは監視付きでタンプル塔に監禁することを要求し、これが実現された[78]。
国王裁判
8月10日事件の際に王室費の出納帳簿やその他の関係書類が議会によって封印されていたのだが、それらの書類をチェックした結果、同月15日には国王が敵方と通謀していた証拠が見つかった。また議会は同月12日から、国王の逮捕と投獄を正当化するため、王が反革命にまわっていたことを示す証言を募集しており、相次いで寄せられる証言は全国に公表された[79]。
しかし、パリの民衆運動に対する警戒心が強いジロンド派は、君主制と完全に絶縁すること、革命の過激化を抑えるために保守的勢力と妥協し1791年憲法のような立憲君主制に戻って革命を終結させることができなくなること、君主制を断念して共和制に賭けることに対してためらいが働いた。また多くの議員が国王裁判の適法性を重視していた。1791年憲法において地位の神聖と不可侵性を保証された国王を、はたして裁判し得るのか。誰が国王を裁判する権限を持つのかが問題だった[80]。
確かにフランス各地から国王批判が寄せられていたが、8月10日事件以降は国王を犠牲者、さらには一種の殉教者として擁護する声も寄せられるようになった。国民の分裂が決定的になる前に国王裁判の問題を片付ける必要があった。裁判の適法性の問題は立法議会に委ねられ、検討の結果、国王は国民公会が裁判し得るとした[81]。国王の政治的行為を裁くことはできないが、個人的行為は罰することができる。憲法の不可侵条項は、国王のためではなく、国民のために作られた規定なのだから、国王は、国民を代表している国民公会によって裁かれうるというのが立法議会の結論であった[82]。
11月13日、国民公会全体で国王裁判に関する討議が始まった。国王は裁かれうるという見解に対して、2つの反対意見が提示された。ひとつは、ルイの裏切りを裁くための法律が存在しないため、ルイは裁かれえないというもの。もうひとつは山岳派の議員たちの意見であり、サン=ジュストが「人は罪なくして王たりえない」という有名な一句によって国王の存在自体を悪とみなし、国王は市民ではなく、むしろ敵であって、裁判にかけるのではなく戦うべき相手なのだと主張し即刻死刑すべきだという見解を示した。結局、これらに対する賛同者は少数にとどまるも、最終的には前者の案に沿って進んでいた[82]。
しかし同月20日、テュイルリー宮殿の鉄戸棚が見つかり、その中から宮廷が亡命者と連絡を取り合ったり、ミラボーを買収したりした際の書類が押収された。国王の有罪性は決定的となり、裁判は不回避となった[81]。12日3日、ペティヨンによる国王裁判を求める動議が圧倒的多数で可決され、12月6日、裁判の手続きが決定する[82]。12月11日、ルイ16世の国務大臣を二度務めたマルゼルブが国民公会議長に宛てて手紙を送り、弁護士で高等法院司法官だったフランソワ・ドニ・トロンシェと共に、同月15日にルイ16世の弁護人を引き受けた[83][84]。
12月11日、起訴状が国民公会において説明され、追加修正を受けたのちに決定し、それに沿って被告人の尋問項目が決められた。起訴状には、議員買収や国外逃亡など、王権停止にいたるまでの国王の行動が40項ほど列挙された。ルイが出廷し、書記によって起訴状が朗読された後、議長バレール(フランス語版)は「ルイ。フランス人民は、あなたが人民の自由を破壊して、自らの暴政を樹立するために多数の罪を犯した事を弾劾する」と述べ、尋問項目を読み上げながら「何か答えることはあるか」と問うていった。ルイは、事実そのものを否定するのではなく「知らない」「覚えていない」といった受け答えをした[82]。
1793年1月15日から19日まで、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった [注釈 3]。第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した[85]。ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)[86]で、ジロンド派の予想に反して否決された [注釈 4]。
そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた [注釈 5]。次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑 [注釈 6]286名、執行猶予付き死刑46名であった[87]。387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった[85]。第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12[88])で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。
| 「 | 」 |
という説明がしばしばなされるが、上記のようにこれは間違いである。執行猶予付きを含む死刑に賛成した票の総数は433で、執行猶予を反対票に含めて賛成387対反対334であり、マイユ条項や執行猶予を除いても、単純死刑361と死刑以外288の差は73票もある。またマイユ条項は執行猶予とは異なり、同じに扱うことはできないし、死刑に反対していたととらえることは全くできない[90][88]。マイユ条項支持者のなかで第四回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。そればかりか第四回投票では(執行猶予付き死刑以外の)その他の刑を支持していた者の中からも22名は延期反対の方に寝返った[87]。後の王政復古期ではルイ16世の死刑判決に立役した455名の国民公会議員は大逆罪として断罪され、そのうちの存命者は全て国外追放の刑に処された。
歴史学者リン・ハントは「裁判が行きつ戻りつしたことは、王政をさらに非神聖化する結果をもたらした」と主張する[91]。山岳派をのぞく国民公会議員や国王弁護人はルイを市民と見なしたのであって、議会において国王の政治的身体は消滅していたのだが、山岳派は王政の魔術から人民を解放しようとしていた。ルイの政治的身体を抹殺するために裁判という遠回しな手段を否定し、処刑のみを主張していたのが、結果的に裁判という過程を経たことで、期せずして山岳派の目的に貢献したという考え方である。その根拠は、国王裁判の過程において、ルイの弱々しい態度が露呈したことだった[82]。
スタール夫人は英仏の革命における国王裁判に挑む国王(チャールズ1世とルイ16世)を比較して、「両者は王として、ともに不幸ということを除いては、すべては対照的であった」とする。前者は地方に逃れて軍隊を率いて捕まったのであり、国王の身分のまま裁判にかけられ裁判のときも陛下と呼ばれた。本人も王として振る舞い尋問に正面から答えなかった。これに対して後者は、民衆蜂起から逃れて議会の庇護をうけ、王位を剥奪された市民として裁判にかけられ「ルイ・カペー」と呼ばれながら国民公会に対する抗議を一切行わず、尋問を受けた際もネガティブなかたちでも否認を貫いた。後者は市民として死んでいったのであり、裁判はもはやルイは国王ではないという事実を露呈する場だった[82]。
死刑と最後の言葉
1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていたルイ16世本人だった(ただし異説あり)。
しかし、これによって政治制度は安定しなかった。人々が抱く王政の理念は、ルイ16世という個人の死によっては消滅せず、彼の死とともに、彼個人の政治的失敗や1770年以降に悪化した国王のイメージは忘れられ、彼はむしろ犠牲者・殉教者のイメージをまとった。現実の国王が消滅して、そのマイナス面に悩まされることがなくなったため、様々な立場から革命に反対する人々をひとつにまとめるための核として作用していく[92]。
後世の作家大デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。
朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。
「私は無実のうちに死ぬ。私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」という、フランスへの思いが込められた一言だった。しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。
死後
遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地 [注釈 7]に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地 [注釈 8]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った [注釈 9]。発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その22回目の命日である1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻マリー・アントワネットと共に改葬された。
子女及び子孫
ルイ16世には妻マリー・アントワネットとの間に上記の通り、長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女ソフィー(夭折)の4人の子供(2男2女)がいたが、いずれも子供を残さなかったため、直系の子孫は存在せず断絶した。
評価
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この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。
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- ティモシー・タケット(英語版)「別の時代、別の場所であれば、ルイ16世は、平和のうちに治世を全うしていたかもしれない。後世の人々から平均以上の国王だと評価されていたかもしれない。彼は、疑う余地なく、己の人民のために最善を望んでいた。未曽有の規模の財政危機に追い立てられ、もちまえの定めない気まぐれな流儀で、彼は己の政府の大改革を試みていた。『国民のために、これほど多くのことをした国王はいない』と1789年6月23日、彼は国民議会の前で心から宣言していた。だが、この演説がなされたときまでには、彼の改革ヴィジョンと彼が語りかけた愛国派のヴィジョンはすでにはっきりと異なっていた。実際、『市民王』の神話がかくも長く生き永らえていたのは、愛国派の側に願望的思考があり、国王の側に欺瞞があったからに他ならない。いまや、もろもろの出来事の圧力によって、また王妃の影響のもとで、ルイは、みずからの支配権は神から授けられたものであり、社会は階層的で本質的に不平等な性質を持っているという見解を含め、子供の頃から教え込まれた価値観にすがりついた。それは、フランス革命の男たちや女たちとの衝突が避けられない道筋に彼を置くヴィジョンであった」[93]
- ピーター・マクフィー(英語版)「1792年の夏の危機は、1791年憲法に革命の完成を見出した人々の希望を打ち砕いてしまった。ヨーロッパの大国に対する宣戦布告とそれに続く軍事的敗北によって、ルイの地位は擁護しえないものとなった。政府における重要性の低い役割を快く受け入れていたならば、あるいは優柔不断な態度にこれほど陥ることがなければ、国王は王位を守ることができたかもしれない。だが国王の失墜は、カトリック教会や軍隊、そして行政を支配していた貴族エリート層の非妥協的な態度によって引き起こされたものでもあった」[94]
- ニコラ・サルコジ「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」
- 福井憲彦「後の革命への対応に失敗したからといって、遡って無能の烙印を押すべきではない。とくに欠陥のある国王というわけではなかったろう。ただ、変動期に決断を迫られた時に、強力な指導力を発揮できるような人ではなかった。政治感覚がひどく鈍かったわけではないが、有り体にいえば優柔不断だったのである」
遺言書
ルイ16世の遺言書は、処刑直前にタンプル塔で書かれたものがフランス歴史博物館にマリー・アントワネットの遺書と共に展示されている。それ以前に、ヴァレンヌに逃亡する際執筆した遺言書の存在が写しでのみ知られていた。2009年になって、ルイ16世の直筆原本がアメリカで発見され[95][96]、オークションの末にフランスの研究家が落札した。
ルイ16世が登場した作品
映画
- 『仏蘭西革命ルイ十六世の末路』(原題、製作年、製作国、監督等不明):1909年(明治42年)までに、警視庁による上映禁止映画第一号となった作品。函館市の映画館では『悪玉王の末路』として改題して上映された[97]。
- 『マリー・アントアネットの生涯』 (原題:MARIE ANTOINETTE、1938年)、監督:W・S・ヴァン・ダイク、ルイ16世:ロバート・モーレイ
- 『ラ・マルセイエーズ』 (原題:La Marseillaise、1938年)、監督:ジャン・ルノワール、ルイ16世:ピエール・ルノワール
- 『黒魔術』(原題:Black Magic、1949年)、監督:グレゴリー・ラトフ、オーソン・ウェルズ、ルイ16世:リー・クレセル(Lee Kresel)[98]
- 『ベルサイユのばら』 (原題:LADY OSCAR、1979年)、監督:ジャック・ドゥミ、ルイ16世:テレンス・バッド(Terence Budd)
小説
- 遠藤周作 『王妃マリー・アントワネット』(新潮文庫)
- 藤本ひとみ 『バスティーユの陰謀』 (文春文庫)
- 佐藤賢一『小説フランス革命』(集英社文庫)
- スカーレッドG『ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい』(一二三書房サーガフォレスト)[99](初出はなろう小説[100])
漫画
- 池田理代子『ベルサイユのばら』 - 「マーガレット」(集英社)連載。40年余を経て不定期連載でエピソード編が描かれる。
- 森園みるく『欲望の聖女 令嬢テレジア』 -「女性セブン」
- 惣領冬実『マリー・アントワネット』 - 「週刊モーニング」(講談社)連載。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。
- 乃木坂太郎『第3のギデオン』 - 「ビッグコミックスペリオール」(小学館)連載。
- 坂本眞一『イノサン』 - 『週刊ヤングジャンプ』(集英社)連載、続編『イノサン Rouge(ルージュ)』は『グランドジャンプ』(同社刊)連載。作品の出典は安達正勝『死刑執行人サンソン』(集英社新書)。「処刑人」一族サンソン家の数奇な運命を描く中で、ルイ16世は4代目当主シャルル=アンリ・サンソンとお互いに弱さを含めた精神性や理想を認め合い崇敬する友人として設定されている。
- にしうら染『踊る!アントワネットさま』 - 『まんがタイムスペシャル』(芳文社)連載[101]。
- 磯見仁月『傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン』- 『月刊コミックバンチ』(新潮社)連載。
- みやのはる『ラ・マキユーズ~ヴェルサイユの化粧師~』 - 『COMIC BRIDGE online』(KADOKAWA)で連載された漫画。王太子時代のルイ=オーギュストが登場。
- 小出よしと『悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした』 -『月刊コミックフラッパー』(KADOKAWA)連載。
- 原作:スカーレッドG / 作画:いの『ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい』 - 『コミックポルカ』(一二三書房・SANKYO)連載[102]。上述の小説のコミカライズ[103][104]。
アニメーション
- 『ラ・セーヌの星』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。主人公シモーヌ・ロランはルイ16世の正妃マリー・アントワネットの異母妹という設定で、ルイ16世とは義兄妹。
- 『ベルサイユのばら』 - 上記漫画作品のテレビアニメ版。
関連項目
- ジャガイモ - ルイ16世は、じゃがいもを広めるためにマリー・アントワネットの髪にじゃがいもの花を飾らせた[105]。
- カルロス4世 (スペイン王)、フェルディナンド1世 (両シチリア王) - 従兄
- フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王) - 従兄
- フェルディナンド1世 (パルマ公) - 従兄
脚注
注釈
- ^ 前者は「Roi de France」、後者は「Roi des Français」。フランス人の王を名乗ったのは、ルイ16世以外では、ルイ=フィリップ1世のみ
- ^ ルイ16世は日記をつけており、狩りや大工仕事、錠前いじりなどの趣味には詳しく書いていた[37]。
- ^ これは傍聴人が怒声を浴びせるなかであり、議場の外には武装したサン=キュロットが待ち構えている。下手な発言をした議員は生命の危険もあって、穏便に収めたいと考える派閥には不利な投票方法だった。それまで国王処刑に反対していた議員が、突然態度を翻して、賛成票を入れて国王弑逆者になったのは、こういう背景がある。反対票を入れるのは必死の覚悟がいった。ゆえに王政復古後には、反対票を入れた少数の忠義者は英雄視されることになる
- ^ ジロンド派やフイヤン派などは、この第二回投票が可決されることを予想して、第一回投票で賛成に回っていた。意外な大差での否決は彼らの戦略を混乱させた
- ^ 「マイユ条項」というものは第三回投票で最初に壇上に登った議員マイユが主張したもので、彼は無条件の死刑に賛成としながらも、付加条件をつけ、もし死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議するとした。これは執行猶予付きの死刑と同じに誤解されやすいが、延期は無条件死刑の確定という主文を前提とするものであり、延期の提案と判決とは“切り離されたもの”とされ、判決の内容に執行猶予が盛り込まれる執行猶予付き死刑とは異なる。また次に明記されているように、執行猶予付き死刑の46票はその他の刑として計算されている
- ^ 革命戦争終結まで捕虜として禁錮刑とし、終戦後に追放するというもの
- ^ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪礼拝堂は旧敷地の一部に立ち、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである
- ^ 1794年3月25日に閉鎖されていた
- ^ この地権者は1802年に購入したものであり、正しく埋葬地を知っていたわけではなかったが、一時期、見物料を取っていたために、このような囲いがあった
出典
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- ^ a b 河野 1989, pp.319-322
- ^ 芝生 1989、ほか異口同義の記述は多数の書籍にみられる
- ^ マイユ条項の提案の厳密なる文章解釈から、死刑そのものに賛成であったことは疑いの余地はない。マイユ条項の支持者は、延期だけでなく促進も考慮するように検討を要請したのであり、彼らの懸念はいつ殺すのが適当かということであって、できれば刑の執行を延期して有名無実にしたいと思っていたわけではない。逆に死刑判決を確定しつつ減刑の可能性が出てくる平和の実現まで延期させようと主張した人々が2名いたが、これは執行猶予付き死刑の集計に含まれたのであって、マイユ条項の支持者とは数えられていない
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- ピーター・マクフィー(英語版)永見瑞木・安藤裕介 訳「フランス革命史――自由か死か」白水社、2022年。ISBN 978-4-560-09895-0。
- ティモシー・タケット(英語版)「王の逃亡 フランス革命を変えた夏」白水社、2023年12月。ISBN 978-4560093887
- 服部春彦「十八世紀におけるフランス対外貿易の展開過程」『京都大學文學部研究紀要』第19巻、京都大學文學部、1979年3月31日、1–58頁、hdl:2433/73004、ISSN 0452-9774。
- 蔵谷哲也(著)、四国大学紀要刊行作業部会(編)「1786年英仏通商条約(イーデン条約)」『四国大学紀要』第40号、2013年、39–51頁、、CRID 1050282677906649472、ISSN 0919-1798。
- 二コラ・ピカール、福田真希「死刑囚にたいする制約とその行為能力」、2023年12月22日、[1]。
- 楠田悠貴、「フランス革命における国王裁判の政治文化的意義」、2019年6月27日、[2]
- リン・ハント『フランス革命と家族ロマンス』 西川長夫・平野千果子・天野知恵子訳、平凡社、1999年6月1日、ISBN 4582744249
- 上村剛「アメリカ革命」中央新書、2024年8月、ISBN 978-4121028174
外部リンク
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