大躍進政策
(Great Leap Forward から転送)
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大躍進政策(だいやくしんせいさく、繁体字: 大躍進、簡体字: 大跃进、拼音: 、英語: Great Leap Forward)とは、毛沢東の指導により1958年から中国で実施された農作物と鉄鋼製品の増産政策である。
中国共産党が1957年に発動した反右派闘争で党への批判は不可能となり、中国共産党内部でも党主席である毛沢東への個人崇拝が絶対化されたため[1]、党内主導権を得た毛の指導のもと、1958年5月から1961年1月までの間に中国では農作物と鉄鋼製品の増産命令が発せられた。反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した毛沢東は、核武装や高度経済成長によって先進国であるアメリカやイギリスを15年で追い抜くと宣言した。
しかし、非科学的な増産方法の実施、四害駆除運動による蝗害、政策に反対する多数の人民への弾圧などによって中国国内は大混乱に陥り、中華人民共和国大飢饉(推定3500万 - 5500万人[2]が死亡)が発生し、産業・インフラ・環境の大破壊や出生数の大幅な減少を招いた[3]。飢餓による死者に加えて、何百万人もの人々が殴打、拷問、処刑によって死亡した。 この運動の期間中に全住宅の30%以上が破壊された[4]。
概説
1957年11月6日、ソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記は「ソ連は工業生産(鉄鋼や石油、セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろう」と宣言した。
中ソ対立が鮮明化しつつあった中、毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年5月の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越し、アメリカに追いつく[注 1]という、壮大な計画を立案した[注 2](超英赶美)[5]。
しかし、市場原理を無視して一部の農工業生産指標のみにおいて3年間でイギリスとアメリカを追い越すほどのノルマを人民に課し、杜撰な管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、彭徳懐国防部長(元帥)が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否した。毛沢東の激しい反撃の前に多くの共産党有力者は日和見的態度をとるか、彭徳懐を支持した少数の者らも毛沢東側に自己批判を迫られる状態となり、彭徳懐は孤立化、失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、当時の中国共産党の指導層は高等教育を受けた者が少なく、無学が故に、需要・流通・輸出入・インフラなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた原因の一つである。経済のシステムや自然を、ごく単純な合理思考で改造・操作できると考えてしまったのである。
詳細
大躍進政策は多くの「運動」の総称である。ここでは主要なものを列挙する。
大製鉄・製鋼運動
1958年10月から鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備も存在せず、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。
土法炉を建設するための主な資材である耐火煉瓦の供給は皆無に等しく、一般住居用の煉瓦ですら供給不足の状態だった。このため、煉瓦製の塔・寺院・城壁など、全土で多数の歴史的建造物が土法炉建設用の煉瓦採取の目的で解体・破壊された。
また、目標としていたイギリスやアメリカに比べ電化が遅れていたことから、農村部などほとんどの地方では木炭を燃料としていたため、必然的に土法炉の還元剤にも木炭を使用することになった。この事は木炭を生産する目的で、全土で樹木の大規模な伐採が開始されることを意味した。伐採の対象は事実上無差別・無分別であり、果樹園の果樹・園芸用の灌木も例外では無かった。石炭が入手可能な都市部でもコークス炉を備えていない場合が多く、石炭を地上で直接燃やしてコークスを生産する方法を採用したことにより、結果的に大量の石炭を浪費することになった[注 3]。
鉄鉱石は石炭同様産地が限られている上に供給不足の状態であり、多くの地方では砂鉄の入手すら困難な状況にあった。このため、都市部では鉄製の各種設備・構築物を解体した。農村部では人民公社で農業と食事を集約化するので不要になるという名目で、各家庭の鉄製の農機具・炊事用具を供出させた[6]。これらの供出された屑鉄を土法炉に投入するという、鉄製器具で屑鉄を生産する本末転倒な状態に陥った。
結果、1,117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。さらにこれらの無理な増産計画によって作られた粗悪なものを含む鉄の用途、さらに販売流通も全く考慮されていなかったために、工業生産から流通までに長期間にわたり悪影響を残した。
また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、2010年代に至っても中国では毎年洪水が発生している[要検証]。しかも農民が大量に駆り出された為に管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜・農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。
四害駆除運動
1958年2月から四害(伝染病を媒介するハエ・蚊・ネズミ・農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開された。中国語では「除四害運動」と呼ばれたが、スズメを大量に駆除した[注 4]ことから、「打麻雀運動」、「消滅麻雀運動」とも呼ばれる。しかしスズメの駆除はかえってハエ・蚊・イナゴ(蝗害)・ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。
スズメは農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。指導層の無知が故に食物連鎖の生態バランスを完全に無視した結果だったのである。後に駆除対象はスズメから南京虫に変更され、ソ連から大量のスズメが送られたといわれている。
密植・深耕運動
伝統的な農法も科学的知識に基づく近代農法も全く無視した政策が実行に移された結果、農業などにさらに大きなダメージを与えることとなった。まず第一に人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がったが、1978年12月に生産責任制が導入されるまで一応システムとしては存在した。
また、ルイセンコの学説に基づいた農業開発を行った。これは度を越えた密植[注 5]や種を2メートル以上の深い穴に埋める[注 6]事であり、農業技師の助けも借りずに素人を動員して灌漑機構を作ったりするなどという稚拙なものであった。当然のごとくこれらの手法は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。
チベット地域
1958年5月に始まった大躍進政策は軍事侵攻の末に同国に併合されて間もないチベットでも行われた。しかし餓死者は続出し、1989年の中国社会科学院の調査では、飢饉で死亡した数は1500万人とされる[7]。この他、人口統計学者のジュディス・バニスターは、3000万人と推計している[7]。1980年代の北京経済制度研究所による報告書では、パンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45パーセントに当たる90万人が死亡し[7]、四川省では900万人が死亡したという[8]。飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「中国のいかなる民族も、この飢饉によってチベット人ほどの苛酷な苦難に直面した人々はいない」と指摘している[7]。
パンチェン・ラマ10世の諌言
チベットに対する中国共産党政府の抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は1962年、中国のチベット支配を批判した諌言「七万言上書[9][10](7万字の覚書[7])」を上奏した[7]。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに発見された。
1962年5月18日、パンチェン・ラマはチベット政府首班の地位を周恩来国務院総理に譲る[7]。李維漢統一戦線部部長は3カ月間諌言を受けて改善を実行しようとしたが、同年8月に毛沢東は中止を指示し、李はパンチェン・ラマとの結託を批判され[7]、パンチェン・ラマも自己批判を命じられ、1963年にラサで50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された[7]。なお1960年に法学者国際委員会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)があった明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった[7]。この七万言上書について周恩来は「事実ではない」と答えている[11]。
七万言上書は1959年3月のチベット動乱(1959年のチベット蜂起)に対する中共政府の過剰な報復的処罰を批判している[7]。
大躍進政策によるチベットの惨状についてパンチェン・ラマは周恩来国務院総理に改善を求めている[7]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[7]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[7]、パンチェン・ラマは次のように書いている[7]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業はほとんど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた[7]。他にもパンチェン・ラマはチベット民族の消滅を危惧している[7]。
パンチェン・ラマ10世は文化大革命の際に紅衛兵に拘束されて1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後も1982年まで北京で軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べた。これは中共政府の用意した原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は死去した。中国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張した。
毛沢東の一時失脚・文化大革命
毛沢東の主導で大躍進政策が全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そのため、各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年、中央人民政府に「党の指導によって、前年より更にこれだけの飛躍的な生産拡大がもたらされた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[12]。
1959年、農業生産が激減、全国で大飢饉が発生したことで党内の権力基盤が弱まり、毛沢東は政策失敗を認めて自己批判を行ない、実質的な権力を失った。しかし、国家主席を継いだ劉少奇からの復権を狙い、1966年に毛沢東は文化大革命を起こす[13]。
犠牲者数
結局大躍進政策は数千万人の餓死者を出す惨憺たる大失敗に終わった。1959年にあるデータでは大躍進政策による餓死者数は3635万人であったという[14]。犠牲者数には諸説あるが、中国統計年鑑2017年版ですら1625万人もの人口減が確認できるほど[15]の大飢饉であった。サミュエル・ジョンソン賞を受賞したフランク・ディケーター[16]は、中国共産党の内部文書(档案館の資料)が、1958年から1962年の間に「寿命をまっとうできなかった死者数が、控えめに見積もっても少なくとも4500万人に達することを示している」と主張している[17]。一方、楊継縄は独自の調査により、1958年から1962年の間に3600万人が餓死したと主張しており、また飢餓は出生率を引き下げることから、本来生まれるべきであったが実際生まれなかった人口およそ4000万人を加えれば、人口損失は7600万に達するとも主張している[18][19]。農村部では特に栄養失調者が相次ぎ、食人行為が横行するほどの飢餓を生む大失敗に終わった。毛沢東は1959年4月に国家主席を退任し、劉少奇が後任となる。
1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。毛沢東がただ一度の自己批判を行った[20]のはこの会議の席上である。しかし、中国共産党中央委員会主席だった毛沢東賛美教育は変わらず、劉少奇がトップとして大躍進政策の尻拭いを担当した[21]。しかし、1966年には再びトップの地位を得ようとする毛沢東の扇動によって、文化大革命が起きた。
中国政府による「大躍進」の歴史叙述(ちゅうごくせいふによるだいやくしんのれきしじょじゅつ)では、中華人民共和国(PRC)における「大躍進」政策(1958年-1962年)および「三年困難時期(大飢荒)」に関する中国政府、中国共産党(CCP)の公式見解の変遷と、それに関連する教育、学術、言論統制の動向について記述する。
中国共産党の解釈
1958年から1962年にかけての「大躍進」とそれに続く大飢饉は、中国共産党の統治史において重大な汚点とされる。長らく公式見解として、この悲劇は政策的な過誤が主因であるとされてきた[22]。1981年の歴史決議はその定説を確立したものであった。しかし、近年では死者数の過小評価や、原因を毛沢東の政策的失敗から自然災害へと再定式化する動きが見られる。
中国共産党にとって歴史解釈権の掌握は、統治の正当性を担保する核心的な政治資源である。習近平総書記が引用する「国を滅ぼすには、まずその歴史を消し去る必要がある(滅人の国、必先ずその史を去る)」という言葉は、この重要性を象徴している[23]。「自然災害」論への回帰は、単なる学術的修正にとどまらず、政権の無謬性と歴史的連続性を補強する政治としての側面を持つ。
1981年決議
鄧小平主導下の1981年「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」では、文化大革命の否定と改革開放への移行を目的としていた。この中で大躍進政策中に起こった飢饉について、自然災害やソ連の契約破棄にも触れつつ、主因は政策的誤りにあるとした。ここでは、毛沢東および中央指導部が「勝利を前に驕り、主観意志を誇張した」と指摘された[22]。
2013年の習近平による政治原則の提示
2013年1月、習近平党総書記は「改革開放前と後の歴史的時期は互いに否定してはならない(两个不能否定)」という重要な政治原則を提示した[24]。これは、毛沢東時代の急進的な社会主義建設(前30年)と、鄧小平以降の改革開放(後30年)を対立させることなく、一つの連続した「中国の特色ある社会主義」の発展プロセスとして統合する試みである[24]。この理論的枠組みの下では、「前30年」における深刻な政策的失敗、特に大躍進や文革を過度に批判することは、党の執政の根幹を揺るがす歴史虚無主義と見なされるようになった[24]。
2021年決議
2021年の「党の百年奮闘の重大成就と歴史経験に関する決議」は、形式的には1981年決議を踏襲しつつも、トーンを変化させた[25]。1981年決議のような詳細な弊害列挙を避け、「第8回党大会で定めた正しい路線は徹底して堅持することができなかったことで、「大躍進」運動や人民公社化運動などの誤りが前後して起こった」という簡潔な記述に留めた[26]。また、このような誤りを「社会主義建設の独創的な理論成果」に至る過程での「曲折」と位置づけ、誤りは「探索」の副産物へと昇華され、その悲劇性は著しく後退した[26]。このような失敗は、毛沢東(定立)、鄧小平(反定立)、習近平(総合)という弁証法的構造を採用し、過去の誤りを現在の成功への不可避なステップとして正当化する主張であった。
教育・学術界への影響
かつての教科書では、大躍進と人民公社化運動が党の重大な失策であり、それが経済的な大混乱を招いたと明確に記述されていた[27]。しかし、最新の教科書では、これらの出来事は社会主義建設の探索という章に組み込まれ、否定的なニュアンスが大幅に弱められている[27]。
例えば、「人禍(人災)」を示唆する表現が削除または修正され、代わりに自然災害の要素が強調されるようになった[27]。学術的研究(Li & Yang, 2005等)によれば、当時の農業生産崩壊の約61%は資源の誤配分と過度な徴発によるものであり、気候要因の影響は12.9%に過ぎないとされている 。しかし、中国政府の新しい教育方針は、この学術的コンセンサスに逆行している。
また、学術界においても歴史修正主義的な言論がされるようになっている。例えば、孫静賢は、2010年代以降、中国共産党の理論誌や公式サイト(『中国社会科学報』、『紅旗文稿』など)において、杨继绳らが主張する「3000万人餓死」説を重大なデマであると断定し、これは戸籍統計の誤読に基づいていると主張した[28][29]。1960年の人口減少(約1000万人)は、実際の死亡によるものではなく、農村から都市への移動とその後の精簡(農村への送還)の過程で生じた戸籍の二重登録や登録漏れなどの「戸籍管理の混乱」によるものだと主張している[30]。中共中央党史和文献研究員は、この主張を引用し、「西側勢力が、中国における数千万人の餓死について、中国共産党による「意図的な犯罪」であるかのように繰り返し誇張し、煽動することで、中国共産党による統治の正当性を揺るがし、否定しようとしていることは、深刻な懸念を抱かせるべきである。」と主張している[31]。
このように、中国共産党は党の指導や歴史を否定する言説を「歴史虚無主義」とし、言論統制を強めている。
参考文献
- 丁抒『人禍 餓死者二〇〇〇万人の狂気 1958〜1962』森幹夫訳、加々美光行解説、学陽書房、1991年10月。ISBN 4-313-83064-2。
- フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962』中川治子訳、草思社、2011年8月。
ISBN 978-4-7942-1840-7。
- フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』 中川治子訳、草思社文庫、2019年2月。ISBN 978-4-7942-2375-3。
- ジャスパー・ベッカー『餓鬼(ハングリー・ゴースト) 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』川勝貴美訳、中央公論新社、1999年7月10日。
ISBN 4-12-002915-8。
- ジャスパー・ベッカー『餓鬼(ハングリー・ゴースト) 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』 (上)、川勝貴美訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2012年1月25日。 ISBN 978-4-12-205594-0。
- ジャスパー・ベッカー『餓鬼(ハングリー・ゴースト) 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』 (下)、川勝貴美訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2012年1月25日。 ISBN 978-4-12-205595-7。
- 北海閑人『中国がひた隠す毛沢東の真実』廖建龍訳、草思社、2005年10月7日。 ISBN 4-7942-1443-X。
- 毛里和子『周縁からの中国 民族問題と国家』東京大学出版会、1998年9月。 ISBN 4-13-030115-2。
- ユン・チアン、ジョン・ハリディ『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 (下)、土屋京子訳、講談社、2005年11月17日。 ISBN 4-06-213201-X。
- 楊継縄『毛沢東 大躍進秘録』伊藤正・田口佐紀子・多田麻美訳、文藝春秋、2012年3月21日。 ISBN 978-4-16-374860-3。
関連項目
- 中国蝗災史 - 中国の3大災害の一つの蝗災(蝗害)と言うトノサマバッタによる大規模な農被害についての解説。1958年に大躍進政策で四害駆除運動を推奨し、スズメを大量に駆除した結果、餌であるハエ、カ、イナゴ(蝗害)、ウンカなどの害虫の大量発生を招いた。
- 中華人民共和国大飢饉/大飢饉/ 計画経済
- 千里馬運動 - 毛沢東から歓心を買うために金日成が行った北朝鮮版大躍進政策[32]。集団増産運動で私有財産を認めない共産主義体制的限界のため、経済発展させることに失敗した[33]。1962年に文化大革命が起きた際も、金日成は自己に対する大規模な個人崇拝運動の部分は真似て推進したが、文化大革命そのものには抵抗し、最終的に批判した[32]。
- リャザンの奇跡
- 南丹隕石 - 製鋼運動の高まりによってその多くが採集された。
- 逃港者 - 大躍進から逃れる為、多くの人がイギリス領香港に逃げ込んだ。
- 上海孤児 - 大躍進の影響により発生した大飢饉による餓死を回避する為、上海から内モンゴル自治区へ移された孤児たちを指す。
- アレクセイ・スタハノフ
- ソビエト連邦における農業集団化
- クラーク撲滅運動
- ホロドモール
- カンボジア大虐殺
- zh:星火 (1960年杂志)
脚注
注釈
- ^ 後に「3年」とより短く「修正」
- ^ 項目本文のように、この「大躍進政策」は失敗に終わり、「イギリスを追い越しアメリカに追いつく」というスローガンは全くの空文となった。しかし、毛沢東の死後に中国の実権を掌握した鄧小平が1978年に開始した改革開放政策は社会主義市場経済による高度経済成長を実現させた。中国の経済規模は大躍進政策開始から48年後の2006年に当時世界第4位になっていたイギリスを追い抜き、2010年には日本も抜いてアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。
- ^ 通常、石炭はコークス炉で蒸し焼きにしコークスにしてから高炉に投入する。そうしなければ、多くの硫黄分を残すことになり鉄の品質は非常に悪くなるため、直接投入することはほとんど無い。
- ^ 北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した
- ^ 同じ種類の種はお互いの成長を阻害しないとする理論に基づく。
- ^ 穴が深ければ深いほど根が発達するとする理論に基づく。
出典
- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社世界史事典 三訂版,世界大百科事典. “反右派闘争とは”. コトバンク. 2022年1月17日閲覧。
- ^ https://www.theguardian.com/world/2015/oct/23/chairman-mao-must-be-smiling-in-heaven
- ^ “中国の出生数、建国以来最少に 今年から人口減少が始まる可能性”. 朝日新聞. 2022年6月20日閲覧。
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- ^ 樋泉克夫. アリババ凋落とトップIT経営者サークル「泰山会」解散が暗示する中国市場「習近平一強」時代の変貌 フォーサイト, 2021/3/22
- ^ 田辺義明「プロレタリア文化大革命と中国空軍-秘められた「文革」と「戦闘機」の関係」『航空ファン』通巻780号(2017年12月号)文林堂 P.67
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- ^ “中国統計年鑑 2017年版”. honkawa2.sakura.ne.jp. 2019年1月25日閲覧。
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- ^ 毛沢東時代の大飢饉暴いた中国人記者が出国禁止に - 夕刊フジ2016年4月9日
- ^ 日本経済新聞 2011年10月2日 読書 書評 この一冊「毛沢東の大飢饉」毛里和子
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{{cite news}}:|archive-date=と|archive-url=の日付が異なります。(もしかして:2018年12月19日) (説明)⚠ - ^ “[オピニオン]「セマウル」と「千里馬」”. www.donga.com (2006年1月20日). 2022年1月17日閲覧。
外部リンク
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