英布
(黥布 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/16 02:02 UTC 版)
| 英布 | |
|---|---|
| |
|
| 前漢 淮南王 |
|
| 出生 | 生年不詳 揚州九江郡六県 |
| 死去 | 前196年(漢高祖11年) |
| 別名 | 黥布 |
| 爵位 | 当陽君〔楚〕→九江王〔楚〕→淮南王〔漢〕 |
| 官位 | 将軍〔楚〕 |
| 主君 | 項梁→楚義帝→項羽→劉邦→〔独立勢力〕 |
| 父 | 岳父:呉芮 |
英 布(えい ふ、拼音: 、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将・政治家。通称黥布(げいふ、 拼音: )。楚漢戦争期の九江王。前漢初期の淮南王。六(りく、現在の安徽省六安市)の出身。
生涯
若い頃、占い師に人相を占われ、「いずれ刑罰を受けるが、その後に王となる」と予言された。後に実際に刑罰を受け、刺青を施された際には、「これで自分が王になることが定まった」と、かえって喜んだという。 通称の黥布は、刺青を意味する「黥」の字が姓の「英」と韻を踏むことに由来するもので、日本風に言い換えれば「刺青の布さん」といった意味になる。
討秦・封王
秦末の動乱期、仲間と語らって挙兵し、秦の番陽県令であった呉芮と連携、その娘を妻に迎えた。陳勝の敗死後は、その将である呂臣と協力して秦将章邯の別働隊を破り、楚軍の項梁に帰属し、当陽君を名乗ることを許される。 留で秦に対して反乱を起こしていた秦嘉と甯君が、楚の公族出身である景駒を擁立したため、項梁の命を受け、その甥である項羽の副将として討伐に赴いた。項梁が定陶で章邯の奇襲を受けて戦死した後は、引き続き項羽に仕えた。
項羽の配下として先鋒を務め、鉅鹿の戦いや函谷関攻略などで活躍し、楚軍の冠軍として勇名を馳せる[1]。一方で、楚軍に降伏した秦兵20万人を殺害したとされ、悪名も高かった。秦滅亡後、項羽配下の中で唯一九江王に封ぜられる。 一説には、この直後、項羽の命により、衡山王に任じられていた岳父の呉芮らとともに義帝を殺害したとも伝えられる。
しかし王に封ぜられて以降、項羽との関係は次第に悪化する。斉の田栄の反抗や彭城の戦いの際には、項羽の救援要請に対し病を理由に自ら出馬せず、属将の派遣にとどめた。彭城の戦い後の紀元前204年、劉邦が派遣した説客随何の説得を受け、劉邦の配下として参戦するが、項羽が派遣した項声・龍且の軍に大敗し、劉邦のもとへ逃走した。この際、妻子を置き去りにしたため、項羽の命を受けた項伯(項羽の従父)の軍によって九江は占領され、英布の妻子は皆殺しにされた。
英布敗退後、九江郡には楚の大司馬周殷が進駐し、項羽の後方支援拠点となっていた。劉邦は、すでに遊軍として後方撹乱を命じていた将軍劉賈を淮水から南下させ、九江を攻略させる。英布は劉賈と合流し、周殷の帰順を得て旧領を回復する。垓下の戦いでは、劉賈とともに漢軍として参戦した[2]。
紀元前202年、垓下の戦いで項羽が滅び、劉邦が皇帝(高祖)として即位すると前漢が成立する。英布は淮南王に封ぜられ、九江・廬江・衡山・豫章の4郡を領することとなった。これは、項羽政権下での九江1郡と比べ、大幅な厚遇であった[3]。
反旗
しかしその後、高祖およびその妻呂雉によって、異姓諸侯王の粛清が相次ぐ。紀元前196年春には韓信が、夏には彭越が反乱を企てたとの名目で処刑された。さらに彭越の死体の肉の一部が塩漬けにされ、見せしめとして英布をはじめとする諸侯王に送られた。これにより自身への誅殺を恐れた英布は、反乱の準備を進める。 加えて、側室との密通を疑い監視していた家臣・中大夫の賁赫が、英布による誅殺を恐れて高祖に反乱計画を密告したため、追い詰められた英布は、同年秋、ついに反逆に踏み切った。これを知った高祖は激怒し、英布の王位を剥奪して、七男の劉長を淮南王に封じた。
反乱に際し、英布は配下を集めて言った。「劉邦は病と聞く。自ら出馬することはあるまい。仮に大将を立てるとしても、韓信・彭越はすでに亡く、他の将は恐るるに足らず」。国相の朱建は強く諫めたが、重臣の梁父侯はこれに賛意を示した[4]。
一方、高祖は諸将に対策を諮った。諸将は口々に「兵を発し、賊を坑殺するのみ」と答えたが、高祖は不安を隠せなかった。親征は避けられないが、英布は大軍をもってしても強敵である。不安を察した太僕夏侯嬰は、自身の賓客であった元楚の令尹(高官)・薛公の意見を聞くべきだと進言した。
高祖が薛公に下問すると、薛公は答えた。「黥布は上・中・下、三つの策のいずれかを取るでしょう。上策を採れば、関東(函谷関以東)は漢のものではなくなります。中策なら勝敗は定かではありません。下策に出れば、陛下は枕を高くして眠れましょう」。 高祖が上策を問うと、薛公は「呉を取り楚を取り、斉を併呑し、檄文によって燕・趙を従わせる。韓信の策に近い」と答えた。中策は「呉と楚を取り、韓を併せ、魏を降し、敖倉の粟を奪って成皋で対陣する。項王の戦跡に似る」。下策は「呉と下蔡を取り、輜重を越に預け、長沙に逃走路を設ける。いわば狡兎三窟である」と述べた。
高祖が、英布はどの策を取ると考えるか尋ねると、薛公は「下策を取るでしょう」と答えた。その理由として、「黥布は王に封じられて以降、身の保身にのみ心を配り、天下の大勢には意を向けていません。ゆえに下策に出ると見ます」と述べた。高祖はこれを是とし、薛公を千戸侯に封じた。
会戦
高祖は相国蕭何に太子と関中を託し、親征に踏み切った。車騎将軍灌嬰を先鋒とし、護軍中尉陳平、右丞相酈商、車騎将軍靳歙らをもって中軍を固めた[5]。また斉に使者を派遣し援軍を要請した。これに応じた高祖の子・斉王劉肥は、宿将で斉国相の曹参の補佐を受けて出陣する[6]。
英布は荊王劉賈および楚王劉交の軍を破り、劉賈を討ち取るなどして気勢を上げた。両軍は蘄で対陣するが、ここはかつて陳勝・呉広が蜂起した地でもあった。英布の布陣が項羽のそれに似ていたため、高祖はこれを忌み嫌った。 高祖が「なぜ反乱を起こしたのか」と問うと、英布は「ただ皇帝になりたいだけだ」と答えた。これを聞いて激怒した高祖は激戦に及び、自身も流れ矢に当たって負傷した(この矢傷が後の死因となる)。最終的に英布軍は敗北し、英布は妻の兄弟である長沙王呉臣のもとへ逃れた。
しかし、関与を恐れた呉臣は、ともに越へ逃れようと偽りの誘いをかける。これを信じた英布は鄱陽近くの茲郷に至ったが、そこで地元民に殺害された。時に紀元前196年秋のことであった。
参照
- 基本的には『史記』巻91 黥布列伝、巻7 項羽本紀に従い、諸臣の記述の出自は脚注にしるす。
- 薛公の発言の解釈については以下を参照。『戦略戦術兵器事典』①中国古代編 歴史群像グラフィック戦史シリーズ、学習研究社(現 Gakken) 1993年。
脚注
黥布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:48 UTC 版)
「項羽と劉邦 (小説)」の記事における「黥布」の解説
六出身の囚人上がりの武将。本名は「英布」だが、前科者を表す刺青を額に入れられていたため「黥布」(げいふ。「黥」は刺青の意)と仇名される。囚人仲間の親玉として盗賊働きをしていたが、始皇帝死後の動乱に際して軍勢を組織して項梁が旗揚げしたばかりの楚軍の幕下に入り、以後は楚軍において項羽と並ぶ猛将として名を馳せた。項梁の死後は項羽に仕えて活躍を続け、二十万人の坑埋めや懐王の殺害などの汚れ仕事も引き受けた。
※この「黥布」の解説は、「項羽と劉邦 (小説)」の解説の一部です。
「黥布」を含む「項羽と劉邦 (小説)」の記事については、「項羽と劉邦 (小説)」の概要を参照ください。
- >> 「黥布」を含む用語の索引
- 黥布のページへのリンク