高倉天皇とは? わかりやすく解説

たかくら‐てんのう〔‐テンワウ〕【高倉天皇】

読み方:たかくらてんのう

[1161〜1181]第80代の天皇在位1168〜1180。後白河天皇の第7皇子。名は憲仁(のりひと)。後白河法皇院政下に即位し平清盛の娘徳子建礼門院)を皇后としたが、法皇清盛不和憂えて安徳天皇譲位


高倉天皇



高倉天皇 後清閑寺陵
(たかくらてんのう のちのせいかんじのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第80
天 皇 名 :高倉天皇
たかくらてんのう
御   父 後白河天皇
御   母 尊称皇太后滋子
御 陵 名 :後清閑寺陵
(のちのせいかんじみささぎ
陵   形 :方丘
所 在 地 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山
交通機関等 京阪バス清閑寺山ノ内町下車  北へ0.2km
陵印保管場所 月輪陵墓監区事務所

高倉天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/01 01:48 UTC 版)

高倉天皇
天子摂関御影』のうち「高倉院」

即位礼 1168年4月29日(仁安3年3月20日
大嘗祭 1168年12月20日(仁安3年11月22日
元号 仁安
嘉応
承安
安元
治承
時代 平安時代
先代 六条天皇
次代 安徳天皇

誕生 1161年9月23日応保元年9月3日
八条河原口盛国
崩御 1181年1月30日治承5年1月14日)(21歳没)
六波羅池殿
大喪儀 1181年1月30日(治承5年1月14日)
陵所 後清閑寺陵
追号 高倉院
(高倉天皇)
憲仁
元服 1171年2月9日嘉応3年1月3日
父親 後白河天皇
母親 平滋子
中宮 平徳子(建礼門院)
典侍 藤原殖子(七条院)
子女 安徳天皇守貞親王後鳥羽天皇ほか
皇居 閑院・五条東洞院殿など
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高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日応保元年9月3日〉- 1181年1月30日治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年3月30日仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日治承4年2月21日〉)。憲仁(のりひと)。

後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇後鳥羽天皇らの父。


略歴

母・平滋子平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・平教盛は二条天皇により解官されている。この当時、滋子は身分が低かったため、長寛元年(1163年)に清盛の娘で近衛基実の妻である平盛子猶子となっているなど、早くから平家と密接な関係に置かれていた[1]

永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにもかかわらず、仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳)で退位させ、自身が8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。

承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。

翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に譲位太上天皇となり、院政を開始するが間もなく病に倒れ崩御した。宝算21。

後白河院と平家の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平家一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説や、後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして譲位させようとしていたとする説[注 1]も出ている[注 2]


笛と琵琶

豊永聡美氏の研究によれば、高倉天皇の在位期間は音楽の習得に最も適した少年期から青年期にあたっていたとされる[4]。順徳天皇が著した『禁秘抄』に「笛、堀河・鳥羽・高倉法皇代々不絶」とあるように、高倉天皇は堀河天皇鳥羽天皇と並び、無類の笛好きの天皇として知られた。

高倉天皇が御遊の場で初めて笛を演奏したのは、承安5年(1175年)1月4日、15歳の時に後白河院の御所である法住寺殿で催された朝覲行幸での御遊であった。この時の儀礼については、九条兼実が鳥羽天皇の永久2年初度の例に準じて行うべきと主張したが、最終的に鳥羽天皇の在位末期の保安元年の例に準じて行われることとなり、兼実は『玉葉』に不満を記している。

高倉天皇はこの御遊に向けて非常に熱心に練習を重ねており、約3ヶ月前の『玉葉』承安4年10月6日条には「主上近日御笛之外無他事」と記され、笛の名手である藤原実国が頻繁に伺候していたことがわかる。当日の御遊において、天皇の使用する笛は五位の殿上人や左大将師長、関白基房の手を経て厳重に扱われた。天皇の奏でる笛の音、特に呂の曲における音色は素晴らしく、兼実は「御笛神也、妙也」と絶賛している。

演奏終了後には、師である藤原実国が「御笛師賞」として正二位に叙された。実国は内大臣藤原公教の子であり、16歳という若さで御遊の所作人としてデビューして以来、笛の第一人者として認められており、高倉の御師として申し分のない人物であった。

その後も高倉は御所でしばしば小御遊を催して笛を奏じた。初舞台から1年後の安元2年(1176年)、後白河院の50歳を祝う御賀の後宴においては、御遊の管絃演奏に加え、殿上人による舞楽の伴奏でも笛を担当した。この際も兼実は「其声寥亮、聞者感歎」と記しており、その澄みきった笛の音色は人々を感嘆させた。

琵琶

高倉天皇が最も熱心に習得し、公の場で演奏したのは一条天皇の代からの伝統である笛であったが、わずかながら琵琶についても習得していた様子が見られる。

『玉葉』承安4年10月6日条には、笛に専念しているという記述に続いて「又時々令弾琵琶給」と記されており、同月12日の記事にも「又主上令弾琵琶給」とある。これらから、高倉天皇は笛を基本としつつも、二条天皇の先例にならって管絃全体に関心を持ち、琵琶も嗜んでいたものと考えられる。


高倉院詩壇

仁木夏実氏の研究によれば、高倉天皇(高倉院)の時代は、平安時代末期において漢文学が再興された重要な転換期であり、院を中心とした文事的まとまりは「高倉院詩壇」として高く評価される[5]

従来、高倉院はその在位期間の短さや時代背景から、軍記物語である『平家物語』などの影響もあり、平家政権の傀儡的存在として語られることが多かった。しかし、院の身辺で繰り広げられた活発な文学活動を精査すると、そこには平家一門の動向とは一線を画した、天皇と近臣・儒者による独自の知的サロンが形成されていたことが明らかとなる。

院の側近であった源通親は、その『擬香山模草堂記』の中で院を「風月旧主」と呼び、その崩御を「失文王愁猶生、紅涙未乾」と深く悼んだ。藤原定家もまた、院の死に際して「今聞此事、心肝如摧、文王已没、嗟乎悲矣、清思之、世運之尽欤」と記している(『明月記』治承5年正月14日条)。

定家や通親が、古代中国の聖王である「文王」の呼称を院に重ねたことは、高倉院が当時の廷臣たちから、文章の徳を備えた「好文の帝」として深く敬愛されていた事実を物語っている。

詩壇の構成と独自の性格

高倉院の好文は、父・後白河院の今様や兄・二条天皇の和歌への熱中に匹敵するものであり、単なる無聊の慰みを超えた広がりを持っていた。この詩壇を支えたのは、源通親や平親宗に代表される院近臣の青年貴族と、藤原永範・藤原俊経といった侍読を務める長老格の儒者、そして菅原為長ら若手の専門歌人・儒者たちである。

特筆すべきは、この活動に平清盛ら武門平家出身者が全く含まれていない点である。当時の文学が平家歌壇を中心に語られがちななかで、高倉院は独自の側近グループを形成し、儒者の薫陶を受けながら漢詩製作に励んでいた。この構図は、長年途絶えていた帝王による詩壇を、平安後期から鎌倉期へと繋ぐ架け橋としての役割を果たした。

中殿作文の再興と師弟の交流

高倉院詩壇における最大の歴史的意義は、延久3年(1071年)の後三条院以来、約100年間にわたって途絶えていた「中殿作文」を治承2年(1178年)6月17日に復活させたことにある。これに先立つ同年5月30日の内裏作文では、院が自ら筆を執り、少年時代から指導を受けてきた侍読への感謝を込めて以下の詩句を詠じた。

豈忘一字勝金徳、可愍白頭把巻師、

この秀句に接した藤原永範と藤原俊経の両侍読は、感涙を拭いながら拝礼・舞踏して喜びを表したと伝えられる。こうした院の熱意と臣下の相応は、後に「上所好、下相応」と称えられる好文の時代の象徴となった。

学徒の「試み」と「隠名」の導入

院は、若手の儒者や学生たちの才能を試す教育的な側面も重視していた。『山槐記』治承3年10月18日条によれば、御書所において当座の作文を行わせた際、院は障子の隙間から密かにその様子を伺い、源通親を介して指示を出していた。この記事からは、詩壇の明日を担う人材への強い期待がうかがえる。

また、高倉院は漢詩製作の場において、時に「女房名」を用いたり、名前を伏せる「隠名」での賦詩を行ったりしていたことが確認される(『山槐記』治承2年6月17日条)。

御製或時書女房名、或時不被書、

これは、天皇という至高の身分を一時的に棚上げし、平等な評定を通じて詩の工拙を競うための工夫であったと考えられる。こうした試みは、後の後鳥羽院歌壇における「女房名」による出詠や隠名乱合の先駆けとなった。

後代への影響と評価

高倉院の崩御とともに詩壇は一時終焉を迎えるが、その精神は後鳥羽院や順徳院の文事に強く受け継がれた。特に順徳院は、自らが中殿作文を行うにあたり、高倉院の功績を最大級の賛辞を以て次のように記している(『順徳院御記』建保4年11月5日条)。

高倉院殊学古道、崇文道、治承被行之、彼二代ハ上所好下又相応、

後鳥羽院の御書所始においても、場の選定や文人の数において高倉院の先例が基準とされた。高倉院詩壇は、単なる一時期の文学活動に留まらず、平安時代末期の混乱の中で王朝文化の精髄を再認識し、それを鎌倉時代の洗練された宮廷文化へと橋渡しする、極めて重要な歴史的役割を担っていた。

関連文事年譜

下の表は、仁木氏の同論文の付表にある『関連文事年譜』を元にして作りました。

関連文事年譜
年次 出席者 備考 出典
仁安2年(1167年)12月9日 藤原永範(侍読)・藤原基光(尚復) 高倉院読書始 『玉葉』『兵範記』
仁安3年(1168年)2月28日 藤原永範(侍読) 高倉院『後漢書』読書 『兵範記』
嘉応元年(1169年)1月9日 藤原俊経(侍読) 高倉院『史記』読書
嘉応元年(1169年)8月19日 - 議定芸閣文題、即付頭中将云々、青松不限年、…(中略)…、今夕内御書所作文云々 『兵範記』同15、19日条
嘉応元年(1169年)8月28日 藤原俊経(侍読) 高倉院『史記』読書 『玉葉』
嘉応2年(1170年)8月15日 藤原敦綱(序者) 今夜、有御書所作文、題云琴詩月被籠、情字云々
嘉応2年(1170年)9月13日 藤原実定・藤原永範 宝荘厳院当座詩歌合 『古今著聞集』
嘉応年間(1169年 - 1171年) 藤原兼光 嘉応秋宴 『勘仲記』
承安元年(1171年)7月24日 藤原永範(侍読) 高倉院『帝範』『臣軌』読書 成簀堂文庫蔵本奥書
承安2年(1172年)4月13日 - 御書所御作文 『吉記』
承安2年(1172年)9月9日 藤原業実(序者)・藤原俊経(題者)・藤原敦周 今夜御書所作文云々、序者式部少輔業実、題菊開聖徳中題中、俊経朝臣出之、主上有出御云々 『玉葉』『和漢兼作集』
承安3年(1173年)2月21日 藤原永範・藤原俊経・源通親・藤原隆房・平親宗・藤原兼光・藤原伊範(蔵人執筆)等 禁中有連句、…(中略)…、於御前有此事、尹範蔵人執筆云々、字三十余韻云々無興云々 『玉葉』
承安4年(1174年)3月1日 藤原公重・平行範・藤原雅長・源通親・藤原経房・藤原盛方・藤原資隆・藤原守光・藤原光長・平親宗・平基親・源信平・源俊光・藤原光綱・藤原有隆 右少弁有詩合、題云、花綻老人家春字、…(中略)…、除儒士云々、依彼命整所送一首也、成光・敦周等朝臣評判之、業実・尹明在座、掩名、随時体番之云々、依為珍事記之 『吉記』『和漢兼作集』
承安4年(1174年)9月30日 藤原永範・源通親以下雲客五六輩 於右近馬場催詩歌之興 『吉記』
安元元年(1175年)8月10日 藤原雅長 今夕、重家卿家有作文、聟雅長之会云々 『玉葉』
安元2年(1176年)4月13日 藤原雅長・源通親・藤原重方・藤原長方・藤原隆房・藤原在房・源通資・平親宗・藤原光長・藤原兼光・藤原光雅・平基親・藤原能成・藤原敦周(読師)・藤原敦綱・藤原光経・藤原業実(講師)・藤原守光(序者)・菅原在茂・藤原光輔・藤原親経・藤原尹範・菅原長守・藤原季光・藤原明宗・藤原光敏・藤原佐明・菅原忠規 今夜内御所作文也…(中略)…、文章博士光範朝臣雖参仕、不置詩退出、是敦綱為上﨟憤怒之故也云々 『吉記』
治承元年(1177年)2月5日 藤原永範 高倉院『貞観政要』読書 宮内庁書陵部蔵本奥書
治承2年(1178年)3月16日 - 此間禁中頻有御作文 『玉葉』
治承2年(1178年)5月8日 近日密々御作文等、此中御製相交
治承2年(1178年)5月30日 藤原成範(御製読師)・藤原永範・藤原俊経・藤原道業(講師)・平親宗(読師)・藤原光雅(御製講師)・殿上人七八人 依御作文也、題云、詩境多脩竹題中 『山槐記』
治承2年(1178年)6月17日 藤原師長・藤原実定(読師)・藤原資長・藤原実綱・藤原実守・藤原永範(題者・御製講師)・藤原俊経・藤原資実・藤原隆季・藤原雅長・源通親・平親宗・藤原兼光(講師)・平基親

藤原実国・藤原宗家・藤原家通・管絃のみの参加

今夜有内御作文、当代初度也、主上御年十八、自去春内々有御作等、召公卿侍臣於便宣所、連日被賦詩
治承3年(1179年)2月28日 源通親・源通資・平親宗・藤原兼光・藤原光雅・藤原宗頼・藤原定長・藤原通業 殿上人向大内当時皇居閑院、翫南殿花、賜勅題講詩、又有連句云々
治承3年(1179年)5月4日 - 於禁裏有御作文事題云、仙家日月長、卿相以下献之 『玉葉』
治承3年(1179年)10月18日 源通親・源通資・藤原季光・藤原孝範・藤原親経・藤原通業・藤原安成・藤原敦定・菅原忠規 今日於御書所閑院殿上席北庇有当座作文…、抑此事偏為試学徒、有卒爾之議歟 『山槐記』
治承4年(1180年)3月30日 源通親・源通資・藤原邦綱・藤原実国・藤原兼光・藤原隆房・平棟範・平宗盛・平重衡・平時実

御幸供奉の人々

…いみじくおかしくおぼえしに、三月尽になりにけり。…(中略)…、人々文作る… 『高倉院厳島御幸記』


年表

※日付=旧暦

日付 年齡 出来事 備考[注 3]
永暦2年(1161年) 9月3日 1 平盛国宅降誕 巳刻上皇皇子誕生、母儀故兵部大輔時信女、上西門院女房小弁局、母故民部卿顕頼女也、(『山槐記』同日条)

巳剋、於八条河原右衛門尉盛国宅降誕、読書長光朝臣、自余事省略、(『師元記』同日条)
永万1年(1165年) 12月25日 5 親王宣下、賜名憲仁 院第三皇子被下親王宣旨、憲仁、母故兵部大輔平時信女、号東御方勅別当平大納言、於法住寺殿有此事、(『顕広王記』同日条)
仁安1年(1166年) 9月6日 6 於東山殿立太子定 今日於一院殿上、東山、有立太子定、摂政以下院司公卿十餘人参入、院宣之後別当内蔵頭教盛朝臣依摂政命、覧日時勘文、次被定雜事、権中納言資長朝臣執筆、次覧了奏聞云々、今度雜事併被准行康和例、彼年権中納言匡房執筆、於白川院殿上有定云々、(『兵範記』同日条)
10月5日 高倉殿行啓[注 4] 若宮行啓北政所御所高倉殿、院御車、殿上人廿餘輩前駈、右衛門督扈従、(『兵範記』同日条)
10月10日 於東三条殿立為皇太子 此日上皇幷若宮渡御東三条、依可有立太子事也、供奉御幸、直衣、出衣、剣、着深沓、於東三条、摂政遅参之間、在若宮御車後也、依召余褰御車簾、雖有右大臣、殊所召余也、下御之後各昇候、院御車被寄東中門廊、若宮御車被寄北中門云々、供奉公卿・殿上人被差分両方云々、余退出、秉燭之後参内、余今夜被任傅也、大夫清盛卿、権大夫邦綱卿、前参議、如何々々、権亮右中将実守朝臣、学士式部大輔永範朝臣、大進光雅知盛、小進棟範等也、余・大夫・権大夫等、於弓場殿、中門也、奏事由拜舞、次参東宮、左府已下於左府已下於南庭拜舞、次余已下宮司等、於東中門、東三条也、外奏慶由、此後余退出了、不見節会幷本宮事、仍不記之、須候節会座、又始終可祗候本宮也、而所労之上聊有子細云々、此又愚意不及、莫言之、(『玉葉』同日条)
以内大臣九条兼実為東宮傅、権大納言平清盛為東宮大夫
10月28日 賜見平盛子故摂政近衛基実 今夕北政所令参春宮給、網代車、諸大夫八人着衣冠、為前駈、雲客四五輩扈従之、(『兵範記』同日条)
11月3日 土御門東洞院第行啓 此日、申慶賀於所々、是依去月廿一日給兵仗也、申刻許着束帯、螺細剣如恒、参院、土御門東洞院第、邦綱卿家也、今夕東宮始可有行啓、仍今朝上皇所渡御也、進中門、付別当左京大夫宗隆朝臣奏事由、帰来仰聞食之由、余拜舞了、定隆来告召由、余昇自中門廊外方、参御前、不敷円座、如何、小時退出、参内、進弓場殿、付左近少将定能朝臣奏事由、拜舞、依無召不参御前、則参中宮御方、付大進朝親啓事由、拜舞、為母后舞踏也、依無召不参御前、次参東宮、東三条、今夜有行啓、余可供奉也、於西中門、付亮教盛朝臣啓事由、再拜、登自中門参着殿上、右大将忠雅卿以下、公卿五六人許在座、頃之右中弁時忠来、余問云、行啓遅々如何、時忠答云、大進光雅渡御帳了、只今可帰参、其後可有行啓云々、又云、大夫相共可勤仕御車寄者、余暫起座、摂政被参、頃之先被参院御所了、次公卿列立南庭、北上東面、此間着寄御車於寝殿南階、次陰陽助泰親朝臣奉仕反開、昇自西渡殿、入寝殿西面妻戶参上、暫而退出、出納給禄、次権亮実守朝臣取御剣置御車、次余・大夫相共取御几帳・屏風等立之、次乘御了、女房候御車、此間、公卿為騎馬前行、余於西渡殿下着靴、前行御車前、大夫在余前、次於西門外騎馬、行列如恒、在指図、経西洞院・二条東洞院等、到上皇御所西門外、余下馬、暫立門中、公卿等本自列立中門内、両亮・学士等在門内、次時忠朝臣来臨、余云、大夫先可申事由欤、時忠云、尤可然、則入中門内、帰来云、康和例、大夫奏事由後御車入御、而右将軍不然由被申、仍不可有其儀、早可入御之由有御定云々、余云、縦雖先例存、於御定者不能左右者、此事未得其意、何度例哉、慥不覺悟、可尋也、則入御、余前行加列、御車至南階下、于時余離列、昇自西対代南階、取几帳等、祇候上皇御簾中、下御了、余着履更加列、次亮教盛朝臣問之、余以下名謁等如恒、了各昇、公卿等着殿上座、余依所労更発、触示其由於時忠退出、今夜上皇可遷御鳥羽北殿也云々、(『玉葉』同日条)
12月5日 御着袴定 此日有旬儀、亦東宮御着袴定也、依所労不参旬、相労晩頭参東宮、以殿上外座、今日不参旬、参東宮、專不可然欤、然而依言別院宣扶所労参也、公卿等少々徘徊中門廊辺、下官招大進光雅問云、亮可書定文欤、相存哉如何、光雅云、教盛朝臣皆所相存也者、頃而左大臣参着奥座、相次右大将忠雅・源大納言定房・大宮大夫公保・三条中納言実房等参入、下官召亮教盛朝臣仰云、可奏事由、教盛云、上皇未渡御、右大将云、御幸未刻之由奉之、而于今遅々如何、為奇云々、即将軍起座了、此間寒風頻扇、殿上燈消了、座上下挙之、上方消也、余使蔵人召指油、小時右大将復座云、已上皇渡御、教盛申事由、只今参也云々、此間別当隆季・新中納言資長・春宮権大夫邦綱・左大弁雅頼等参加、自公卿多以参仕、然而依座狭不着欤、即頭弁来云、事具了欤如何、余云、以亮教盛朝臣奏事由、早々相待帰来之間也、事早具了者、頭弁帰参畢、即教盛来仰云、早可始者、使余仰云、可令勘日時者、教盛退帰、令泰親朝臣勘申之持来、入筥余取之加一見、如本入筥置座前、次召教盛、仰紙筆可持参之由、即持参之、候端座末、此間蔵人立切燈台於亮座前、燭、次進例文、長治定文也、自座末次第取上之、末座公卿一両人披見之、不知案内欤、右大将密語云、於例文者專不可披見欤云々、右大将竊示云、教盛皆書儲所懷中也、下官見了、示是定可書之由返下之、猶可与奪也、然而執筆随与奪、推書与奪也、仍雖書儲、端一両行ハ尤当度可書欤、仍返下也、猶非穏便欤、次教盛朝臣気色于余、々目許之、教盛書了、又取上之、今度公卿皆披見之、余見之与左大臣、々々々取之、一見返余了、々加入日時、召教盛朝臣授筥、仰可奏之由、小時帰来与余、々即返下亮了、次余退出、依所労殊無術所忩罷出也、
択申、御着袴日時
今月廿二日辛卯、時午、
仁安元年十二月五日、陰陽助安倍朝臣泰親、(『玉葉』同日条)
12月22日 於東三条殿着袴 今日東宮御着袴也、於東三条被行之、上皇自今朝所渡御也、仍未刻許着束帯、蒔絵剣、長治永治両度共有行幸、仍無異儀、今度上皇被奉結御腰之間、必不可帯螺鈿欤、相尋人々之処、各々案不同欤、但摂政被命云、可用蒔絵者、仍随彼儀也、但帯螺鈿之人少々相交欤、入自西門、候院御方殿上、摂政左大臣内大臣・大納言定房・中納言公保光忠隆季実房宗家資長等在座、不居饗饌、又無盃酌、於東宮殿上可有之故也、小時頭弁時忠朝臣来召、々起座参上之間、頭弁云、可令褰御簾給也、是上皇令移御着袴之間、可褰御路簾云々、者、余此次問云、献物誰人可受取哉、時忠云、膳部可取也、余云、今度無行幸、若准御賀例、院司可取欤如令、時忠云、尤可然、但已被載式了云々、此事不可然欤、雖載式有違失者、争不被直行哉、然而余不能執論、即入自寝殿南庇東第四間、褰東烏居障子御簾、着袴之後也、東第二間西柱下也、上皇令移座給了、余垂御簾、経南簀子、候東宮御方殿上、須暫候テ、上皇帰入給之時、褰御簾之後可退也、而早退、失也、源大納言雅通・参議光隆邦綱雅頼親範・従三位顕広等在此座、豫居、饗饌、暫而大進光雅召邦綱卿、即件卿起座参上、為東宮御前物陪膳云々、其後、内大臣已下諸卿等、廻北面、俳個中門廊辺、余召大進光雅仰云、献物催某哉、光雅云、皆所催儲也、次余起座、此間右大将忠雅密語云、可弾琵琶欤、余云、相扶所労参入、始終難儀候座、忠雅云、為用意所催儲実宗也、立東中門下、此間院御随身等、取松明立南庭、次左府依召候南簀子敷、使随身竊伺之、帰来云、已者座者、次余揷笏於腰、不指得之間、雅頼卿揷之、取献物、大進光雅伝受之、出幔門、北、進前庭、当南階西間程而立、北面、無揖、内大臣以下次第取之、経列後立西、東上、北面、各不揖、次侍臣立列後、各立定之後、左府被問欤、慥不聞及、余推量申云、御子ノ宮ノ奉リ給フ御贄、微音申之、傍人ニ三人許聞程也、左府仰詞不聞、余亦推量召膳部、詞、カシハテ、音程如初、二音召之、膳部屢以不参仕、亮教盛朝臣遣御随身、令催東方、余云、自西可参也、別当云、西廊方令催儲也、即膳部五六人許参入、自西方取公卿之所持之献物、乍立授之也、余給畢抜笏、以下又如此、各給了、膳部退去、次余揖離列、経前出西透廊之間、頭弁時忠云、可候御遊座欤、余云、持病發動所忩退出也、尤有恐、可然之樣可被披露者、時忠云、早可披露者、即出自西四足退出、不見其後事、(『玉葉』同日条)
12月24日 遷御[注 5]土御門第東三条第燒亡 東宮御在所東三条第燒亡、儲君遷御邦綱卿土御門亭、(『百錬抄』同日条)
仁安2年(1167年) 1月20日 7 法住寺殿行啓為朝覲故也 此日東宮行啓于御所、法住寺御所也、自去夜上皇所還御也、蓋為拜覲也、(『玉葉』同日条)
2月11日 法住寺殿行啓 又東宮渡御上皇御所、法住寺殿、(『玉葉』同日条)
4月4日 渡御七条殿自法住寺殿 今夜上皇・青宮相共、自法住寺御所渡給七条御所、上皇下御所、春宮下御所、御幸頗密儀也、(『玉葉』同日条)
4月30日 賀茂祭 賀茂祭也、近衛使少将光能、東宮使亮教盛朝臣云々、(『玉葉』同日条)
5月25日 行啓 申刻自東宮蔵人来催云、今夜可有行啓、可令参仕云々、依有所労、如只今者難参、及夜陰得減気者、答可参之由了、其後頗有平愈気、仍俄出立之間、僕従各以遅参、仍行啓以後参仕、及深更退出、(『玉葉』同日条)
9月30日 行幸大内 参東宮、去夜行幸大内、(『玉葉』同年10月1日条)
10月8日 御馬御覧[注 6] 参東宮、有御馬御覧事、帯刀不候也、仍余隨身乘也、(『玉葉』同日条)
10月10日 大般若経供養 今日於東宮被供養大般若経、自今夜以六口僧、長日可有御読経云々、日別一人相替可勤仕云々、申刻着束帯、無文帯、参上東宮、先於中門辺招光雅五位蔵人東宮大進、奉行也、問出居有無、答云、今夜不然云々、長治二年六月廿五日、鳥羽院春宮御時有此事、而出居無之、仍今度出居欤、尤可然、光雅云、先例御願趣、権亮所仰也、而今度各称所労・故障不参仕、為之如何、余云、先例如何、如此事可依先例也、光雅云、先例不分明、但宮司上﨟仰欤、余云、為奉行之上、宮司上﨟也、早可仰光雅者、次着殿上座、公卿五六輩自本在座、余召光雅、問事具否、申僧侶皆参之由、即仰可申事之由、暫帰来云、申事由、仰云、可令打鐘、光雅退了、則余以下着御前座、中宮権大夫定房・三条中納言実房・中御門中納言宗家・春宮権大夫邦綱・左兵衛督成範・三位雅賢等着之、次僧侶参上、廿口、次導師禅知法師、登礼盤打磬、公卿置笏、次唄、此間童堂子分花筥、次散花、堂童子收筥退出、次導師啓曰、此間大進光雅来臨余前解立、余示之、光雅就礼盤下、仰御願趣、次揚題名、次説法了、次導師被物、或先行香、今夜為先被物、仲恭権大夫取之、次呪願三礼、次行香、春宮綱所不参、堂達分輪引導之、如恒、余・中宮権大夫・中御門中納言・春宮権大夫・左兵衛督・藤三位雅賢、六角宰相等、一人不足、侍従通資加之、火虵取奉行蔵人泰経、行香了、僧侶退下、次公卿下、余参御前、次退出、(『玉葉』同日条)
10月18日 御悩 未刻許向左府亭、言談之後参八条、及昏参治部卿源宰相左兵衛督等祗候、頃之殿参給、又大弐卿参仕、東宮聊不豫事御云々、(『愚昧記』同日条)
12月1日 賜見平盛子白河殿准后 准后之後依吉日初令参春宮給、可候御車後騎由、自被仰下之故也、(『兵範記』同日条)
12月7日 朝覲行啓定 今夕一院御仏名、其次有春宮朝覲行啓定云々、(『兵範記』同日条)
12月9日 御書始[注 7] 今日東宮御書始云々、依無催不参、伝聞、事了、公卿着殿上、有五献云々、一献左少将脩範持参盃、二献亮教盛、三献権大夫邦綱、四献中御門中納言宗家、五献源大納言雅通、大以腹立、一大納言如此、勧盃称不勤由、昇長押上之後取盃、頗以不足言云々、五献了給禄、公卿列立拜舞云々、(『愚昧記』同日条)
12月25日 御仏名[注 8]、是日、御悩 今日東宮幷女院等御仏名、先参東宮御所、今朝聊御不豫云々、御仏名之所西御所云々、仍参其所、已始畢、事了参女院、了退出、(『玉葉』同日条)
仁安3年(1168年) 1月6日 8 法住寺殿朝覲行啓 今日有東宮朝覲行啓事、(『玉葉』同日条)
2月19日 於閑院第摂政松殿基房受禅 今日可有御讓位事、(中略)次参閑院、此間春宮、御諱憲仁、春秋八歲、母女御滋子、自東山七条御所被渡行啓此殿、(『兵範記』同日条)
2月22日 御即位由伊勢大神宮奉幣定並御即位定 仰云、即位由告伊勢太神宮奉幣日時令勘申、即令定申即位事、(『兵範記』同日条)
2月28日 奉六条上皇太上天皇尊号 今日有開関幷解陣事云々、又尊号事、上卿藤大納言、(中略)見昨日尊号詔、大内記光範作之、其詞曰、
詔、朕以幼冲、忝承叡託、皇縁之寄不軽、難委朝政於賢佐、童蒙之心未決、何忘夕惕於眇身、上欽祖宗、下慙黎元、太上天皇、徳法三才、道光四表、諸夏皆致就日之望、率土旁通嚮風之跡、而忽抽脱履之思、更謝守文之尊、辞宸居於帝宮、富春秋而養志、訪仙遊於姑射、尋水石而閑心、至矣将聖之道、讖介大縁者欤、抑礼有恒法、国存旧規、列代彝範、何不率用、宜上尊号、為太上天皇、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、
仁安三年二月廿八日、有御画、摂政書之、(『玉葉』同月28、29日条)

詔、朕以幼冲、忝承叡託、皇統之寄不軽、雖委朝政於賢佐、童蒙之心未決、何忘夕惕於眇身、上欽祖宗、下慙黎元、太上天皇徳法三才、道光四表、諸夏皆被就日之望、率土旁通嚮風之跡、而忽抽脱屐之思、更謝守文之思、尊辞宸居於帝宮、富春秋而養志、訪仙遊於姑射、尋水石而楽心、堂矣将聖之道、織介大統者欤、抑礼有恒法、国存旧規、列代彝範何不率由、宜上尊号為
太上天皇、布告遐迩、俾知朕意、主者施行、
仁安三年二月廿八日、(『兵範記』同日条)
是日、開関[注 9]解陣[注 10] 勅、警固近江国使散位従五位下藤原朝臣懷家、幷参議正三位行近江権守源朝臣資賢・正四位下行侍従兼権介源朝臣俊光・従四位下行中務権大輔兼介藤原朝臣経家・従五位下守々藤原朝臣成房等、
使内舍人正六位上豊原朝臣成時、
右受禅已畢、仍為罷警固、差件人令賷木契発遣、使国承知、依例施行、勅到奉行、
仁安三年二月廿八日、時亥二剋、
勅、警固伊勢国使散位従五位上藤原朝臣季時、幷正五位下行大舍人頭兼大外記伊勢権守清原真人頼業・従五位下守守藤原朝臣資成等、
使内舍人正六位上宮道朝臣為広、
右受禅已畢、仍為罷警固、差件人令賷木契発遣、使国承知、依例施行、勅到奉行、
仁安三年二月廿八日、時亥二剋、
勅、警固美濃国使散位従五位下紀朝臣久保、幷正四位下行左近衛権少将兼美濃守藤原朝臣脩範・権守従五位下平朝臣維盛等、
使内舍人正六位上藤原朝臣為国、
右受禅已畢、仍為罷警固、差件人令賷木契発遣、使国承知、依例施行、勅到奉行、
仁安三年二月廿八日、時亥二剋、
次有解陣事、左近少将光能朝臣・右近少将隆房・左衛門尉、某、右衛門佐忠度・左兵衛佐通盛・右兵衛佐保盛参列、奉上宣解陣、次藤大納言退出、諸司分散、(『兵範記』同日条)
於石灰壇御拜伊勢神宮 今日幼主於石灰壇初有伊勢御拜事、御引直衣、是每日御拜也、兼有日次沙汰、今日初被奉拜也、応德殿下令候給、今日御遅参如何、宣云、故摂政殿命云、両段再拜、此旨申内畢、(『兵範記』同日条)
召侍読藤原永範[注 11]読『後漢書』 次有御学問事、余被問日次、可令復日来御読書給之由存御之処、御師匠大輔申云、受禅之後、代々奉授後漢書明帝紀之由有所見者、件書巻被申、今朝被献之、主上御于朝餉、御引直衣、書案置明帝紀、殿下令候御前給、永範朝臣依召参入簾中、次有御読事、内題許也、次大輔退出、御書被返献院畢、累代御書也、如法令読御之時、又可被献之由、右兵衛督所申也、御文机去年御書始机用之、(『兵範記』同日条)
2月29日 晦日御祓、神祇官供御贖物 今日晦御祓如例、五位侍臣棟範為使、
今夕神祇官供御贖物、御神子率参、代始一年毎月晦供之云々、(『兵範記』同日条)
3月1日 御燈御卜[注 12] 明後日御燈依長凶会間、初供御燈、著御位袍御装束、可有惮哉否事申、次依仰申殿下了、(『兵範記』同日条)
3月3日 停御燈依受禅有惮也 停止御燈由御禊、受禅之後初度有惮、又初著御位袍御装束旁有惮之故也、
天仁元年九月三日[注 13]没日凶会日也、雖為代始、依恒例事、不忌御燈如例云々、然而今日初著御位袍、依有其惮不被行也、(『兵範記』同日条)
3月8日 被発遣伊勢神宮奉幣使奉告御即位由 今日伊勢奉幣被告申御即位由於太神宮也、(『兵範記』同日条)
3月9日 礼服御覧 殿下於西面御直廬有礼服御覧事、左衛門督、隆季藤中納言、実房右衛門督、実国新藤中納言、資長権中納言、忠親六角宰相、家通右大弁、実綱、已上束帯、被候座末、(『兵範記』同日条)
平滋子後白河上皇女御立后兼宣旨 今日立后兼宣旨、(『兵範記』同日条)
3月11日 遷御内裏自閑院第 今日自閑院有遷幸大内事、天仁例[注 14]也、戌刻参内、直参御前、未召御装束、摂政被候、下官問申云、御馬被引進之間、候御前只一上卿許欤、先々納言為第一上卿、仍以下不候欤、今度大臣皆参、然者大臣者皆悉可候欤、如何、答云、先例一人也、不及他欤云々、仍勿論先有召仰事云々、頭弁着陣、仰左府云々、次御装束、御総角事遅々、実守朝臣遅参、数刻被相待之、猶以不参、仍女房幷邦綱卿等奉結之、如形了之間実守参、可召之由人々申、仰云、不可然々々々、是尤可貴也、幼稚御意、遅参奇怪思食、依不請不可召之由被仰、実可然事、向後有其憑、御装束之間、内蔵頭教盛勤之、無他人間、与下官勤仕之了、出御東対南面、垂庇簾、其内敷縹綢端畳二枚、其上敷茵為御座、簾外広庇御座当間、左右逼北長押挙燭、有打敷、御座間、階当間也、東間広庇逼南柱西敷円座一枚、為左府座、下官出殿上、暫座之、自本右大将左大弁在此座、次左府自陣参御前坐、次自西中門引御馬十疋、近衛次将・同府生以上引之、立明如恒、引過了、左府起座、来居殿上、頭弁仰云、家賞、相加折紙下之、左府少揖、頭弁起了、左府起座出上戸、於中門辺召内記、被仰下復座、内府問子細、返答云、上階三人、正三位中納言忠親・参議兼左大弁雅頼、従三位親範、又従四位下資泰、正五位下公輔、従五位上丶丶、次出御、反閇、次将渡、次公卿列立、此間雨止、仍各懸尻進立庭中也、次蘭司、次鈴奏、少納言遅参之間、数刻被相待之、雨已下、左府云、被仰下之後可挿笠也、然而近代不然、仍只可指云々、召笠、次寄御輿、次将安剣等欤、此間公卿等、為先下﨟為騎馬前行、下官同之、行列如恒、御路、出自閑院東門、自西洞院大路北行、自二条至堀川北行、至大炊御門西行、至大宮、於此辻上皇密々有御見物云々、入自待賢門、経建礼承明門等、下官於建礼門前程下馬、入同門、承明外水火・黄牛有之、如恒、行事弁重方行事立同門外、入承明門東扉列立、此間不雨降、仍列立庭中也、経公卿列前、成頼居、是事不慮事也、尤難有、々何過人可礼深哉、不存事也、彼人為賢人也、以云故殿第、不忘其起如此欤、可悦々々、北上西面如恒、次御輿至建礼門、有立楽、此間左右大将建礼門内内左右立、神祇献大麻欤、不見及、火童重方引導、水童行事史、次陰陽頭在憲朝臣在其前、於承明門外反閉歟、不見及、火童重方引導、水童行事史、其後黄牛、次其後左右大将也、陰陽師・水火等自西階登、入南殿西面南妻戸、立御帳西間、陰陽師者施呪術了、参清涼殿欤、不見及、此間摂政入承明門、経公卿列後、昇自南殿東階候殿、御輿寄南階、過前之間、諸卿皆深揖、過了起、次下御、御輿退、次置版位、又以遅々、行事大納言公保頻行之、然而猶以遅々、遂置版了、中務次少納言貞宗鈴奏、次名謁、次左府・下官・内府等、経軒廊出宣仁門、於陣後改着浅沓、左内両府着宜陽殿、下官相労所労之間、直自御後密々参御前、此間供五菓、先是御装束、御直衣、供夕膳、摂政下直廬、女蔵人二人役之、自鬼間南障供之、次入御、改御装束、陪膳中納言典侍、母后弟、摂政下直廬、見吉書了帰参、此間欲供夕膳也、摂政殿上、下官同座之、左府留陣、右大将以下少々候殿上云々、吉書了、左府参殿上、経御後、雨止了如何、次頭弁勧盃、瓶子光雅、五位蔵人也、一献了、次摂政参御前了、有出御、次召之、頭弁、左府已下参御前座、孫庇座、次各居衡重、殿上五位自広庇自前居之、摂政雖未居了、先可有勧盃、末々者不過其云々、次内蔵頭経簀子勧盃、瓶子経房、五位蔵人左衛門権佐、一献了、敷庇長押上円座了、摂政命云、今一枚可持参、光雅取円座、経孫庇并庇南第一間円座中等、御座南方置、次召切燈台打敷、五位火、六位保元打敷燈台六位、火五位持参、今度相違、次摂政直入南第三間、着奥座、坐当間、御座南間也、次左府経簀子、入同間着端座、次下官不経簀子、直進着端座、入南第二間、当座間也、次内府経簀子、直入南第一間着奥、第二円座、次源大納言雅通端、三条中納言実房、同、次資長中納言、奥、次右大弁、端、自余公卿不候、皆以退出、奇怪々々、次頭教盛経孫庇、入御座間置御料紙、居土高坏、御座東方、此間主上御寝平臥、人々興之、次給公卿紙置、奥座人経座後欲経座中、摂政制之、令経後也、置、端座之人副長押、各後置之、次経房経座中、置筒塞於円座、次六位資綱、蔵人、経座中置紙、次光雅置之、次信範置之、次公卿自下﨟置之、到摂政、但右大弁左廻、資長同、実房同、公保右廻、定房左廻、雅通同、内府同、下官右廻、我座方見同能、御所横サマ也、仍雖何後ニナウサルナリ、左府置笏、自余皆指之、置了不抜之、乍指復座也、各頗膝行也、置之了、次摂政置了、置笏、已上二人ハ奥端第一座也、仍如此置笏欤、『保元故殿置給也、』次献紙人打之、摂政毎度入塞、各抜笏帰也、不揖、次給禄、次公卿退出、殿下禄頭弁取之、自余四位五位、御竈神上卿実房也、今夜参仕公卿、左府・余・内府・源大納言雅通不供奉、候大内、・定房・公保不供奉、為行事也、隆季・実房御竈神上卿、仍不列云々、宗家実国成親・資長・忠親資賢・邦綱・成頼・雅頼・親範・俊成・時忠・実家成範、自余猶有欤、不見及也、今夜左右大将随身染分狩袴也、是不審也、夜行幸染狩袴不見也、随又摂政云、専不可然云々、下官物節外褐袴如恒、摂政随身、又同余随身、下官行幸供奉、強不可然事也、而大臣行幸可供奉事也、近代不然、任意也、強不事闕事、又供奉無難事也、就中旧坊官也、殊致忠也、但於事無面目、無益尽忠也、莫言々々、(『玉葉』同日条)
上六条上皇尊号御報書 此間大納言定房卿持参新院御報書、太上皇尊号事、(『兵範記』同日条)
女官除目 今夜有女官除目、三条中納言実房行之、於閑院行幸以前被行之、之間左府参上、候陣奥座云々、実房召官人之毎度、凡仰下事毎度気色也左府云々、(『玉葉』同日条)
3月15日 御即位叙位
神祇官御即位御祈
3月20日 於大極殿行即位之儀
尊平滋子為皇太后
3月26日 平滋子初参内
立后後八社奉幣
4月1日 [注 15]、平座[注 16]
4月3日 石清水臨時祭[注 17]
4月4日 広瀬龍田祭[注 18]
4月5日 平野祭[注 19]
4月6日 梅宮祭[注 20]
御即位後女叙位
4月7日 万機旬[注 21]、出御南殿
4月8日 御灌仏[注 22]
4月9日 遷御閑院第
4月14日 稲荷祭[注 23]
4月18日 賀茂祭[注 24]
4月20日 祈年穀奉幣[注 25]
4月21日 吉田祭
4月28日 大嘗会国郡卜定[注 26]、以近江国甲賀郡為悠紀、備中国賀陽郡為主基
定大嘗会検校等
4月30日 被発遣即位由山陵使[注 27]
5月8日 被定発遣即位由奉幣使日時
被定発遣宇佐使[注 28]日時
5月10日 季御読経始
5月13日 季御読経結願
除目叙位
5月16日 大嘗会左右行事所[注 29] 史章生来云、大嘗会左右行事所今日被始之、
悠紀式部省 、主基陰陽寮、
左中弁以下行事官等見于定日交名、 (『兵範記』同日条)
5月21日 廃朝[注 30]三日依道恵親王[注 31]薨奏故也 自今日廃朝三日、下御簾、不奏事云々、三井寺長吏六宮去月廿五日薨給事也、
奏文書樣
太政官謹奏、
無品道恵親王、
右親王去月廿五日薨、廿七日葬、儀制令云、二等以上親薨、皇帝不視事三日者、仍録事状謹以申聞、謹奏、
仁安三年五月廿一日、(『兵範記』同日条)
5月28日 被発遣宇佐使
6月4日 被発遣廿二社奉幣依天変及世間疫病也
6月13日 還御内裏
被発遣祈雨奉幣使[注 32] 神祇官、
差進雨請奉幣使事、
丹生使正六位上亀卜長上卜部宿祢兼茂、
貴布祢使正六位上行小史斎部宿祢明茂、
右依宣旨、差進如件、
仁安三年六月十二日、権少史伊岐宿祢致貞、
大祐斎部宿祢明友、
伯従四位下兼行出雲権守顕広王

陰陽寮、
擇申可被奉遣祈雨御幣使於丹生河上貴布祢社日時、
今月十三日、癸卯、時午二點、
仁安三年六月十三日、漏剋博士安倍朝臣経明、
主税助安倍朝臣時晴、

天皇詔旨と、掛畏某大神広前尓、美毛申給波久と久、播殖之時与利雨澤順旬氐、農業可如意乎、依例令祈申給布古と、先畢支、而去月晦與里、炎旱之気殊熾尓之氐、田園殆及焦損奴倍志と聞食、驚古と無極之、年若不登奈良波、民其如何加世牟、只大神御恵、依忽令施嘉樹氐、可期豊稔支なりと所念行氐な牟、故是以、吉日良辰擇定氐、官位姓名差使氐、礼代御幣令捧持氐、黑毛御馬牽副氐、奉出賜布、掛畏大神此状聞食氐、垂感応礼氐、興致雲雨之氐、自今以後者、收獲末氐尓、旱蝗不聞須、稼穡茂盛尓之氐、天皇朝廷乎、宝位無動久、常磐堅磐仁、夜守日守仁、護幸奉給倍と、みも申給波久と申、
仁安三年六月十三日、

左弁官、下大和国、
使正六位上亀卜長上卜部宿祢兼茂、従三人、執幣夫一人、
右権中納言藤原朝臣資長宣、奏勅、為祈雨奉幣帛於丹生川上社、使発遣如件、経彼之間、依例給食馬者、国宜承知、依宣行之、
仁安三年六月十三日、少史中原朝臣季能、
右少弁藤原朝臣、

左弁官、下山城国、
使正六位上神祇少史斎部宿祢明茂、従三人、執幣夫一人、
右権中納言藤原朝臣資長宣、奏勅、為祈雨奉幣帛於貴布祢社、使発遣如件、経彼之間、依例給食馬者、国宜承知、依宣行之、
仁安三年六月十三日、右少史中原朝臣、
右少弁藤原朝臣、(『兵範記』同日条)
6月20日 摂政松殿基房一上表、請辞摂政、勅答不許 摂政 従一位基房廿五 六月廿日上表、初度、不許、(『公卿補任』同年・藤基房条)
6月26日 還御閑院自内裏 今日自大内還幸閑院云々、(『愚昧記』同日条)
6月29日 節折[注 33]、大祓
平時信贈正一位・左大臣依外祖父故也 正五位下平朝臣時信、緑紙、
右可贈正一位、
中務、神祇惟朗、義佩韜光、昔是在朝為忠直之臣、今則於朕為外祖之儀、存殁雖異、褒崇其同、宜導餝終之礼、用光加□之栄、可依前件、主者施行、
仁安三年六月廿九日、

無位藤原朝臣祐子、
右可贈正一位、
中務、清華垂範、琬琰在心、桃李思粧、昔春早過、松柏望色、旧煙惟深、宜贈寵章、式賁遊隧、可依前件、主者施行、
仁安三年六月廿九日、

詔、祖以子貴功以徳酬、此則春秋之合典、古今之彝倫也、朕外祖父故兵部権大輔正五位下平朝臣、識量蓄器、蛍輝於珪璋、節操有心、論貞於松柏、外祖母藤原氏、伝聞訓而稟茂棘之芳胤、満婦徳而遺采蘋之淑誉、俱属運謝空従頎逝、不見栄貴於宮掖之花、早隔雲煙於杳冥之路、前事聞之、朕甚慟哭、於是尊宗之道襟抱未忘、縦異時代何愆朝章、宜降崇号於紫泥、式照光耀於黄壤、外祖父可贈左大臣正一位、外祖母可贈正一位、普造遐迩、俾知朕意、主者施行、
仁安三年六月御画日、廿九日三字、

天皇詔旨良方止、故兵部権大輔平朝臣詔信止勅命聞食宣、
尊外祖追餝給渡、礼典所存奈利、故是以左大臣官、正一位贈賜崇賜勅命聞食宣、
仁安三年六月廿九日、

天皇詔旨良方と、故無位藤原氏偣と勅命聞食宣、
尊外祖母追餝給渡、礼典所存奈利、故是以、正一位贈賜崇賜勅命聞食宣、
仁安三年六月廿九日、黄紙、(『兵範記』同日条)
藤原祐子贈正一位依外祖母故也
7月2日 鳥羽院国忌 鳥羽院御国忌、(『兵範記』同日条)
7月7日 乞巧奠[注 34]、御遊具[注 35]於清涼殿東庇曝涼 内裏御遊具於清涼殿東庇任例被涼、於東庇乞巧奠如此、蔵人基光奉行、(『兵範記』同日条)
7月10日 院殿上朝覲行幸定 今夕於院殿上有朝覲行幸定、摂政左大臣皇太后宮大夫・中納言隆季実房実国忠親兼雅・参議成頼・左兵衛督成範・右大弁実綱等参会、別当左少将脩範朝臣令勘申日時、次依上卿命啓皇太后宮上皇籠御今熊野、仍有儀被啓皇太后宮云々、中納言忠親執定文筆云々、(『兵範記』同日条)
7月11日 六条上皇尊号御報書勅答 上皇御辞書、
伏見詔書、敢非雅意、何以幼沖不敏之性、猥忝太上立徳之名、況乎惶馭俗於秋駕、追脱屣於虛舟、守宝位而四廻、誰聞薰風之声、加尊号而一旦、忽驚紫泥之色、称謂之美、無益于休閑、崇重之儀、不堪于軽薄、縦有旧規、可無所据、早罷上皇之峻号、令遂下愚之懇懷、謹言、
仁安三年三月十一日、
作者式部大輔永範卿、
清書中宮大進光長、
使院別当権大納言定房卿、

奉答上皇辞号、
謹言、忽奉駿命、推謝尊名、驚怖之至、意緒易紊、夫前聖之垂規者、後哲之所鑑也、国典既有跡、徽号何為踰、伏以監国守器之始、纔送夏暦之三載、堯讓臨民之今、偷慕舜日之再中舂昧之甚、当餘熱而心寒、兢惕之深、履薄氷而股戦、謬忝受禅之寄、謹献称謂之崇、而堅抽撝挹、更賜辞章、縦欲檀閑伴於白雲、豈敢忘厚礼於粉澤、願廻聖慮勿悍、愚執、諱、謹言、
仁安三年七月十一日、諱、謹言、(『兵範記』同日条)
7月12日 長日御祈[注 36] 今日公家被始行長日御祈等、(『兵範記』同日条)
7月16日 遷御閑院自内裏 今夕可遷幸閑院、(『兵範記』同日条)
7月17日 祈年穀奉幣 巳剋参内、行水解除、午剋権大納言公保卿・参議家通朝臣参着左仗、次召弁、下官参軾、兼依奉職事仰、直着端座、令敷軾召弁也、仍蔵人大進雖進仗辺、不仰奉幣事、被仰可令勘申祈年穀奉幣日時由、(『兵範記』同日条)
7月19日 堀河院国忌 今日尊勝寺御国忌如例、左少弁為親奉行、上卿中宮権大夫、(『兵範記』同日条)
7月21日 摂政松殿基房二上表、請辞摂政、勅答不許 午後依召参殿下、三条殿、有上表事、摂政第二度、(『兵範記』同日条)

摂政 従一位基房廿五 七月廿一日上表、二度、勅答不許、(『公卿補任』同年・藤基房条)
7月25日 斎宮卜定 斎王卜定事、蔵人大進光雅、
大嘗会事、同左衛門権佐経房、同御禊事、同治部少輔兼光
已上可奉行之由、且伺御気色与奪了、(『兵範記』同日条)
大嘗会並同会御禊定
7月27日 大嘗会大祓、御禊、斎場所雜事並抜穗使發遣日時定 雨下、行水解除、参行事所、召陰陽頭、令勘申来月次第日時、隆職宿祢相共評定、且隨先例也、
陰陽寮、
撰申、可被行大嘗會八月上下旬大祓日時
八月三日壬辰、時未二點、
廿七日丙辰、時午二點、
仁安三年七月七日、権大允賀茂脩平、
主計頭賀茂在憲、
陰陽寮、
択申、可被行大嘗会悠紀・主基・荒見河祓[注 37]幷斎場所雜事日時、
荒見河祓日時、
八月廿三日壬子、時巳二點、若未、
點斎場所地日時、
同日壬子、時未一點、若酉、
鎮謝日時、
廿七日丙辰、時午二點、若申、
立屋日時、
木作日時、
同日丙辰、時午二點、若申、
立柱上棟日時、
九月四日壬戌、時午二點、若酉、
立柱次第、先東、次西、次北、次南、
仁安三年〻〻〻、
陰陽寮、
択申、可被立大嘗会拔穗使日時、
九月十七日乙丑、時午二點、
仁安三年〻〻〻、(『兵範記』同日条)
7月28日 朝覲行幸御祈 次参内、申行朝覲行幸御祈事、
太神宮、神祇小祐大中臣為定自今日参籠本官、至于来月四日、無風雨難幷事故、可被遂行由召仰了、依他副官不在京、被仰下々﨟祐也、
八幡検校法印勝清、
賀茂下、長継、、神主重忠朝臣、
平野、権預卜部兼衡、
祇園座主権僧正明雲
御持僧五口、
大僧々正快修、僧正覚讃、権僧正明雲、法印房覚、
已上御願趣同前、各遺御教書了、
今日法住寺殿御所有行幸御装束始、中納言隆季卿以下四位五位院司参会奉行云々、其中右近少将光能朝臣為執行人、(『兵範記』同日条)
8月4日 法住寺殿朝覲行幸 今日行幸法住寺御所、幼主以後、上皇皇太后宮初為朝覲也、(『兵範記』同日条)
8月10日 諸臣官位昇進詔書 天皇詔旨良万止勅名乎、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民衆聞食宣、
太政大臣者、摂政従一位藤原基房朝臣可任奈利、而内大臣藤原忠雅朝臣、数代歴仕弖、重任奈利止謙讓之心深之、内大臣正二位藤原忠雅朝臣乎、太政大臣上給治賜布、又位次不可誤而、従一位布、正二位行権大納言源雅通朝臣者、公務日夜慎奉之上尓、可仕奉尓毛而、内大臣任賜布、又宣久、継々奉仕倍幾次第止之而、正二位行権大納言源定房朝臣乎、大納言尓、従二位行中納言藤原実房朝臣乎、権大納言尓、正三位行権中納言宗家朝臣藤原実国朝臣乎、中納言尓、参議正三位平時忠朝臣乎、権中納言尓、正四位下平朝臣教盛乎、参議尓、任賜波久止勅御命乎、衆聞食宣、
仁安三年八月十日、(『兵範記』同日条)
8月12日 賜摂政松殿基房隨身兵仗、是日、除目 今日可被行任大臣之後除目、午後隨身申文、先参殿下、除目雖為臨時儀、於御前可被行之由有仰、大嘗会御禊可供奉之諸司、此次可被任之由、承御旨参院、大理被候会、申文目録注折紙進入了、入夜下給御書、帰参殿下、更又被申御報、蔵人基光為御使、被待帰参之間及雞鳴、基光帰参、次殿下出御々座、蔵人少輔向仗座、召左大弁雅頼卿・大丞参御直廬、依御気色着御前円座、次召五位蔵人兼光、々々参上、召紙硯、即持参、如叙位、次儀始、先除目、次叙位、先是召兼光、召外記転任勘文、事了執筆献除目叙位、大弁退去、次殿下召清書人新中納言兼雅、参上、賜除目叙位、次納言於弁座被聞之、次向仗座、平宰相々共被行清書、此間下官出陣座、仰上卿云、
右衛門督平朝臣検非違使別当如元、即奉上宣、下官仰史了、
次於小板敷仰能登守通盛還昇事、次蔵人少輔於仗座、宣下摂政内舍人隨身事、次殿下於東中門有御拜賀事、内舍人隨身源盛員・豊原範時、即今度被任両人、参御供、頭中将奏御慶賀於中門、令拜賀給、次令参院給、蔵人少輔奏聞欤、若頭中將欤、次令参院給、別当右近少将光能朝臣奏之、于時曉更、依御寝不令参御前給、不及其儀云々、次還御三条殿、覧三方吉書、
蔵人方頭中将実守朝臣、官方左少弁為親、政所蔵人少輔云々、
権少外記清原近業、右少史大江有孝、
中務権少輔藤原季盛、内舍人平盛貞、
民部権少輔源延俊、豊原則時、
少丞源為久、宮内卿藤原成頼兼、
内蔵頭平経盛兼、皇太后宮大夫藤師長、兼、
右近衛大將源雅通、兼、左衛門尉平信広、蔵人、
右衛門督平時忠、兼、右兵衛佐藤原季能兼、
大宰少弐大江通資、周防守高階信章、
伊予守藤原親信兼、
正三位平教盛、坊官賞、御祈賞、
従四位下安倍季弘、御祈賞、藤原盛方、臨時、
従五位下紀宗尚、外記、中原季良、史、
同知義、源経成、
検非違使別当如元、
勅、繇徳優賢、帝載之餘風永扇、以功重賞、人臣之茂績太彰、誠是累代嘉模、彝倫攸叙、従一位藤原朝臣、契成風雲、任叶社稷、朕童年而登位、偏頼其翊扶、蒙昧而臨民、只在其輔導、伝国之命不軽、摂籙之寄弥重、故機衡克調、即是我朝之也、材幹惟宏、寧非王室之梁柱哉、宜尋褒崇之勝躅、以備士卒之捍衛、夫賜内舍人二人、左右近衛府生以下各六人、為隨身兵仗、但近衛者前朝之所授也、非当時之所資矣、庶幾弐兵分行、増威儀於鳳池之波、警巡有跡,耀出入於象闕之月、主者施行、
仁安三年八月十二日、作者大内記光範、(『兵範記』同日条)
8月15日 石清水放生会 自夜雨降、蔵人尉放生会一員、役雖先例不聞、今度有存旨、一日除目申任、相具参向、左衛門佐尉令列氏神事、已叶雅意、又可云繁昌者也、(『兵範記』同日条)
8月16日 駒引[注 38] 駒引、入夜左衛門督実国・参議親範卿参着仗座、先被奏御馬解文、(『兵範記』同日条)
承安1年(1171年) 7月24日 11 読『帝範』『臣軌』 承安元年七月二四日御読了、
此書奉授二代聖主了、家之重宝也、(成簀堂文庫蔵『帝範』『臣軌』奥書)
安元3年(1177年) 2月1日 17 停春日祭依諒闇也 依諒闇不奉幣於春日、去年十一月今日修由祓、是因殿暦也、而嘉承三年二月同御記[注 39]、祭当日有由祓、倩案事理、無奉幣由祓須有当日欤、仍隨彼三年例、今日不行由祓、然而尚神事也、是又先例也、(『玉葉』同日条)
2月4日 祈年祭 祈年祭也、上卿行事左少弁、(『顕広王記』同日条)
2月5日 読『貞観政要』 安元三年二月五日、奉授主上既訖、
正三位宮内卿兼式部大輔権播磨守藤原朝臣永範、(宮内庁書陵部蔵『貞観政要』奥書)
治承2年(1178年) 5月30日 18 内裏御作文 巳剋向東山堂、行弥勒講、左衞門権佐光長来、今日彼人致布施供養沙汰、安房守定長・阿闍梨光玄等来、定長曰、未剋許参内、依御作文也、題云、詩境多脩竹、題中、左兵衛督、成範、束帯、宮内卿、永範、直衣、左大弁、俊経、直衣、殿上人、七八人、応製、講師非藏人藤原道業、給料、読師権右中弁親宗朝臣、御製講師藏人右少弁光雅、読師左兵衞督、御製落句云、豈忘一字勝金德、可愍白頭把卷師、宮内卿・左大弁垂涙、両卿為師侍欤読也、講了雲客退之間、宮内卿降東対閑院御也、南階、左大弁又借請左武衞笏、同降階、去於一許丈拜礼、宮内卿二拜、左大弁舞踏、経南庭出東門北戸、其気色忽如蒙恩賞云々、(『山槐記』同日条)

治承二年五月晦日、内裏にて密々に御作文ありけり。題にいはく、「詩境多脩竹」。左兵衛督成範卿以下参られたりけり。御製の落句に、「豈忘一時勝金徳、可愍白頭把巻師」。かく作らせ給ひたるを承りて、宮内卿永範卿・左大弁俊経卿、ともに御侍読にて候ひけるが、感涙をのごひて、両人東台の南階をおりて二拝、左大弁舞踏しけり。左大弁は左兵衛督の笏をぞ借り受けける。まことにゆゆしき面目にこそ。(宮内庁書陵部本『古今著聞集』・文学第五)
治承5年(1181年) 1月9日 21 御悩漸重 又語新院御悩子細、御面時々令腫給、御腹御満動、欲痢止、又雖為□□□、好薄衣、厭暑気給云々、又御声頗変、例大略無其憑事也、但心神不異尋常云々、(『玉葉』同日条)
1月12日 召阿證房上人、受戒 人告云、新院御悩危急御云々、即進使者、問邦綱卿、及兼光朝臣等、又以書問女房、數刻之後、帰来云、日来御無力殊太、而今日殊有御辛苦、仍阿證房聖人召、有御受戒、其後頗有御減云々、又被行御占之処、明日明後日殊可慎御云々、凡今五六日之內、大事可出来欤云々、(『玉葉』同日条)
1月13日 御悩危急 左大将参法成寺修正、先参院御堂、他人不参云々、大将□須明□参此之間、日々風病更発、今日□有□隙所参入也、余着烏帽、直衣、参院御所近辺、邦綱卿直盧、引入車於門内立榻、招出邦綱卿及兼光朝臣等、問御悩之子細、余依脚気不快、日来籠居、猶行步不可叶、仍乍懷不参入、而昨日及危急御之由、有其聞、仍今朝、若大漸事出来者、奈後悔何、仍志之所之、参近辺欲入見参、是則深存忠之故也、邦綱卿先出来、伝勅云、病至而重、命在旦暮、遂今一度不面謁之条、殊遺恨思食者也、扶病強参上、尤悦思食者、奉詔旨之処、不覚之涙浮双眼者也、大納言語云、今夜欲被始行五壇法、用途不叶之上、借多辞退之間、明日可被行云々、凡御有様、於今者、一切無其憑、御面手足頗腫給、又殊令厭熱気給遥去火気、薄御衣、猶以為重、身体更不叶御心、御心但御正念一切不違給、起日叡慮有臨終之御沙汰等云々、余問惜命給哉否、密語云、深有其御心、因茲、雖不令勘灸治給、已及數十所了云々、聞此事、弥悲歎難忍、余云、太神宮・八幡、殊可有御願、又可被行尊星王法也、但事体決定可有危者、御臨終之沙汰、不可有他事、近召有道心之僧徒、常可被演説往生極楽之至要也、如此事、近臣之男女房等、偏成忌語、不申出欤、是極愚事也、此等条々、可早被申行者、頃之、納言帰参了、相次兼光来、語御悩子細、不異邦綱卿之所言、(『玉葉』同日条)
1月14日 於六波羅泉殿崩御、追号高倉院、葬清閑寺 寅刻人告云、新院已崩御者、依不知実否也、相尋之処、卯刻、使帰来云、事已一定、丑終寅始程事云々、欲営参之処、日来黏病廗、夜前参門外、風冷相侵、心神殊悩、仍令参大将、出立之間、自然及巳刻、直衣垂纓如例、不能謁女房、只蹔候公卿座、先是、人々五六人祇候云々、未刻帰来云、御葬今夜被用最略儀、隆季卿、兼光朝臣等奉行云々、今夜御斎会終、入夜被始行、上卿一人不参、右兵衛督家通・左宰相中将実宗等参上、以参議用上卿代官、古今未有例云々、鎮善勤真言院法、可令諸寺修正□□行之、(『玉葉』同日条)

未明巷説云、新院已崩御、依庭訓不快、日来不出仕、今聞此事、心肝如摧、文王已没、嗟乎悲矣、清思之、世運之尽欤、健御前依懇切、密々求牛車送之、被参池殿、謁或女房帰来、被語云、至于今暁叡鳳太分明、夜前実全僧都験者、依可造山上住房、為方違可退出由申、若州抑留之、仍申不可罷出由、而殊被仰云、山上方忌尤不便、早賜暇可令方違也、依再三仰、僧都退出、其後進泰山府君都状、召脂燭、分明御覧、又依人々申、聊召寄御膳、御寝之際、御気頗有奇事、奉驚見之間、事已危急、仍以泰通朝臣令申院御方、即渡御、打鳴金、雖有御念佛、不及御合眼云々、日来法皇渡御、深喜悦思食、乍臥有御対面、御言語如平常、諮詢互懇切云々、付視聽催悲慟之思、須馳参之処、末座者更不可然由、深以難渋、是又前世之宿報耳、只以此説、僅不審、今夜渡御邦綱清閑寺小堂、抑是六条院御墓所堂云々、如何々々、聞及事不幾、夜私出交雑人見物、落涙千万行、(『明月記』同日条)

太上天皇崩于六波羅頼盛亭、御年廿一、号高倉院、奉葬清閑寺、(『百錬抄』同日条)

つゐにたまのなへ、たねをついで、まうけの君、春のみやまに、ちよのかげをならべさせ給て、大うち山をたちいでて、みやばしら雲のおりゐさせたまひしのちい、はこやの山、よろづ世よバはんこゑをまち、汾陽縣の水、とかへりすまんながれを汲て、しらぎくのおりふしごとに、かはたけのその夜を、はるかに契りしかひもなくて、おぼろ月よのかきくもり、御心のうち、あさぎりのはれぬやまひに、日數つもりつつ、よもぎがしまのくすりい、たゞ名をのみ聞て、葛稚が方も、そのしるしもなくて、治承五の年の春のはじめ、十四日のあかつき、「ねざめ」の御枕をきたになして、たまの御ありかも、にしにうつさせ給しかば、雲とやなり、雨とやならせ給ぬらん、夢かゆめにもあらぬかと、おもひあいせんかたもなく、まどひにまどひをそへて、我になして、我にもあらず、あけゆく鳥のこゑもおしまず、をのがきぬ[注 40]いづちすてて、かくれさせたまひぬるぞと、たゞありあけの空をながむれバ、みどりのかすみばかり、うたてたちのぼり、いさごをたゞきて、つちのそこへいらんとすれば、きなるいづみそこふかくして、かへらぬ水の、うき世のあいとはいひながら、なみだの川のめのまへに、かかるうくせきよをわたるべしとい、きしうつなみの、思ひよらざりし物をと、なげくにかひなし、ひむがしにおいしますとしらバ、さしいでん日かげに、あさがほのつねなきためしを思ひしり、にしにおいしますとしらバ、かたむく月のひかりにつけても、しのすゝきしげきなげきをも、かくとほのめかし、みなみにおいしますとしらば、かすみをわけてもながめやり、北におはしますとしらバ、こしぢにかへるかりがねに、たまづさをつけてもなぐさむべきに、おほぞらにのぼり、よろづのうみをも、もとめがたければ、あやにくに心あくがれて、そのゆふべ、六はらより清閑寺にうつしたてまつる、殿上にて、まづのちの御名のさだめあるにつけても、たかくらいかなる大ぢにて、うき名の御かたみにのこり、ひむがし山いかなるみねにて、かぎりの御すみかとさだめらるらんと、おもふもかなしく、さよもやゝふけゆきて、御前僧などまいりあつまりて、あるべき御よそ「ほ」ひどもはてにしかば、つねの御車さしよせて、あへなくたてまつりしほど、ちかきまもりのとねりども、たちそひたてまつるそうもなく、みさきのこゑをば、わかれをしのびねにかへ、あさゆふなれつかうまつりし人い、としごろの宮づかへを、こよひにかぎりつつ、巴峽にもをうるほすさるのさけびにかいらず、つるのはやしにたきぎつくるけぶりにまどひて、つねのみゆきにかいらぬありさまも、さすがにしかまのかち路のみちより、ゆきそむるあともおぼえず、みねのゆき、みぎハのこほりをふみわけて、しらざりしやまのふもとに、うつせみのみからを、おさめたてまつる、そうの念佛となへあひたるも、りやうせんかいの、のりをときしには、うがくむがくの、らかんのあつまりしかとおぼえ、かねのおとの、こゝかしこにきこゆるも、ぎをんしやうじやのむじやう院の「夕ぐれの」」心地す、光をかゞやきしたまの御車も、夜はのけぶりとはかなくたちのぼる、色をよそひしにしきの御ましも、はるのこけにながくうづもれて、かたときはなれたてまつらざりしともがらも、おんあいのおもひはかぎりなけれど、生死のさかひにかはりにけれバ、妻子ちんぽふ及王位、まことに御身にしたがふものもなく、たゞをくりをくやまの中に、御わざの事はてにしかば、ゆくりなき三昧僧に、あづけをきたてまつりて、法華道場をたておさめ、をの[注 41]ゆきわかれにき、[注 42](『高倉院昇霞記』)
1月24日 薨後 遺詔奏 此日、高倉院被奏遺詔、大蔵卿雅隆朝臣為使云々、子細可尋記、(『玉葉』同日条)
1月27日 二七日御仏事
1月29日 右大臣九条兼実着喪服、於高倉院御墓所修諷誦、供養阿弥陀経
2月4日 平時忠申高倉院遺詔、以故建春門院御荘及京地為中宮御領
2月5日 御斎会定、是日、開関
2月6日 中宮為高倉院修御仏事
2月11日 四七日御法事
2月12日 結縁経供養
2月18日 五七日御法事
2月25日 於最勝光院、為高倉院行御斎会
2月29日 高倉院御法事、右大臣九条兼実於高倉院御墓所供養仏経等
閏2月3日 七々日御法事
3月8日 於最勝光院、為高倉院修御月忌
3月14日 御月忌
3月22日 五部大乘経供養
11月22日 周闋御斎会定
寿永1年 1月14日 高倉院国忌
寿永2年 1月19日 於最勝光院、為高倉院修御八講
建保2年 5月8日 高倉院三十三年御忌


主な後宮・女官一覧

※日付=旧暦

氏名 女官 位階 呼び名 宮仕先 備考
藤原経子 乳母、典侍 従三位 大納言典侍、大納言三位 内裏 藤原家成の娘、平重盛の妻、平清経の母。仁安元年10月10日、叙爵。嘉応元年10月25日、典侍に任ず。同年4月6日、従五位上に叙す。同年10月25日、八十島使を務む。後に従三位に叙されるも、年月日は詳らかならず。
藤原邦子 藤原邦綱の娘、六条天皇及び高倉天皇の乳母を歴任。永万1年7月22日、典侍に任ず。同月27日、右褰帳命婦となる。仁安1年11月25日、従四位下に叙され、時に「御乳母」と称される。同2年12月29日、従三位に叙す。治承4年11月24日、病中の高倉上皇に供奉し、福原還御の御車に同車す。
藤原綱子 別当典侍、別当三位 藤原邦綱の娘、高倉天皇と平徳子の乳母であった。永万1年7月22日、典侍に任じられ、従五位下に叙される。仁安3年4月6日、従五位上に叙す。同年12月4日、正五位上に叙す。嘉応1年10月、典侍を辞す。その後従三位に叙される。
平清子 中納言典侍、中納言三位 平時信の娘、平滋子の姉、平時子の妹、平清盛猶子平宗盛の妻、平清宗の母である。仁安3年3月11日、典侍に任じられる。同年4月6日、従五位上に叙される。同年4月23日、賀茂勅使を務める。同年12月4日、正五位下に叙す。その後累進して従三位に至る。治承2年閏6月16日、出家。同年7月16日、薨去。享年33。
平時子 従二位 二位尼 平時信の娘、平時忠の同母姉、平清盛の妻、平宗盛らの母。二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇の乳母を歴任。大治1年生まれ。二条天皇践祚後に典侍に就任。永暦1年12月24日に従三位に叙され、「師三位」と称される。仁安1年10月21日に従二位に叙す。同3年2月11日に出家。寿永4年3月24日壇ノ浦で入水。
平政子 乳母 若狭局 おそらく平正盛の娘であり、丹後局・高階栄子の生母とされる。高倉・安徳両朝において、権勢ある女房として後宮で活躍した。
藤原公子 乳人 従四位下 帥局、輔局 藤原公重の娘。安元2年、皇女(後の功子内親王)を出産。仁安3年4月に従四位下に叙される。その後密通の噂があり、治承3年1月10日に流産のため死去したと伝わる。
藤原忠子 典侍 従五位下 権中納言 藤原光忠の娘、おそらく平維盛の室。仁安3年3月11日、典侍に任ぜられる。
藤原教子 督殿 藤原実綱の娘、源雅行の妻。仁安3年3月11日、典侍に任ぜられる。嘉禄1年5月19日、逝去。
平総子 従五位上 出自不詳。安元2年1月11日、従五位上に叙される。
信子女王 従五位下 内裏 顕広王の娘。治承2年10月27日、典侍に任ぜられる。
平瑞子 中納言典侍 源有房の娘。有房の妻が平清盛の姉妹(あるいは清盛の女)であった縁故で、平宗盛の猶子となる。安元2年4月、典侍在任。治承3年3月26日、典侍在任。その後、後鳥羽朝に女房として仕える。
藤原業子(実子) 従五位下 内裏
源某女 中納言典侍
平某女 坊門殿
甲斐 内裏
賀茂某女 尾張 殷富門院・亮子内親王
藤原某女 新中納言
某女 春日
大輔
藤原季子 蔵人 従五位下 中宮・藤原育子
平信子 皇太后・平滋子
源雅子 太皇太后・藤原多子
藤原某女 宣旨 内裏
藤原豊子 典侍 按察典侍
藤原殖子 従三位 兵衛督
藤原説子 掌侍 伊豫内侍
高階兼子 弁内侍
高階仲子(業子) 掌侍 従四位下 美作内侍
高階行子 従五位下 播磨内侍
藤原範子 甲斐内侍
藤原能子 少納言内侍
平範子 少将内侍 内裏
藤原朝子 従五位下
平種子
平禅子 少輔内侍
源某女 備中内侍 内裏
平永子 蔵人 従五位下
平忠子 御匣殿蔵人 内裏
中原重子 内教坊
藤原親子 命婦
藤井今子 水取 外従五位下 内裏
清原吉子 掌縫 従五位下
清原某女 大弐帥
某姓統子 掌侍 内裏
某姓宏子
平久子 従五位下
源保子
安倍康子
橘皓子
藤原範子 御匣殿蔵人
藤原信子 命婦
藤原弘子 蔵人
安倍永子 采女
藤原令子 内教坊
河内春子 水取 外従五位下
平静子 命婦 従五位上
藤原維子 蔵人 従五位下
平近子
中原全子 内教坊
藤原包子 女史 内裏
藤原保子 采女
中原能子 闈司 内裏
藤原惟子 命婦
藤原尚子
石原友子 女孺 外従五位下
藤原成子 従五位下 小督 内裏
藤原某女 命婦 少納言
紀某女 新少将
大中臣某女 越前 内裏
藤原某女 右衛門佐
中将
紀某女 小侍従
平某女 尾張
藤原某女 掌侍
某女 按察局
藤原某女 坊門局、京極局 後白河法皇
某女 冷泉局
藤原某女 近衛局
大宮局
従三位 高倉局 後白河院の「愛物」とは、下級貴族あるいは平民の出身、すなわち「其品人不知、最下劣者欤」というものだ。
藤原龍寿女 大納言 賀茂斎院・式子内親王 藤原俊成の娘、藤原定家の姉妹。
藤原某女 女別当
源某女 中納言 源師仲の娘、平重衡の愛人。
某女 中将 平重衡と縁あり。


逸話

高倉帝寵愛の紅葉で暖を取る仕丁たち。井上安治筆、「教導立志基」より

平家物語』巻六「紅葉」には、高倉天皇の仁徳と雅量を伝える次のような逸話が記されている。

去んぬる承安の頃ほひ、御在位の初めつ方、御歳未だ十歳ばかりにもやならせましましけん、余に紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山をつかせ、・鶏冠木の色うつくしう紅葉ぢたるを植ゑさせ、紅葉の山と名付けて、終日に叡覧あるに、なほ飽きたらせ給はず。然るを或夜、野分はしたなう吹いて、紅葉皆吹き散らし、落葉頗る狼藉なり。殿守のとものみやつこ、朝ぎよめすとて、是を悉く掃き捨ててんげり。残れる枝、散れる木の葉をばかき集めて、風すさまじかりける朝なれば、縫殿の陣にて酒あたためてたべける薪にこそしてんげれ。奉行の蔵人、行幸より先にと急ぎ行いて見るに、跡方なし。「如何に」と問へば、「然々」と答ふ。「あなあさまし。さしも君の執し思し召されつる紅葉をかやうにしけるあさましさよ。知らず、汝等禁獄・流罪にも及び、我が身も如何なる逆鱗にかあづからんずらん」と思はじことなう、案じ続けて居たりける処に、主上いとどしく夜の御殿を出でさせもあへず、彼こへ行幸なつて紅葉を叡覧あるに、なかりければ、「如何に」と御尋ねありけり。蔵人奏すべき方はなし。ありのままに奏聞す。天機殊に御快げにうち笑ませ給ひて、「『林間に酒を煖めて紅葉を焼く』といふ詩の心をば、其等には誰が教へけるぞや。やさしうも仕たる物かな」とて、返つて叡感に預つし上は、敢て勅勘なかりけり。

この時、高倉天皇が少年の頃、普段から愛していた庭の紅葉をある日庭掃除の仕丁らが焚火にして酒を飲んでいた[6]。側近らが罰せようとすると、帝は漢詩の「林間煖酒焼紅葉(林間に酒を煖めて紅葉を焼く)」になぞらえたもので風流であると仕丁らを放免した[6]

天皇が引用したのは、じつは白居易の『送王十八帰山寄題仙遊寺』という詩であり、その原文は以下の通り。

曽於太白峰前住、数到仙遊寺裏来。
黒水澄時潭底出、白雲破処洞門開。
林間煖酒焼紅葉、石上題詩掃緑苔。
惆悵旧遊復無到、菊花時節羨君廻。

雛人形の笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三仕丁はこの逸話によるもの[7]

高倉天皇宸翰御消息付守覚法親王御消息

高倉天皇宸翰御消息、仁和寺所蔵
大法無事結願、喜悦且千、今度事、此法所致之由、深以存思給候者也、加之先於三條殿、被修此法之時、靈驗殊勝之上、今又如此、無所謝候、諸事期面拜、謹言、[注 43]
十一月十三日、

高倉天皇宸翰御消息(たかくらてんのうしんかんごしょうそく)は、平安時代末期の治承2年(1178年)11月13日に、高倉天皇が、仁和寺第6世門跡である守覚法親王に宛てて送った書状である。

日本の国宝に指定されており、守覚法親王が天皇への感謝と感激を記した返状である守覚法親王御消息(しゅかくほしんのうごしょうそく)が、その附として指定されている。現在は京都府京都市右京区の仁和寺が所蔵する。現存する唯一の高倉天皇の宸翰として知られる。

その筆致は、全体を統べる気品とつつましい結体を兼ね備え、気韻に満ちた新鮮なものである。当時、宮廷では世尊寺流が流行しており、高倉天皇の書にも、中宮徳子の後宮に出仕していた伊子(建礼門院右京大夫、世尊寺流の当主・藤原伊行の娘)の書風の影響が見て取れる。九条兼実も日記『玉葉』の中で、その能書ぶりを「尤神妙、見御筆勢、可謂得天骨」と絶賛した。わずか18歳の少年の手とは思えない、堂々たる王者の風格がにじみ出ている。

本宸翰は、皇子(後の安徳天皇)が無事誕生した翌日の治承2年(1178年)11月13日に書かれたものである。 これに先立ち、出産を間近に控えた10月25日に向け、高倉天皇の兄である守覚法親王が、六波羅の平清盛邸において安産祈願の「孔雀経法[注 44](文中の『大法』)」を行っていた。

11月12日に皇子が無事に降誕したことを受け、翌13日、高倉天皇は法親王の修法の霊験と労をねぎらうためにこの書状を送った。天皇は、大法が無事に結願したことへの喜びを伝え、今回の皇子誕生はこの修法の霊験によるものであるとして深く感謝している。文中に「先於三条殿、被修此法(先に三条殿において、此の法を修せられし)」とあるのは、承安2年(1172年)10月4日に三条烏丸内裏において、公家の御祈のために守覚法親王が孔雀経法を始修し、霊験殊勝であった事例を指している。

皇子降誕事、凡不能左右候、一天大幸、何事如之哉、更非言辭之所及候、而今披綸旨、不覺之涙難禁候、宗之光華、身之眉目候歟、永以此天書、可備門跡之後鑒候、恐悦之至、殊可參謝候、以此趣可被披露之狀如件、敬白、[注 45]
十一月十三日、守覺

この宸翰に対し、守覚法親王は同日中に返状(付・守覚法親王御消息)を認めた。法親王は皇子降誕を「一天大幸」と祝福し、天皇からの宸翰を拝見して思わず涙を禁じ得ないと記している。そして、この手紙を永く「門跡之後鑒」として備えおく、すなわち仁和寺の家宝として後世の模範とすると述べ、恐悦至極の思いを伝えている。また、『仁和寺諸師年譜』には、この宸翰が経蔵に納められたことが記録されている。

高倉天皇の所領

本表は、『国史大辞典』「高倉天皇」の項における「高倉天皇 所領一覧[図版]」の節に基づき作成したものである[8]

高倉天皇所領一覧
所在国郡 名称 特徴 典拠
山城国宇治郡 音羽荘 正応5年閏6月高倉院法華堂禅衆と音羽荘住人との相論あり、文亀元年11月種基を下司職に補任 壬生家文書・土山文書
摂津国河辺郡 野間荘 保元2年後院領に編入、仁安3年11月には伊予局の知行、領家職はのち徳禅寺・妙法院と転々とする 徳禅寺文書・妙法院文書
尾張国海部郡 富吉荘 建久8年立券、高倉院法華堂領 壬生家文書
加賀国江沼郡 熊坂荘 寿永2年平頼盛室領、八条院領となる、高倉天皇譲状のうち、幕府に連絡、法華堂領とする 吾妻鏡・経俊卿記
越後国蒲原郡 青海荘 高松院領、年貢未納、関東知行国のうち、式内社の青海神社鎮座 吾妻鏡
丹波国桑田郡 吉河荘 高松院領、のち長講堂領
安芸国安芸郡 佐伯郷時武名 寿永2年建礼門院庁下文、用途未進を責む、高倉院法華堂領 田中忠三郎氏所蔵文書
世能村・荒山村 建久4年安芸国司平親守の立券、太政官厨家納物米、高倉院法華堂領 壬生家文書・京都大学図書館所蔵清家文書

鳥羽天皇の皇女であり、二条天皇の中宮となった高松院姝子内親王は、多くの荘園や京地などを所領としていた。同院は安元2年(1176年)6月に没するのに先立ち、これらの所領を後白河上皇の女御・建春門院平滋子に伝えた。これはおそらく政治的意向によるものであろう。しかし、同年7月には建春門院も死去した。同院は高倉天皇の生母であったため、高松院領は高倉天皇が伝領することとなった。

治承5年(1181年)正月、高倉天皇の崩御に際し、この所領が中宮平徳子(建礼門院)に譲られた経緯について、『玉葉』治承5年年2月4日条には次のように記されている。

伝聞、故高松院御庄井京地等、被譲献故建春門院、仍高倉院御伝領、而登霞之刻、被奉処分中宮之由、時忠卿申法皇、御処分之実否難知、時忠之所行歟、不聞分明之仰、中陰之間、号中宮令旨、推以奉行、法皇内心不説云々、

平時忠は後白河法皇に対し、「高倉院は崩御の際、これを中宮平徳子に譲与された」と報告した。遺命の真偽は定かではなく、法皇からの明確な仰せもなかったが、時忠はまだ喪に服している期間に、中宮の令旨と称して強引にこれを執行した。法皇は内心、これを快く思わなかったという。


系譜

高倉天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第72代 白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 第73代 堀河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原賢子
 
 
 
 
 
 
 
4. 第74代 鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原実季(=20)
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原苡子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 藤原睦子(=21)
 
 
 
 
 
 
 
2. 第77代 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原実季(=18)
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原公実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 藤原睦子(=19)
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原璋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原隆方
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原光子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 第80代 高倉天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 平経方
 
 
 
 
 
 
 
12. 平知信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 藤原雅信女
 
 
 
 
 
 
 
6. 平時信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 平滋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原顕隆
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原顕頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 藤原悦子
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原祐子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 藤原俊忠
 
 
 
 
 
 
 
15. 藤原忠子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
77 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78 二条天皇
 
以仁王
 
80 高倉天皇
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
式子内親王
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79 六条天皇
 
某王
北陸宮
 
81 安徳天皇
 
守貞親王
(後高倉院)
 
82 後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86 後堀河天皇
 
83 土御門天皇
 
84 順徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87 四条天皇
 
88 後嵯峨天皇
 
85 仲恭天皇
 
忠成王
(岩倉宮)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女


在位中の元号


陵・霊廟

後清閑寺陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)に治定されている。かつては清閑寺・高倉院法華堂・清閑寺法華堂などと称された。清閑寺本堂の北方約70メートルの山腹平坦地に所在する。宮内庁上の形式は方丘。

『山槐記』や『高倉院升遐記』によれば、治承元年(1181年1月14日の天皇崩御の夜、遺骸は清閑寺法華堂に奉葬された。『玉葉』建久6年(1195年)9月3日条に「高倉院法華堂三昧僧供田事、六口各二町、可充賜交坂・大墓両御領之由仰畢」とあり、『葉黄記』寛元4年(1246年)6月27日条に「高倉院法華堂供僧、補千誉律師」とあって、当陵には所領を付して供僧を任命し、守陵祭祀を行わせた。のちに法華堂は消滅したが、寺僧の祭祀は行われ、元禄の諸陵探索時にも所在明白で、幕末には聖護院宮の管理下にあった。

明治29年(1896年)、六条天皇の清閑寺陵と陵域を区分して現陵号を設定。この際、四周に土塀を巡らせ、南面に唐門を建設した[9]。陵域は間口20メートル、奥行15メートルで南南西に面しており、中央西寄りにある法華堂の旧基壇と見られる一辺約5メートル、高さ約0.6メートルの石垣積みの墳丘がある。また、墳丘東側には小督局の塔と伝える石造の小宝篋印塔がある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


関連作品

テレビドラマ
テレビアニメ

脚注

注釈

  1. ^ これに対して、母・建春門院が崩御した直後のことで、高倉天皇の同母弟が生まれる可能性が無くなったのを受けて治天の君である後白河院が皇位継承の安定化のために図ったもので、譲位させる意図はなかったとする説もある。これは高倉天皇に安徳天皇ら皇子が次々に誕生すると異母弟たちの出家が行われていることや後に平家一門が安徳天皇を連れて西国に落ち延びた際も後白河院が高倉天皇の血筋以外への皇位継承を否認しているからも証明できるとしている。ただし、この説においても当時16歳であった高倉天皇や平家一門がこの判断をどう受け取るかは別問題であるとしている[2]
  2. ^ 高倉天皇も父である後白河院を警戒して母・建春門院から継承した所領を自己のものとし、崩御の際には中宮であった徳子に継承させようとしている[3]
  3. ^ 参考のため、引用した史料は適宜修正・調整することがあります。
  4. ^ 行啓とは、太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫の外出を指す尊敬語です。平安時代中期以降、公式の儀礼としての外出を表す用語として、天皇の外出を指す「行幸」、上皇・法皇・女院の外出を指す「御幸」とともに、それぞれの身分に応じて明確に区別され使い分けられてきました。
  5. ^ 還幸とも。天皇・法皇・三后が、出かけた先から帰ること。転じて、将軍・公卿が出先から帰ることにいう場合もある。
  6. ^ 天皇が引馬を御覧になる儀式。年初の白馬や貢馬、官祭奉仕の走馬などを禁中に引かせて観覧する。
  7. ^ 平安時代以後、幼帝や東宮、親王などの就学始の儀式。先例によって9~11歳ごろの上吉の日に行なわれ、侍読、尚復が選ばれて教授し、教科書には主に『孝経』や『文選』が用いられた。当日は、たとえば『御註孝経序』と書名だけ読んで終わる簡略な儀式であるが、この後に侍読の計画に従って継続して学習生活にはいった。
  8. ^ 古くは陰暦12月15日から、後には19日から三日間、宮中で行なわれた法事。僧に仏名経を読ませ、六根の罪障消滅を祈るもの。
  9. ^ 古代、朝廷の大礼または変乱などが済んだあと、固めていた逢坂(はじめは愛発)・鈴鹿・不破の三つの関を開いて警護を解くこと。
  10. ^ 平安時代、宮中において、臨時に警備の配置をしたものを解散すること。
  11. ^ 藤原永範(1102年? - 1180年) は、平安時代後期の公卿であり漢詩人である。文章博士や東宮学士などを歴任し、最終的には正三位・宮内卿に至った。後白河・二条・高倉天皇の三代天皇にわたり侍読を務めた学識者として知られる。その漢詩作品は『中右記部類紙背漢詩集』に、和歌は『千載和歌集』などの勅撰和歌集に、また文章は『願文集』や『詩序集』などの文集にそれぞれ収められている。治承4年に75歳(または79歳)で没した。
  12. ^ 陰暦3月3日と9月3日に、天皇が北斗星を祀って燈火を献じた朝廷の儀式。796年ごろ始まった公事。元来は北山の霊厳寺など、高い峰に火をともして北辰権現を祀る信仰の行事だった。平安時代中期から末期になると御燈を奉らず、「御燈を奉らざる由の祓」のみを行う、いわゆる「由の祓」にすることが多くなった。
  13. ^ これは天仁元年(1108年旧暦9月3日の御灯御祓を指す。『殿暦』の同日条には、「三日、庚戌、天晴、今日御燈也、其儀如常、但余着束帯可参御前、而依蒜服不可参仕由、有院仰、仍候宿所、今日有御拝、抑長和五年九月御燈停止之由、見御堂御記寛治元年九月雖御燈、有御禊、無御拝、而今度依院仰有御拝、余御禊以前精進、其後服蒜、今夜退出参院、」と記されている。忠実は本来、束帯をして上皇の御前に参上する予定でしたが、「蒜を食べてしまった」ため、その臭気による穢れを理由に、白河上皇から「参上しなくてよい」との仰せを受け、宿所で待機することになりました。また、忠実は『御堂関白記』などの過去の記録と照らし合わせ、昔は行われなかった「御拝」が、今回は上皇の命令によって異例ながら執り行われたことを記しています。忠実自身は、その後夜になってから院へ参上しました。
  14. ^ ここは、天仁元年(1108年)旧暦8月21日鳥羽天皇が六条殿から内裏へ還御された出来事を指していると考えられます。具体的な記録は『殿暦』同日条をご覧ください。
  15. ^ 古代、宮中で行われた年中行事の一。天皇が紫宸殿に出御、臣下に酒を賜り、政務を聞く儀式。もとは毎月1日・11日・16日・21日に行われたが、平安中期以後は4月と10月の1日だけとなった。
  16. ^ 旬、節会など、本来天皇が出席して行なわれる儀式の、天皇出御のない場合の形式。
  17. ^ 石清水八幡宮で毎年3月の中の午の日または下の午の日に行われた祭礼。その起源は天慶5年(942年)、朱雀天皇の時代にさかのぼります。承平・天慶の乱平定の報賽 として臨時に執り行われたのが始まりです。その後、天禄2年(971年) からは名称こそ「臨時祭」のまま、恒例の祭礼として定着しました。また、当時盛大に行われていた賀茂臨時祭(北祭) と対比され、南祭とも呼ばれることがありました。この呼称は、京都の南北に位置する二大臨時祭として並び称されたことを示しています。
  18. ^ もと広瀬大忌祭と称され、奈良・平安時代には神祇官所祭の四時祭として毎年4月と7月の4日に竜田風神祭と同時に執行されたが、現在は4月4日だけに広瀬神社の例大祭として行われる。
  19. ^ 京都市北区に鎮座する平野神社の例祭。平安時代以来、毎年4月と11月の上申日に行われた、『延喜式』においては小祀と定められている。祭りの起源は、延暦~弘仁年間(782年 - 824年)とも仁寿~貞観年間(851年 - 877年)ともいわれるが未詳。皇室への守護を祈願する祭りとして、『弘仁式』には皇太子みずから参向して奉幣することが定められている。『延喜式』では、これに桓武天皇の外祖父母にあたる大江氏、和氏の氏人らが見参する規定が加わる。これは、桓武天皇外戚神としての位置づけが加わったためともいわれる。当日、宮中では天皇御禊を修し、遥拝の儀があった。現在は4月2日を例祭日とする。なお、かつては例祭と同日に平野臨時祭も行われた。
  20. ^ 京都市右京区の梅宮神社で行われる祭礼。その起源は仁明天皇の時代にさかのぼり、託宣によって天皇の母である檀林皇后(橘嘉智子)が現在の地に神社を移し、自ら祭祀を行ったことに始まると伝えられます。古くは4月・11月の上酉の日に執り行われていました。当初は橘氏の五位者が勅使として奉幣の任にあたりましたが、橘氏が衰えると藤原氏、さらには源氏の長者がその役目を代行するようになりました。
  21. ^ 旬政の一つ。新帝が即位して初めて万機の政に臨むときは万機旬。
  22. ^ 陰暦4月8日の釈迦の誕生日に、花御堂に安置した釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。
  23. ^ 京都の伏見稲荷大社の祭礼。古くは、4月上卯の日を式日とする。旧暦3月中の午日に、神璽をうつした五基の神輿が、京都油小路西九条の御旅所に神幸する神幸祭(「稲荷のお出で」)と、御旅所に約20日間滞留したのち、翌4月上卯日(三卯あれば中卯日)に本社に還幸する還幸祭(「稲荷のお旅」)とがある。御旅所より還幸のさい、神輿が東寺に入り寺家の神供を受けた。
  24. ^ 葵祭とも。上賀茂神社・下鴨神社の祭。京都三大祭の一つ。古くは4月中酉の日に行われたが,現在は5月15日。京都御所での出立の儀ののち,斎院(斎王とも)・勅使を中心として検非違使・山城使・御幣櫃・舞人らが下鴨社にむかい,その後上賀茂社へいって御所へ戻る。この路頭の儀が祭のなかでも華やかで,最も重要な社頭の儀では返祝詞をのべる。葵の葉を社前や牛車にかけ,供奉者が衣冠につけたことから葵祭ともいわれ,古代にはたんに祭といえば葵祭をさした。石清水八幡宮の南祭に対して北祭ともいう。
  25. ^ 祈年穀奉幣は、平安時代から室町時代にかけて行われた国家的な祭祀儀礼です。その年の五穀豊穣を祈願する目的で、毎年2月・7月の吉日に、朝廷から選ばれた近畿地方の有力な二十二の神社に対して奉幣が行われました。対象となった二十二社は、永保元年(1081年) に制度として確定し、以下の通り:

    伊勢石清水賀茂松尾平野稲荷春日大原野大神石上大和広瀬龍田住吉梅宮吉田広田祇園北野丹生貴船日吉

  26. ^ 大嘗会のとき、神饌を奉る悠紀・主基の国郡を亀卜により決めること。定められた国郡の斎田(悠紀田・主基田)に抜穂使が赴いて新稲を採り、持ち帰って斎場に供える。平安時代、醍醐天皇の大嘗会以来、悠紀国は近江、主基国は丹波あるいは備中とする例となったが、郡は卜定した。
  27. ^ 告陵使とも。皇室の大礼や大事件などを山陵(天皇・皇后などの陵墓)に告げるため、とくに皇室から遣わされる使者。天皇が皇位につく即位の礼や、正式に皇太子をきめる立太子の礼をはじめ、国家的な大事変などの場合に行なわれるもの。
  28. ^ 宇佐八幡宮に奉幣のため派遣される勅使。天皇即位の奉告、即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)、兵乱など国家の大事の際の祈願の場合のほか,醍醐天皇のころよりは恒例の使も行われたが,それは『朝野群載』所収の宣命などによれば3年に1度の定めであったらしい。天皇即位の奉告の使は、宇佐和気使と称して必ず和気氏の五位の者が遣わされる例であり、これは先祖の和気清麻呂が道鏡の事件のとき、使として宇佐八幡の神託をうけた功績にちなんだもので、天長10年(833年)に仁明天皇の即位奉告のため従四位下和気真綱(清麻呂の子)が遣わされたのが初例のようである。勅使発遣の儀式については『江家次第』等に詳しい。
  29. ^ 大嘗会の折、行事(悠紀・主基)が執務するために設けられた臨時の場所。
  30. ^ 天皇が朝廷の政務をみないこと。「輟朝」ともいう。臨朝に対する語。日食や二等親以上の喪などの場合に行われ、その日数は1日または3日ないし5日。その間、清涼殿の御簾を垂れて諸事を慎み、音奏、警蹕などを停止する例である。なお諸官司が政務を廃するのを廃務といい、1日限りを原則とし、廃朝の際はかならずしも廃務しないが、国忌や日食の場合のように、両者が一致するときもある。
  31. ^ 道恵法親王(1132年 - 1168年)は、平安時代後期の皇族僧侶。長承1年(1132年)鳥羽天皇の第六皇子として誕生しました。母は、石清水八幡宮別当であった紀光清の娘で、美濃局と呼ばれた女性。天台宗の僧侶となり、保延4年(1141年)には有名な絵師でもあった鳥羽僧正覚猷の下で出家しました。その後も修行を重ね、久安2年(1146年)には一身阿闍梨、久安6年(1150年)には行慶から灌頂を受けました。永暦1年(1160年)には親王宣下を受け、道惠法親王となりました。その後は四天王寺別当や園城寺長吏を務めました。仁安3年(1168年)4月25日、37歳という若さでその生涯を閉じました。
  32. ^ 祈雨奉幣使は複数の神社に派遣される奉幣使の総称であるのに対し、祈雨使は特に五竜祭における神泉苑派遣の勅使を指し、厳密には異なる概念です。
  33. ^ 宮中で、毎年6月・12月の晦日、天皇の体を測り、竹の杖の節の間を折って、祓えを行なう行事。同様に中宮や東宮の祓えを行なう中宮節折や東宮節折もあった。
  34. ^ 陰暦7月7日の行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事であるが、日本でも奈良時代以来、宮中の節会としてとり入れられ、在来の棚機津女の伝説や祓えの行事とも結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。
  35. ^ 管弦の遊びに用いる楽器。
  36. ^ 長日御修法とも。日限を定めずに長期にわたっておこなう御祈祷を指す。
  37. ^ 荒見河祓とは、重要な祓の儀式の一つである。これは特に大嘗会に奉仕する上卿以下の官人らが、祭事に臨む前に身の穢れを祓い清めるために執り行ったものである。その実施時期は大嘗会の直前、陰暦9月の晦日と定められていた。儀式の舞台となった荒見河は、京都の紙屋川に架かる高橋の北側、およそ2町ほどの区間の別称とされ、この河原で祓が行われたと考えられる。川の古名が「荒見河」か「紙屋川」かは明確ではないが、「紙屋川」の名は平安時代の図書寮に属する造紙手や紙戸が付近に居住し、紙屋院と呼ばれる施設で製紙を行っていたことに由来すると推測され、非常に古くから存在する名称である。一方「荒見河」は、この川の一部に対する特別な呼称であった可能性が高い。「荒見(あらみ)」の語源は「荒忌(あらいみ)」が転じたものとされる。平安時代には盛大に行われた荒見河祓であったが、時代が下るにつれて次第に規模が縮小した。その背景には、斎場が北野に固定化されたことで本来の「卜定」の意義が薄れ、一般の祓と同質化したこと、また御禊の大規模な儀式に圧倒され、形式化が進んだことが要因として考えられる。文献的には『延喜式』には当該名称が確認されないものの、現存する史料で初めて確認されるのは『本朝世紀』康治1年(1142年)9月8日条であり、そこには「神祇官及悠紀・主基両国司并山城国郡司等、有荒見河秡事」との記述が残され、確実な記録としてその存在を裏付けている。
  38. ^ 駒牽とも。駒引は、毎年8月に諸国の御牧から献上された馬を内裏に牽き入れて観覧し、左右馬寮に分配する儀式で、その際に、馬が上皇や親王、公卿などに配られることもありました。平安時代初期から15世紀まで行われ、本来、天皇の前で馬を牽き回した後に分配するものですが、一条天皇を最後に天皇の出御はなくなり、建礼門前に式場を変更して続けられました。
  39. ^ ここでは『殿暦』嘉承3年2月2日、3日の記載を指す:

    二日、癸未、天晴、依諒闇不奉幣、候内、今日宇治殿御忌日也、仍須参仕、雖然依神事不参仕、(中略)三日、甲申、午剋許参御前、今日春日祭也、仍不奉幣由祓也、軄事一人遣東河原有此事、

  40. ^ くの字点(濁点)。きぬぎぬ。
  41. ^ くの字点。をのをの。
  42. ^ 群書類従本より翻刻した上記の内容は、仮に漢字で表記する場合、以下のように表記できる:

    終に玉の苗種を継いで、儲の君春深山に千代の影を並べさせ給て、大内山をたち出で、宮柱雲の降りゐさせ給ひし後は、藐姑射の山万世呼ばはん声を待ち、汾陽県の水十返り澄まん流れを汲みて、白菊の折節、異に河竹の其のよを春に契しか氷面なくて、朧月夜の掻き曇り、御心の内朝霧の晴れぬ病に日数積りつゝ、蓬が島の薬は唯名をのみ聞きて、葛稚が方もその験もなくて、治承五の年の春の初め十四日の暁、寝覚めの御枕を北になして魂の御在処も西に移らせ給しかば、雲とやなり雨とやならせ給ぬらん、夢が夢にもあらぬかと思あはせん方もなく、惑ひに惑ひを添へて、我になして我にもあらず、明けゆく鳥の声も惜しまず、おのが衣々いづち捨てて隠れさせ給ひぬるぞと、唯有明の空を眺むれば、翠の霞ばかり転たち昇り、砂を扣きて地の底へ入らんとすれば、黄なる泉底深くして、返らぬ水の憂き世の泡とは言ひながら、涙の川の目の前に懸かる憂き世を渡るべしとは、岸打つ浪の思寄らざりしものと嘆くにかひなし。東に御座しますと知らば、差し出でむ日影に槿の常なき例を思知り、西に御座しますと知らば、傾く月の光につけても、しのすゝき繁き嘆きをも、かくとほのめかし、南に御座しますと知らば、霞を分けても眺めやり、北に御座しますと知らば、越路に帰る雁に玉梓を付けても慰むべきに、大空に昇り、万の海をも求め難ければ、あやにくに心のみ憧れて。

    皇太子言仁親王が即位し、高倉天皇は退位されて仙洞御所に移られた。しかし、上皇は治承五年正月十四日の暁で崩御された。その死はあまりにも突然で、人々は深い悲嘆に暮れた。亡き上皇の御魂が東西南北の何方におられるのかと思い巡らせ、もし方角が分かれば陽や月、霞、雁に託して嘆きを伝えたいと切望するが、結局は幻のように捉えどころがなく、ただ茫然と無常の現実を嘆き続けるしかないという、深い喪失感と現世の儚さへの思いが描かれている。特に、御魂の行方を四方に想いを馳せつつも確かめられないもどかしさと、荼毘の煙が立ち上る光景への絶望感が強調されている。
  43. ^ 大意:大法(孔雀経法)が無事に結願し、喜びはひとしおであります。こたびのこと(皇子が無事に誕生されたこと)は、ひとえにこの修法の致すところであると、深くおぼしめされています。そのうえ、以前、三条殿においてこの法が修された時も霊験が殊勝でありましたが、今回もまたこのように(霊験あらたか)で、感謝の言葉もございません。万事は(直接お会いして)拝顔の折にお話ししたく存じます。謹んで申し上げます。
  44. ^ 「孔雀経法」とは、毒蛇を食べる孔雀の力にあやかり、様々な災いを除く力があるとされる孔雀明王を本尊とする密教の修法である。鎮護国家の修法として真言密教においては特に重視され、当時は仁和寺や東寺の高僧のみが修することができる秘法とされていた。後に仁和寺が独占的に執り行うようになり、国宝『孔雀明王像』をはじめ多数の関連文化財が同寺に伝来する背景となっている。
  45. ^ 大意:皇子ご降誕のことは、もはやとやかく申し上げるまでもなく、天下の大きな慶びであり、何事もこれに及ぶものがありましょうか。(その喜びは)決して言葉で言い尽くせるものではありません。そして今、綸旨(天皇からのお手紙)を拝見し、思わず流れる涙を禁じ得ません。(このようなお言葉をいただくことは)当宗(仁和寺)の光栄であり、わが身の面目でありましょう。末永くこの天書(天皇の手紙)をもって、仁和寺門跡の後世の亀鑑(手本・家宝)として備え置きます。恐悦の至りであり、特に参内して御礼申し上げたく存じます。この趣きをご披露(天皇にお伝え)くださいますよう、お願い申し上げます。敬って申し上げます。

出典

  1. ^ 海野泰男『今鏡全釈』 上巻、367-368頁。 
  2. ^ 松薗斉『中世の王家と宮家』臨川書店〈王朝時代の実像15〉、2023年、28-30頁。ISBN 978-4-653-04715-5 
  3. ^ 佐伯智広「高倉皇統の所領伝領」『日本史研究』549号、2008年。 /所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』、東京大学出版会、2015年。 ISBN 978-4-13-026238-5 
  4. ^ 豊永聡美『天皇の音楽史 : 古代・中世の帝王学』、吉川弘文館、2017年。 ISBN 9784642058421 
  5. ^ 仁木夏実「高倉院詩壇とその意義」『中世文学』50巻、2005年。 
  6. ^ a b 高倉天皇・仕丁紅葉焚銀座長州屋
  7. ^ 酒器の美に酔う静嘉堂文庫美術館、2018
  8. ^ 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』吉川弘文館、1979年 - 1997年。 
  9. ^ 宮内庁 編『明治天皇紀』 9巻《明治二十九年一月-明治三十三年十二月》、吉川弘文館、1973年。 

関連項目

  • 柏島神社 - 1180年(治承4年)、厳島神社に参拝した際に大山祗神社から分神して作られた神社



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