韓通
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韓 通(かん つう、生年不明 - 建隆元年2月3日(960年3月2日))は、後周末期の武将・政治家。字は仲達。本貫は并州太原(現在の山西省太原市)。後周の忠臣として知られ、陳橋の変で王彦昇に一家皆殺しにされたことで有名である。
生涯
後周の郭威の創業時から仕え、殿前都虞候・領厳州刺史に昇進。世宗即位後は侍衛親軍馬歩軍副都指揮使・領帰州防御使となり、顯德6年(959年)の高平の戦いでは劉崇の北漢軍を大破する大功を挙げている。[1]
世宗崩御後の恭帝即位(959年)では、幼帝を補佐する重臣として范質・王溥・魏仁浦とともに枢密使に就任。殿前都点検の趙匡胤・侍衛馬軍都指揮使の石守信らを厳しく監督し、軍権集中を警戒した。[2]
陳橋の変と最期
建隆元年正月、趙匡胤が「契丹南侵」の報を口実に北征に出陣(陳橋の変)。 2月3日、趙匡胤が黄袍加身して帰京すると、韓通はただ一人「周朝の臣として抵抗せねば」と決意し、家族を連れて殿前司へ向かった。
しかし帰宅途中で王彦昇の兵に遭遇。王彦昇は「これで陛下の御座は安泰です」と言いながら韓通を斬殺し、妻子一族に至るまで皆殺しにした。 この独断専行は趙匡胤を驚かせたが、既成事実として追認された。[3]
韓通の首級は市に晒されたが、民衆は「韓公は忠臣であった」と涙を流したという。[4]
評価
宋太祖は事後、韓通を「忠烈」と悼み、使持節・成都尹・中書令を追贈、忠武軍節度使を加贈、武勝軍節度使に追封した。 雍熙4年(987年)、太宗はさらに「忠正」と諡し、子孫に官職を授けた。[5]
後世では「五代十国最後の忠臣」「陳橋の悲劇の人」として語られ、司馬光『資治通鑑』にも「周の忠臣は韓通一人而已」と記された。[6]
家族
子:韓重勲(後に宋朝で復権し、崇儀使に任官した)[7]
脚注
- ^ 脱脱等 撰 (1977). 宋史. 巻484 列伝第243 忠義・韓通伝. 中華書局
- ^ 李燾 撰 (2004). 続資治通鑑長編. 巻1 太祖建隆元年. 中華書局
- ^ 李燾 撰 (2004). 続資治通鑑長編. 巻1 建隆元年二月丙午条. 中華書局
- ^ 李燾 撰 (2004). 続資治通鑑長編. 巻1 建隆元年二月丙午条. 中華書局
- ^ 脱脱等 撰 (1977). 宋史. 巻484 列伝第243 忠義・韓通伝. 中華書局
- ^ 司馬光 編 (1956). 資治通鑑. 巻293 後周紀四 恭帝元年二月丙午条. 中華書局
- ^ 脱脱等 撰 (1977). 宋史. 巻484 列伝第243 忠義・韓通伝. 中華書局
参考文献
- 脱脱等 撰 (1977). 宋史. 巻484 列伝第243 忠義・韓通伝. 中華書局
- 李燾 撰 (2004). 続資治通鑑長編. 巻1 太祖建隆元年. 中華書局. ISBN 978-7-101-04215-3
- 司馬光 編 (1956). 資治通鑑. 巻293 後周紀四. 中華書局
韓通(中国語版)(演:宋来運)
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「大宋伝奇之趙匡胤」の記事における「韓通(中国語版)(演:宋来運)」の解説
柴栄の信頼厚い武将。後周の有力将軍・大臣。韓珪の父。勇敢な将軍だが、傲慢で負けん気が強く、残忍な一面もある。
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