雛鶴姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/22 07:10 UTC 版)
雛鶴姫は護良親王の側室であった。1334年(建武元年)護良親王が京都で捕えられ、鎌倉に護送され幽閉された。1335年(建武2年)護良親王は鎌倉で殺害される。京都から鎌倉に随行し、最後まで仕えた雛鶴姫は、護良親王を手厚く葬ろうと首級を抱えて、鎌倉から故郷十津川を目指して鎌倉を脱出した。鎌倉街道を秋山村に入ったが、秋山村無生野にたどり着き宿を求めたが、足利氏の咎めが及ぶことを怖れた村人に断られた。そのため一行は現在の雛鶴峠付近に至った。懐妊していた雛鶴姫は産気づき、従者の手で作られた枯れ草を集めた褥で、王子を産むとともに22歳で死亡。王子は葛城宮綴連王と名付けられた。 従臣が姫の亡骸を埋葬して、墓石を建てて回向した。後日、村人は神社を建立し雛鶴神社と名付けて手厚く祀った。 「雛鶴姫の伝承」も参照
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