陳蘭とは? わかりやすく解説

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陳蘭Chen Lan

チンラン

(?~209

廬江郡灊県豪族か。「陳簡」とも伝わる《後漢書》。

はじめ袁術属し雷薄とともに廬江郡の灊山に駐屯していたが、袁術曹操敗れて没落すると、彼がやって来て拒絶して受け入れなかった《袁術伝》。

建安四年(一九九)、孫策廬江太守劉勲追放して李術述)を太守任命していたが《討逆伝》、翌五年に孫策亡くなると、李術揚州刺史厳象殺害した《呉主伝》。陳蘭は雷緒梅乾とともに李術呼応し数万の手勢を集めて長江淮水流域の郡県を破壊した劉馥伝》。

十四十二月張遼集解》、梅成とともに廬江郡灊県・六県を上げて叛乱起こし梅成于禁臧霸降伏偽って逃れてくると、彼とともに灊山の頂上に砦を築いて抵抗したが、狭く急峻な山道張遼が登って来たので、敗北して斬首された《張遼伝》。孫権将軍韓当派遣して陳蘭を助けようとしたが、臧霸が舒に駐屯していたので果たせなかった《臧霸伝》。

参照于禁 / 袁術 / 韓当 / 厳象 / 曹操 / 臧霸 / 孫権 / 孫策 / 張遼 / 梅乾 / 梅成 / 雷緒 / 雷薄 / 李術 / 劉勲 / 舒 / 潜県(灊) / 灊山 / 長江 / 揚州 / 六県 / 廬江郡 / 淮水 / 刺史 / 太守


陳蘭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 15:17 UTC 版)

陳蘭
後漢
部曲
出生 生年不詳
揚州廬江郡
死去 209年(建安14年)
拼音 Chén Lán
別名 陳簡
主君 袁術 → 独立勢力
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陳 蘭(ちん らん、? - 209年)は、中国後漢時代末期の武将。揚州廬江郡の人。『後漢書袁術伝では、「陳簡」とされている。

正史の事跡

三国志』魏書袁術伝等に記述がある。陳蘭は雷薄と同僚で、共に袁術の部曲であった。袁術は帝位を僭称したものの、暴政を敷いたため人心を失い、呂布曹操との戦いに敗れて零落した。一方、陳蘭と雷薄は袁術の下を出奔し、灊山(せんざん)に立て篭もっていた。建安4年(199年)、袁術が雷薄と陳蘭を頼ってきたが、陳蘭らは袁術を受け入れなかった。袁術はやむなく袁紹の子袁譚を頼り、青州へ向かったものの病死することになった。

建安5年(200年)冬、陳蘭・梅乾(梅成、あるいは梅成の縁者か)・雷緒(雷薄本人、あるいは雷薄の縁者か)は、廬江太守であった李術(または李述)が揚州刺史厳象を殺して管轄地域が混乱した隙に、数万人の兵を集めて長江淮河一帯で暴れまわった。しかし、曹操が派遣した新任の刺史の劉馥合肥に赴任し入城すると、梅乾・雷緒らはこれに降伏した(陳蘭の動向は不明である)。

建安14年(209年)、陳蘭は盟友の梅成と共に再び灊山に立て籠もり、孫権とも結んでその将軍韓当の救援を受けた。しかし陳蘭・梅成は、曹操の命を受けた張遼于禁張郃臧覇らの討伐を受け、張遼の猛攻の前に敗北、2人とも張遼によって斬られてしまった(『三国志』魏書張遼伝・于禁伝・張郃伝・臧覇伝)。

物語中の陳蘭

小説『三国志演義』では、はじめ袁術に仕え、呂布との戦いで第5軍副将として参加したが、呂布軍の魏続宋憲に迎撃され敗退している。袁術が皇帝を僭称して暴政を布くと、同僚の雷薄と共に袁術を見限って出奔し、嵩山に立て籠もる。その後、上述のように零落した袁術から財宝や糧秣を奪い取ったため、袁術は料理人にも見捨てられ吐血し果てることになってしまう。以降は登場しない。

参考文献



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