あぶつ‐に【阿仏尼】
あぶつに 【阿仏尼】
阿仏尼
阿仏尼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/30 02:24 UTC 版)
阿仏尼(あぶつに、阿佛尼, 貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は、鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)[2]。
略伝
桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘(または養女[3])[4]。 安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産む。
為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い、1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。「弘安百首」などに参加し、関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。
歌論書に『夜の鶴』がある。また若い頃に書いた『うたたね』は失恋の顛末を記した日記[5]である。『続古今和歌集』以下の勅撰和歌集に計48首入集しているものの、阿仏尼の孫である冷泉為秀が参画した『風雅和歌集』や阿仏尼と親しかった京極為兼が選者を務めた『玉葉和歌集』では入集数が多い一方で冷泉家と対立した二条家が選者を務めたときは入集数は極端に少なく、当時の歌壇の政治的対立状況を反映していると考えられる[6]。
- 『続古今和歌集』 3首(藤原為家撰)
- 『続拾遺和歌集』 6首(二条為氏撰)
- 『新後撰和歌集』 1首(二条為世撰)
- 『玉葉和歌集』 11首(京極為兼撰)
- 『続千載和歌集』 1首(二条為世撰)
- 『続後拾遺和歌集』 1首(二条為藤、二条為定撰)
- 『風雅和歌集』 14首(光厳院親撰、冷泉為秀らが寄人を務めた)
- 『新千載和歌集』 2首(二条為定撰)
- 『新拾遺和歌集』 3首(二条為明撰)
- 『新後拾遺和歌集』 1首(二条為遠、二条為重撰)
- 『新続古今和歌集』 5首
鎌倉市扇ガ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。また、京都市南区の大通寺にも、阿仏尼の墓とされる「阿仏塚」が所在している[7]。
主な作品
- 十六夜日記
大通寺藏阿佛尼消息/こんといきて返事/ふしき申すはかりも/さふらはす候/何事も又々申/さふらふへく候/あなかしこ 佛/三月廿九日/(南)无あみた佛 々々々々々々/ 小川寿一『阿佛尼と大通寺』1935年(昭和10年)。小川寿一は、この消息を鎌倉からの帰洛の際、もしくは臨終に際してのものとみる。冷泉為村の時代に古筆養心(神田道伴)の「阿佛真筆」の極札を付した折紙と為村自筆の由来書を記した箱があるという。 - うたたね
- 夜の鶴
- 乳母のふみ
参考文献
- 小川寿一述『阿佛尼と大通寺』大通寺叢書4、1935年(昭和10年)、大通寺。阿仏尼と大通寺 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 田渕句美子『阿仏尼』人物叢書 吉川弘文館 2009年11月、オンデマンド版 2024年10月 ISBN 9784642752541
- 梁瀬一雄編『校註阿仏尼全集』風間書房、1958年(昭和33年)
関連項目
脚注
- ^ 現存最古の単独女性像としても貴重(田沢裕賀 『日本の美術384 女性の肖像』 3,27頁、至文堂、1998年 ISBN 978-4-784-33384-4
- ^ 田渕句美子「阿仏尼の出自」『原典講読セミナー6 阿仏尼とその時代 うたたねが語る中世』第二講うたたねの成立とその時代 P91~ (臨川書店、2000年8月20日) ISBN 4-653-03723-X
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 44頁。
- ^ 『尊卑分脈』や『冷泉家時雨亭叢書』所収の文献によれば、阿仏の父は平度繁(桓武平氏・奥山度繁)であるとされる。
度繁の父である平繁雅は、後高倉院や北白河院に近侍した人物であった。繁雅の妻が北白河院の乳母であったことから、繁雅の一族は院の側近(乳母子)として勢力を持ち、後堀河院や安嘉門院、尊性法親王らに仕えて活動していた。阿仏が安嘉門院に女房として出仕したのは、こうした父の実家と持明院統(北白河院・安嘉門院ら)との密接な関係が背景にあったと考えられる。昭和初期以降の通説では、度繁は阿仏の「養父」であり、実父は不明とされることが多かった。その根拠は、阿仏の若き日の日記文学『うたたね』において、彼女を養育し遠江国へ誘った人物が「のちの親(継父)」と記されている点にある。
しかし、近年の研究において国文学者の田渕句美子は、以下の理由から「養父説」を否定し、度繁は阿仏の「実父」であるとする説を提唱している。
- 史実との不整合:『うたたね』には「のちの親」が遠江に在住しており、都見物に来た際に阿仏を誘って帰郷したと描かれている。しかし、史実の平度繁は京都に基盤を置く下級貴族(検非違使・兵庫頭などを歴任)であり、遠江の在地豪族として描かれる人物像とは一致しない。
- 勅撰集の記述:夫である藤原為家が撰者の一人となった『続古今和歌集』の詞書には「父平度繁朝臣」と明記されている。当時の慣例や為家との関係性を考慮すれば、実父の名を誤って(あるいは不要な配慮で)記載するとは考えにくい。
- 『うたたね』の虚構性:『うたたね』は『源氏物語』の「浮舟」や「玉鬘」の影響を強く受けた物語的構成が取られている。田渕は、作中の「のちの親」や遠江下向のくだりは、物語を構成するために事実を改変した文学的虚構である可能性が高いと指摘している。
- ^ 文庫では次田香澄全訳注『うたたね』講談社学術文庫、1978
- ^ 田渕句美子「中世・近世歌人から見た阿仏尼の和歌と歌論」、『阿仏尼』吉川弘文館「人物叢書」、2009年11月、pp.. 233-238。 ISBN 978-4-642-05254-2
- ^ “大通寺案内”. 大通寺(遍照心院). 2023年11月20日閲覧。
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