鄭覃
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鄭 覃(てい たん、生年不詳 - 842年)は、唐代の官僚・儒学者・政治家。牛李の党争において李党に属した。また開成石経の事業を主導した。本貫は鄭州滎沢県[1]。
経歴
父の蔭官により弘文館校理に任じられた。右拾遺・右補闕・考功員外郎・刑部郎中を歴任した。元和14年(819年)2月、諫議大夫に転じた。憲宗が宦官5人を和糴使に任用すると、鄭覃は上疏して撤回を求めた。元和15年(820年)、穆宗が即位すると、遊宴を好んで政事をかえりみなかったため、鄭覃は同僚の崔玄亮らとともに諫めた[2][3]。
成徳軍節度使の王承宗が死去すると、その弟の王承元は朝廷に帰順して、鄭滑節度使に転任することになった。鎮州の軍人たちは王承元を留めて離さず、滑州に赴任することができなかった。鄭覃は宣諭使となり、鎮州の軍人たちの説得にあたった[4][3]。
長慶元年(821年)11月、鄭覃は給事中に転じた。長慶4年(824年)、御史中丞となった。11月、工部侍郎に任じられた。宝暦元年(825年)、京兆尹に任じられた。文宗が即位すると、鄭覃は左散騎常侍となった。大和3年(829年)、本官のまま侍講学士をつとめた。大和4年(830年)4月、工部侍郎に任じられた。儒学者を集めて経籍の校定をおこない、後漢の熹平石経の故事に準じて石経を太学に置くよう上奏した[4][3]。
大和5年(831年)、李宗閔と牛僧孺が宰相となると、鄭覃は李徳裕と仲が良かったことから、排斥されて侍講学士から退任し、工部尚書とされた。大和6年(832年)2月、再び侍講学士となった。大和7年(833年)、李徳裕が宰相となると、鄭覃は御史大夫とされた。大和8年(834年)、戸部尚書に転じた。李徳裕が宰相から退任し、李宗閔が宰相に復帰して李徳裕や李紳を排斥すると、鄭覃も秘書監に降格された。大和9年(835年)6月、楊虞卿と李宗閔が罪を得て遠方に流されると、鄭覃は刑部尚書として復帰した。10月、尚書右僕射に転じ、国子監祭酒を兼ねた。11月、李訓と鄭注が殺害されると、鄭覃は禁中に召し入れられて制勅を起草した。本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、滎陽郡公に封じられた[5][6]。
鄭覃は儒教経典の解釈には詳しかったが、文章を作ることができなかったので、進士の浮薄華美なことを憎んでいた。開成元年(836年)、礼部貢院に進士科を置くのを取りやめるよう上奏したが、聞き入れられなかった。太学に石経を置かせるため、鄭覃は周墀・崔球・張次宗・孔温業らに九経の文字を校定させるよう上奏した。門下侍郎・弘文館大学士・監修国史を加えられた。また『石壁九経』160巻を進上した[7][8]。
開成3年(838年)、楊嗣復が宰相となると、鄭覃と衝突した。2月、鄭覃は太子太師に位を進めた。12月、三度上書して退任を求めたが、太子太師から退いたのみで、余官はもとのままとされた。開成4年(839年)5月、宰相から退任し、尚書左僕射のみとなった[9][10]。
開成5年(840年)、武宗が即位し、李徳裕が宰相となると、鄭覃は宰相として求められたが、足の病のため出仕できなかった。会昌2年(842年)、司徒として致仕した[9][10]。5月、死去した[11]。
家族
脚注
- ^ 新唐書 1975, p. 5064.
- ^ 旧唐書 1975, pp. 4489–4490.
- ^ a b c 新唐書 1975, p. 5066.
- ^ a b 旧唐書 1975, p. 4490.
- ^ 旧唐書 1975, pp. 4490–4491.
- ^ 新唐書 1975, pp. 5066–5067.
- ^ 旧唐書 1975, pp. 4491–4492.
- ^ 新唐書 1975, pp. 5067–5068.
- ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4492.
- ^ a b 新唐書 1975, p. 5068.
- ^ 旧唐書 1975, p. 591.
- ^ 新唐書 1975, p. 3322.
- ^ 旧唐書 1975, p. 4489.
- ^ 旧唐書 1975, pp. 4492–4494.
- ^ 新唐書 1975, pp. 5068–5069.
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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