鄭注
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鄭 注(てい ちゅう、生年不詳 - 835年)は、唐代の医師・政治家。本貫は絳州翼城県[1][2]。
経歴
はじめ薬師の術で長安の権門のあいだを遊歴した。もとの姓は魚で、鄭氏の姓を称したため、当時の人は「魚鄭」と呼んだ。鄭注が任用されると、「水族」とみなされた[1][3]。
元和12年(817年)、李愬が山南東道節度使となると、鄭注は襄州に赴いて李愬を頼った。薬の力で李愬に厚遇され、山南東道節度推官をつとめた。元和13年(818年)、李愬に従って徐州に移駐し、職事をつとめ、軍政の可否の決定に参与した。ときに王守澄が徐州の監軍となると、鄭注が軍情を混乱させていると李愬に忠告した。李愬は鄭注を奇才といって、鄭注と王守澄を面会させた。王守澄ははじめ難色を示していたが、鄭注と語り合ううちにその機智と弁論に魅了され、気に入るようになった。鄭注は王守澄の家に出入りし、李愬の下で巡官をつとめた[1][2]。
長慶・宝暦年間に王守澄が国政を専断すると、鄭注は王守澄に賄賂を贈ってさらに近づいた。山東・京西の諸軍に従い、衛佐・評事・御史を歴任した。検校庫部郎中となり、昭義軍節度副使をつとめた。王守澄を助けて宋申錫を誣告し陥れた[1][2]。
大和7年(833年)、鄭注は邠寧節度行軍司馬を退任し、長安に入った。侍御史の李款に弾劾されたが、文宗は聞き入れなかった。ほどなく鄭注は通王府司馬に任じられ、右神策軍判官をつとめた。大和8年(834年)9月、『薬方』1巻を進上した。12月、太僕寺卿となり、御史大夫を兼ねた[4][3]。
昇進を求める者たちが鄭注に面会を求めてくるようになった。李訓が鄭注に賄賂を贈って近づいてくると、鄭注は李訓を引き立てた。大和9年(835年)8月、鄭注は工部尚書となり、侍講学士をつとめた。文宗に人を富ませる術を諮問されると、茶官を置くよう上奏した。また関中の災害を防ぐため、工事の夫役を興すよう勧めた。文宗が杜甫の「哀江頭」を詠んで「江頭宮殿鎖千門、細柳新蒲為誰緑」といい、鄭注の言により天宝年間以前に宮殿に曲江池がめぐっていたことを知ると、左右神策軍に命じて曲江池と昆明池をさらわせ、紫雲楼と彩霞亭を建てさせた。鄭注は文宗の意に従った。鄭注は李訓とともに文宗の宦官粛清計画の相談を受けた[5][3]。
9月、鄭注は検校尚書左僕射・鳳翔尹・鳳翔節度使として出向した。宦官粛清のさいには李訓と内外で呼応して起兵する計画であった。11月、鄭注は李訓が甘露の変を発動したと聞くと、自ら鳳翔府の兵500人あまりを率いて長安に向かった。しかし扶風県で李訓の敗北を聞き、引き返した。監軍使の張仲清が密詔を得て、鄭注を鳳翔府で迎え労い、監軍府に招いた。鄭注が兵衛を率いて監軍府に赴くと、張仲清は伏兵で襲撃し、鄭注を斬った。その首級は長安に送られ、鄭注の家族は皆殺しにされた[6][7]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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