道元とは? わかりやすく解説

どうげん〔ダウゲン〕【道元】

読み方:どうげん

1200〜1253]鎌倉前期禅僧京都の人。日本曹洞宗開祖内大臣久我通親の子。諱(いみな)は希玄比叡山修学し、のち入宋して天童如浄の法を嗣(つ)いだ。帰国後、建仁寺住し京都興聖寺を、さらに波多野義重の請により越前永平寺開いた勅諡号(ちょくしごう)、仏性東国師・承大師。著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」「普勧坐禅儀」「学道用心集」など。


道元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/04 01:52 UTC 版)

道元
正治2年1月2日 - 建長5年8月28日旧暦
1200年1月26日 - 1253年9月29日グレゴリオ暦
1200年1月19日 - 1253年9月22日ユリウス暦))
諡号 仏性伝東国師[1]、承陽大師[2]
尊称 高祖
生地 山城国乙訓郡久我村 誕生寺
没地 京都
宗旨 天台宗曹洞宗
寺院 永平寺
天童如浄
弟子 孤雲懐奘
著作 正法眼蔵』、『永平清規』
永平寺承陽殿
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道元(どうげん、正治2年1月2日1200年1月26日)- 建長5年8月28日1253年9月29日[3])は、鎌倉時代初期の禅僧[4]日本における曹洞宗の宗祖[4]。晩年には、希玄(きげん)という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師は希玄[4]道元禅師(どうげんぜんじ)とも呼ばれる。主著『正法眼蔵』は後世に、古くは和辻哲郎など、近年はスティーブ・ジョブズら多大な影響を与えている[5]

生い立ち

道元は、正治2年(1200年)、京都公卿久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は「信子丸」[要出典]、「文殊丸」[6]とされるが、定かでは無い[7]。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟が提唱した説では、父は内大臣源通親(久我通親または土御門通親とも称される)、母は太政大臣松殿基房(藤原基房)の娘の藤原伊子で、京都木幡の木幡山荘[8]にて生まれたとされているが、根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義も持たれており、上記説では養父とされていた源通親の子である大納言堀川通具を実父とする説もある[9]。四国地方には道元の出生に関して「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承もあるが、キリスト聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものである可能性も示唆されている。伝記『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って[4]、異母兄である堀川通具の養子となった。

4歳にして漢詩『百詠』[10]、7歳で『春秋左氏伝』、9歳にて『阿毘達磨倶舎論[11]を読んだ神童であったと云われており、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったと言う説もあり、逸話として「誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」とある。14歳で天台の僧となるが、その教義に満足せず、栄西を尋ね禅宗に入った[12]。貞応二年に渡り天童山に参禅して安貞元年帰国[12]。京都深草に興聖寺を建てるが延暦寺宗徒らの焼打ちにあったとも伝えられ、武将波多野義重から越前の領地の寄進を受け、1244年永平寺のもとを開いたといわれる[12]。西洞院高辻に没[12]

主な活動

曹洞宗宗祖 道元禅師 誕生寺
道元禅師示寂の地
曹洞宗高祖 道元禅師顕彰碑 「只管打座」(鎌倉市)

教義・思想

  • ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる[4]。道元のこの立場は修証一等本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった[4]
  • 成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一等)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。
  • 道元は座禅本位の仏教を正伝として釈迦本来の教えに帰れと説いた[12]。道元は易行道(浄土教)には否定的な見解を述べている[注釈 2]浄土教系の宗派の教義では、阿弥陀如来は自らの名を称える者(「南無阿弥陀仏」と称名念仏をする者)は労せずして浄土に必ず往生できると説き、そしてこの教義は釈迦自身によって説かれたものであるとするが、浄土教の教義は釈迦本来の教えから著しく逸脱し、かつ矛盾しているとして、道元は浄土教を手厳しく批判した[20]。道元は自著『正法眼蔵』での釈迦の教えの説明に『阿含経』の内容をしばしば引用した。近現代の学術的観点からは『阿弥陀経』などの大乗経典は後世の創作物で、『阿含経』の方が釈迦直説に近いとするのが通説だが(大乗非仏説参照)、道元が経典成立の背景まで理解が及んでいたのかは不明。ただし道元は後述のように大乗経典である『法華経』も自著によく引用している。
  • 道元は『法華経』を特に重視した。『正法眼蔵随聞記』で最も多く引用されている経典は『法華経』である[21]。道元は晩年、不治の病となり、永平寺を出て在家の弟子の住宅に移り、自分の居所を「妙法蓮華経庵」と名付けた。死期をさとった道元は、亡くなる直前、『法華経』のいわゆる「道場観」の経文(『法華経』如来神力品第二十一の中の「若於園中」から「諸仏於此而般涅槃」まで)を低い声で口ずさみながら室内を歩きまわり、柱にその経文を書き付けたあと、「妙法蓮華経庵」と書き添えた[22]
  • 鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。
  • 南宋で師事していた天童如浄が、ある日、坐禅中に居眠りしている僧に向かって「参禅はすべからく身心脱落(しんじんだつらく)なるべし』と一喝するのを聞いて大悟した[23]。身心脱落とは、心身が一切の束縛から解き放たれて自在の境地になることである[24]。道元の得法の機縁となった「身心脱落」の語は、曹洞禅の極意をあらわしている[24]
  • 徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であるという禅を伝えた。

著書

  • 永平廣録』(えいへいこうろく、全十巻)
    • 『永平廣録』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社 上中下、2005年)
    • 『永平廣録 道元禅師の語録』(篠原寿雄大東出版社 全3巻、1998年)
    • 『永平廣録提唱』(西嶋和夫訳、金沢文庫11分冊、1997年)
    • 『道元和尚廣録』(寺田透訳、筑摩書房 上下、1995年)
    • 『道元禅師語録』(鏡島元隆編、講談社学術文庫、1990年)- 文庫判は各抄版
    • 『道元「永平広録・上堂」選』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫)
    • 『道元「永平広録・頌古」』(大谷哲夫全訳注、同上)
    • 『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(大谷哲夫全訳注、同上、2005-2014年)
  • 普勧坐禅儀』-『永平広録』巻八
    • 『道元「小参・法語・普勧坐禅儀」』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫、2006年)
  • 学道用心集』(がくどうようじんしゅう、全1巻)
    • 『永平初祖道元禅師学道用心集講話』(大洞良雲 著、大法輪閣、1941年、→再版、1951年)
    • 『永平初祖・学道の用心 - 道元・「学道用心集」新釈 - 』(増永霊鳳 著、春秋社、1960年)
    • 『道元禅師学道用心集講話』(山田霊林、服部松斉共著、大法輪閣、1981年)
    • 『永平初祖学道用心集』(井上義衍著、龍泉寺参禅道場、1987年)
    • 『学道用心集講話 復刻版』(西嶋和夫、井田コーポレーション、1988年→2018年)
    • 『学道用心集 - 道元学習と修行のこころえ -』(篠原壽雄著、大東出版社、1990年→新装版、2010年)
    • 『学道用心集の参究』(大本山永平寺編、国書刊行会、1997年)
    • 『道元禅師学道用心集講話 - 東洋の道の真諦 - 』(白田劫石著、人間禅教団、2003年)
    • 『学道用心集講話』(澤木興道著、大法輪閣、2004年)
    • 『釣月耕雲 - 道元禅師 - 学道用心集 - 楢崎一光講述録-』(楢崎一光著、瑞應寺専門僧堂、2012年)
    • 『永平初祖學道用心集提耳録 再版』(西有穆山著、岸沢惟安校注、鴻盟社、2012年)
  • 寶慶記』(ほうきょうき、在宋中の道元が師とかわした問答の記録)
    • 『宝慶記-道元の入宋参学ノート』(池田魯参、大東出版社、1989年、新装版2004年)
    • 『道元禅師 宝慶記 現代語訳・註』(水野弥穂子、大法輪閣、2012年)
    • 『道元「宝慶記」全訳注』(大谷哲夫、講談社学術文庫、2017年)
全集

脚注

注釈

  1. ^ 懐奘は『正法眼蔵随聞記』を記した[18]
  2. ^ 「今人云はく、行じ易きの行を行ずべし、と。この言尤も非なり、太だ佛道に合はず。…好道の士は易行に志すことなかれ。若し易行を求むれば、定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざるものか[19]」。
  3. ^ 和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。なお、ハイデガーに言及する論調もあるが、これを裏付ける一次資料は見出されていない。ヤスパースについても同様である。

出典

  1. ^ 1854年(嘉永7年)孝明天皇
  2. ^ 1879年(明治12年) 明治天皇
  3. ^ 道元禅師のご生涯”. 曹洞宗近畿管区教化センター. 2023年10月26日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、752-753頁。 
  5. ^ 名著59 道元「正法眼蔵」100分de名著”. 日本放送協会. 2023年5月26日閲覧。
  6. ^ ご本山だより 初春” (PDF). 大本山永平寺. 2023年5月25日閲覧。
  7. ^ 「道元の号と諱について」東隆眞1978年
  8. ^ 松殿山荘」参照。
  9. ^ 『孤高の禅師 道元 日本の名僧』(中尾良信編、吉川弘文館,2003)50頁以下参照。
  10. ^ 曹洞宗の歩み”. 曹洞宗嶋田山快林寺. 2023年5月25日閲覧。
  11. ^ 道元禅師物語”. 2023年5月25日閲覧。
  12. ^ a b c d e 日本史人物総覧 242頁
  13. ^ 岩波仏教辞典第二版752頁では、13歳のときに比叡山に訪ねた相手は「良観」となっている。
  14. ^ a b 岩波仏教辞典 1989, p. 605.
  15. ^ ひろ 2013, p. 14.
  16. ^ ひろ 2013, p. 14~15、26.
  17. ^ 岩波仏教辞典第二版753頁では、時頼の招きによる鎌倉下向は1247年、宝治1年に行われた(下向の終了年は未記載)となっている。
  18. ^ 正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年8月31日閲覧。
  19. ^ 『永平初祖學道用心集』の「第六、参禅に知るべき事」より。
  20. ^ 松岡 2014, p. 119-120.
  21. ^ 植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経(下)』p.587
  22. ^ 道元の最期の様子を書いた史料『建撕記・坤巻』(永平開山道元禅師行状建撕記)には「或日一旦、室内を経行し、低声に誦して言く『若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若白衣舎、若在殿堂、若山谷曠野、 是中皆応起塔供養、所以者何。当知是処即是道場。諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸仏於此転于法輪、諸仏於此而般涅槃』と。 誦し了て後、此文を頓て面前の柱に書付たまふ。亦『妙法蓮華経庵』と書とどめたまふなり。この法華経の文を、あそばしたる心は、今俗家にて、入滅あるほどに、昔の諸仏も是くの如しとの玉ふなり。」とある。『建撕記・坤巻』の、道元の臨終を記したくだりは、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952819/123 でも読める。
  23. ^ 禅の本 1992, p. 44.
  24. ^ a b 岩波仏教辞典 1989, p. 465.
  25. ^ 旧版に『日本古典文学大系81 正法眼蔵 正法眼蔵随聞記』(西尾実鏡島元隆酒井得元・水野弥穂子校注、岩波書店、1965年)

参考文献

  • 里見弴『道元禅師の話』(岩波書店、1954年/岩波文庫(解説水上勉)、1994年)
  • 竹内道雄『道元』(吉川弘文館人物叢書」、1962年、新稿版[1] 1992年 ISBN 9784642051958
  • 高橋新吉『道元禅師の生涯』(宝文館、1963年)
  • 松岡由香子『仏教になぜ浄土教が生まれたか』ノンブル社、2014年。ISBN 978-4903470757 
  • 圭室諦成『道元』(新人物往来社、1971年/新版「道元伝」書肆心水、2018年)
  • 柴田道賢『禅師道元の思想―伝法沙門の自覚と発展』(公論社、1975年)
  • 今枝愛真『道元 坐禅ひとすじの沙門』(日本放送出版協会NHKブックス」 1976年、「読みなおす日本史」[2])吉川弘文館 2023年 ISBN 9784642075312 
  • 菅沼晃『道元辞典』(東京堂出版、1977年)
  • 平野雅章『道元の食事禅』〈日本料理探求全書第十三巻〉(東京書房社、1979年)
    「典座教訓」と「赴粥飯法」の全文および現代語訳・解説
  • 鏡島元隆・玉城康四郎編『講座道元』(全6巻 春秋社、1979-1981年)
  • Osho『道元 Dogen The Zen Master』A Serch and Fulfillment 和尚エンタープライズジャパン 翻訳ガタサンサ 1992年
  • 水野弥穂子『道元禅師の人間像』(岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1995年)
  • 玉城康四郎『道元』(春秋社(上下)、1996年)
  • 鏡島元隆『道元禅師』(春秋社、1997年)
  • 大谷哲夫『永平の風 道元の生涯』(文芸社、2001年)
  • 立松和平『道元禅師』、上・大宋国の空/下・永平寺への道(東京書籍(上下)、2007年/新潮文庫(上中下)、2010年)
  • 『道元禅師と永平寺〜CD版』(日本音声保存)
  • Dogen "Shobogenzo" Ausgewaehlte Schriften.
    ロルフ・エルバーフェルト、大橋良介編でドイツ語訳
    〈井筒ライブラリー・東洋哲学3〉(慶應義塾大学出版会、2006年)
  • ひろさちや『新訳 正法眼蔵』PHP研究所、2013年。 ISBN 978-4-569-81270-0 
  • 『禅の本』学習研究社、1992年。 
    • 「道元」(同所収)49-61頁。
    • 「山中の宗僧」(同所収)63-76頁。
    • 「寶慶寺の雲水」(同所収)77-89頁。
    • 寂円の画像」(同所収)91-104頁。

関連項目

外部リンク

先代
天童如浄
曹洞宗
次代
孤雲懐奘
先代
-
永平寺 開山
1244 - 1253
次代
孤雲懐奘

道元

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典座」の記事における「道元」の解説

道元が『典座教訓』に記した体験は、以下のようなのである。 「宋の天童寺留学中だった私(道元)はある夏の日中庭で寺の老典座海草干しているのを見た老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹のをつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。私は気の毒に思って近づき年齢聞く老人は『68歳だ』と答えた。 『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』 老人答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』 『なぜ、今のような炎天日中されるのです』 老人答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』 私はその場離れた。そして廊下歩きながら、典座職の重要さ考えたであった」 「また私が上陸許可待って港の船の中にいた時、ある老僧食材買入れに港にやってきた。船室招いて勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺典座である。故郷の蜀を出て四十年、歳も六十越えたが、これからまた三十五里(20キロ)ほど歩いて食事用意に寺まで帰らねばならぬ』 『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』 『それは駄目だ。外泊許可貰っていないし、典座老人にもできる修行他人に譲れぬ』 私は聞いた。『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人教え学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう老僧笑って言った。『外国からきたあなたは、どうやら何もわかってないようだ』私はこれを聞き大い驚き、また恥じた。 そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。 私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである」 道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺典座食事用意軽く考え職務適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。そして『典座教訓』を執筆し典座職の重要性と、その職務要領詳細に書き残したのである

※この「道元」の解説は、「典座」の解説の一部です。
「道元」を含む「典座」の記事については、「典座」の概要を参照ください。

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