赤塚源六とは? わかりやすく解説

赤塚源六

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/21 09:41 UTC 版)

 
赤塚 源六
海軍黎明期の艦長・赤塚源六
時代 江戸時代後期 - 明治時代初期
生誕 天保5年(1834年10月
死没 明治6年(1873年6月12日
改名 幼名:君太郎
別名 諱:真成
墓所 鹿児島市の南林寺由緒墓
官位 従五位
幕府 江戸幕府
薩摩藩
父母 父:赤塚真矩
テンプレートを表示

赤塚 源六(あかつか げんろく)は、幕末薩摩藩士。精忠組隊士。軍艦春日丸艦長。諱は真成(しんせい)。日本海軍軍人海軍大佐

経歴

薩摩藩士、赤塚真矩の四男として生れる。安政6年(1859年)、精忠組結成に参加。過激な尊皇思想のもと活動した。

慶応3年12月(1868年1月)の王政復古を控え、薩摩藩は御軍艦掛松方助左衞門(松方正義)を長崎に派遣して外国船を購入、「春日丸」と名付けたが、赤塚はその船将に任命された。

慶応4年1月(1868年)、赤塚は春日丸を運送船の護衛艦として兵庫沖に待機させ、鳥羽・伏見の戦いが始まると乗船して運送船と共に鹿児島を目指した。しかし、1月4日に春日丸を発見した旧幕府軍艦開陽丸が砲撃を開始し、春日丸が応戦。双方ともさほど被害はなかったものの、赤塚は撤退を選び鹿児島へ逃げ延び、運送船一艘は逃げ切れずに自焼した(阿波沖海戦)。

明治2年(1869年)に勃発した箱館戦争では海上戦にほぼ参戦し、特殊任務として弁天台場・七重浜にかけて仕掛けてあった旧幕府軍の水雷を除去した。

維新後は海軍大佐までに昇進。新暦1873年(明治6年)6月、肺病により死去。享年40。

1915年大正4年)、従五位を追贈された[1]

著書

  • 『春日艦船将赤塚源六北征日誌』

脚注

  1. ^ 田尻佐編『贈位諸賢伝 増補版 上』近藤出版社、1975年、37頁(特旨贈位年表)




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「赤塚源六」の関連用語

赤塚源六のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



赤塚源六のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの赤塚源六 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS