裴衍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 裴衍の意味・解説 

裴衍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/12 09:14 UTC 版)

裴 衍(はい えん、生年不詳 - 孝昌3年12月19日[1]528年1月26日))は、中国南北朝時代官僚軍人は文舒。本貫河東郡聞喜県

経歴

裴叔宝(裴叔業の兄)の子として生まれた。学識に優れ、孝行で知られた。東昏侯に仕えて、陰平郡太守に上った。景明2年(501年)、北魏に帰順して、通直郎の位を受けた。官を辞して嵩山に隠棲した。

宣武帝の末年に山を出て、再び官途についた。孝明帝のときに散騎侍郎の位を受け、行河内郡事をつとめた。まもなく建興郡太守に任じられた。河内郡太守に転じ、征虜将軍の号を加えられた。母が死去したため、辞職して喪に服した。

孝昌元年(525年)、の将軍の曹義宗荊州に進攻し、荊州の少数民族が呼応して、北魏側の交通を遮断した。都督の崔暹が数万の軍を率いて荊州の救援に向かい、魯陽に入ったが、それ以上前進できなかった。荊州が危うくなり、洛陽の朝廷はこれを憂慮した。裴衍は別将として仮の前将軍となり、恒農郡太守の王羆とともに1万の軍を率いて武関から出て荊州の救援に向かった。梁軍を析陽で迎え撃って、勝利を挙げ、梁軍を撤退させると、荊州の包囲を解いた。使持節・散騎常侍・平東将軍に任じられた。仮の安東将軍・北道都督として、の西の武城に駐屯し、安陽県開国子に封じられた。

孝昌3年(527年)、安楽王元鑑相州で反乱を起こすと、裴衍は都督の源子邕李神軌らとともに元鑑を討ち、反乱を平定した。撫軍将軍・相州刺史に任じられ、仮の鎮北将軍・北道大都督となって、臨汝県開国公に封じられた。

同年12月(528年1月)、源子邕とともに葛栄を討つため北へ向かった。軍が陽平の東北の漳水の褶曲したところで、葛栄軍と野戦して敗死した。使持節・車騎大将軍・司空・相州刺史の位を追贈された。

子の裴嵩が後を嗣ぎ、東魏武定年間に河内郡太守となった。

脚注

  1. ^ 『魏書』巻9, 粛宗紀 孝昌三年十二月戊申条による。

伝記資料

  • 魏書』巻71 列伝第59
  • 北史』巻45 列伝第33



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「裴衍」の関連用語


2
32% |||||

3
30% |||||

4
16% |||||

5
16% |||||

6
16% |||||

7
14% |||||

8
10% |||||

9
10% |||||

10
10% |||||

裴衍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



裴衍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの裴衍 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS