ぐびじん‐そう〔‐サウ〕【▽虞美人草】
ぐびじんそう〔グビジンサウ〕【虞美人草】
虞美人草
作者夏目漱石
収載図書夏目漱石全集 4
出版社筑摩書房
刊行年月1988.1
シリーズ名ちくま文庫
収載図書ザ・漱石―全小説全一冊 増補新版
出版社第三書館
刊行年月1999.6
虞美人草
虞美人草
虞美人草
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『虞美人草』(ぐびじんそう、虞美人艸[1])は、夏目漱石の小説。1907年6月23日から10月29日まで朝日新聞上に連載された[2][3][4]。
概要
漱石が職業作家として執筆した第1作で[4]ある。朝日新聞掲載時には総ルビが付く。全19話(連載時は127回[4])。春陽堂からの単行本は明治41年1月1日発行で一円五十銭で販売された。タイトルの「虞美人草」は最終回の19話で登場する屏風絵の主題であり、逆に立てた二枚折の銀屏風[5]に描写される。抱一(酒井抱一と思われる)の落款があると設定されるが、酒井抱一にはこのような主題で作成された屏風絵は確認されていない。
本作はしばしばメレディス「エゴイスト」「ヘンリー・エズモント」、サッカレー「虚栄の市」「ダイアナ」、ジェイン・オースティン「高慢と偏見」などの翻案(粉本)と指摘されることがある[6]。漱石作品の連載は朝日新聞の社運をかけた大冒険であり、マスコミの威力で前評判は大変なものであったという。小宮豊隆は「漱石が大学をやめて新聞に這入ったといふことは、当時の一大センセーションであった。その漱石が今度虞美人草を書くといふので、三越では虞美人草浴衣を売り出す、玉宝堂では虞美人草指輪を売り出す、ステーションの新聞売子は「漱石の虞美人草」と言って朝日新聞を売ってあるくといふ風に、世間では大騒ぎした」[7]という。
伊藤(1982)によれば漱石は本作を執筆当初は楽しんで書いていたものの、すぐに嫌になったという。その原因について伊藤は俳句的な写生文で書き始めたものの、長編においてはほとんど不可能な文体であると認識した、しかし「遮二無二、その不可能な文体で押し通した。是が漱石を苦しめる第一の原因だったらうとおもふ」(小宮豊隆「夏目漱石」1953年9月岩波書店)との見解を紹介する[8]。
あらすじ
藤尾(ふじお)は24歳[9]の虚栄心の強い美貌の女性。母違いの兄の甲野欽吾(こうのきんご)は27歳。虚弱であり継母からは「病気」であると事あるごとに世間に吹聴されている[10]。自身も結婚しない事を公言しているのを良いことに、亡き父親の洋行帰りの品で遺品でもある金時計(甲野家の財産を象徴している)と自らの美貌で、小野清三(おのせいぞう)と宗近一(むねちかはじめ)という二人の男性を天秤にかけ、彼らが狼狽する様を楽しんでいた。欽吾にとっての継母、藤尾の実の母親は、口では継子の欽吾の身を案じているものの、いずれは藤尾とその夫が亡夫の遺産を全て相続すると考えていた。また、藤尾は自分を慕い訪ねて来る小野に講釈をさせては、独自の解釈で小野の心を誑かしていた。
藤尾より3歳年上の小野は、恩師井上孤堂(こどう)の愛娘である小夜子(さよこ)を妻に娶るという口約束を交わしていた。老い衰えた井上と小夜子は生活に窮し、小野を頼って京都から上京する。藤尾への恋慕を抱える小野は義理と情欲の板挟みに密かに苦しんでいた。
一方、快活で剛毅な性格の宗近は外交官の試験に及第するため勉学に励んでいた。しっかり者の妹糸子(いとこ、宗近は糸公と呼ぶ)と父親と共に生活を送っていた。28歳で屈強な肉体を持つ宗近は、若くして隠棲している欽吾の身を案じている。
ある日、藤尾、欽吾、宗近、糸子ら4人は上野恩賜公園で行われた東京勧業博覧会見物に繰り出す。一方、小野は井上と小夜子を案内していたが人ごみに疲れた二人を休ませるためカフェで休憩している際に藤尾たちにその様子を目撃された。藤尾は後日小野をめぐりくどく問い詰める。一方、小夜子は博士論文の提出を控えているという小野の変貌ぶりに驚いていた。
欽吾は宗近宅を訪ね、糸子と世間話をする。糸子は欽吾に思いを寄せていたが、欽吾は自分には養えないと婉曲に断る。藤尾に対する憧れを口にした糸子に、欽吾は「藤尾のような女がいると殺される人間が5人はいます」と打ち明け、「貴方はそのままでいてください」と糸子に語る。欽吾は改めて藤尾の気持ちを確認するが、藤尾には宗近の嫁になる意志はなく、小野に固執していた。
小野は知人の浅井を通じて小夜子との縁談を断るつもりでいた。一方、宗近は外交官の試験に及第したことを父や糸子に報告し喜びを分かち合う。宗近は欽吾の嫁になる気はないかと尋ねると糸子は泣き出す。糸子は欽吾に恋慕しており、欽吾も糸子に好意はあったがまるでなにもかも諦めているように提案を断る。
宗近は報告と、出家する素振りの欽吾の心境を尋ねるため甲野家を訪れる。だが、藤尾のもとに小野が訪れていることを目撃する。宗近が欽吾を問い詰めると、欽吾は継母の真意に沿うように自分が悪者になって家を捨て、財産の全てを藤尾と継母に委ねるつもりだと吐露する。そんな欽吾に宗近は糸子を娶ってくれと頼み込み、世間の全てが欽吾の敵となっても糸子だけは味方になると欽吾を説得する。
一方、小野に依頼された浅井は井上を訪ね、博士号取得を理由に小夜子との縁談をなかったことにして欲しいと頼み込む。その替わりに生活の援助はするという小野の言葉を浅井は伝えるが、井上は激昂し、人の娘をなんだと思っていると浅井に怒りをぶちまける。小夜子は浅井と父のやり取りを聞いて落涙する。
井上の態度に悩んだ浅井は宗近に相談する。その頃、小野は藤尾と約束した駆け落ちを果たすべきか迷っていた。そこに宗近が乗り込む。そして人の道を説き、真面目になるべきだと懇々と説得する。
欽吾は甲野家を出る意志を固める。糸子が迎えに来ていた。父の肖像画だけを持って家を出ようという欽吾に継母は世間体を口にして押し留める。其処に宗近と小野、小夜子が連れだって現れる。そして小野が連れた小夜子こそが彼の妻となる女性だと紹介する。一方、待てども待ち合わせに現れない小野に業を煮やした藤尾は甲野家に戻り、小夜子を伴った小野に対面。謝罪された上で小夜子が自分の妻となる女性と紹介される。藤尾は宗近に見せつけるように金時計を取り出すが、宗近からこんなものが欲しくて酔狂な真似をしたのではないと突き放される。藤尾は倒れ、突然死する[11]。藤尾の葬儀の様子が耽美的に描写され、甲野による義母への痛烈な批判、異母妹への冷淡な独白を記す日記の一節と、ロンドンに赴任した宗近の短評を記して物語は終わる。
映像化
映画
これまでに、2度映画化されている。1935年版、1941年版がある。
テレビドラマ
テレビドラマとしては4作品制作されている。
- 1961年4月15日(全1回) - NHKの『NHK劇場』(土曜20:00 - 21:00)で放送、脚本:久板栄二郎、出演:丹阿弥谷津子、西本裕行、杉村春子、園井啓介、加藤治子、宇野重吉ほか
- 1961年10月5日(全1回) - 日本テレビの木曜20:00 - 21:00(『日産劇場』枠[12])で放送、脚本:富田義明、出演:池内淳子、小山田宗徳、田代信子、夏亜矢子ほか
- 1966年10月20日 - 1967年2月23日(全19回) - MBS制作・NET(現:テレビ朝日)系列の『大丸名作劇場』で放送(第1作)、脚本:若尾徳平、出演:長谷川稀世、久保明、上原謙、花柳小菊、石濱朗ほか、制作:MBS、宝塚映画、東宝
- 1984年1月7日(全1回) - TBS系列の『ザ・サスペンス』で放送、副題「まぼろしの愛に果てた紫の女!」、脚本:寺内小春、出演:古手川祐子、古尾谷雅人、藤谷美和子、小林薫、石原真理子、坂東八十助、山岡久乃、石田えり、笠智衆、綿引勝彦、村田雄浩、藤田進、津嘉山正種、中島唱子ほか
上記の作品の他、1981年に向田邦子脚本、松田優作主演の作品が制作される予定だったが、向田邦子が飛行機事故で急逝したため、実現には至らなかった。この作品のキャストは、そのまま1982年の向田邦子追悼ドラマ「春が来た」に流用された。[13]
| NHK NHK劇場 | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
|
虞美人草
(1961年NHK版) |
||
| 毎日放送制作・NET系列 大丸名作劇場 | ||
|
(なし)
|
虞美人草
(1966年版) |
女であること
|
| 毎日放送制作・NET系列 木曜21時台前半枠 | ||
|
虞美人草
(1966年版) |
女であること
|
|
| TBS系列 ザ・サスペンス | ||
|
死に急いだ女
|
虞美人草
(1984年版) |
妻たちの危険な昼下がり
|
関連項目
- 厨川白村 - 小野のモデルとされる[14]。
- 虞美人
- クレオパトラ - 本作中で藤尾が度々例えられており、藤尾の死はシェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』をモチーフにしているとされる[15]。
- ジャコモ・レオパルディ - 欽吾の日記に登場する(作中では「レオパルジ」と表記)ことで、日本で広く知られるようになった[16]。
脚注
- ^ 右掲した漱石の自筆原稿、および朝日新聞掲載時は「虞(朝日では旧字)美人草」、春陽堂から出版された時は「虞(旧字)美人艸」となった。
- ^ “トピックス「文豪・夏目漱石」展 「虞美人草」ブームで浴衣地が人気に イベントAsahi”. 朝日新聞 (2007年11月7日). 2025年6月29日閲覧。
- ^ “6月23日は朝日新聞で「虞美人草」の連載が開始された日”. ゆすはら雲の上の図書館 (2025年6月23日). 2025年6月29日閲覧。
- ^ a b c 「朝日新聞掲載作品一覧 | 漱石と朝日新聞 | 朝日新聞まるごとガイド」『朝日新聞まるごとガイド』。2025年10月25日閲覧。
- ^ 小学館デジタル大辞泉によれば「死者の枕元に屏風を逆さに立てること。また、その屏風」とある。小学館デジタル大辞泉「逆さ屏風」[1]
- ^ 伊藤発子「漱石における"あきらめの哲学"」(中村学園研究紀要、1982.3.31)[2]P.30、PDF-P.8
- ^ 「夏目漱石 二」1953年9月、岩波書店、直接の引用は伊藤発子1982.3.31、P.23、PDF-P.1
- ^ 伊藤発子1982.3.31、P.26、PDF-P.4
- ^ 第12話に依れば「藤尾は丙午である」と表現されるが、1906年が丙午に当たる年であり、虞美人草の公表時期(1907年)当時を登場人物の年齢設定と考えれば著しく一致しない。
- ^ 本編中の記述によれば、宗近の見立てで欽吾は「神経衰弱」、糸子によれば神経衰弱でも病気でもない(十六話)。本作の地の文によれば藤尾の(実)母が「神経衰弱」と描写される(十二話)。
- ^ 作品中に服毒したなどの描写は一切ない。藤尾の死と小野の変心についてはいかにも不自然な展開であり、本作の批評の対象になる論点である(酒井秀幸1983)が、小鹿原敏夫はこの突然死の描写に漱石が愛読したヘンリー・ジェイムズの影響を見る。小鹿原敏夫「漱石『虞美人草』(十八)におけるメレディスの引用について」(京都大学国文学論叢、2014.3.31)[3]PDF-P.10、酒井秀行「『虞美人草』論」(日本文学、1983.9)。漱石自身は高浜虚子あての(明治40年)7月17日付の手紙で「虞美人草はいやになつた。早く女を殺して仕舞たい。熱くてうるさくつて馬鹿気てゐる。是インスピレーシヨンの言なり。」と記しており、また7月19日付の小宮豊隆宛書簡では「あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。」と書く。漱石全集第十六巻、書簡集[4][5]。「魂胆があればあるほど不幸の源をなす」という主題は『吾輩は猫である』十話で提示された漱石の主題の一つであり、多くの漱石作品の重要なプロットをなす。漱石は「魂胆が祟って不幸の源をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆がありすぎるからである。どうか馬鹿竹になってください」と八木の演説を引用する雪江のセリフでそう述べさせる。漱石は藤尾が嫌いで小夜子が可憐であると表現する[6]。「藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。」「小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない。」(小宮豊隆宛、明治40年7月19日[7])
- ^ “虞美人草(1961年)”. テレビドラマデータベース. 2019年4月18日閲覧。
- ^ 向田邦子 取材先の台湾で飛行機墜落事故
- ^ 衣笠梅二郎「厨川白村博士の横顔」(「主流」第16号、1953.9.20)P.35、「漱石の『虞美人草』に描かれた小野のモデルが青年時代の白村博士に擬せられ、藤尾のそれが蝶子夫人に喩えられたのは、既に過去の語り草として忘れ去られ、今更らしくこのような話題を取上げる者は殆んど無くなった」とある。
- ^ “漱石とシェイクスピア 夏目漱石『虞美人草』の問題”. 水崎野里子. 2018年10月27日閲覧。
- ^ “丸善百年史 第十二章 叢書きそい起る”. 丸善出版. 2018年10月27日閲覧。
外部リンク
- 『虞美人草』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『虞美人草』 - 国立国会図書館
虞美人草と同じ種類の言葉
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