薛融
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薛 融(せつ ゆう、生年不詳 - 941年)は、五代十国時代の官僚・儒学者。本貫は汾州平遥県[1][2]。
経歴
純粋で温厚な性格で、儒学を生業とした。はじめ雲州節度使の李存璋の幕下の職をつとめた。同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府を平定すると、薛融は天平軍節度従事・徐州節度従事を歴任した。明宗のはじめ、華州節度判官に任じられた。長興4年(933年)、入朝して右補闕となり、弘文館に宿直した。一カ年あまりして、河東観察判官に転じた。石敬瑭が太原府に駐屯すると、薛融はその幕府に入った。清泰3年(936年)、石敬瑭が鄆州に移されることになり、これを拒否して挙兵しようと計画した。石敬瑭が宴席を設けてそのことを諮問すると、賛同する者が多数であった。薛融は自分が儒生であり、軍事については学んでおらず、進退存亡の道理を安易にいうことはできないと答えた。石敬瑭は薛融をとがめなかった[1][2]。
天福元年(同年)、後晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、薛融は吏部郎中となり、侍御史・知御史台雑事を兼ねた。天福2年(937年)、左諫議大夫から中書舎人に転じたが、自ら文学に優れていないとして辞退した。再び左諫議大夫となった[1][3]。天福3年(938年)6月、高祖が西京洛陽の宮殿を修築するよう命じたが、薛融は范延光の乱の直後のために国費が不足しているとして、上疏して諫めた。高祖はこれを聞き入れて、その工事を取りやめた。7月、御史中丞に任じられた[4]。天福4年(939年)、尚書右丞・分司西都に転じた[5]。天福6年(941年)、病没した。享年は六十数歳[1][3]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。
- 『新五代史』中華書局、1974年。 ISBN 7-101-00322-2。
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