羅貫中とは? わかりやすく解説

ら‐かんちゅう〔‐クワンチユウ〕【羅貫中】

読み方:らかんちゅう

中国元末・明初小説家太原山西省)の人。名は本(ほん)、号は湖海散人。著「三国志演義」「隋唐演義」「平妖(へいよう)伝」など。「水滸(すいこ)伝」の編者または作者一人ともいう。生没年未詳


羅貫中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/01 02:46 UTC 版)

ら かんちゅう
羅 貫中
山東省東平県「東平広場」羅貫中像
生誕 1330年
または1280年頃?
東原(諸説あり)
死没 1400年
または1360年頃?
職業 作家
活動期間 元末明初
代表作 三国志演義
水滸伝
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羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、約1330年 - 1400年頃?または約1280年 - 1360年頃?[1])、[注釈 1]湖海散人、中国の初の作家[2]

通俗白話小説の作家として知られており、中国四大奇書のうちの二作品『三国志演義』『水滸伝』の編作者とされる。

しかし事績はあまり明らかではなく、出身地や著作を巡って歴史学界で長年論争になっている。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。なおは「貫中」であり、「漢中」は誤りである。

概要

羅貫中の生涯については史料が乏しく、ほとんどのことが判っていない。信頼できるまとまった史料は羅貫中の友人・賈仲明中国語版の『録鬼簿続編中国語版』に見え、

羅貫中は太原の出身で湖海散人といった。人付き合いの悪い性格であったが、清新な楽府(元の雑劇)を書いていた。私とは忘年の交わりを結んだ親友であったが、いろいろ問題があり、離れ離れになってしまった。最後にあったのは元の至正24年(西暦1364年)で、この本を書いている60年以上前だ。どこで死んだやら、わからない。 — 賈仲明『録鬼簿続編』

と書かれている[注釈 2]。事績の多くは民間伝承に依るところが大きく、そのため常に諸説紛々としており、雑劇作家の羅本、字(あざな)貫中なる人物について、史実と見られるのはここまでだと中国文学者の金文京高島俊男は論じている[2][3]

中国四大奇書
『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『紅楼夢

それ以外の細かい情報としては、元末期の朱子学者・趙楷の門人の一人に「羅本」という人物がおり、これが羅貫中と同一人物らしいことが判明していること、明代に世間の噂話をまとめた『七修類稿中国語版』に「『三国志演義』・『水滸伝』は杭州の羅貫中の作品」[4]だという記載があること(→#俗説・異聞[5]、後述の『百川書志中国語版』などがある。また、羅貫中は放浪の旅の作家だったために正史『三国志』を十分利用できず、正史の簡略本である『十七史詳節』を用いていたとみられ、『三国志演義』の古版本ではしばしば『十七史詳節』からの引用が見られるという説がある。(→#作者か否かを巡る論争[6]

近年の研究(陳遼による論説など)では、従来同一視されてきた「雑劇家の羅貫中(太原出身)」と「小説家の羅貫中(東原出身)」は、生年代が40年以上離れた「別人」であるとする見解がある(→#二人の羅貫中説)。

2011年、故郷の一つと目されている山東省東原(現:東平)に、羅貫中を記念した「羅貫中記念館中国語版」が開館している(→#羅貫中記念館)。

出身地

出身地については諸説紛々であり、文学・学術界で長年論争が続いている。(1)山西省太原[7]、(2)山東省東原(現:東平[8]、(3)浙江省銭塘(現:杭州[9]が知られ[10]、さらに(4)江西省廬陵(現:吉安)の4説が存在する[11]

(3)(4)については確証が得られていない。近年、山西省祁県河湾村にて羅貫中の家譜(家系図)と印章が発見されたというが、それらが『三国志演義』(以下、『演義』)の編作者・羅貫中と同一人物であるかを証明する記述は見つかっていない[11]。この中で(1)太原説と(2)東原説が有力視されており、『演義』研究界において見解が分かれ、互いに譲らない状態が続いてきた[11]。以下、(1)(2)を中心に概説する。

(1)太原説

山西省

羅貫中の出身地を「太原」とする説の根拠は、先述の賈仲明(の作とされる)『録鬼簿続編』(以下、『続編』)である。羅貫中と「忘年交」(忘年の交わり)の仲であった『続編』の作者が親友の出身地を間違えるとは考えづらく、そのため太原説は信憑性が高いと言える[12]

しかしこの説には不可解な点もあり、『続編』の中で著者は羅貫中の作品として雑劇『風雲会』『連環珠』『蜚虎子』のみを挙げ、当時すでに知名度を得ていたはずの『演義』については一言も触れていない[12]。羅貫中が朱子学者・趙楷の門下だったことを発見した中国の学者王利器は、「趙楷は東原の近隣で塾を開いており、『続編』の〈太原〉は〈東原〉の誤字だろう」と推測し、写本のミスとして太原説を否定している[13]

(2)東原説

山東省

羅貫中の出身地を「東原」とする説の根拠は、明の蔣大器中国語版弘治7年(1494年)に書いた『三国志通俗演義』序文において、羅貫中について極めて明確に記している[14]

東原の羅貫中という者が、平陽の陳寿による伝(正史『三国志』)に基づき、これを国史に照らし合わせ、後漢霊帝中平元年から西晋太康元年に至るまでの出来事を細心に取捨選択してまとめ上げ、『三国志通俗演義』と名付けた。文体は深すぎず、言葉は俗すぎず、ほぼ歴史(正史)に準じている。 — 蔣大器『三国志通俗演義』「序」

当時、この序文が書かれる以前から『三国志通俗演義』は流行しており、明代に刊本されたさまざまな『演義』の版本にも同様に「東原」と記しており、人々の間で広く「東原の人」と認定していたとみられる[15][14]

水滸伝』も同様に、現存する最も完全な版本『水滸志伝評林』(1594年)の署名には「中原:(山東省の西部を含む地域)の貫中、羅(姓)、本(諱)、名卿(号)父(尊称)編集」と記され[16]、百十五回本『水滸伝』には「東原 羅貫中 編集」、百十四回本『水滸伝』には「東原 羅貫中 参訂」と署名されている[14]。また、陳遼によると羅貫中は『演義』の中で山東省内の些細な歴史人物に精通しており、東原と太原に対しての習熟度や認識、情熱の度合いが明らかに異なっていることを指摘し、東原に対し強い郷土愛と知識を有していたとする[14]

作者か否かを巡る論争

一説に四大奇書とされる『三国志演義』・『水滸伝』の作者であると言われているが、日中の学界で議論が分かれている。

中国の見解

三国志演義

明・嘉靖年間の人々は『水滸伝』の作者として施耐庵と羅貫中を並べて挙げているが、『水滸伝』のテキストそのものは羅貫中の手によるものだとし、かつ彼こそが『演義』の作者である「羅本、字は貫中」と考えていたという[17]

郎瑛中国語版の『七修類稿中国語版』、王圻の『続文献通考』、田汝成中国語版の『西湖遊覧志余』など、多くの学者が羅貫中を作者だと肯定している[注釈 3]

また、魯迅は著書『中国小説史略』の中で以下を述べている。

現存する『水滸伝』を観察すると、実際には二種類あることがわかる。一つは簡略なもの、もう一つは繁雑なものである。…百十五回本の簡本は、おそらく繁本よりも先に成立した。なぜなら用字や造句が繁本としばしば異なっており、もし繁本を要約しただけのものであるなら、わざわざ文章を作り変える必要がないからだ。また、簡本の著者は羅貫中とのみ題されており、周亮工が古老から聞いた話でも、ただ羅氏の名前だけが挙がっていた。後に繁本が現れて初めて〈耐庵〉の名が着けられた。ゆえに施耐庵という名は繁本へ書き換えた者が使った仮名(托名)であり、後から付け加えられたもので古本には無かったのではないかと疑われる。後世の人は繁本に〈施耐庵が作り、羅貫中が編む〉とあるのを見て、それが仮託であることに気づかず、勝手な想像で耐庵と貫中は同郷の銭塘の人であり、かつ師弟関係であると定めてしまったのである。 — 魯迅『中国小説史略』「第十五篇:元明伝来之講史(下)」[19]

つまりは、梁山泊に近い東原を籍貫(ルーツ)とする羅貫中が晩年に簡本の『水滸伝』を執筆し、後に施耐庵がそれを加工・改写・再創造して今日に伝わる繁本の『水滸伝』にしたという。陳遼は魯迅の見解を支持し、『水滸伝』は「羅貫中と施耐庵の合著とされるべき」だと主張している[18]

日本の見解

水滸伝

日本の中国文学研究者・高島俊男は「中国の学者の大多数は羅貫中を『演義』・『水滸伝』の作者としている。しかし、自分は到底承服できない」と主張した[20]

羅貫中が『演義』・『水滸伝』の作者であるという説の根拠の一つは、明の武将・高儒中国語版の蔵書目録『百川書志中国語版』「巻一:雑史」の項で、そこには以下の記載がある[注釈 4]

  • 『三国志通俗演義』二百四巻:晋の平陽侯・陳寿の史伝、明の羅本貫中の編。
  • 『忠義水滸伝』一百巻:銭塘の施耐庵の本、羅貫中編次。 — 高儒『百川書志』

しかし、羅貫中と『演義』・『水滸伝』との関連性は高儒の記録を除くと『演義』の古版本の刊記[注釈 5]、世間の噂を集めた『七修類稿中国語版[4]くらいしか確証がなく、どれも簡単な記載ばかりである。その上、下記の問題を抱えており、日本の学界ではあまり肯定的な見解はない。『演義』・『水滸伝』は日本の学界では複数名による作品ではないかという説も存在している[23][24]

複数名説を取る高島及び中国文学者の上田望の批判を要約し、以下、区別が付きやすいよう元末の劇作家を「羅本」、『演義』・『水滸伝』の著者グループを「羅貫中」とする。 まず高島俊男の説は以下の通りである。

  1. 中国の学者は、『百川書志』を元に、元末(1364年頃)に生きていた羅本が書いた小説が原稿か手書き写本で伝承され、約150年後の明代中期に陸続と発見されたとしているが、1364年頃にこれほど整った小説の形式があったとは考えられない。このような整理された小説は明の嘉靖年間(1522年 - 1566年)までくだらなければ出現していない。要するに時代が離れすぎている[25]
  2. 『演義』・『水滸伝』の編者の羅貫中というのは、おそらく元末の羅本と何の関係もない創作グループの共同ペンネームだろう。羅貫中編という小説がヒットしたために便乗作品も多数生まれたとみられ、グループは1つではなかっただろう[26]}。
  3. 記録には羅貫中を名乗る別の出身地の文人が複数名登場しており、矛盾している。また、親友の賈仲明の記録で代表作の『演義』が出てこないのはおかしい。また羅貫中が『演義』を書いたと主張する人々は賈仲明が『演義』について触れていないことについて、「小説を書いたことは名誉なことでなかったから記載しなかった」「羅貫中と賈仲明が離れ離れになってから『演義』が書かれた」と主張するが、いずれも根拠が乏しく科学的な説明ができていない。[27]}
  4. 元末の羅本は記録を見る限り旅の劇作家であり、あちこちを転々としていた人物である。『演義』は正史『三国志』を注までよく読み込み、更に『後漢書』・『資治通鑑』など、大部の史書を縦横に引用しながら書かれている。羅貫中=羅本説を取る人々は、正史『三国志』を読めない羅本が正史の簡略本『十七史詳節』を使ったと主張しているが、信じがたい。なぜなら、『十七史詳節』は裴松之注を省略しており、正史本文ではなく裴松之注に依拠しなければ書けない箇所が『演義』にはあるからだ。[28]。更に『演義』の末尾部分は朱熹の『資治通鑑綱目』を読んで書かれていると思われる。しかし、これも講釈師が使った略本ではなく、『資治通鑑綱目』のしっかりとした完本を読んだ形跡がある。となると、元末の旅の一劇作家にすぎない羅本が、裴松之注がついた正史『三国志』と『資治通鑑綱目』全五十九巻を蔵書してそれをつかいこなして『演義』を書けたものだろうか。いや、それほど多くの史書を読み込めたはずがない。すなわち元末の羅本が『演義』を書くことは不可能であったのではあるまいか。当時書物は高価であり、上記のような史書はよほどの資産家か蔵書家が関与していない限り使用すら出来なかったであろう。だとすれば、羅本とは無関係な明朝中期の無名のそこそこの教養人が『演義』の真の作者ではないだろうか。[29]

なお、金文京は羅貫中複数名説について、「そういう説もあるが、出身地が複数有ることは、元の時代は騎馬民族国家で人の移動が激しかったために合理的に説明できる。羅貫中の〈湖海散人〉という雅号は正史三国志に登場する劉備の部下陳登に由来するのだろう。もちろん『演義』成立以前に羅貫中の名が騙られた可能性もある」[30]「『十七史詳節』以外にも『古文真宝』など、史書の略本は羅貫中は色々使っているようだ」[31]と中立的な見解を示している。

二人の羅貫中説

羅貫中の出身地(1)太原説に依れば、「雑劇家・羅貫中」は太原の人であり、(2)東原説に依れば、『演義』『水滸伝』の作者「小説家・羅貫中」は東原の人である。陳遼は(1)(2)を同姓同名の別人として捉え、以下の見解を示している[32]

  1. 太原の「雑劇家・羅貫中」(1323年頃~1398年頃)
  2. 東原の「小説家・羅貫中」(1260年頃~1360年頃)

(1)太原の羅貫中については、陳遼は『続編』の記述(→#概要)にある「忘年交」(忘年の交わり)に注目し、これは20歳以上の年齢差がある関係を指す言葉で、『続編』の作者は永楽20年(1422年)時点で80歳であったことが判明しており、逆算すると生年は1343年となる。羅貫中と「忘年交」を結んだのが17歳時(1360年)と仮定すると羅貫中は37歳、最後に会ったという至正24年(1364年)では作者は21歳、羅貫中は41歳となることから、その生年はおよそ1323年、75歳まで生きたと仮定すると没年は1398年となる[12]

(2)東原の羅貫中については、延祐5年(1318年)の状元(科挙の首席合格者)・霍希賢の子孫とする者が次のように紹介している[14]

霍希賢と羅貫中は同時代の人でした。彼には〈羅本〉という親友がおり、その人こそが『水滸伝』を書いた羅貫中なのです。…羅貫中は宿城の羅庄に住む大家族でした。私の先祖・霍希賢は彼と親しく付き合うために、自分の屋敷を宿城に建て、屋敷同士が隣り合うようにしました。…我が家の霍希賢と羅貫中は義兄弟の契りを結んだ仲であり、その関係は手足のように親密なものでした。

子孫を称する者によるこの話が真実であった場合、霍希賢が状元になった時の年齢を35歳(1283年生まれ)とし、羅貫中が3歳年下と仮定すると、東原の「小説家・羅貫中」の生年はおよそ1280年、80歳まで生きたとすると、没年は1360年頃となる。つまりは(2)東原の「小説家・羅貫中」の年齢は(1)太原の「雑劇家・羅貫中」よりも40歳以上年長で二世代近くの開きがあり、また、『続編』作者が『演義』に触れていないといった矛盾からも、陳遼はこの二人を同一人物とするにはさまざまな整合性が取れず困難であるとして、別人説を唱えている[注釈 6]

羅貫中の著作か疑問視されている書物

三遂平妖伝(略称:平妖伝)』、『残唐五代史演義(略称:五代史演義)』、『隋唐両朝志伝演義(略称:隋唐演義)』などの歴史小説も「羅貫中編次」とされるが、金文京は「これらの書物が羅貫中作である可能性は『演義』よりはるかに低い」としている[33]。金の研究によれば、これらの歴史小説は『演義』を真似て書かれており、固有名詞を入れ替えれば『演義』と同じ話になってしまうところが複数あるといい、このことから金は「〈羅貫中編次〉は〈羅貫中の『演義』風の歴史小説〉くらいの意味しか持っていない。これらを羅貫中の作とすることは出来ない」と述べている[34]。高島俊男は前述のように「羅貫中」を称する作家グループが複数存在し、便乗作品が多数出た可能性を示唆している。[26]}

俗説・異聞

『西湖遊覧志余』には羅貫中についての噂話がある。

銭塘の羅貫中は、南宋時代の人で数十種もの小説を編纂したが、中でも『水滸伝』は宋江らの姦計・盗み・脱走・詐欺・策略などの悪事が極めて詳細に書かれている。人を欺く策略が尽くされ、道徳心を著しく損なう内容であったため、その報いとして彼の子孫は三代にわたり、みなとなった。天道による報復とはまさにこのことである。 — 『西湖遊覽志』「餘巻二十五」[35]

羅貫中は元・明の人物であり、また、羅貫中が編者であることが確定できる小説は、前述の通り厳密に言えば存在していない。

清代の伝説(清初の文人・顧令の『塔影園集』「跋水滸図」・『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の羅本は元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、『水滸伝』は羅本が張士誠を諫める目的で書いたものであり、『三国志演義』の赤壁の戦いの描写は、朱元璋陳友諒鄱陽湖の戦いをモデルにしていたと言われる[36]

羅貫中記念館

羅貫中の出身地と目される山東省東平県羅荘(霍希賢の子孫の話を参照)に位置する、羅貫中を顕彰した記念館。

2011年9月に正式に開館。明代の建築様式を模して建てられ、敷地面積3.4万平方メートル、延床面積9700平方メートルを誇り、館内には「羅貫中の故郷」を示す(1)牌坊(鳥居)、(2)羅貫中像、(3)貫中堂、貫中居、三国園、水滸園などが設けられている[37]

2015年には羅貫中生誕700周年を記念する祭祀大典が執り行われた[37][38]

脚注

注釈

  1. ^ 続文献通考』は諱を貫、字を本中とする。
  2. ^ 金文京の本には原文書き下しが掲載されている[2]。ここでは著作権に配慮し原文の大意をとった。
  3. ^ 陳遼は、出土した施耐庵の子孫(施譲と施廷佐)の墓誌銘を考証した結果、施耐庵の生没年は1332年〜1406年と判明したことから、明代の記録の多くが『水滸伝』の作者を羅貫中としているのはこのためだとする[18]
  4. ^ 「編」の意味について、『七修類稿』は「もともと原作があって、それをまとめたので『編した』というのだ」と説明する。『施耐庵墓志』では、施耐庵の原作を羅貫中がまとめたから「編」というのだ、としている。ただし高島はこれを疑問視し、中国のアカデミズムが『施耐庵墓志』を20世紀に創作された粗雑な偽書としていることを紹介しているが、地元の信奉者はアカデミズムの批判を受け入れていないとしている。[21]
  5. ^ 基本的に中国の商業出版の刊記はいい加減で、著名な学者や文人の名前を騙っているケースが多い。例えば李卓吾の評がないのに「李卓吾先生評閲」と表紙に書いてあるパターンがあり、余り当てにならない。ひどい場合は書物の再版時に序文の「康煕五年」という年号を削って「万暦己丑孟冬天都外臣撰」と虚偽の記載を追加し、清代の刊本を明代に見せかけるケースも存在していたと高島は指摘している[22]
  6. ^ また、至正26年(1366年)の『門人祭宝峰先生文』に登場する「羅本」(1315年〜1318年頃)は別人であり、東原の羅貫中ではないという[14]

出典

  1. ^ 陳 2007, 一、雑劇家羅貫中,其籍貫確為太原。二、小説家羅貫中,是山東東平人.
  2. ^ a b c 金 2010, pp. 140–141.
  3. ^ 高島 2001, pp. 199–201, 11・誰が水滸伝を書いたのか?.
  4. ^ a b   (中国語) 『七修類稿』巻23「三国宋江演義」, ウィキソースより閲覧。 《三國》、《宋江》二書,乃杭人羅本貫中所編。予意舊必有本,故曰編。《宋江》又曰錢塘施耐庵的本。昨於舊書肆中得抄本《錄鬼簿》,乃元大梁鍾繼先作,載元、宋傳記之名,而於二書之事尤多,據此尤見原亦有跡,因而增益編成之耳。
  5. ^ 金 2010, pp. 142–143.
  6. ^ 芦田正昭『物語三国志』社会思想社の解説
  7. ^ 録鬼簿続編中国語版
  8. ^ 『三国志演義』蔣大器序ほか。
  9. ^   (中国語) 『七修類稿』巻二十三「三国宋江演義」, ウィキソースより閲覧。 《三國》、《宋江》二書,乃杭人羅本貫中所編。
  10. ^ 金 2010, pp. 141–143.
  11. ^ a b c 陳 2007, 序.
  12. ^ a b c 陳 2007, 一、雑劇家羅貫中,其籍貫確為太原.
  13. ^ 金 2010, p. 142.
  14. ^ a b c d e f 陳 2007, 二、小説家羅貫中,是山東東平人.
  15. ^ 王 1983, p. 68.
  16. ^ 『水滸志伝評林』署名「中原貫中羅道本名卿父編集」
  17. ^ 袁世碩『水滸志伝評林・前言』東平県人民政府重印本、2006年。
  18. ^ a b 陳 2007, 四、羅貫中創作的是《水滸》簡本,比現有《水滸》簡本還要“簡”;施耐庵在此基础上加工改写為繁本,《水滸》乃羅、施二人合作.
  19. ^   (中国語) 『中国小説史略』「第十五篇:元明伝来之講史(下)」, ウィキソースより閲覧。 總上五本觀之,知現存之《水滸傳》實有兩種,其一簡略,其一繁縟。[...]若百十五回簡本,則成就殆當先於繁本,以其用字造句,與繁本每有差違,倘是刪存,無煩改作也。又簡本撰人,止題羅貫中,周亮工聞於故老者亦第雲羅氏,比郭氏本出,始著耐庵,因疑施乃演為繁本者之託名,當是後起,非古本所有。後人見繁本題施作羅編,未及悟其依託,遂或意為敷衍,定耐庵與貫中同籍,為錢塘人(明高儒《百川書誌》六),且是其師。
  20. ^ 高島 2001, pp. 199–200, 11・誰が水滸伝を書いたのか?.
  21. ^ 高島 2001, pp. 195–198, 11・誰が水滸伝を書いたのか?.
  22. ^ 高島 2001, pp. 256–259, 14 「天都外臣」とは誰ぞや?.
  23. ^ 高島 2001.
  24. ^ 上田 1996, p. 120.
  25. ^ 高島 2001, pp. 200–201, 11・誰が水滸伝を書いたのか?.
  26. ^ a b 高島 2001, pp. 201, 11・誰が水滸伝を書いたのか?.
  27. ^ 高島, pp. 200, 11・誰が水滸伝を書いたのか?.
  28. ^ 上田 1993, p. 120-126, 第2章 『三国演義』諸版本と歴史書 第1節 原『三国演義』の基づいた歴史書.
  29. ^ 上田 1993, p. 142-143, 小結.
  30. ^ 金 2010, pp. 144–152.
  31. ^ 金 2010, pp. 47–48, 126–136.
  32. ^ 陳 2007.
  33. ^ 金 2010, p. 150.
  34. ^ 金 2010, pp. 150–151.
  35. ^   (中国語) 『西湖遊覽志(四庫全書本)』「餘巻二十五」, ウィキソースより閲覧。 錢塘羅貫中本者南宋時人編撰小説數十種而水滸𫝊叙宋江等事姦盜脱騙機械甚詳然變詐百端壊人心術其子孫三代皆啞天道好還之報如此
  36. ^ 浦玉生 (2000年10月10日). “《水滸伝》与張士誠起義再探” (中国語). 中国智慧城(ZHCCHINA.com). 2025年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年1月11日閲覧。
  37. ^ a b 記念館 2015.
  38. ^ 羅貫中記念館:Trip.com, 外部リンク参照.

参考文献

中国語文献

  • 王利器「羅貫中与〈三国志通俗演義〉上篇」『社会科学研究』第1号、1983年、68-73,101。 
  • 陳遼「两個羅貫中」『江蘇社会科学』第4号、2007年、179-182頁、2026年1月12日閲覧。「中国文学網(2015年12月08日)よりアーカイブ。」 
  • 羅貫中記念館” (中国語). 東平旅遊資訊網. 東平県人民政府辦公室 (2015年9月6日). 2016年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年1月14日閲覧。

日本語文献

関連項目

三国志演義関連

水滸伝関連

その他

外部リンク


羅貫中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:54 UTC 版)

水滸伝の成立史」の記事における「羅貫中」の解説

詳細は「三国志演義の成立史#羅貫中は作者なのか」を参照 『三国志演義』作者として知られる羅貫中もまた、水滸伝』の作者とする説がある。『続文献通考』(王圻)、『西湖遊覧余志』(田汝成。嘉靖30年1551年)頃成立)、『也是園書目』(銭曾。清初成立)などでは、『水滸伝』の作者を羅貫中と記している。また上記の『百川書志』や、『七修類稿』(郎瑛著。後述)では、羅貫中・施耐庵2人の名を挙げる現存する水滸伝』のテキストでも「施耐庵集撰、羅貫中編修」とするものが多い。羅貫中もまた経歴不明な人物であり、一般的には元末明初14世紀半ば)の人物とされる。賈仲名の『録鬼簿続編によれば親友の羅貫中は太原の人で湖海散人称していたこと、楽府戯曲書いていたこと、至正24年1364年)に最後に会ったことが記されている。ただしこの羅貫中が『三国志演義』や『水滸伝』等の通俗小説書いたことは一切記されておらず、同姓同名別人である可能性が高い。一方、羅貫中は明代中期人物であるとする説もあり、実際正徳年間1506年 - 1521年末期から嘉靖年間1522年 - 1566年)にかけて『三国志演義』三遂平妖伝』等の長篇小説数十種が「作者・羅貫中」名義続々出版されている。ただし、こちらの羅貫中もすべて同一人物とは限らない著作権意識無かった当時一つ小説売れると「同じ作者作品」と称して別の作品宣伝することがあったためで、ベストセラー作家として羅貫中の名が勝手に使用され可能性否定できない。また短期間大量長篇続々著作していることから、一人作者の手になるものではなく何人かのグループ執筆された可能性高く、羅貫中の名はその作家グループの名であったということ考えられる実際現行水滸伝』の冒頭には「詞に曰く試みに看よ書林隠処の、幾多俊逸なる儒流を…」との文があり、複数作者による合作宣言とも受け取れるいずれにしても水滸伝』の作者施耐庵もしくは羅貫中個人比定することには無理があり、現時点では作者不詳言わざるを得ない

※この「羅貫中」の解説は、「水滸伝の成立史」の解説の一部です。
「羅貫中」を含む「水滸伝の成立史」の記事については、「水滸伝の成立史」の概要を参照ください。

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