粉彩
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粉彩(ふんさい)とは中国・清代康熙年間(1662〜1722)に始められた陶磁器上絵彩色技法の一つ。別名で琺瑯彩(ほうろうさい)、洋彩(ようさい)とも呼ばれる。
概要
ヨーロッパの七宝(銅胎七宝)の技術を陶磁器に応用したもの。琺瑯質の白粉に顔料を重ねて描いていくもので、それまでの五彩の技法では困難だったグラデーションや絵画的な表現が可能になった。洋絵具を用いたので洋彩、または軟彩とも呼ばれる(これに対し、五彩は、硬彩とよばれる)。この技法を用いたもののなかに古月軒と呼ばれるものがあり、これは宮廷画家などが絵付けをしたものといわれる。
技法
粉彩技法は西洋の伝統的上絵付技法と東洋の伝統的上絵付技法とが混ざった上絵付技法である。
清朝期、キリスト教の宣教師達により西洋の技術が中国に入るが、同時に陶芸技法の一部として西洋式の釉上彩飾技術が中国に入る。技法の詳細を書くと、東洋式釉上彩飾技法というのは、水解(ミズトキ)といわれるもので、ニカワ、フノリを少量とかした液に彩料を混ぜて使う。西洋式釉上彩飾技法というのは、油解(アブラトキ)といわれるもので、乾性油、不乾性油を適量混合した液に彩料を混ぜて使う。
粉彩技法とは、水解(ミズトキ)、油解(アブラトキ)を併用しながら、彩飾していく特異な技法である。この技法の特殊な面は、一つの器物に水溶性の絵具と油性の絵具を併用しながら彩色作業を進める点にある。併用といっても水と油は混ざらないので同時に二種の絵具は使えず、したがって焼成を織り込みながら作業を進める事になる。例えば、水溶性の絵具で彩色して一度焼成する。次に油性の絵具で彩色して更に焼成する。あるいは、これを幾度も繰り返す。精緻に仕上げようと思えば思うほど、幾度も焼成を繰り返す必要性が出てくる。粉彩技法というのは描画の技巧もさることながら、焼成技術、製造作業工程が複雑な技法であると云えられる。なお、日本の江戸期においては、鎖国、キリスト教の弾圧により、この技法が西洋から伝播する事は無かった。現存する江戸期の陶芸品を見回してもこの技法が使われた痕跡は無い。
参考文献
- 宮川愛太郎 著『陶磁器』共立出版株式会社、1980年2月。
- マイケル・サリバン 著、新藤武弘 訳『中国美術史』株式会社新潮社〈新潮選書〉、1973年9月。
- 吉田光邦 著『中国科学技術史論集』日本放送出版協会、1972年10月。
- 素木洋一 著『現代陶磁の彩飾技法』株式会社明現社、1988年2月。
- 素木洋一 著『図解工芸用陶磁器-伝統から科学へ-』株式会社技報堂、1970年4月。
- 杉村勇造 著『清の官窯 陶磁大系第46巻』株式会社平凡社、1973年3月。
- M・ピラール・ナバロ 著、朝岡あかね 訳『陶芸の装飾』株式会社グラフィック社、1996年12月。
関連項目
粉彩
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康熙年間末期には粉彩という新技法が開発された。これは西洋の七宝の技法を磁器に応用したもので、石英の粉末と鉛を混ぜたものを基礎に、さまざまな色料を用いて絵画的な図様を器面に描くことができるようになった。白色についても、従来の白の素地に透明釉を掛ける方法ではなく、白色顔料による不透明な白色を得ることができるようになった。粉彩と同様の技法を用いたものに琺瑯彩と呼ばれるものがある。粉彩と琺瑯彩は基本的には同じ技法であるが、粉彩が整形、焼成から上絵付けまで一貫して景徳鎮で行ったものであるのに対し、琺瑯彩は景徳鎮で作った磁胎に、内務府造弁処という役所に属する琺瑯作という官営工房で絵付けを施したものである。琺瑯作での絵付けには宮廷画家も動員され、中国絵画が磁器の器面に再現されることとなった。琺瑯作では、初期の作品には素焼き(無釉)の磁胎の上に直接絵付けをしていた。これは、透明釉の釉上に琺瑯彩で絵付けをする技術がまだ開発されていなかったためである。雍正年間の作品では技術の進歩により、透明釉の上に絵付けが施されている。琺瑯作の作品が小品の碗、皿を主とするのに対し、景徳鎮窯で作られた粉彩では大型の瓶なども作られている。また、景徳鎮の粉彩では、一つの器に従来の五彩の顔料と粉彩の顔料がともに使われるが、琺瑯作の作品ではそうしたことはほとんどない。五彩を「硬彩」と呼ぶのに対し、粉彩は「軟彩」あるいは「洋彩」と呼ばれた。
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