符習とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 符習の意味・解説 

符習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/20 10:10 UTC 版)

符 習(ふ しゅう、生年不詳 - 933年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫趙州昭慶県[1][2]

経歴

若くして従軍し、成徳軍節度使の王鎔に仕えて、功績を重ねて列校となった。晋王李存勗が河北を経略するにあたって、王鎔と同盟していたため、符習は軍を率いて李存勗の征討に従った。天祐18年(921年)、王鎔が張文礼に殺害されたとき、符習は徳勝口にいたが、張文礼は符習らに鎮州に帰るよう求めた。符習が王鎔の仇を取りたいと李存勗に泣いて訴えたため、李存勗は閻宝史建瑭をつけて符習が張文礼を討つのを助けさせた。符習は成徳軍兵馬留後となった。張文礼が殺害されると、李存勗は符習を成徳軍節度使に任じようとしたが、符習は固辞した。天祐19年(922年)、李存勗が成徳軍節度使を兼領すると、相州衛州を割いて義寧軍を置き、符習は義寧軍節度使に任じられた。ほどなく天平軍節度使・東南面行営招討使に転じた[1][2]

同光元年(923年)、符習は安国軍節度使となった。同光2年(924年)、青州節度使に転じた[1][2]。同光3年(925年)、酸棗県の河堤を修築した[3]。同光4年(926年)2月、趙在礼が魏州に拠ると、符習は青州の軍を率いてこれを討つことになった。軍乱が起こったため、符習は軍を退いて黄河を渡った。李嗣源が魏州から洛陽に赴く途中、符習は召し出されて胙城県で李嗣源に会った。符習は李嗣源に従って開封府に入った。天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が即位すると、符習は侍中を加えられ、青州に帰るよう命じられた。青州の守将の王公儼に阻まれたため、再び天平軍節度使に任じられた[4][5]

天成4年(929年)、宣武軍節度使に転じた。符習は安重誨と仲が悪く、民衆から金銭や租税を余分に搾取していると告発されて、罷免されて洛陽に召還された[6][7]長興元年(930年)、太子太師として致仕し、郷里の昭慶県に帰った[8]。長興4年(933年)、中風により死去した[9]太師の位を追贈された[6][7]

子女

脚注

  1. ^ a b c 旧五代史 1976, p. 792.
  2. ^ a b c 新五代史 1974, p. 277.
  3. ^ 旧五代史 1976, p. 445.
  4. ^ 旧五代史 1976, pp. 792–793.
  5. ^ 新五代史 1974, pp. 277–278.
  6. ^ a b c 旧五代史 1976, p. 793.
  7. ^ a b c 新五代史 1974, p. 278.
  8. ^ 旧五代史 1976, p. 561.
  9. ^ 旧五代史 1976, p. 606.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  符習のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「符習」の関連用語

符習のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



符習のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの符習 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS