祖式元安とは? わかりやすく解説

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祖式元安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/02 13:40 UTC 版)

 
祖式 元安
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 寛永13年8月15日1636年9月14日
改名 祖式元安→宗安(法号)
別名 祖式元勝
通称:源太郎→次郎右衛門尉
官位 式部少輔信濃守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 石見小笠原氏庶流祖式氏
父母 父:祖式友兼
兄弟 元安、女(粟屋元国室)、女(長井元為室)、
長好、女(今田春賀室)、長兼、
女(豊嶋八郎兵衛室)、元信
元家、就吉、女(児玉就書室)
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祖式 元安(そしき もとやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。祖式氏は石見国邑智郡祖式[注釈 1]を本拠とする国人毛利氏家臣長州藩士。家格は大組、770石。父は祖式友兼。名は元勝とも。

生涯

石見国邑智郡祖式[注釈 1]を本拠とする国人である祖式友兼の嫡男として生まれる。

元亀元年(1570年)、尼子氏再興を図る尼子勝久討伐のために出雲伯耆へ出陣する毛利輝元に、父・友兼と共に従って初陣を果たし、天正6年(1578年)の上月城攻めにも参加した。以後、美作豊後への出陣や、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけての九州征伐に従軍し、武功を挙げた。

文禄元年(1592年)から始まる文禄の役では、弟の元信と共に、輝元に従って朝鮮へ渡る。朝鮮の「かかい」の城を攻撃した際に負傷し保養していた際に城内が弱っていることを見付け、元信に城へ乗り込むよう申し付けたことにより、元信は諸手に勝って城へ乗り込みこととなった。この功により、元信と共に感状を与えられた。

慶長5年(1600年)の安濃津城の戦いにも従軍し武功を挙げているが、関ヶ原の戦い後に毛利氏が周防国長門国の2ヶ国に減封されると、それに従って移り住んだ。

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、30番目に「祖式次郎右衛門尉」と署名している[1]

寛永13年(1636年8月15日に死去。嫡男の元家が後を継いだ。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。

参考文献




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