益田孝とは? わかりやすく解説

ますだ‐たかし【益田孝】

読み方:ますだたかし

[1848〜1938実業家新潟生まれ。号、鈍翁大蔵省造幣権頭を経て三井物産転じ三井財閥発展基礎築いた美術品収集家としても知られる

益田孝の画像

益田孝 ますだ たかし

益田孝の肖像 その1

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益田孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/21 06:59 UTC 版)

ますだ たかし
益田 孝
益田 孝
生誕 1848年11月12日
日本佐渡国雑太郡(現在の新潟県佐渡市相川)
死没 (1938-12-28) 1938年12月28日(90歳没)
職業 実業家
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スフィンクスで記念撮影する遣欧使節団一行(1864年)、アントニオ・ベアート撮影
益田 孝

益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日1848年11月12日) - 昭和13年(1938年12月28日)は、日本実業家男爵三井合名理事長。

草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた。明治維新後、世界初の総合商社三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。

経歴

佐渡国雑太郡相川町(現在の新潟県佐渡市相川)に生まれる。幼名は徳之進[1]

安政2年(1855年)、江戸幕府は箱館奉行を設置(再設置)することとなり、父の鷹之助が幕臣として取り立てられたため一家で箱館(函館)に移住した[1]。安政6年(1859年)、鷹之助が江戸詰の外国奉行支配定役となったため、一家は江戸に移った[1]。孝は江戸で外国語修習見習生となり、試験合格後、14歳で幕臣の支配通弁御用出役(通訳官)となった[1]。やがて麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスと接した[1]。また、この頃にはヘボン塾(現・明治学院大学)で英語を学んだ[1]

文久3年(1863年)、フランスに父の鷹之助が遣欧使節団(第二回遣欧使節、横浜鎖港談判使節団)として派遣されることが決まる。徳之進も同道したかったが、当時、親子でともに洋行することは禁じられていたため、徳之進は益田進と名を変えて鷹之助の家臣として参加[1]。同年12月の出国後、翌年の3月にパリ着、横浜に帰着したのは7月だった[1]

帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した[2]。同年、富永えいと結婚[1]。4月の江戸城引き渡しに伴い御役御免となり、多くの旗本は徳川慶喜とともに駿府に移ったが、徳之進は商人になることを決意した[1]

明治維新後は明治2年(1869年)に横浜に移住して貿易商館ウォルシュ・ホール商会にクラークとして1年間勤務[3]。明治3年(1870年)、自ら中屋徳兵衛などと名乗って横浜弁天町に店舗を持ち輸出商を営んだ[3]。この時期、仕事仲間から紹介された大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治5年(1872年)に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった[3]

その後、明治6年(1873年)に井上が留守政府内の権力闘争に敗れて下野すると益田も続いて職を辞した。翌明治7年(1874年)には井上が設立した先収会社の副社長に就任[3]。しかし、明治8年(1875年)に井上が官界に復帰し、先収会社は三井組からの統合の申し入れを受け、明治9年(1876年)7月1日に三井物産(旧三井物産)を発足させて同社の総括(責任者)に就任した[3]。またこの創業の3ヶ月後には中外物価新報を創刊した[3]

三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋大学出身者が優勢を占めた。三井内部では、工業化路線を重視した中上川彦次郎に対して商業化路線を重視したとされている(但し、後述の三井鉱山の設立や團琢磨を重用したように工業化路線を軽視したわけではなかった)[4]。さらに、三井財閥総帥であった中上川の死後実権を握ると、経営方針の中で、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾出身者を中心とする学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総帥には團琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた[5]

また、明治21年(1888年)には三池炭鉱の払下げを受け[3]、明治22年(1889年)に「三池炭鉱社」(後の三井鉱山)を設立、團を事務長に据えた。

その後、明治25年(1892年)に三井物産(旧三井物産)の社長を辞して取締役となり、明治35年に(1902年)4月には三井家同族会事務局管理部の専務理事に就任した[3]

大正2年(1913年)、三井合名理事長に團琢磨を推薦すると、自らは同社の相談役に退いた[3]

大正7年(1918年)、男爵に叙される[3]。昭和8年(1933年)、家督を長男に譲り財界の第一線から引退したが、わずかに三井合名顧問、自ら立ち上げた益田農事株式会社社長の肩書は残した。昭和13年(1938年12月18日風邪気管支炎を併発して神奈川県小田原市の自宅にて療養を開始。同年12月27日に昏睡状態に陥り、翌12月28日に死去[6]。墓所は護国寺にある。

数寄者として

  • 明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年(1906年)には小田原市板橋に別邸掃雲台を造営し数多くの茶席を建てた。このことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めとなっている。近代小田原三茶人の1人としても知られる。
  • 趣味の茶器収集も有名であった。「鈍翁」の号は、彼が収集した茶器の1つ「鈍太郎」(表千家6世家元・原叟宗左の製作)に由来する。
  • 佐竹本三十六歌仙絵巻西本願寺本三十六人家集の切断に関わる中心人物であった。切断は彼の自邸で行われるなど便宜を図っており、その評価は分かれるところである。
  • 弟で実業家の益田英作も野々村仁清作の色絵金銀菱文茶碗(重要文化財)などに代表される収集家である。また、共に箱根強羅の別荘地開発に深く関わった。大正15年(1926年)には慶應義塾大学医学部に寄附を行い、食養研究所が設立された[7]

栄典

系譜

  • 父・益田鷹之助(鳳、1827-1904) ‐ 佐渡地役人。先祖は上州から来た佐渡相川の陣屋出入り医師で本家は代々医業を継いだが、鷹之助の一族は分家筋として4代前から佐渡の地役人。佐渡奉行所、函館奉行所を経て江戸詰めとなり、横浜鎖港談判使節団の一員として孝を従者に渡欧もした。妻らくとの間に三男四女(孝は第三子の長男)。[9]
  • 弟・益田克徳(非黙、1850-1903) ‐ 鷹之助の二男。
  • 妹・瓜生繁子(1861-1928) ‐ 鷹之助の四女。日本最初の女子留学生の一人。
  • 弟・益田英作(紅艶、) ‐ 鷹之助の三男。貿易商[10]。二人の兄同様、財界数寄者であった。娘婿に成瀬隆蔵の次男・成瀬雄吾(第一火災海上保険会長)
  • 妻・栄子 ‐ 旧友矢野二郎の妹。絶世の美女と言われ、孝の懇願により結婚に至った。結婚式は戊辰戦争勃発の前日、益田家で行なわれ、花嫁の栄子を乗せた駕籠が4人の担ぎ手によって客間の真中に運びこまれた様子を、妹の繁子が回想録に綴っている[11]
  • 妾・たき子 ‐ 益田の数寄者仲間である山縣有朋の妾・貞子の姉[12]。姉妹は元芸妓

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 益田孝(前編) - 三井広報委員会。2025年10月12日閲覧。
  2. ^ 小川恭一 1997, p. 2514.
  3. ^ a b c d e f g h i j 益田孝(後編) - 三井広報委員会。2025年10月12日閲覧。
  4. ^ 『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎、新風社、2006年7月) P120、P126
  5. ^ 『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎) P124
  6. ^ 三井の大番頭・貿易業界の先覚、死去『中外商業新聞』(昭和13年12月29日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p687 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  7. ^ 慶應義塾大学医学部食養研究所変遷史
  8. ^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」1926年1月27日。
  9. ^ 財界太平記 白柳秀湖、沙羅書房、昭和22、p283
  10. ^ 『二代芸者 : 紅灯情話』 安藤せん子著 (新栄社, 1913)
  11. ^ 今井一良「瓜生 (永井) 繁子の英文「日記」と「回想記」」『英学史研究』第1985巻第17号、日本英学史学会、1984年、7-17頁、doi:10.5024/jeigakushi.1985.7ISSN 0386-9490NAID 130003624793 
  12. ^ 『明治美人伝』長谷川時雨
  13. ^ 探墓巡礼顕彰会-歴史研究会連携団体による墓碑調査プロジェクト-(鶴見総持寺調査)

関連文献

関連項目

外部リンク

爵位
先代
叙爵
男爵
益田(孝)家初代
1918年11月26日 - 1933年4月21日
次代
益田太郎
ビジネス
先代
創立
三井物産社長
1876年7月1日 - 1892年4月
次代
三井高明
先代
新設
三井物産専務理事
1894年10月 - 1903年12月
次代
渡辺専次郎



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