球歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 21:39 UTC 版)
ワッデルは小さい頃から、よく学校を抜け出して野球をしていたという。1897年のシーズン終盤にルイビル・カーネルズと契約しナショナルリーグにデビュー。この年は2試合登板しただけで、翌年ウェスタンリーグのデトロイト球団に貸し出される。翌1899年にルイビルに戻るも、その年でチームが消滅。1900年にピッツバーグ・パイレーツに移籍する。 パイレーツに移籍した1900年、ワッデルは29試合に登板、8勝13敗ながら130奪三振を上げた。この年防御率2.37はリーグ最高であったが、度重なる奇行が元で、監督のフレッド・クラークから出場停止にされてしまう。1901年、シカゴ・カブスに在籍後、1902年からは、新興のアメリカンリーグのフィラデルフィア・アスレチックスに籍を置く。 ワッデルは当時アスレチックスを率いていたコニー・マックの元でその実力を開花させる。1902年7月1日の試合では、「三者連続三球三振」の記録を打ち立てるなど、その三振を取る能力は当時の他の投手から群を抜いていた。同年チームはアメリカンリーグを制覇し、ワッデルもこの年から1907年まで、6年続けてリーグの最多奪三振を記録し、アスレチックスの主力投手となる。 1904年シーズンは25勝19敗で奪三振数は349を数え(2009年現在も、アメリカンリーグの左腕投手の最高記録である)、翌1905年には27勝10敗、防御率1.48、奪三振数287で投手三冠を手中にした。ワッデルの活躍でアスレチックスは1905年のワールドシリーズに駒を進めたのだが、当のワッデルはシーズン終盤に、移動中の列車の中でチームメイトのアンディ・コークリーとふざけあっているうちに麦わら帽子を踏んで転倒、肩を怪我してしまい出場できなかった。アスレチックスには1907年まで在籍したが、1907年にデトロイト・タイガースとの優勝争いに敗れたアスレチックスはワッデルを放出する。 アスレチックスから放出されたワッデルは、1908年からの現役最後の3年間をセントルイス・ブラウンズで過ごした。ブラウンズ在籍の最初の年は19勝14敗、奪三振232、防御率1.89と活躍したが翌年に成績は下降、1910年でメジャーリーグを引退することになった。
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