王銲とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 王銲の意味・解説 

王銲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/08 13:52 UTC 版)

王 銲(おう かん、? - 天宝11載(752年))は、玄宗期の官僚。本貫并州祁県高宗期の名将の王方翼の孫。中書舎人の王瑨の子。兄は王錫。異母兄は王鉷。唐に対して謀反を図ったが、捕らえられ処刑された。

経歴

兄の王鉷とは腹違いであった(王鉷は庶子なので、あるいは正室の子の可能性もある)。凶悪で法を守らず、王鉷の栄達に常に憤懣を持っていたと伝えられる。

天宝9載(750年)、戸部郎中であった王銲は、王鉷とともに、術士の任海川を訪ねた。そこで、王銲は、「自分に天命がある人相があるか」ときいたと伝えられる。任海川は恐れて、逃亡したが、捕らえられて殺されている。

天宝10載(751年)、王銲は、長年親交のあった邢縡とともに謀反を図り[1]、右龍武軍万騎を率いて、右龍武軍将軍を殺し、長安の市街を焼き、楊国忠李林甫陳希烈らを殺害しようと企んだ。決行の2日前に事が漏れ、玄宗は王鉷に詰問をした。王銲は邢縡と同所にいたため、県尉の薛栄先と賈季隣が捕獲に派遣された。王銲が引き渡しを拒否したため、薛栄先と邢縡は、戦闘になった。

王鉷・楊国忠は、邢縡を討つことに決めたが、邢縡は王鉷の兵と戦うことを避けた。楊国忠はこれを聞いて怪しみ、邢縡は高力士の兵によって討たれ、その党の韋瑶らも捕らえられた。玄宗は、王鉷がこの計画を知らず、王銲が王鉷の富貴に嫉妬しておとしいれようとしたためと考え、王銲を不問にし、王鉷に罪を請わせようとさせたが、王鉷はそれを拒否した。

そのため、陳希烈・楊国忠が王鉷の謀反を告発した上で、彼らが王銲の詮議にあたった。王鉷が関連しているかを聞かれると、王銲は答えなかった。侍御史の裴冕が王鉷を守ろうと詰問すると、「兄は荷担していない」と自供した。杖殺させられ、結局、王鉷も自殺を命じられた。

脚注

  1. ^ 新唐書』『資治通鑑』より。『旧唐書』では、邢縡が単独で謀反を図ったと記述されている。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  王銲のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王銲」の関連用語

1
50% |||||

2
30% |||||

3
18% |||||

4
18% |||||

5
10% |||||

6
6% |||||

王銲のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王銲のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの王銲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS