源長季
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/08 04:30 UTC 版)
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| 時代 | 平安時代後期 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 不詳 |
| 官位 | 従四位上、土佐守 |
| 氏族 | 醍醐源氏高明流 |
| 父母 | 父:源守隆、母:不詳 |
| 妻 | 不詳 |
| 子 | 盛長、長俊、守俊、盛雅、寛厳、仁厳 |
源 長季(みなもと の ながすえ)は、平安時代後期の貴族。醍醐源氏、左大臣・源高明の曾孫。右馬頭・源守隆の子。官位は従四位上・土佐守。
経歴
蔵人左衛門尉(検非違使尉)を経て、後一条朝末の長元8年(1035年) 従五位下に叙せられる。長暦3年(1039年)三河守に任ぜられ受領となった。
のち、右馬頭を経て、後冷泉朝初頭の永承元年(1046年)右衛門権佐に任ぜられるなど、後朱雀朝末から後冷泉朝前半にかけて武官を務める一方、この間に少納言も兼帯している。天喜2年(1054年)備前守に遷ると、備後守・土佐守と後冷泉朝後半から白河朝にかけて長く受領を歴任した。
人物
摂関家に仕える家司であると共に、朝廷に仕える官人でもあった。地方官として各地の受領を務め、地方の発展に尽くし、盗賊の捕縛などの記録のある人物で、在世中に良吏であると名を馳せたという。
藤原頼通の男色の相手であり、成長しても容姿が損なわれることを防ぐために、元服して髪を結いあげることをしなかったほどであった。しかし、大酒飲みであり、酒のことで寵愛を失ったという(『古事談』)[1]。
官歴
- 長元7年(1034年) 日付不詳:見六位蔵人[2]
- 長元8年(1035年) 正月9日:検非違使尉[3]、見左衛門尉[2]。3月11日:従五位下(中宮去年未給)[3]
- 長暦3年(1039年) 12月16日:三河守[4]
- 時期不詳:右馬頭
- 永承元年(1046年) 日付不詳:右衛門権佐?、元右馬頭?[5]。11月13日:従四位下[6]、使宣旨如元?[5]
- 永承3年(1048年) 正月:見少納言[4]。4月12日:見右衛門権佐[4]
- 天喜2年(1054年) 2月:備前守、元右衛門権佐[7]
- 康平3年(1060年) 7月17日:見備後守[8]
- 承暦元年(1077年) 8月25日:見土佐守[9]
- 承暦4年(1080年) 11月12日:出家[9]
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:源守隆
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:源盛長
- 男子:源長俊
- 男子:源守俊
- 男子:源盛雅
- 男子:寛厳
- 男子:仁厳
脚注
参考文献
- 源長季のページへのリンク