河本三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/18 12:56 UTC 版)
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河本 三郎
こうもと さぶろう
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| 生年月日 | 1950年9月7日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 2025年8月19日(74歳没) |
| 出身校 | 日本大学理工学部卒業 |
| 前職 | 三光汽船社員 |
| 所属政党 | 自由民主党(高村派) |
| 称号 | 正四位 旭日重光章 |
| 親族 | 父・河本敏夫 |
| 選挙区 | 兵庫12区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1996年 - 2000年 2003年 - 2009年 |
| 選挙区 | 兵庫県選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1992年 - 1996年10月8日 |
河本 三郎(こうもと さぶろう、1950年9月7日 - 2025年8月19日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。父は河本敏夫。
来歴・人物
兵庫県相生市生まれ。海城高等学校、日本大学理工学部を経て、三光汽船に入社し17年間の会社員生活を送る。1992年(平成4年)の第16回参議院議員通常選挙で兵庫県選挙区から立候補し、トップ当選。参議院議員任期途中の1996年(平成8年)、父・河本敏夫の引退をうけて兵庫12区から第41回衆議院議員総選挙に立候補(立候補に伴い参議院議員を退職(自動失職))し、初当選した(当選同期に河野太郎・菅義偉・平沢勝栄・渡辺喜美・大村秀章・桜田義孝・下地幹郎・下村博文・新藤義孝・滝実・田村憲久・谷畑孝・戸井田徹・松本純など)。同じ年の11月に、第2次橋本内閣で経済企画政務次官に就任し、その後、自由民主党国会対策副委員長などの要職に就任する。
2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙で惜敗するも、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙で返り咲く。以来、衆議院内閣委員会筆頭理事や自民党副幹事長等の役職を務めた。
初当選後は番町政策研究所(高村派)に所属し、高村正彦とともに活動。2005年(平成17年)、第3次小泉改造内閣の文部科学副大臣に就任する。2006年(平成18年)10月、衆議院内閣委員会委員長に就任する。国土交通委員会理事。
2009年(平成21年)8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に自民党から立候補し、公明党の推薦も得た[1]が落選、同年9月2日に体力の限界を理由として政界からの引退を表明した[2]。
2025年(令和7年)8月19日、脳内出血のため死去した[4]。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された[5]。
年譜
- 1950年 兵庫県相生市に河本敏夫の三男として生まれる。
- 1969年 海城高等学校を卒業。
- 1974年 日本大学理工学部を卒業。
- 1992年 参議院議員にトップ当選。
- 1996年 第41回衆議院議員総選挙に兵庫12区から立候補し、当選する。
- 2000年 第42回衆議院議員総選挙で惜敗。
- 2003年 第43回衆議院議員総選挙で返り咲き、2期目当選。
- 2005年 第44回衆議院議員総選挙で3期目当選。第3次小泉改造内閣の文部科学副大臣に就任。
- 2006年 衆議院内閣委員会委員長に就任。
- 2009年 第45回衆議院議員総選挙で落選、政界引退を表明。
所属していた団体・議員連盟
家族
脚注
- ^ 比例貢献が基準?公明が自民92候補を推薦(2009年7月30日20時25分 読売新聞)
- ^ “衆院選:落選の河本三郎氏が政界引退 故河本敏夫氏の息子”. 毎日新聞. (2009年9月2日) 2009年9月2日閲覧。
- ^ 『官報』号外第230号21頁、令和2年11月4日
- ^ “元自民衆院議員の河本三郎さん死去 兵庫12区から3期 父は旧河本派率いた河本敏夫さん”. 産経新聞. (2025年8月22日) 2025年8月22日閲覧。
- ^ 『官報』第1551号8頁 令和7年9月18日
- ^ 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房、2001年7月5日、ISBN 4-651-70079-9、476-477、480-481頁
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 小島敏男 塩谷立 |
馳浩と共同 2005年 - 2006年 |
次代 池坊保子 遠藤利明 |
| 議会 | ||
| 先代 棚橋泰文 |
公職選挙法改正に関する特別委員長 2008年 - 2009年 |
次代 牧野聖修 |
| 先代 佐藤剛男 |
2006年 - 2007年 |
次代 中野清 |
固有名詞の分類
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