汪良臣とは? わかりやすく解説

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汪良臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 05:11 UTC 版)

汪 良臣(おう りょうしん、1231年 - 1281年)は、モンゴル帝国に仕えたオングト人。鞏州塩川鎮の出身。

概要

父の汪世顕は金朝に仕えて鞏昌一帯を治める人物で、兄には汪忠臣と、父の地位を継承した汪徳臣らがいた。汪良臣は16・17歳のころから兄の汪徳臣とともに出征に加わるようになり、若くして戦闘のたびに先鋒を勤め功績を遺したため、裨帥・兼便宜都総帥府参議に抜擢された。1253年癸丑)には汪徳臣の推薦を受けて鞏昌帥とされ、配下の兵を率いて白水で屯田したため、四川の南宋軍は敢えてこれに近寄ることがなかったという。モンケ・カアンによる南宋領四川への親征が始まると、鞏昌に戻って遠征軍の後方支援を担当し、権便宜都総帥府事とされた[1]。当初、汪良臣は汪徳臣とともに出征することを望んだが、モンケ・カアンは兵站もまた軽視すべきものでなく、後方支援の責務を果たすことで功績を立てよ、と諭したという。モンケ・カアンの言葉を受けて汪良臣は橋梁・道路の整備、舟・車の造営などに力を尽くし、この功績により黄金・弓矢を下賜された[2]

しかしモンケ・カアンが急死すると後継者の地位をめぐってクビライアリクブケの間で帝位継承戦争が起こり、陝西方面ではアラムダールクンドゥカイらがアリクブケ派として六盤山を拠点に活動を始めた[3]。汪氏一族をはじめ四川・陝西方面に残留する元モンケ配下の部隊は去就を決めかねていたが、廉希憲らの説得によりクビライ派につくことを決意した[4]。そこで汪忠臣と汪惟正(汪徳臣の子)は南宋への備えに派遣され、汪良臣が、鞏昌府・平涼府で徴兵した部隊を率いてクンドゥカイらの討伐を担当することとなった[4]。汪良臣はバチン(八春、Bačin)らと合流すると北上し、チャガタイ家領の山丹州に至ったところでアリクブケ派の軍隊と相対した[4]。廉希憲から正面衝突を避けて時間稼ぎを優先するよう指示されていた汪良臣らは2カ月にわたって対峙を続けたが、1260年中統元年)9月にアラムダールがカラコルムから援軍を引き連れてクンドゥカイと合流し、大軍となったクンドゥカイ軍は汪良臣らに攻撃を仕掛けた[5]。これによってクビライ派の軍団は敗走し、陝西一帯の諸将も動揺したが、オゴデイ家のカダアン・オグルが援軍として到着したことで汪良臣らは態勢を立て直した[5]。両軍は遂に9月21日に山丹州の耀碑谷にて激突し、クビライ派の諸将は右翼軍をカダアンが、中央軍を汪良臣が、左翼軍をバチンが率いるという布陣を取った[5]。この日は非常に風の強い日だったため、汪良臣は軍士に命じて馬を下り刀剣を用いて攻撃させた。汪良臣手ずから敵兵を数十人斬る奮戦ぶりもあってアラムダール軍は劣勢に陥った。更にカダアン軍はアラムダール軍の逃走経路に待ち伏せてこれを大いに破り、遂に主将たるアラムダールとクンドゥカイを殺害した[6]。この捷報を聞いて、クビライは金虎符を汪良臣に下賜し、また権便宜都総帥の地位を授けた[7]

1261年(中統2年)には火里の反乱が起こったが汪良臣によって討伐され、その功績をたたえるため宴会が開かれた。クビライは汪良臣の功を誇らない態度をたたえ、また金鞍・甲冑・弓矢を下賜すると同時に、同僉鞏昌路便宜都総帥府事の地位を授けた。またこのころ、南宋の将軍の昝万寿が戦船200を率いて攻め寄せてくると、汪良臣は兵を伏せた上で南宋軍を撃退し、さらに敗走中の南宋軍を伏兵が襲うことでそのほとんどを捕虜とすることに成功した。1262年(中統3年)には閬蓬広安順慶等路征南都元帥の地位を授かり、このころ釣魚山を力攻めするのは困難なため、付近に武勝城を立てて他との連携を絶つべきであると上奏している。1263年(中統4年)には重慶府を攻め、南宋の将軍の朱禩孫との戦闘が始まると、汪良臣は敵軍に横から攻め入って前後に分断し、城に逃げ込むことを許さず殺し尽くしたという[8]

1269年至元6年)には東川副統軍の地位を授かったが、1271年(至元8年)には汪惟正が汪良臣に代わって前線に赴くことを願ったため、汪良臣は鞏昌に戻った。なお、汪良臣と汪徳臣、汪惟正と汪良臣のように汪氏の有力者二人が「遠征への従事、前線拠点での駐屯を行う者(征行官)」と「本拠地の鞏昌で残留する軍団を統轄する者(奥魯/アウルク官)」を分担する体制は元代前半を通して踏襲されている[9]1272年(至元9年)には再び昭勇大将軍・鞏昌等二十四処便宜都総帥・兼鞏昌路諸軍奥魯総管の地位を授かり、さらに1273年(至元10年)にはクビライに招きだされて鎮国上将軍・枢密副使・西川行枢密院事の地位を授けられた。1274年(至元11年)には嘉定府を攻め、激戦の末に守将の昝万寿を投降に追い込んだ。汪良臣は昝万寿を助命するようはたらきかけることで現地民を安堵させ、さらに長江を下って紫雲城瀘州叙州を攻略し、重慶府にまで至った[10]

1276年(至元13年)、涪州安撫使の楊立や張玨の配下が重慶府の救援に訪れたが、いずれも汪良臣によって撃退されている。1278年(至元15年)春、張玨自らが大軍を率いて来襲したため、汪良臣は体に矢を4本受けるほどの激闘を経てこれを撃退した。その翌日、張玨の配下の趙安が投降したことにより重慶府は陥落して張玨は遁走し、汪良臣は飢えた城民に食糧を分け与えることで人心を安んじたという。この功績により、汪良臣はクビライより召し出されて資善大夫・中書左丞・行四川中書省事の地位を授けられ、白貂裘を下賜された。しかし、汪良臣は成都府まで帰還したところで長年の戦傷による病を発し、このころ新設された安西王相に任命されるも赴任できず、1281年(至元18年)夏に51歳にして死去した。推誠保徳宣力功臣・儀同三司・陝西等処行中書省平章政事・柱国・梁国公を追贈され、忠恵と諡された[11]

息子には雲南諸路行省平章政事となった汪惟勤、保寧等処万戸となった汪惟簡、同知屯田総管府事となった汪惟敬、征西都元帥となった汪惟永、階州同知となった汪惟恭、人匠総管ダルガチとなった汪惟仁、漢軍千戸となった汪惟新ら7人がいた[12]

鞏昌汪氏

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪世顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪清臣
 
汪佐臣
 
汪翰臣
 
汪良臣
 
 
汪直臣
 
汪徳臣
 
 
 
 
 
汪忠臣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪惟簡
 
汪惟勤
 
汪惟能
 
汪惟和
 
汪惟賢
 
汪惟正
 
汪惟益
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪寿昌
 
汪嗣昌
 
汪安昌

脚注

  1. ^ 池内 1986, p. 273.
  2. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「良臣、年十六七即従兄徳臣出征。毎戦輒当前鋒、以功擢裨帥、兼便宜都総帥府参議。癸丑歳、以徳臣薦、為鞏昌帥、領所部兵屯田白水、蜀辺寨不敢復出鈔略。憲宗親征、軍至六盤、良臣還鞏昌、供億所須、事集而民不擾、詔権便宜都総帥府事。良臣奏『願与兄徳臣効力定四川』。帝曰『行軍餽餉、所係不軽、汝任其責、自可立功』。良臣既奉命、治橋梁、平道路、営舟車、水陸無壅、儲積充牣。有旨賜黄金・弓矢、旌其能」
  3. ^ 池内 1986, pp. 277–278.
  4. ^ a b c 池内 1986, p. 283.
  5. ^ a b c 池内 1986, p. 286.
  6. ^ 池内 1986, p. 287.
  7. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「世祖即位、阿藍答児・渾都海逆命、劫六盤府庫、西垂騒動、詔良臣討之。兵至山丹、置営、按兵不戦者凡二月。俄大挙至耀碑谷、両軍相当、良臣慷慨誓諸将曰『今日之事、繋国安危、勝則富貴可保、敗則身戮家亡。苟能用命、縦死行間、不失忠孝之名』。衆聞、踴躍而前。会大風揚沙、晝晦、良臣手刃数十人、賊勢沮、衆軍乗勝搗之、賊大潰、獲阿藍答児・渾都海、殺之、西鄙輯寧。捷聞、賜金虎符、権便宜都総帥」
  8. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「中統二年、火里叛、復討平之。入覲、賜宴、屡称其功、良臣拝謝曰『臣奉諸王成算、何功之有』。世祖嘉其能譲、復賜金鞍・甲冑・弓矢、転同僉鞏昌路便宜都総帥府事。宋将昝万寿帥戦船二百、溯江而上、欲掩青居。良臣伏甲数十艘其後、身先逆戦、万寿敗走、伏発、幾獲之。三年、授閬蓬広安順慶等路征南都元帥。良臣以釣魚山険絶、不可攻、奏請就近地築城曰武勝、以扼其往来。四年春、良臣攻重慶、命元帥康土禿先駆、与宋将朱禩孫兵交、良臣塞其帰路、引兵横撃之、断敵兵為二、敵敗走趨城、不得入、尽殺之」
  9. ^ 牛根 2001, p. 114.
  10. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「至元六年、授東川副統軍。八年、兄子惟正請于朝、謂良臣久労戎行、乞身代之。九年、復授良臣昭勇大将軍・鞏昌等二十四処便宜都総帥、兼本路諸軍奥魯総管。明年、召入、帝曰『成都被兵久、須卿安集之』。授鎮国上将軍・枢密副使・西川行枢密院事、蜀人安之。十一年、進攻嘉定、昝万寿堅守不出、良臣度有伏兵、大搜山谷、果得而殺之、進塁薄城。万寿悉軍出戦、大破之、伏尸蔽江、万寿乞降、良臣奏免其死、居民按堵。良臣統兵順流而下。紫雲・瀘・叙相継款附。還囲重慶」
  11. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「十三年、宋涪州安撫楊立、帥兵救重慶者再、良臣皆敗走之。宋安撫張玨、遣将乗虚襲拠瀘州、良臣還軍平之。復攻重慶。十五年春、張玨悉衆鏖戦、良臣奮撃、大破之、身中四矢。明日、督戦益急。玨所部趙安開門納降、玨潜遁。良臣禁俘掠、発粟賑饑、民大悦。四川悉平、捷聞、世祖喜甚、召良臣入覲、授資善大夫・中書左丞・行四川中書省事、賜白貂裘。良臣陳治蜀十五事、世祖喜納。良臣至成都、以蜀瘡痍之餘、極意循撫。行省罷。改授安西王相、不赴。十八年夏、疾卒。年五十一。贈儀同三司、諡忠恵。加贈推誠保徳宣力功臣・儀同三司・陝西等処行中書省平章政事・柱国、追封梁国公」
  12. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「子七人、惟勤、雲南諸路行省平章政事。惟簡、保寧万戸。惟敬、同知屯田総管府事。惟永、征西都元帥。惟恭、階州同知。惟仁、人匠総管達魯花赤。惟新、漢軍千戸」

参考文献

  • 池内功「アリク=ブカ戦争と汪氏一族」『中国史における乱の構図』雄山閣出版、1986年
  • 牛根靖裕「元代の鞏昌都總帥府の成立とその展開について」『立命館東洋史学』第24号、2001年
  • 元史』巻155列伝42汪世顕伝
  • 新元史』巻142列伝39汪世顕伝



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