毛利秀元とは? わかりやすく解説

毛利秀元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/30 16:28 UTC 版)

 
毛利 秀元
毛利秀元像(長府毛利家蔵、狩野探幽画)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正7年11月7日1579年11月25日
死没 慶安3年閏10月3日1650年11月26日
改名 穂井田宮松丸(幼名)→毛利宮松丸(幼名)→毛利秀元
別名 尊称:羽柴安芸侍従→羽柴安芸宰相
戒名 智門寺殿功山玄誉大居士[1]
墓所 泉岳寺東京都港区高輪
功山寺山口県下関市長府川端)
豊功神社(山口県下関市長府宮崎町)
官位 右京大夫正四位上侍従正三位参議伊予守甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 毛利輝元秀就
長門国長府藩藩主
氏族 穂井田氏毛利氏
父母 父:穂井田元清
母:松渓妙寿(村上通康の娘、妙寿院)
養父:毛利輝元
兄弟 雪庭妙青(細川元通室、天秀院)[2]宮鶴丸[2]秀元宮吉丸[2]、天遊以貞(熊谷直貞室、功福院)[2]、生和順長(阿曽沼元郷室、毛利元鎮室、地徳院)[2]、久嶽貞昌(宍戸広匡室)[2]
正室:大善院豊臣秀吉養女、豊臣秀長の娘)
継室:浄明院徳川家康養女、松平康元の娘)
側室:玄徳院、正福院、九品院、本光院
瑞鳳院、春高院
松菊子毛利就隆正室)、宮子、今子、宮松丸光広、長菊子(永井尚征正室)、千菊子(山崎豊治正室)、万菊子(稲葉正則正室)、妻子、元知、竹千代子(土井利長正室)
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毛利 秀元(もうり ひでもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名長州藩支藩である長門国長府藩の初代藩主。父は毛利元就の四男である穂井田元清。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。茶の湯古田織部に学んだ茶人でもある。

生涯

幼少期

天正7年(1579年11月7日毛利元就の四男・穂井田元清の次男として、備中国猿掛城にて生まれる[2]。母は来島村上水軍の当主である村上通康の娘・松渓妙寿(妙寿院)[2]幼名は宮松丸[2]

天正12年(1584年)に兄の宮鶴丸が12歳で病死したため、元清の嫡男となった[3]

天正14年(1586年)4月、天正11年(1583年)から豊臣秀吉のもとへ人質として派遣されていた小早川元総(後の小早川秀包)伊予国大津城主となったことで代わりの人質が必要になり、輝元は同年8月に秀元を代わりの人質として指定したため、秀元は大坂へ上った[4]。秀元が選ばれた理由は不明であるが、毛利一族の中で人質とするに適齢であったのが秀元であったためと推測されている[4]

天正18年(1590年)に元服右京大夫に任官した。

秀元に仕えて長府藩当職を務めた三吉規為が慶安4年(1651年)に編纂したとされる『毛利秀元記』によると、天正12年(1584年)に父・元清の居所であった備中中山城を訪れた吉川元春小早川隆景が秀元と初めて対面し、その資質を高く評価して吉田郡山城まで連れて行って毛利輝元と対面させた[5]。対面した秀元を気に入った輝元は翌年の天正13年(1585年)に秀元を養子に迎え、上洛して秀吉に拝謁したと記している。しかし、この時期に輝元が秀元を養子にしたことや、秀吉に拝謁したことを示す同時代史料は確認されていない。また、天正13年(1585年)当時、輝元は33歳、正室の南の大方は28歳で、実子が生まれる可能性は低くなく、当時はいなかったと見られる側室を迎えて世継ぎをもうけることも可能であったため、拙速に秀元を養子に迎える必要性は乏しかった[5]。『毛利秀元記』は秀元を嫡流とする叙述が散見されるため、秀元が輝元の養子となった時期を故意に早めて記述した可能性が指摘されている[6]

豊臣秀吉との対面

天正20年(文禄元年、1592年)1月、朝鮮への出兵(文禄の役)を前にした毛利輝元は、秀元に毛利家重代の系図を譲ろうと考え、吉田郡山城近くの満願寺の僧侶である満願寺春盛が占った吉日である同年2月2日に系図譲りの儀式を執り行った[7][8]

2月8日に京から広島城へ帰着した輝元は、豊臣秀吉と同道して肥前国名護屋城へ向かうために秀吉の広島到着を待っていたが、秀吉が眼病により出陣を延期したため、2月28日に秀吉に対して先行して出陣する許可を求める書状を出した上で広島城を出陣し、肥前国名護屋へ向かった[9][10]。この時は秀元は広島城に留守居として残っている[11]

3月26日に京を出立した秀吉は肥前国名護屋へ向かう途上で毛利領内の備中国矢掛、備後国神辺三原、安芸国西条などに宿泊した後、4月11日広島に立ち寄った[12]。この時、毛利領内での道中で入念かつ丁重な歓待を受けた秀吉は感謝の意を示しつつも、それほどの歓待でなくともよいと辞退し、さらに広島では輝元の外聞もあるから過分の持て成しは不要であると安国寺恵瓊に伝えている[13]。そのため、秀吉が広島に到着した際に広島城の留守を預かっていた林就長佐世元嘉、安国寺恵瓊らは秀吉の機嫌を損ねていないか懸念していたが、思いのほか秀吉は上機嫌で広島城城下町を見事と褒め、広島城の御殿に入った[14][15][16]

秀元は広島城に入った秀吉に対して挨拶し、祝儀として太刀銀子300枚を秀吉に贈った[11][14]。その際に秀元の付き添いをしていた安国寺恵瓊と林就長は「今回は秀元との最初の対面であるのでこれよりもさらに進上致したいところであるが、陣中のことであるため御祝儀のみに留めている」と説明している[11][14]。秀元の挨拶を受けた秀吉が恵瓊らに対し「秀元は輝元のただの養子であるか、それとも継嗣であるか」と尋ねると、以前から輝元の後継について相談していた施薬院全宗が同席していたため、恵瓊らは素直に秀元が輝元の継嗣であると答えつつも、輝元と隆景は内々に秀吉の意見に任せて決定すると言っていた旨を付け加えて、わざと明答を避けた[14][17]。秀吉はその回答に満足し、「とかく毛利家の事については秀吉が改めるべき筋合いではないため、輝元が気に入った者を継嗣とすれば良い。しかしまだ輝元は若いため、もし実子が生まれた場合は実子を継嗣として、秀元には別に相応の扶持を与えよう。この取り決めを秀元にも申し付けて、起請文を秀吉に預け置くように」と言って、秀元が輝元の継嗣であることを認めている[14][17]。秀吉の最初の問いに話の推移を案じていた恵瓊と林就長は、秀吉の言葉を受けて安堵すると共に感涙している[14][17]。続けて秀吉は「毛利家は奇特な家である。輝元が全き故に隆景も精を入れて補佐することができるのであり、輝元が才気走った振る舞いをしたなら隆景も異見し難いであろう。輝元と隆景の間柄は日本一である」と称賛し、秀元と林就長に馬を与えた[14][18]。さらに、他に広島城の留守居を務めている者が誰かを恵瓊らに尋ねて佐世元嘉がいるとの回答を聞いた秀吉は、佐世元嘉にも馬を与えている[14]

4月12日早朝、秀吉は再び秀元を呼び寄せて、光忠の太刀と行光の脇差を与え、輝元への忠孝に励んで武事などを嗜むように勧めた[14][19]。さらに秀元の婚姻について取り計らうことを約束したため、恵瓊、林就長、佐世元嘉らも大いに安堵した[19]。また、秀元が翌日に記した起請文では署名が「右京大夫秀元」となっており、秀吉から「秀」の偏諱が与えられたことが分かる[20]

4月13日に秀元は秀吉の命に従って、隆景と恵瓊に宛てた起請文を作成し、「私の身上について太閤様(秀吉)から忝い申し出があり、もし輝元様に実子が誕生した場合は相応の御扶助を頂き、もし現状のままであれば折々に御慈教を加えて頂く。その上で我がままを致した時は何とでも御意のままに従う。精一杯忠孝に励む覚悟である」と誓った上で起請文を秀吉に預けた[19][20]。なお、この日秀吉は大雨の中、霊仙寺(後の国泰寺)に終日参詣し、笠を被って寺内の蓬莱山に登り、今後の居屋敷の指図、数寄屋の躰、路地の趣などについての絵図を作って住僧に教えると共に銀子100枚を与えて広島城に戻った[19][20]。その間、安国寺恵瓊らは城下町の者に命じて秀吉の家臣たちを大いに饗応している[19][20]

4月14日に秀吉は4日間の広島滞在を終えて広島城を出立し、厳島神社へ参詣した後に、肥前国名護屋へ向かう途についた[19][20]。秀吉が出立すると林就長、佐世元嘉、安国寺恵瓊は直ちに壱岐国に在陣中の輝元や隆景に従う二宮就辰鵜飼元辰に宛てて秀吉滞在中の様子を伝える起請文を作成して林就長が届けに壱岐国に向かった[16][20][21]。また、その起請文の中で「太閤様は非常に上機嫌であったため、小姓衆やその他の者も毛利家を別無く思うに至り、これほど秀吉が気に入ったことは不思議であると供衆も驚いていた。以前に毛利家転封の噂もあったため、秀吉の馬廻衆も外様も譜代も、毛利領内を通過中に土地の良し悪しを百姓らに尋ねながら移動していたが、広島に到着した秀吉が毛利家や広島を褒めてからは人々の面持ちも一変し、我らに対しての対応も変わった」と報告している[20][21]

文禄の役

渡海前

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では、養父の輝元、実父の元清、伯父の小早川隆景らが朝鮮に出陣し、同年4月22日釜山に上陸した[22]

同年7月、輝元は名護屋城にいる秀吉の見舞いのために秀元を派遣しようとして、朝鮮から帰国する大谷吉継に秀元への伝言を依頼した[23]。大谷吉継から伝言を聞いた秀元は広島城を出立し、7月18日長門国下関に到着した[23][24]。折しも、大坂城にいた秀吉の母・大政所が危篤になったとの報せが名護屋城の秀吉のもとに届いたため、7月22日に秀吉は大坂へ向けて名護屋城を出立[24]。その途上の豊前国小倉城で秀元は秀吉に謁見し、秀吉に供奉して小倉城を出立したが、彦島大里の間にある関門海峡の大瀬戸を渡る際に秀吉が乗る御座船が暗礁に乗り上げて転覆しそうになり、命も危うくなった秀吉は岩の上に立って救助を待った[25]。随従する別の船に乗船していた秀元は船頭に秀吉救出を指示し、急行した一艘の端船により秀吉は救出され、大里浜に上陸した[注釈 1][24][25]。この時の秀吉の危難を救った功によって、同年10月11日従五位上侍従に叙任し[24][27]、これ以降、秀元は「安芸侍従」と称されることとなった。輝元は秀吉に太刀一腰と銀子100枚を贈り、豊臣秀次にも太刀一腰と馬代の銀子50枚を贈って、秀元の侍従任官の祝儀とした[28][29]

同年12月、朝鮮半島の開寧に在陣する輝元からの使者として林就長が秀吉のもとを訪れ、秀元を名護屋城に参陣させたいとの輝元の意向を秀吉に打診した[24]。しかし、秀吉はその意見を容れず、12月5日に秀元へ書状を送り、広島に在国して大船の建造を優先するように命じている[24][30][31][32]

渡海

文禄2年(1593年)3月、前年7月頃から続く毛利輝元の病状を案じた秀吉は、輝元を帰国させて代わりに秀元が朝鮮半島へ出陣するように命じた[33][34]。秀吉の命を受けた秀元が3月上旬に広島城を出陣して長門国関戸へ到着したとの報を受けた秀吉は、3月14日に秀元へ書状を送って、周到に船を準備して順風を見極めた上で参上するように命じており、秀元が若さゆえの軽挙妄動に走ることを戒めている[33][34]

同年3月19日、秀元の朝鮮渡海を伝える秀吉の朱印状が輝元と隆景に宛てて発され、未だ病身の輝元に対しては前線での戦いを免除して馬廻のみ従えて浅野長政増田長盛らと共に釜山に在陣して養生することを命じ、以前九州の諸将と共に尚州への移動を命じていた隆景に対しては新たに渡海してくる秀元と共に毛利軍を統括して必要に応じて転戦するように命じている[35][36]。なお、輝元が釜山へ移り、秀元が朝鮮半島に到着するまでの毛利軍は末次元康が預かった[35]。秀元の名護屋出船と朝鮮半島への上陸が具体的にいつだったかは不明であるが、名護屋に到着して程無く朝鮮半島へ渡海し、遅くとも6月には朝鮮半島に在陣していることが確認できる[35]。また、後年の史料からの類推により、朝鮮半島へ渡海する秀元には佐世元嘉が従っていたと見られている[35]

同年5月1日に秀吉は輝元に対し、小早川隆景、吉川広家、秀元、小早川秀包、筑紫広門らと共に釜山付近の4つの城を守備し、水軍を釜山、竹島海口付近に集結するように命じたが、5月20日には輝元は秀元や広家と共に毛利軍1万7060人を率いて釜山城を守り、それとは別に椎木島(絶影島)および地続きの出崎(竜尾山)の各支城に配下の将を分屯させて守らせるように方針転換を命じている[37]。また、5月末頃には、前年に秀吉の命によって秀元が建造していた大船が完成して、諸道具なども入念に装備した上で秀吉に献上されたため、6月4日に秀吉は輝元に礼状を送り、大船に「日本丸」と命名した[38][39]

晋州城包囲戦

毛利軍が在城する釜山の西方20里の位置に天然の要害である晋州城があり、天正20年(1592年)10月上旬に細川忠興長谷川秀一木村重茲らが力攻めしたが攻略できなかったため、秀吉は文禄2年(1593年)2月27日に細川忠興、長谷川秀一、木村重茲らに加えて、浅野長政前田利家蒲生氏郷らの軍勢も加えて攻囲すること命じ、輝元にも晋州城付近で敵の追撃を監視する部隊を出陣させることを命じた[40]

その後、との講和交渉が始まったことで日本軍は京城から撤退して釜山付近に集結することとなったため、秀吉は全軍をもって晋州城を攻略する方針に転換し、4月12日に輝元をはじめとする朝鮮に在陣する諸将に対して、釜山、金海、竹島海口、昌原から晋州城包囲線まで兵糧の輸送が滞らないように補給路を確保すること、包囲軍の損害を減らすために築山や仕寄など用意すること、以前攻略できなかった城であるため敵兵を1人残らず討ち果たすこと等を命じ、晋州城攻略の主将として秀元を抜擢した[41]

同年5月上旬には日本側の諸将の釜山付近への集結が完了したため、5月20日に秀元は晋州城総攻撃の部隊編成を提示した[注釈 2][42]

同年6月14日に日本軍は釜山を進発して晋州城包囲戦が開始され、6月29日に晋州城を攻め落とした[35][43]。晋州城を守っていた牧使の徐礼元は宇喜多家臣の岡本権之允が討ち取り、毛利軍は追撃戦で1000余の首級を討ち取った[44]。日本軍は数日晋州に在陣して晋州城を破却した後に釜山へ凱旋[44]。秀元は7月4日に秀吉へ戦勝を報じ、輝元も7月6日に柳沢景祐を使者として秀吉に戦勝を報告して銀子20枚を見舞いとして贈った[45]7月13日に晋州城での戦勝の報告を聞いた秀吉は、秀元に対しては、病の輝元に代わって若い秀元が尽力し、毛利軍が敵の追撃を監視する請手でありながら、追撃戦において1000人余りを討ち取った武功を賞賛した[45]。また、輝元に対しては、晋州城における毛利軍の武功を賞賛し、輝元の帰国を促している[46]。その後、日本側の諸将は朝鮮半島南東の沿岸部に移動し、「仕置の城(倭城)」の構築に従事した[35]

釜山在番

同年7月29日、秀吉の軍令により、秀元は釜山城[注釈 3]と東萊城の築城が命じられ、小早川隆景は亀浦城とその端城の築城を命じられた[47]。また、同日の朱印状で秀吉は釜山に在陣する輝元に帰国を促した[47]。輝元自身は7月中旬時点では9月か10月頃まで釜山在陣を続けるつもりであったが、秀吉が急遽大坂へ帰還するとの報を受けて、8月上旬に秀元や吉川広家らに後事を託して帰国し、8月23日に広島へと帰還した[47][48]8月7日に秀吉は、秀元を含む「御仕置きの城」を受け持つ諸将に「定」を発して、警衛の徹底を命じた[47]。また、輝元から後事を託されて東萊城の普請を行っていた吉川広家も8月上旬に体調を崩したとの報を受けた秀吉は、8月16日筑前国深江で広家の帰国命令を発したが、8月末には広家の体調が回復したため、東萊城に留まる事となった[49]

一方、小早川隆景が率いる小早川軍は亀浦城の築城にあたる中で隆景が体調を崩したことから、秀吉は頻りに隆景に帰国を促すが隆景は応じず、亀浦城の普請が一段落した同年閏9月中旬にようやく帰国することとなる[50]。また、閏9月に入って秀吉から重ねて帰国を命じられていた広家も隆景の帰国に同行した[50]。隆景が帰国した後も小早川軍の一部は小早川秀包立花宗茂らが指揮して亀浦城への在番を続けており、毛利軍は釜山に在番する秀元が実父の元清や叔父の天野元政、末次元康らの補佐を受けて毛利氏の全軍を統率することとなった[50]

同年10月に国元の厳島神社から千句連歌成就が秀元の陣中に伝えられ、それに対する礼状を佐世元嘉が棚守元行に送っている[50]

同年11月4日、秀元に従っていたと見られる安国寺恵瓊が秀吉に対し、朝鮮半島の南岸各地の城の普請状況や越冬体制について報告[50]。翌文禄3年(1594年1月21日、恵瓊からの報告を受けた秀吉は恵瓊への返書において秀元が築城した釜山城について特に関心を示し、秀元が油断無く釜山に在番していることは神妙であると述べている[50]

帰国

文禄3年(1594年)4月、秀元に従っていた安国寺恵瓊に対し、秀吉からの帰国命令が届いたため、恵瓊は秀元を支える穂井田元清と福原広俊に対して長文の書状を送って後事を託している[注釈 4][51]

同年5月までに秀吉は弟・豊臣秀長の娘である大善院を養女として秀元に嫁がせることを決定し、輝元に対して秀元の帰国と、秀元帰国後も毛利軍1500を朝鮮半島に残すように命じた[52]。朝鮮半島に残留する軍勢と軍を率いる人物については特に選定する必要があったため、輝元は当初計画していた順序ではない益田元祥を物頭とする事を決定し、朝鮮在陣中の天野元嘉に益田元祥との折衝を命じた[52]。天野元嘉は無事に益田元祥との折衝の任を果たし、輝元は5月4日に任を果たした天野元嘉への謝意を表す書状を送っている[52]

秀吉の命で秀元の婚姻相手は決まったが、秀元と毛利家中の子女との婚姻を望んでいた秀元の母・松渓妙寿が反対したため、同年6月4日に輝元と隆景が揃って説得に出向いている[51]。同年6月24日には秀吉自ら秀元に対して正式な帰国命令を出し、それを受けて代わりに吉川広家が再び朝鮮半島に渡海することが決まった[53]。同年8月末には、秀元は釜山を離れて帰国した[54]

婚姻

文禄4年(1595年1月5日、毛利輝元が従三位・権中納言に叙任され、同時に秀元も正四位下参議に任官し、秀元は以降「安芸宰相」と称される[55]。上方で叙任を終えた輝元と秀元は、秀元の婚儀に備えるために広島へと戻り、同年2月28日に秀吉の養女となった豊臣秀長の娘である大善院との婚儀を広島で執り行った[注釈 5][55]

同年7月3日関白豊臣秀次高野山に追放され、7月15日に自刃した(秀次事件[55]。この時、秀元は在京していたようで、7月20日に諸大名が連署した起請文に「羽柴安芸宰相」と記されている[56]8月8日までには輝元、秀元、隆景に秀吉から暇が与えられ、8月末に安芸国に下向した[56]

同年10月18日に輝元に実子の松寿丸(後の毛利秀就)が誕生[57]。天正20年(1592年)に秀元が秀吉から継嗣と認められた際に、輝元に実子が生まれた場合は実子が継嗣となって、秀元は別家を立てる取り決めとなっていたことから、松寿丸(秀就)の誕生により秀元の立場も微妙なものとなった[57]

慶長の役

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となり、従兄の吉川広家らと共に再度朝鮮に渡り、加藤清正黒田長政鍋島直茂らと共に朝鮮軍の籠もる黄石山城を陥落させた(黄石山城の戦い)後、全羅道忠清道を平定。天安に陣していた時、稷山で黒田長政が軍と交戦中との急報を受けると、即刻救援に駆けつけ明軍の背面より突撃して撃退した(稷山の戦い)。

秀元は冬の到来を前に、朝鮮の南岸地域に撤収して、蔚山城の築城に加わっていた。城の完成が目前となると、秀元は武器・兵糧を釜山に輸送し、蔚山を引き払い、帰国の準備をすすめた。しかし、秀元の去った後の蔚山城を明・朝鮮軍が攻撃、残留していた毛利軍の宍戸元続・桂孫六らが加藤清正らと共に食料備蓄のない籠城戦で窮地にたたされていたが、他の在鮮諸将と共にこれを救援し、明・朝鮮軍を大破した(蔚山城の戦い)。

独立

慶長4年(1599年)6月、秀元は独立大名として別家を創設し、長門国(一円知行)・周防国吉敷郡、合計約18万石を分知された[58][注釈 6]。秀元は周防国山口を本拠地に定め、高嶺城があまりにも急峻であることから長山城の築城を始めた。

同年2月28日、博多の豪商・神屋宗湛が、秀元、小早川秀包とともに古田織部の茶会に招かれた時、織部茶碗を見てその斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と記した(『宗湛日記』)。

関ヶ原の戦い

南宮山頂にある関ヶ原の戦いの毛利秀元陣跡(岐阜県不破郡垂井町)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時、毛利氏の運営は秀元、および後見役の恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利輝元が西軍の総大将となった時に、秀元は毛利氏の先手勢として大坂城に討ち入り、徳川勢を追い払った。

8月5日、秀元は広家、恵瓊らとともに出陣し[60]伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した[61]。だが、広家と家老の福原広俊が西軍の勝利を危ぶんで東軍と内通し、「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と9月14日に密約を結んでいた。このとき、広家は毛利氏の諸将と協議せず、密約を結んだといわれている[62]

9月15日、東軍と西軍が関ヶ原で激突した。南宮山に布陣する秀元自身には戦意があったとされるが、広家がそれを押し留めた(宰相殿の空弁当)。結果、毛利軍の大将たる秀元が傍観せざるを得ない状況に追いやられたため、恵瓊、長宗我部盛親長束正家など他の南宮山に布陣していた軍勢も秀元が東軍に内通しているのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、彼らも傍観せざるを得なくなった。戦局が西軍の敗色濃厚となると、秀元は東軍と一戦も交えずに大坂に向けて撤退した[63]

秀元ら毛利勢は南宮山から伊吹山に入ると、17日に伊吹山を発ち、東軍が攻撃中の佐和山城のふもとを通過して、18日に瀬田を通過し、大坂に帰還した[64]。この間、毛利勢は退却中にも、東軍と一戦も交えなかった[64]。関ヶ原で激戦を繰り広げた東軍には、無傷で退却する毛利勢を攻撃する余力はなかった[63]。そして、毛利勢は輝元のいた大坂城西の丸には入らず、大坂の町中に駐屯した[63]

帰還後、秀元は立花宗茂島津義弘らと大坂城で籠城して戦い、家康に一矢報いるべきだと主張した[65]。だが、輝元はこれに応じず、9月25日に城を退去した[66]

長府藩創立

戦後、毛利一門は西軍との深いつながりを徳川方に指摘されて本領安堵の約束を反故にされ、輝元の所領は大減封となり、秀元も分知された領土17万石余を没収される事実上の改易処分となった。これを受けて、秀元は輝元より長門国豊浦郡厚狭郡に6万石を内分分知され、櫛崎城に移って長府藩主となり、東の周防国岩国領に封じられた吉川広家と並んで西の守りを任された。

当初は輝元の信任と広家の後見を受けた福原広俊が本家の長州藩の政治を任されたが、藩政を仕切った広俊とは不仲で、慶長10年(1605年)に萩城築城中に起こった熊谷元直天野元信殺害事件(五郎太石事件)に絡んで広家・益田元祥と和睦した[注釈 7][67]

慶長7年(1602年6月20日、毛利輝元から「伊予守」の受領名を与えられる[68][69]。同年、長府に所在し、当時荒廃していた臨済宗寺院の長福寺を修営して曹洞宗に転宗させた[1]。なお、秀元の死後に長福寺は秀元の法号(智門寺殿功山玄誉大居士)から「功山寺」と改称され[1]、秀元の墓が建てられた。

慶長14年(1609年)、正室の大善院が死去したことから、慶長18年(1613年)に継室として徳川家康の養女を娶る。同年に広俊と共に若年の秀就の後見を行い、大坂の陣にも参戦するなど江戸幕府から信頼を得ることにも尽力した。しかし一方で、他の家臣団に内密で輝元や秀就、宍戸元続と共謀して内藤元盛(佐野道可)を大坂城に入城させた疑惑(佐野道可事件)があり[70]、それを知った広俊は広家宛の手紙で秀元を非難している。

慶長20年(1615年4月14日に吉川広家により作成された毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「毛利甲斐守秀元」と署名している[注釈 8][71]

慶長19年(1614年)に吉川広家が嫡男の広正に家督を譲って隠居し、大坂の陣後の元和2年(1616年)に福原広俊も辞任すると、代わって秀元が秀就の名代として幕府との折衝を務め、老中土井利勝と結んで藩政に積極的に関与していった。

元和5年(1619年1月21日、毛利秀就に対する血判起請文を作成し、「私の内存を堅田元慶と宍道元兼を通じて申し上げたところ、懇ろに仰せ聞かされて忝く思っているため、心中をつぶさに言上します。宗瑞様(輝元)にも重ねて申し上げたように、両殿様(輝元と秀就)に対して二心はありません。当然、讒言をする者もいるでしょうが、私についてどのようなことを申し上げられたとしても私にお尋ねしてください。心中を残らず申し上げます」と誓っている[72]

元和9年(1623年4月20日に2代将軍徳川秀忠から仕置を行うよう命じられ、9月23日に輝元が秀就に家督を譲って隠居、10月4日に正式に秀元の仕置も決定、益田元祥・清水景治らと共に長州藩の藩政を総覧している[73]

秀元は藩政を主に益田元祥らに任せ、自身は後見人として幕府との折衝に当たった。また、寛永元年(1625年)から翌2年(1625年)の長州藩検地を実行、長州藩の石高を打ち出して増加を実現させた。それに伴う分家と家臣団の知行地割り当てと大規模移封や家臣団削減を決行[注釈 9]、検地で増加した石高を直轄領として組み入れ、寛永8年(1631年)に直轄領の山代地方で取れる紙を徴収する請紙制を制定、荒地の開墾と農民保護、新田開発にも取り組み、寛永9年(1632年)に借財を完済、財政を好転させて藩政の基礎を固めた[75]

しかし、寛永7年(1630年)頃から秀就との間に軋轢が生じるようになる。対立の原因は秀元が宗主権を主張したり、嫡男・光広と秀就の娘の縁談を反故されたことなどが要因であった。不和は深刻化し、寛永8年(1631年10月5日に後見役を辞任、姻戚関係にある永井尚政に打診して本家とは別個に朱印状を賜ろうとしたり、寛永11年(1634年)には江戸城普請の手伝いを拒絶するなど秀就に反抗的な振る舞いを見せるようになった。

ついには秀就の弟で婿の毛利就隆を誘って長州藩からの独立を画策し、同年閏7月に3代将軍・徳川家光による朱印状交付が行われると、朱印状を受け取り独立しようとして実現せず、幕府からの仲裁を受けている。宗家を軽んじた秀元の行状に激怒した秀就は秀元を処罰することも考えたが、秀元は御伽衆として将軍・家光と親密な関係にあったため、掣肘は容易でなかった。2年後の寛永13年(1636年)5月に幕府の仲裁で秀就と和解、晩年は江戸に住み、家光の御伽衆となる。

最期

慶安3年(1650年)閏10月3日、秀元は江戸の下窪邸で死去した[2]享年72[2]。嫡男の光広が長府藩を継いだ。また、三男の元知は後に分与され、清末藩を立藩した。

法名は智門寺功山玄誉大居士[2]。墓所は東京都港区泉岳寺山口県下関市功山寺、山口県下関市の豊功神社。

系譜

  • 父:穂井田元清(1551-1597)
  • 母:松渓妙寿(?-1590) - 妙寿院、村上通康の娘
  • 養父:毛利輝元(1553-1625)
  • 正室:大善院(1588-1609) - おきく、豊臣秀吉養女、豊臣秀長の長女。法名は「大善院月澗宗照」。
  • 継室:浄明院(?-1653) - 徳川家康養女、松平康元の娘。法名は「浄明院柏庭宗樹」。
  • 側室:春高院(?-1643) - 実名は「やす」。杵築大社(出雲大社)国造の娘。法名は「春高院光庵清心」。
  • 側室:瑞鳳院(?-1694) - 実名は「おふき」。南源左衛門の姪。法名は「瑞鳳院聞誉智光」。
  • 側室:玄徳院(?-1675) - 「小上臈」と称される。法名は「玄徳院針覚好金」。
  • 側室:正福院(?-1682) - 実名は「おしゅく」。織田氏の出身。法名は「正福院竜雲久松」。
  • 側室:九品院(1595-1677) - 「小やや」と称される。滝左兵衛の娘。法名は「九品院法性妙蓮」。
  • 側室:本光院(?-1685) - 実名は「阿柏(おはく)」。伊予松山藩主・松平定行の家臣である長沼左衛門の娘。法名は「本光院柏庭松林」。
  • 側室:おきち
    • 三女:今子(?-1622)
  • 側室:吉子(?-?) - 後に河田宗兵衛に再嫁する。
    • 七女:妻子(1626-1635)

登場作品

テレビドラマ
漫画
アニメ
ゲーム

脚注

注釈

  1. ^ 秀吉を危険に晒した咎により、船頭の明石与次兵衛は豊前国大里において斬首されたとも、切腹したともという[25][26]。危難にあった彦島と大里の間の大瀬戸は後に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになり、与次兵衛の死を憐んだ地元の者が瀬の上に与次兵衛の墓を建てたが、昭和初期に撤去されている[26]
  2. ^ 晋州城攻略の1番隊は鍋島直茂黒田長政加藤清正ら30980人。2番隊は小西行長長谷川秀一細川忠興浅野長政らの52000人。3番隊は宇喜多秀家石田三成大谷吉継木村重茲ら18822人。4番隊は秀元率いる毛利軍13600人。5番隊は小早川隆景、小早川秀包、立花宗茂高橋直次筑紫広門ら8740人。後詰として釜山に輝元、増田長盛前野長泰。金海城に毛利重政、張機城に亀井玆矩。唐島蜂須賀家政生駒親正長宗我部元親福島正則戸田勝隆ら四国衆が九鬼嘉隆加藤嘉明藤堂高虎らの水軍と協力して布陣した[42]
  3. ^ 当時、釜山は極めて重要な軍事拠点と判断され、海上を見渡す高台に本城(母城)、湊口に程近い場所に支城(子城、丸山)が設けられた[47]
  4. ^ 恵瓊は、厳島神社を篤く信仰すること、時々刻々秀吉に想いを致すこと、諸人との付き合い方に十分配慮すること等を諭しているが、最大の懸念事項として、輝元の奉公衆と秀元の奉公衆との間に間隙が生じさせないように釘を刺している[51]
  5. ^ 秀元と大善院の婚儀では、当時は大善院の実父・豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保に仕えていた藤堂高虎も大善院の供をして参列している[55]
  6. ^ ただし若年のため、安国寺恵瓊が後見人となっていた[59]
  7. ^ 五郎太石事件の原因は輝元の信任が厚い広俊・元祥への不満が表面化した結果と見られている。また、輝元は事件後、関ヶ原の戦い以来対立が続いていた秀元・広家・元祥ら家臣団を和睦させているため、藩主の権力を集中させる狙いもあったとされる。
  8. ^ この起請文での署名は座配の様に記され、長門守秀就(毛利秀就)幻庵宗瑞(毛利輝元)が向かい合い、秀就の左側に宍戸備前守元続繁澤左近入道立節(繁沢元氏)毛利甲斐守秀元毛利兵庫頭元宣吉川又次郎広正が並び、右側に毛利山城守元倶阿曽沼左兵衛頭元随吉川蔵人広家繁澤志摩守元景毛利伊賀守元鎮が並んでいる[71]
  9. ^ 知行地の入れ替えの例としては、毛利元倶が周防国熊毛郡三丘から佐波郡右田へ、毛利元景が周防国玖珂郡椙杜から長門国豊浦郡阿川へ、毛利元包が長門国豊浦郡阿川から周防国吉敷郡吉敷へ、福原元俊が周防国吉敷郡吉敷から長門国厚狭郡宇部へ、宍戸元匡が周防国佐波郡右田から熊毛郡三丘へ移動していることが挙げられる。また、家臣団の削減も行っており、元和8年(1622年)の分限帳と寛永4年(1627年)の分限帳を比較すると、約160人が減少している。しかし、これらの施策には秀元の思惑の影響が多大にあったことが指摘されており、例えば知行地の入れ替えでは秀元と懇意であった毛利元倶毛利元包が防長両国の要衝である右田と吉敷に移動しているのに対して、秀元と折り合いの悪かった福原広俊の子である福原元俊は民家も少なく土地も痩せていた宇部への移動となっている。また、秀就と縁戚関係にあった児玉家が輝元の遺言を名目として突如暇を出されているが、これも児玉景唯が秀元と不仲であったことが関係しているとされる[74]

出典

  1. ^ a b c 下関市史 原始-中世 1965, p. 389.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 18.
  3. ^ 小田郡誌 上巻 1972, p. 237.
  4. ^ a b 光成準治 2022, p. 22.
  5. ^ a b 光成準治 2022, p. 21.
  6. ^ 光成準治 2022, pp. 21–22.
  7. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 447.
  8. ^ 中野等 2021, p. 3.
  9. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 447–448.
  10. ^ 中野等 2021, p. 4.
  11. ^ a b c 毛利輝元卿伝 1982, p. 454.
  12. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 452.
  13. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 452–453.
  14. ^ a b c d e f g h i 『毛利家文書』第1041号、天正20年(1592年)比定4月14日付け、二太右(二宮太郎右衛門尉就辰)鵜新右(鵜飼新右衛門尉元辰)宛て、安國寺恵瓊・させ三左元嘉(佐世与三左衛門尉元嘉)・林肥就長(林肥前守就長)連署起請文。
  15. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 453–454.
  16. ^ a b 中野等 2021, p. 10.
  17. ^ a b c 毛利輝元卿伝 1982, p. 455.
  18. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 455–456.
  19. ^ a b c d e f 毛利輝元卿伝 1982, p. 456.
  20. ^ a b c d e f g 『毛利家文書』第1035号、天正20年(1592年)4月13日付け、(小早川)隆景様・安國寺(恵瓊)宛て、(毛利)右京大夫秀元起請文。
  21. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 457.
  22. ^ 中野等 2021, p. 6.
  23. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 475.
  24. ^ a b c d e f 中野等 2021, p. 11.
  25. ^ a b c 下関市史 原始-中世 1965, p. 445.
  26. ^ a b 下関市史 原始-中世 1965, p. 50.
  27. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 476.
  28. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 481.
  29. ^ 『毛利家文書』第1001号、天正20年(1592年)比定11月21日付け、羽柴安芸宰相(毛利輝元)殿宛て、豊臣秀次朱印状。
  30. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 478–479.
  31. ^ 下関市史 資料編4 1999, p. 37.
  32. ^ 『長府毛利家文書』豊公朱章弐第2号、天正20年(1592年)比定12月5日付け、羽柴安芸侍従(毛利秀元)との宛て、豊臣秀吉朱印状。
  33. ^ a b 中野等 2021, p. 14.
  34. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 487.
  35. ^ a b c d e f 中野等 2021, p. 15.
  36. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 488–489.
  37. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 491.
  38. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 492–493.
  39. ^ 『毛利家文書』第887号、文禄2年(1593年)比定6月4日付け、羽柴安芸宰相(毛利輝元)との宛て、豊臣秀吉朱印状。
  40. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 493.
  41. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 493–494.
  42. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 494.
  43. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 494–495.
  44. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 495.
  45. ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, pp. 495–496.
  46. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 496–497.
  47. ^ a b c d e 中野等 2021, p. 16.
  48. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 499–500.
  49. ^ 中野等 2021, p. 17.
  50. ^ a b c d e f 中野等 2021, p. 18.
  51. ^ a b c 中野等 2021, p. 22.
  52. ^ a b c 中野等 2021, pp. 21–22.
  53. ^ 中野等 2021, pp. 22–23.
  54. ^ 中野等 2021, p. 23.
  55. ^ a b c d 中野等 2021, p. 27.
  56. ^ a b 中野等 2021, p. 28.
  57. ^ a b 中野等 2021, p. 32.
  58. ^ 利岡俊昭 1966, p. 309,329.
  59. ^ 脇正典 1993, p. 58-59.
  60. ^ 笠谷和比古 2022, p. 124.
  61. ^ 光成準治 2016, p. 256.
  62. ^ 光成準治 2016, p. 258.
  63. ^ a b c 光成準治 2016, p. 273.
  64. ^ a b 渡邊大門 2021, p. 366.
  65. ^ 笠谷和比古 2022, p. 230.
  66. ^ 光成準治 2016, p. 274.
  67. ^ 脇正典 1993, p. 60-62.
  68. ^ 下関市史 資料編4 1996, p. 112.
  69. ^ 『長府毛利家文書』巻27「秀元公受領」第1号、慶長7年(1602年)6月20日付け、毛利右京大夫(秀元)殿宛て、(毛利)輝元受領書出。
  70. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 674-675.
  71. ^ a b 『毛利家文書』第1038号、慶長20年(1615年)4月14日付け、毛利宗瑞(輝元)外十一名連署起請文。
  72. ^ 『毛利家文書』第1039号、元和5年(1619年)1月21日付け、(毛利)秀就様宛て、(毛利)甲斐守秀元起請文。
  73. ^ 脇正典 1993, pp. 66–67.
  74. ^ 田中洋一 2016, p. 99-101.
  75. ^ 児玉 & 北島 1976, p. 357-362.

参考文献

関連項目

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