橘糸重
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| 人物情報 | |
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| 生誕 | 1873年10月8日 |
| 死没 | [注釈 1] |
| 出身校 | 東京音楽学校 |
| 学問 | |
| 研究分野 | 音楽学 |
| 研究機関 | 東京音楽学校 |
橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月31日[1][注釈 1])は、日本の音楽家、敎育者、歌人。
経歴
1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した[3]後は1939年に亡くなるまで嘱託講師(時間講師)として勤務した[4]。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある[5]。
歌人としては竹柏会に入り、佐佐木信綱に師事した。瀧廉太郎の歌曲「水のゆくへ」は、竹柏会発行の「竹柏園集」(第一編)に糸重が発表した新体詩に作曲されたものである。
関連
- 瀧廉太郎、高木東六は東京音楽学校の教え子。
- 島崎藤村が東京音楽学校選科に学んだ際に助教授として知り合い、藤村の小説『水彩画家』、『家』に登場する女性音楽家は糸重をモデルとしたものである。そのために藤村の恋人伝説が生まれたが、単に一度小諸に藤村を訪ねただけである。文壇の噂となったことを恥じ、生涯独身を通した[6]。
脚注
注釈
出典
- ^ “橘糸重”. 東文研アーカイブデータベース. 東京文化財研究所. 2025年10月18日閲覧。
- ^ 新撰 芸能人物事典 明治~平成『橘糸重』 - コトバンク
- ^ “『官報』第372号 1928年03月28日 p.734”. 大蔵省印刷局. 2024年11月24日閲覧。
- ^ “東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第1巻 p.5、p.531”. 東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室. 2024年11月24日閲覧。
- ^ “東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻p.1269”. 東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室. 2024年11月24日閲覧。
- ^ 「橘 糸重」『新撰 芸能人物事典、20世紀日本人名事典』。コトバンクより2022年11月8日閲覧。
参考文献
- 伊東一夫『藤村をめぐる女性たち』国書刊行会 平成10(1998)年11月刊
- 阪本幸男「橘糸重歌文集」短歌新聞社 平成21(2009)年10月15日刊
外部リンク
- 橘糸重のページへのリンク