楊清臣
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楊清臣(よう せいしん/ヤン・チンチェン、不明 - 1928年)は中華民国の軍人[1]。字は佐亭。直隷派出身で、のち奉天派に加わる。
生涯
山東省汶上出身。直隷派の母体となった曹錕の保定新軍第3鎮で勤務していたと思われるが、辛亥革命以前の経歴は不明。1913年(民国2年)3月7日、陸軍輜重兵中校[2]。
1916年(民国5年)4月21日、歩兵上校[3]。11月17日、少将加銜[4]。12月25日、呉佩孚率いる中央陸軍第3師副官長[5]。1917年(民国6年)12月5日、直隸陸軍第2混成旅(長:閻相文)歩兵第2団団長[6]。1921年(民国10年)1月、第3師第5旅旅長[1][7][8]。翌1922年、河南省で匪賊の張慶(老洋人)による魯山起義の鎮圧に従事[9]。
1923年12月4日、北洋将軍府より驤威將軍の称号を得る[10]。1924年(民国13年)3月、張福来の後任で中央第24師師長に任ぜられた[1]。第2次奉直戦争時、呉佩孚によって討逆軍援軍第四路司令に任ぜられた[11][12]が、瓦解し、呉佩孚とともに河南省に敗走した。更に11月、胡景翼率いる国民軍第2軍と孫岳率いる第3軍が河南省に進攻、抵抗しえなかった楊は更迭され、第17旅旅長の王為蔚が師長代理となった[13]。12月11日、段祺瑞は中央陸軍第24師の番号を正式に抹消した。
やがて国民革命軍の北伐が本格化すると、張宗昌の直魯聯軍に合流。1927年8月、前年11月に考城鎮包囲戦で瓦解した第23軍の再編を担い、山東省南部で紅槍会五百名あまりを集め、軍長に任ぜられる[14][15]。1928年、第23軍は張宗昌を総司令とする安国軍第二方面軍に組み込まれ、国民革命軍と対峙した[16]。
しかし、1928年4月、寧陽県で国民革命軍の第85師騎兵隊(長:席液池)に撃破され(寧陽の戦い、鄆城の戦い)、形勢を逆転できぬまま同年病死した[17]。
出典
- ^ a b c 閻錫山檔案:要電錄存8,國史館,2003年,第151页
- ^ “政府広報第300号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ “政府広報第107号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ “政府広報第314号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ “政府広報第351号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ “政府広報第679号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ 中華民國史檔案資料滙编3(3),江苏古籍出版社,第15页
- ^ “政府広報第679号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ “上海 大正十二年十一月二十日” (PDF). 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫. 2025年12月10日閲覧。
- ^ 1923年12月5日第2775号. 《政府公报》第二〇四册.
- ^ 郭廷以,中华民国史事日志,中央研究院近代史研究所,1978年
- ^ 齐庆昌、孙志升,直奉大战,社会科学文献出版社,1993年,第31页
- ^ 北洋军阀, 1912-1928,武汉出版社,1990年,第109页
- ^ 民國山東通志1-2,山東文獻雜誌社,2002年,第494页
- ^ 李庆华,鲁西地区的灾荒, 变乱与地方应对, 1855-1937,齐鲁书社,2008年,第200页
- ^ 第二辑 攻占山东,山东省情网,于2012-11-30查阅[リンク切れ]
- ^ 正文一:自1894年兴中会成立至1949年底先后逝世的人物,聚贤茶室,于2012-11-30查阅
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