かん‐かん〔クワンクワン〕【桓寛】
桓寛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/10 06:33 UTC 版)
桓 寛(桓 寬、かん かん、生没年不詳)は、中国前漢の政治家・学者。字は次公。豫州汝南郡上蔡県(現在の河南省駐馬店市上蔡県)の人[1]。『塩鉄論』の著者としてその名が知られる。
略歴
武帝のとき、桑弘羊の献言が容れられ、酒・塩・鉄を専売する制度が設けられた。そして昭帝の始元6年(紀元前81年)、天下の儒者六十余名と御史大夫桑弘羊・丞相車千秋ら高官が宮廷へと召され、この経済政策の存続の是非が論じられた(塩鉄会議)[2]。桓寛はこの議論を記録し、宣帝のとき『塩鉄論』を纂めた。
『塩鉄論』は塩鉄会議における儒者と官僚との討論を対話形式に叙述した書であり、当時の政経や思想の状況を如実に知ることができる史料として重宝されるほか、単なる記録ではなく戯曲風に問答体で描かれた文学作品としても評される[2]。また末巻には「雑論」一篇があり、汝南の朱子伯の言を述べ、賢良の茂陵の唐生、文学の魯の万生などを記し、なかんずく中山の劉子雍、九江の祝生を最も推している[3]。一方で桑弘羊・車千秋に対しては批難の語が濃く、これこそが『塩鉄論』における桓寛の或る種の趣旨であったとも捉えられる。
各篇に標題はあるものの、実際は問答の反復で構成され、諸篇はいずれも前後が連なっている。その後、酒の専売制は廃止されたが、塩と鉄は従前の儘であった。故に桓寛はこの書を編むにあたり、専売制の完全な廃止には至らなかったことを惜しんで、塩と鉄のみを書名としたとされる[4]。
なお桓寛は宣帝のとき、『春秋公羊伝』を修め、挙げられて郎となり、官は廬江太守丞に至った[5]。
脚注
- ^ デジタル大辞泉『「桓寛」の意味・読み・例文・類語』コトバンク。2025年12月10日閲覧。
- ^ a b 坂出祥伸 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「塩鉄論」の意味・わかりやすい解説』小学館、コトバンク。2025年12月10日閲覧。
- ^ 桓寛『鹽鐵論』「雜論第六十」:「異哉吾所聞。周、秦粲然,皆有天下而南面焉,然安危長久殊世。始汝南朱子伯為予言:當此之時,豪俊並進,四方輻湊。賢良茂陵唐生、文學魯國萬生之倫,六十餘人,咸聚闕庭,舒六藝之風,論太平之原。智者贊其慮,仁者明其施,勇者見其斷,辯者陳其詞。誾誾焉,侃侃焉,雖未能詳備,斯可略觀矣。然蔽於雲霧,終廢而不行,悲夫!公卿知任武可以辟地,而不知廣德可以附遠;知權利可以廣用,而不知稼穡可以富國也。近者親附,遠者說德,則何為而不成,何求而不得?不出於斯路,而務畜利長威,豈不謬哉!中山劉子雍言王道,矯當世,復諸正,務在乎反本。直而不僥,切而不𤌘,斌斌然斯可謂弘博君子矣。九江祝生奮由、路之意,推史魚之節,發憤懣,刺譏公卿,介然直而不撓,可謂不畏強禦矣。桑大夫據當世,合時變,推道術,尚權利,辟略小辯,雖非正法,然巨儒宿學恧然,不能自解,可謂博物通士矣。然攝卿相之位,不引準繩,以道化下,放於利末,不師始古。易曰:『焚如棄如。』處非其位,行非其道,果隕其性,以及厥宗。車丞相即周、呂之列,當軸處中,括囊不言,容身而去,彼哉!彼哉!若夫群丞相、御史,不能正議,以輔宰相,成同類,長同行,阿意茍合,以說其上,斗筲之人,道諛之徒,何足算哉。
- ^ 小林惣八『『塩鉄論』に見える匈奴問題』、18頁。2025年12月10日閲覧。
- ^ 班固・班昭ら『漢書』「公孫劉田王楊蔡陳鄭傳」贊:至宣帝時,汝南相寬次公治公羊春秋,舉爲郎,至廬江太守丞,博通善屬文,推衍鹽鐵之議,增廣條目,極其論難,著數萬言,亦欲以究治亂,成一家之法焉。
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