板額御前
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| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 不明 |
| 別名 | 坂額、飯角 |
| 氏族 | 桓武平氏維茂流城氏 |
| 父母 | 父:城資国(助国) |
| 兄弟 | 資永(助長)、長茂(助茂)、板額御前 |
| 子 | 知義 |
板額御前(はんがく ごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。名は『吾妻鏡』[注釈 1]では「坂額」とされているが、後の古浄瑠璃などの文学作品では「板額」と表記されている[2]。ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永、城長茂らがいる。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきた。板額御前は、公式の歴史書において、実際に戦場に立ち、武器を使用し、敵に損害を与え、さらに戦術・兵略の評価語が用いられている女性として記録されており、現存史料に照らす限り、事実上、他に例を見ない存在である。
生涯
城氏は越後国の有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。『吾妻鏡』の建仁元年(1201年)には、越後国において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。これは板額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた。
板額は、反乱軍の一方の将として奮戦した[3]。『吾妻鏡』には「資盛姨母の坂額御前と号するもの有り。女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」[4]
(反乱軍の大将、城資盛の叔母で板額御前と呼ばれる者が参戦していた。女性の身でありながら、百発百中の技は、並の男では敵わず、不思議なほどの力であると皆噂した。この日には兵略を用いることすらあった。男のように髪を結い上げ、鎧を着け、矢倉の上から放つ矢に当たった者で死なぬ者はなかった[5])と記される。
しかし最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。
『吾妻鏡』「時に信濃の国の住人藤澤の次郎清親城の後山を廻り、高所より能くこれを窺い見て矢を発つ。その矢件の女の左右の股を射通す。即ち倒れるの処清親郎等生虜る。疵平癒に及ばばこれを召し進すべし。姨母疵を被るの後資盛敗北す[6]。
(信濃国の住人、藤澤次郎清親が、城の背後の山を回り込み、高所からよく様子をうかがって、矢を放った。その矢は、例の女の左右の股を射抜いた。女はその場に倒れ、清親の郎党たちが、これを生け捕りにした。傷が癒え次第、これを召し出すべきである。この叔母が傷を負った後、城資盛は敗北した。[7])
板額は鎌倉に送られ、2代将軍・源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。
『吾妻鏡』「藤澤の次郎清親囚人資盛姨母(坂額と号する女房)を相具し参上す。その疵未だ平減に及ばずと雖も、相構えて扶け参ると。左金吾その躰を覧るべきの由仰せらる。仍って清親相具し御所に参る。左金吾簾中よりこれを覧玉う。御家人等群参し市を成す。重忠・朝政・義盛・能員・義村以下侍所に候ず。その座の中央を通り簾下に進み居る。この間聊かも諂う気無し。凡そ勇力の丈夫に比すると雖も、敢えて対揚を恥ずべからざるの粧いなり。但し顔色に於いては、殆ど陵薗妾に配すべしと。」[4]
(藤沢清親が、捕虜にした城資盛の叔母を連れて鎌倉へ参りました。脚の矢傷はまだ癒えきらず、いたわり助けながらの道行きでありました。左金吾(鎌倉幕府二代将軍源頼家)様がその人となりを自ら見定めたいと仰せられ、清親が板額を連れて御所へ参上いたしました。頼家様は御簾の中からこれをご覧になりました。御家人達は群れ集い、まるで市が立ったような賑わい。畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村ら、幕府の重臣達も侍だまりに居並んでおります。板額は、その座の中央を進み御簾の前へと歩み出ました。その所作に卑屈さは微塵もありません。大勢集まったのは、腕に覚えある勇敢な武将ばかり。しかし、その中にあっても、板額の姿は少しも見劣りせず、堂々たる気品を放っておりました。ただ、その面差しは、白居易の詩「陵薗妾」を思わせるほどの哀切を帯びた美しさであった。[8])※陵園妾(第1行「陵園妾 顏色如花命如葉 命如葉薄將奈何」天子の陵墓園に仕える元宮女。容貌は花のように艶やかであった、しかし、彼女の命は今や木の葉のように薄い。舞い散る落葉のように儚く脆い命。そして、それをどうすることもできない運命。[9]
この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾された。[10]
『吾妻鏡』「阿佐利の與一(義遠)主女房を以て申して云く、越州の囚女すでに配所を定めらるれば、態と申し預からんと欲すと。金吾御返事に云く、これ無双の朝敵たり。殆ど望み申すの條所存有りと。阿佐利重ねて申して云く、全く殊なる所存無し。ただ同心の契約を成し、壮力の男子を生み、朝廷を護り武家を扶け奉らんが為なりと。時に金吾、件の女の面貌宜しきに似たりと雖も、心の武を思わば、誰か愛念を遺さんや。而るに義遠が所存、すでに人間の好む所に非ざる由、頻りに嘲哢せしめ給う。而るに遂に以て免し給う。阿佐利これを得て甲斐の国に下向すと。」[4]
(浅利与一義遠は官女を通して願い出た。「越後より連れて来られた捕虜の女性、その預かり先を定められるのであれば、あえて、この身にお預け願いたい。」これに対する、頼家様の仰せ「比べる者もないほどの朝敵の女ぞ。それを望むとは、よほどの理由があるのであろう。」義遠は、続けて答える。「特別な思いがあるわけではございません。ただ、ともに生き、強く逞しい子を授かることが、朝廷を護り、武家の世を支える一助になると考えたまで。」これを聞いた頼家様は、「この女は、姿こそ美しいが、その心の内にある武骨さ、猛々しさを思えば、誰も、やさしく愛することなど出来ようはずがない。と思ったが、義遠の好みは、並の男とは違うようだな」と、大いに笑う。そして、ついに、その願いをお許しになられた。こうして浅利義遠は、板額を伴い、甲斐国へと帰って行きました。[11]
板額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において生涯を過ごしたと伝えられている。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚がある[12]。
環境
板額御前の生きた平安時代後期の「奥山荘」(おくやまのしょう、現在の新潟県胎内市周辺)は、越後国北部に位置する、地理的には京都から遠隔の地域であったが、在地領主層による開発と統治が進展した荘園として、一定の経済力と社会的組織性を備えた地域であった。[13][14]
城氏は、湿地帯や低湿地を水利開発によって耕地化し、荘園として計画的に整備していった開発領主であった。在地領主層を媒介として、中央の政治秩序や文化的要素が受容されていた。都由来の文書制度、宗教文化、武士的価値観を取り入れながら荘園経営を行っており、奥山荘の生活文化は、在地性と都文化とが交錯する性格を有していた。[15][16]
奥山荘は日本海沿岸航路や河川水運を通じた流通網と結びつき、米や諸産物を中央へ供給しうる経済的基盤を有し、こうした流通の存在は、奥山荘が単なる自給的農村ではなく、広域的な経済圏の一部として機能していたことを示唆している。[17]
荘園内には在地武士の居館や城館が設けられ、土地支配・年貢徴収・軍事的防衛の拠点として機能していた。さらに、寺院や鎮守社といった宗教施設も営まれており、これらは信仰の場であると同時に、地域社会を統合し、荘園開発を精神的に支える役割を果たしていた。[18]
板額御前の生きた時代の奥山荘は、都からは遠く離れていたが、京都の文化や宗教、知的要素を段階的に取り入れつつ、在地領主層を中心に自立的な社会を形成していた地域であったと評価できる。[19]
板額の長兄、城資永は、越後国を中心に勢力を有する在地武士団の棟梁であり、さらに在京して検非違使を務めた経歴をもつ人物であったことから、平氏政権内部においても一定の信頼と期待を寄せられていたと考えられる。また、別の兄、長茂は終始、自らを「良家之子」と認識し続けていた。彼は、帯刀流・平維繁の一族であり、諸大夫の家に連なる出自を有するという自尊意識を強く抱いていたとみられる。この点は、城家一門に共通する、名門の出自であるという強いプライドを示すものでもあろう。[20]
さらに、板額御前は『吾妻鏡』に「この合戦の日殊に兵略を施す」と記されるように、単に武勇に秀でていたのみならず、合戦における戦術的判断を行いうる程度の兵略的知識をも備えていたことが示唆される。このような社会的・文化的環境、そして城資永・長茂に見られる城家一門の家格意識や官歴への自負を踏まえるならば、板額御前は「辺境の荒武者の娘」ではなく、都文化を理解し、宗教と家格を重んじる環境の中で育った、良家の姫であったとみる方が、当時の奥山荘と城家の実像にはむしろ近い。[4][20][21]
容姿
板額御前が「醜女」であったとする風説がある。しかし、そのように伝わったのは、史料解釈および翻訳上の誤りによるものである。『吾妻鏡』に見える表現は、白居易の詩「陵薗妾(りょうえんのしょう)」を踏まえた比喩であり、帝の寵愛を受けたものの、讒言によって失脚し、歴代皇帝の陵墓を守る役に退けられた元宮廷官女という人物像を想起させるものである(吉川幸次郎『白居易研究』岩波書店)。実際の『吾妻鏡』の記述(将軍源頼家に謁見した場面)は、次のとおりである(小林保治『吾妻鏡』岩波書店、建仁元年〔1201〕八月条)。
此間無聊諛氣。凡雖比勇力之丈夫、敢不可耻對揚之粧也。但於顏色、殆可配陵薗妾云々。これを現代語に訳せば、次のようになる。その態度には、いささかの卑屈な媚びもない。居並ぶ剛勇の武将たちと比べても、決して恥じることのない、堂々たる勇姿である。ただし、その容貌においては、「陵薗妾」に配すべきものであった。
ここで「陵薗妾に配すべし」とあるのは、容貌の美しさを古典的典拠になぞらえて称えた表現であり、卑下や侮蔑を意味するものではない。ところが、『吾妻鏡』の記述をもとに『大日本史』が編纂される過程で、この和風変体漢文(いわゆる偽漢文)表現を当時の日本語に書き下す際、意味の取り違えが生じた。すなわち、本来の「但於顏色、殆可配陵薗妾云々。」が、寛永三年(1626)版本(国文学研究資料館蔵『東鑑 諸本影印集』)において「但於顏色、殆可醜陵薗妾云々。」と改変され、これを受けて「墓守にでもさせておくのがふさわしい醜女である」という、原意とは正反対の訳文が生まれたのである。この誤訳は江戸時代を通じて広く流布し、その結果、板額御前を「醜女」とする誤った人物像が後世に定着するに至った。
(角田文衛『平家後抄落日後の平家』朝日新聞社、1978年)において、白居易「陵薗妾」の詩句、陵薗妾。顏色如花、命如葉。命如葉薄、將奈何。を挙げ、その大意について次のように解説している。「すなわち、帝陵の傍らの舎屋に幽閉され、陵墓に奉仕する宮女は、その顔立ちは花のように美しいが、運命は葉のようにはかない。」つまり『吾妻鏡』の編者は、坂額(板額御前)が生虜という哀れな境遇に置かれている一方で、その容色は花のごとく美しい、という点を表現しようとしたのであろう、と述べている。この解釈は、「陵薗妾」が卑下や侮蔑の語ではなく、悲運に置かれた美女を象徴する文学的比喩であることを端的に示すものであり、『吾妻鏡』本文の理解としてきわめて妥当である。
なお、『吾妻鏡』には同じ場面において、将軍頼家の言として次の発言も記されている。于時金吾。件女面貌雖似宜。思心之武。誰有愛念哉。すなわち、「この女は見た目はよい。しかし、その心の武を思えば、誰が恋慕の情を抱くであろうか」という趣旨であり、ここでも板額御前の容貌が否定されていない[22]。
歌川豊国 古今名婦伝 板額女
越後国城小太郎の姑なり 勇悍くした弓術に達せり 建仁元年春の頃 小太郎 鎌倉殿の命に畔き 鳥坂の城に楯篭る 佐々木盛綱がこの城を攻るに 板額が矢面に立者一人も活るなし 然るに 板額 藤沢清親に太股射させ 虜となりて鎌倉に至り 頼家卿の前に出ても 屈する色なく 畏敬せる 浅利与一義遠其勇烈を感悦し妻にせんとぞ望みたる 頼家卿も誅するに忍び 板額も 敵ながら義遠が 心に愛 遂に夫婦となりにけり x此婦を 醜悪と言傳ふるに 東鑑の文を 心得誤りたるなり[23]
越後の城小太郎のおばであり、勇敢で弓術の達人である。建仁元年(1201年)の春、城小太郎が資盛が 鎌倉の幕府に対して謀反を起こし鳥坂の城に立て籠もった。佐々木盛綱がこの城を攻めた時、板額の矢面に立って生きていた者は一人もいなかったが、藤沢清親に太腿を射抜かれ捕虜となり鎌倉に移送される。将軍頼家の前に出ても屈することのない様子に皆、畏敬の念を抱いた。浅利与一義遠はその勇烈に感じ入り、妻にしたいと申し出た。将軍頼家も板額の命を惜しみ、義遠が、敵であるにもかかわらず板額を愛で入って、遂に二人は夫婦となったのだった。xこの女性の容貌を醜悪であるといい伝えるものがあるが、それらは吾妻鑑の記録を読み間違えたものである[24]。
北越名流遺芳 第2集 [170] 板額
◎『大日本史』は『吾妻鏡』を引用して、板額を「容貌が醜い」と記し、頼山陽の『日本外史』も「醜くて力強く、射術に優れている」と書いています。そのため、「板額」と言えば、世間の人はすぐに「醜い女」というイメージを思い浮かべます。しかし、これはすべて前時代の史書が誤って伝えた誤解です。星野恒文学博士の説によると、板額の容姿について『吾妻鏡』の本文では、決して醜い女とは書かれていません。『吾妻鏡』建仁元年 六月二十八日「ただし顔色については、ほとんど陵園妾に匹敵するほど醜い」二十九日「件の女。面貌は宜しきに似たり。」「面貌宜しきに似たり」とある以上、醜い女であるはずがないことがわかります。また、白氏文集(白居易の詩集)には「陵園妾」という楽府の題があります。これは、山陵(皇族の墓)の守り人に、宮廷から追放された美貌の宮女を押し込めて置いたことを哀れむ詩で、冒頭の句に「陵園の顔色は花の如く、命は葉の如し」とあります。王朝時代には『文選』や白氏文集が広く読まれ、鎌倉時代にもその影響が残っていたため、「陵園妾」と言えば、誰もがその顔色が花のように美しいことを知っていました。だからこそ、美しい人の引き合いに出される表現なのです。したがって、「可醜陵園妾」(陵園妾に匹敵するほど醜い)という表現は、本来は「陵園妾に匹敵するほど美しい」という意味で、版本の誤写によって「醜い」という字が使われたにすぎません。近頃、北慎言の『梅園日記』を見ると、「板額非醜女」という題で、白氏文集を引いて詳しく論じています。しかし、板額が醜女だという話は一般に広まっており、事実を正そうとしても信じる人は少ないようです。 つまり、板額の醜女説は史家の誤った伝承から生まれたものであり、実際は「陵園妾に匹敵するほど美しい」ほどの美人だったと知るべきです[25]。
◎板額は城九郎資国(助国)の娘で、小太郎資盛の姨母(おば)です。 建仁元年、頼家が資盛の叔父である長茂を捕らえたため、資盛は仇を討とうとして兵を起こし、越後の鳥坂に城を築いて立てこもりました。頼家は佐々木盛綱を派遣してこれを攻めさせます。 資盛の兵士たちは必死に戦い、矢が雨のように降り注ぎ、盛綱の兵は多くが死傷しました。 板額は雄々しく力強く、射術に優れ、しかも知略もありました。童形(少年のような姿)にして腹巻を着け、櫓(やぐら)の上から射かける矢は一本も外れませんでした。 信濃の者・藤沢清親が遠くから城の後ろに出て、山の上から狙い撃ちし、その両股を貫きました。板額は倒れ、ついに捕らえられました。盛綱の兵は敗れて撤退しました[26]。
◎この年六月二十八日、清親は板額を連れて鎌倉に到着しました。 頼家は名を呼んで簾の中からこれを見ました。家人たちが群集して市を成すほどでした。 和田重忠、畠山重忠、梶原朝政、比企能員、和田義盛、三浦義村などが侍所に控えていました。 板額は中央を通り、進んで簾前に至りました。『吾妻鏡』にいうには、 「この間、護る者なし。勇力の丈夫に比ぶとも、敢えて恥ずべき揚げの粧い(男装)にあらず。」浅利義遠がこれを見て、妻にしたいと望みました。頼家は言いました。 「件の女、面貌は宜しきに似たり。思心の武(心の強さ)は誰か愛念せざるや。されど義遠の望むところは、人間の好むところにあらず。」 と、たびたびからかいましたが、最終的にこれを許しました。 義遠は板額を連れて甲州(信濃)へ帰りました。その後のことは知られていません[27]。
◎鳥坂城は北蒲原郡にあり、その遺跡は今も残っています。[28]
鎧
板額御前が着用していた鎧は、史料において「腹巻」と記されている。しかし、「胴丸」と「腹巻」という呼称は、室町時代までは、現在とは逆の意味で用いられていた。すなわち当時の基準では、「腹巻」とは右脇で引き合わせる形式の鎧を指し、これは現代の呼称でいう「胴丸」に相当する。一方、「胴丸」とは、背中で引き合わせ、胴を丸く包み込む形式の鎧を意味しており、現代でいう「腹巻」にあたるものであった。したがって、史料に「腹巻」と記された板額御前の鎧は、現代の分類では胴丸型の鎧であったと考えられる。[29][30]
この逆転した呼称は、江戸時代以降の武具研究や有職故実書によって広く共有され、現在に至るまで、博物館の展示解説や歴史教科書・専門書においても、この「江戸時代以降の分類」が標準的な用語として用いられている。この呼称の混乱に関しては、新井白石の著した武具研究書『軍器考』が、本来の「胴丸」と「腹巻」の定義を取り違えたまま記述したことが、誤った理解が広まる一因になったと考えられている。また、江戸中期の有職故実家・伊勢貞丈による『軍用記』では、こうした誤りを指摘する場面も見られるが、結果として江戸時代を通じて「右脇で合わせる=胴丸」「背中で合わせる=腹巻」という分類が一般化していった。[31]
明治時代以降、博物館の目録作成や文化財指定にあたっては、すでに定着していた江戸時代の分類がそのまま採用された。そのため現在でも、刀剣ワールドや兵庫県立歴史博物館などの解説においては、「本来は呼称が逆であった」という注釈を付したうえで、現行の名称が使用されている。[29][30]
身長
一説に身長6尺2寸(約188cm)などと[注釈 2]いうものがあるが、根拠は見当たらない。
吾妻鏡には、板額の兄「城長茂」が七尺の大男であったと記されている。これを、現在の大工仕事などで使われる曲尺(かねじゃく) の一尺(約30cm)で換算すると、身長210cmとなり、そこから「妹である板額御前もそれに準じて非常に高身長であろう」と想像されることがある。しかし、平安・鎌倉期に一般的に身長計測に用いられていたのは「唐小尺(約25cm)」であり、この基準では七尺は175cmに相当する。当時の服装や出土資料などから、成人男性の平均身長が155cm〜165cmと考えられているため、長茂は確かに大柄ではあるが、現代的な感覚での「巨漢」とは言い難い。この点を踏まえれば「兄が大柄であったから、妹の板額も背が高かった可能性がある」という推測は成り立つものの、身長は現在の女性の平均程度と考えるのが自然であろう[32]。
『吾妻鏡』をはじめとする一次史料には、彼女の身長に関する記述は一切存在しない。後世の軍記物や近世の講談においても、具体的な数値としての伝承は見当たらない。「6尺2寸」という数字は、近年のインターネット上の二次創作や憶測が数字化された、いわば「ネットミーム」的な創作である。[4]
近・現代国語辞書における「板額/おはんがく」語義の整理
■ 近世の記述(原像)
- 1862年『倭訓栞』 「坂額と書り、越後の城資盛が叔母、よく射よく戦ふ虜に後鎌倉に至りぬ。阿佐利義遠請て妻とす」 → 武勇に優れた実在女性としての記述。醜女・揶揄語の意味はまだ存在しない。
■ 近代以降の国語辞書(1929〜2001)
1929年以降の国語辞書では、ほぼ一貫して次の二点が見られる。
- 語源を「板額御前の醜婦伝説」に求める
- 意味を「体格が逞しく、容貌の醜い女を嘲る語」と定義
代表例を整理すると以下の通りです。
- 1929 冨山房『大日本国語辞典』「平資盛の姨母板額を誤りて醜婦としたる伝説に基づく」
- 1935 辞苑(博文館)「体格逞しく醜い女の嘲称」
- 1936 平凡社『大辞典』「板額を醜婦なりとしたる伝説より出でたる語」
- 1956 冨山房『新訂大言海』「体格強健にして容色の善からざる女を嘲りて云ふ語」
- 1959 日本書院『新言海』「醜婦であったという伝説から出た語」
- 1973 三省堂『広辞林』「からだがたくましく、顔の醜い女」
- 1981 国語大辞典「体格がたくましく、容貌の醜い女を罵っていう語」
- 1983 岩波『広辞苑(三〜五版)』「体格がたくましくて顔の醜い女をあざけっていう語」
- 1989 講談社『日本語大辞典』「男まさりの醜い女」
- 1989 小学館『言泉』「体格がたくましく、容貌の醜い女」
- 2001 小学館『日本国語大辞典(二版)』「体格がたくましく、容貌の醜い女をあざけっていう語」 +派生義「おてんば/でしゃばり/意地悪女/浮気な娘」
- 近・現代の国語辞書の多くは、「板額(おはんがく)」を「体格が逞しく、容貌の醜い女性を嘲る語」と説明している。しかしその語義説明は、一次史料に基づくものではなく、『吾妻鏡』本文の誤読および江戸期に成立した誤訳・伝説を無批判に踏襲した結果である。実際には、『吾妻鏡』原文において板額御前は「但於顏色、殆可配陵薗妾」と記され、中国文学における美女の典型である「陵薗妾」に比せられている。にもかかわらず、寛永三年版本以降の本文改変と近世史書・国語辞書による誤った書き下しが重ねられ、「醜女」という語義が固定化されたのである。したがって、「板額=醜女」という理解は、史料的事実ではなく、近代辞書編纂史の中で形成された二次的・派生的な言語イメージに過ぎない。
年齢
胎内市の郷土史家・考古学者の説
板額御前の生誕・奮戦の地「胎内市」の郷土史家・考古学者「板額御前が歴史に登場するのは、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』における建仁元(1201)年の「建仁の乱」の記事のみであり、正確な生年月日は不明ですが、「吾妻鏡」によれば、捕虜となった板額に対し、将軍・源頼家が「面貌よろしき(容姿が優れている)」と評し、浅利義遠が「彼女との間に勇敢な息子をもうけたい」と妻に望んだことが記されています。10代での婚姻が一般的だった当時、出産を前提とした妻帯の申し出や、将軍の嘲弄の対象となる状況を考慮すれば、板額は1201年時点で20代、むしろ20歳前後であったと推測するのが自然です。30代以上の女性に対して、出産能力を主眼に置いたあのようなやり取りがなされるとは考えにくく、また「強弓を引き続ける体力」の面からも、若年層であった可能性が高いと言えます。板額御前の兄とされる城資永は、一一一五年頃の生まれで、一一八一年に亡くなっています。父資永が亡くなったとき、嫡男の資盛は若年であったため、家督は資永弟の長茂が継ぎます。板額は、資盛のおばであったと書かれていますが、弓を引き続ける体力があり、後に子をなしていることから、資盛とあまり年の変わらないおばであったと思われます。『吾妻鏡』では、板額は城資盛の「姨母」(母方の叔母)と記され、資盛と年齢の近い叔母として城家におり、一族の危急に際して共に戦った。つまり、板額御前は、年齢差を考えても、城資永・長茂兄弟の実妹ではなく、資永の妻の妹(義理の叔母)であり、1201年の合戦当時は20歳前後の若き女武将であったと考えられます。『国語大辞典』小学館:姨母(いも)…母の姉妹。諸橋徹次『大漢和辞典』大修館 巻3 p692:姨母…①母の姉妹②父の妾をいう。姨娘の②を見よ 姨娘 ①母方のをば ②父の妾 庶子は己の母をもいふ 姨 本妻の姉妹の称 』わざわざ「姨母」という字を選んでいるのを重視すべきでしょう。父の妾というのも年齢的に厳しく、資盛は庶子ではないでしょうから、姨娘の②でもない。 このように、信頼できる典拠に従えば、資永と妻の子供である資盛からみて、板額は母の妹(おそらくかなり年の離れた)ということになります。長茂は資永の弟ですから、兄弟姉妹の関係ではないということになります。活躍年代からみても、年齢的にいっても兄というのは厳しいので、これまでの過ちを正し、長茂を叔父に直したい。」[33][34][35][36]
本説は、板額御前研究に精通した胎内市の郷土史家・考古学者による見解であり、検討されるべき価値を有する。ただし、史料に基づく直接的な裏付けに乏しく、内容の受容にあたっては慎重な検討と情報の取捨が不可欠である。
姨母
近年、この説のように「姨母」と記されていることを根拠に、板額を「資永の妻の妹(義理の叔母)」と解する説が提示されることがある。しかし、この解釈は、史料の語義そのものから導かれたというよりも、年齢に関する先入観を優先した推論に基づくものであり、必ずしも妥当とは言えない。
古典中国語および日本の史料において、「姨母」は原則として母方の叔母を指すが、『吾妻鏡』における親族呼称は、必ずしも現代的な親族分類の厳密さに従っていない。一方で、「資永の妻の妹」という解釈を採用するためには、資永にそのような後妻が存在したこと、またその妹が板額であったことを示す史料が不可欠となるが、、これらを具体的に示す記録は確認されない。[37]
『時代別国語大辞典 室町時代編』「日本では古くから「おば」という和語に対し、「姑母(父方)」「姨母(母方)」を厳密に使い分ける習慣が乏しかった。特に鎌倉・室町期の文献(変体漢文)では、「姨母」という表記が「おば」という音に対する代表的な当て字として定着しており、父方の叔母に対しても頻繁に使用される。」[38]
五味文彦氏(東京大学名誉教授)「吾妻鏡の編纂過程において、系図や旧記を漢文化する際、編纂者が機械的に「姨母」という語を当てはめた可能性が高い。この機械的な用語の適用により、比企尼など、本来は「伯母・叔母(父の姉妹)」や「姑(義母)」であるべき人物が、記録上は「姨母」とされ、母方の親族であるかのように誤認される原因になった。」『増補 吾妻鏡の方法:事実と神話にみる中世』(吉川弘文館)[39]
以上を踏まえると、「姨母」という表記のみを根拠として、板額を「資永の妻の妹」と解することは、語義・用法・史料状況のいずれに照らしても慎重であるべきであり、むしろ後世的な年齢調整の要請が先行した解釈である可能性が高いと言えよう[40]。
城資永は1115年頃の生まれ
また、同説の前提となっている「城資永は1115年頃の生まれである」という年代設定には、史料による裏付けが存在しない。資永の没年が1181年であることは確かであるが、その没時年齢は不明である。一次史料、二次史料、史家の研究など複数の信頼できる文献に、城資永の生年を裏付ける記述は確認できなかった。[41]
『尊卑分脈』には、城資永の弟である城長茂の生年が記されている。「城長茂 越後守。初名助茂又助職。仁平二年生。養和元年横田河原合戦ニテ木曾義仲ニ破ラル。其後源頼朝ニ属シ奥州合戦等ニ従フ。建仁元年二月乱ヲ起シ同年二月廿二日討死ス。」[42]すなわち、長茂は仁平二年(1152)生まれであることが明示されている。にもかかわらず、兄である資永の生年を1115年頃と仮定すると、両者の年齢差は約37年にも及ぶ。このような極端な年齢差は、当該時期の武士階層における実兄弟関係としては著しく不自然であり、特段の事情や史料的根拠が示されない限り、史実として受容することは困難である。
仮にこの「1115年頃」という年代が、生没年不詳である父・城資國の年齢を指す推定であるならば、年代的整合性の観点から一定の理解は可能であろう。しかし、それを兄である資永の生年に直接当てはめるのであれば、史料上の根拠を欠くだけでなく、兄弟関係の年齢構成に重大な無理を生じさせることになる。兄弟間の大きな年齢差を説明するため、資永と長茂を異母兄弟とみなす可能性も理論上は考え得る。しかし、系図史料および同時代史料において、両者を異母とする明示的記載は確認されず、慎重な再検討を促す要素といえる。[43]
さらに、城資国の父である城永基(その父、貞成と同一視される場合がある)については、嘉承元年(1106)に越後国において寺院建立に関与したことが『乙宝寺縁起』[44]などに記されている。これにより、永基は11世紀後半に生まれ、12世紀前半から中葉にかけて越後を拠点として活動した世代の人物と位置づけることができる。こうした世代配置を踏まえるならば、資永を1115年生まれとする説は、家系全体の年代的整合性の観点からも再考を要するものといえよう。
1201年時点の長茂の年齢は満48〜49歳だが、板額の年齢は全くの不明である。郷土史家の言う通りの、「二十代」の可能性もある。しかし、弓術は瞬発力のみならず、長年の修練によって完成される武芸であり、『吾妻鏡』が記す「百発百中」の板額の姿は、熟達した壮年期の武者像ともよく符合する。[45]
甥の城資盛は父・資永が没した1181年時点ですでに出生していたと考えれば、1201年には20代に達していたと推測されるが、「小太郎」という呼称は、出生当時に父が「太郎」を称していた可能性を示唆し、資盛の出生が比較的早い時期であったことを裏付けることもできる。板額が、長茂より一世代下、資盛より一世代上、すなわち30代から40代に及ぶ年齢層が、叔母としての年齢差は自然である。[46]
また、注目すべきは、板額が城一族の存亡をかけた合戦において、防衛の主力として、また象徴的存在として戦っている点である。中世武士社会において、こうした役割を担うのは、原則として血縁を有する一族成員であった。単なる姻戚関係にある女性が、そのような中心的役割を果たすと考えるよりも、板額が城家の血を引く存在、すなわち城資永・長茂の実妹であったと考える方が、社会的・心理的にもはるかに自然である。[47]
板額が捕虜となった後、源頼家が「面貌よろしき(容姿が優れている)」[4]と評し、浅利義遠に妻として望まれたとされる点についても、必ずしも若年・未婚である必要はない。中世社会においては再婚や経産婦の再嫁は一般的であり、すでに出産経験を有する成熟した女性が、強健な資質を次代に伝える存在として評価されることもあった。にもかかわらず、板額像に対して若年性や処女性を前提とする解釈がしばしば見られるが、これは中世史料に基づくものではなく、現代的ヒロイン像に由来する「若さ」や「処女性」への価値付けを無批判に投影した解釈に過ぎない。板額が初婚であったことを示す史料的根拠は存在せず、むしろ当時の婚姻慣行を踏まえれば、経産婦であった可能性も否定することはできない。[48][49]
「百発百中」という表現は確認されるものの、「数百回にわたって射撃した」とする解釈や、「強弓を引き続ける体力があった」と理解できる記述は吾妻鏡の原文には確認されない。史料が強調しているのは、彼女の放つ矢の「正確さ」と「命中した際の致死性の高さ」に対する驚嘆にある。板額御前が卓越した射手であったこと自体は史料から窺えるが、その評価の核心は、「若さ」に由来する体力に求められるべきではない。戦場という極限状況においても揺るがぬ、正確無比な射技こそが、彼女の真価として評価されるべきである。[4]
母系・清原氏との関係について
一部の言説では、板額御前の母を、清原武衡の娘とする見解が見られる。しかし、この説を直接裏付ける確実な一次史料は存在しない。
江戸時代に編纂された『吾妻鏡』治承5年(1181)9月3日条の異本には、城資永の母を清原武衡の娘とする記述が一部に見られる。また、『続群書類従』第6輯下・系図部収録の「清原氏系図」では、清原武衡の傍注に「女子 越後国住人城太郎資国妻 資永母」との脇書が付されているとされる。ただし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』の確定本文には、このような系譜関係の記載はなく、後世の加筆・注記である可能性が高く、信頼性に疑問が残る。『系図纂要』などの越後城氏系譜資料において、城資国の妻や板額御前の母に関する詳細な言及はない。
また、板額御前の祖父とされる清原武衡の没年(1087年)から、板額が歴史の表舞台に登場する「建仁の乱(1201年)」までには114年もの開きがある。仮に、1087年に武衡の娘(板額の母)が誕生したばかりの0歳であったと仮定し、1201年時点での板額の年齢を逆算すると、「板額出生が1161年の場合 … 母は74歳。1201年に板額は40歳。」「板額出生が1131年の場合 … 母は44歳。1201年に板額は70歳。」これより若い時期の出産であれば、板額は1201年時点で80歳を超えてしまい、戦場での武勇という記録と著しく乖離する。
板額御前の母を清原武衡の娘とする説は、後世の家譜、地元伝承、あるいはそれらを基にした近代以降の歴史叙述を通じて広まったものと考えられる。後三年の役後の清原氏散逸と越後城氏の系譜が絡むため、血縁関係を強調する家系美化や創作の影響も否定できない。現段階では、確定した史実として扱うことはできず、あくまで伝承レベルの可能性に留まる。
板額御前像
板額御前の銅像は、JR羽越本線・中条駅(東口)前に設置され、駅を訪れる人々を静かに見守るように立っています。駅舎の壁面にも板額御前をモチーフとした意匠が施されており、この像は、胎内市の歴史と文化を象徴する存在となっています[50]。
この像は、矢を放つ瞬間や馬上で突撃する姿といった、動きのある戦闘場面をあえて選んでいません。表現されているのは、弓を携え、静かに前方を見据えて立つ姿です。そこにあるのは勇猛さの誇示ではなく、戦を引き受けた者としての覚悟、そして誇りと精神性です[51]。
駅前という公共空間に置かれる像として、「恐ろしい女武者」ではなく、人々を迎え、見守る存在としての板額御前。その表情は、怒りを露わにしたものでも、敗北の悲嘆に沈むものでもありません。
口元に宿る引き締まった強さと、まっすぐに前を見据える眼差しは、「女であること」や「捕虜であること」によって卑屈になることのなかった、『吾妻鏡』に記される「少しも媚びなかった板額御前」の姿を想起させます[52]。
鎧姿ではあるものの、過度に重装備でも装飾的でもない点も重要です。それは、巴御前のように伝説化された「戦場の象徴」としての女武者像との差別化であり、城を守り、矢倉に立ち、弓で戦った「現実の戦を知る地方武将」としての板額御前を表しています。衣装は、実務的で機能的な、地に足のついた武装として造形されています[53]。
また、中条駅東口という設置場所自体も、この像の意味を形づくる重要な要素です。観光地の奥や史跡の中ではなく、人々が行き交い、日常が流れる場所に立つことで、板額御前は「過去の英雄」ではなく、「この土地の現在と連なる存在」として位置づけられています[54]。
この銅像は、単なる記念モニュメントではありません。板額御前の勇気と誇り、そして胎内市が受け継いできた歴史への誇りを、今を生きる人々に静かに語りかける、象徴的な存在となっています。
板額御前生誕の地碑
生誕地とされる新潟県胎内市飯角熊野若宮神社には、2001年(平成13年)板額御前奮戦800年祭(鳥坂城奮戦800年を記念)が開かれた際、旧中条町によって石碑が建てられている[55]。
後世
のちに浄瑠璃・歌舞伎上の人物となった。また、江戸時代以降、醜女の蔑称ともなった[3]。これは原文で「容姿は美人ゆえに後宮で妬まれ、陵園(皇帝の陵墓)に送られて一生を過ごした女性に匹敵する」と述べている個所を、江戸時代に出版された伏見版や寛永版の付訓で、『但し顔色に於いては殆ど陵園の妾より醜かる可しと』と読み下したことで、「陵園の妾より醜い」という誤った解釈が広まったからである[56]。
板額御前の史実が巴御前に仮託された可能性
中世日本において女性武者を代表する存在として広く知られるのは、「巴御前」である。一方で、同時代の公式史料に実名で登場する女性武将としての「板額御前」がいる。にもかかわらず、後世の伝承や大衆的記憶においては、板額御前の史実的エピソードと類似する要素が、巴御前の後日談として語られる傾向が認められる[要出典]。
① 史実は「無名」でも、物語は「有名」になる
板額御前は、鎌倉幕府の公式記録である 吾妻鏡 に実名で登場する人物であり、史実性はきわめて高い。しかし『吾妻鏡』の記述は簡潔かつ事務的であり、人物像を印象づける描写はほとんど見られない[57]。
これに対し、巴御前は「平家物語」において、美貌と武勇を兼ね備えた女武者として強烈に描かれ、語り物・講談・演劇などを通じて広く流布した[58]。
この結果、「社会的に知られる名前」は巴御前であったという状況が生まれ、史実を語る際に、人々が既知の人物像へ物語を寄せていくという現象が起こったと考えられる。
② 板額御前の史実は「物語として完成度が高すぎた」
板額御前の史実には、以下の要素が含まれる。
- 女性でありながら戦場の最前線で戦う
- 敗北し、捕縛される
- 将軍の前に引き出される
- 命を救われ、有力武将に嫁ぐ
これらは、軍記物語における典型的な英雄譚の構造とほぼ完全に一致する。
しかし、この完成度の高さにもかかわらず、板額御前の物語は記録史料にのみ留まり、物語化されなかった。この点に、後世の伝承形成における重要な断絶が存在する。
③ 『吾妻鏡』は「物語を生産しない史料」であった
『吾妻鏡』は、
- 幕府による公式記録であること
- 政治的正統性を重視すること
- 女性の感情・心理・美的評価をほとんど記さないこと
といった特徴を持つ。そのため、人物像を膨らませるために必要な、感情的・象徴的な「余白」が極端に少ない。一方、『平家物語』は[59]、
- 人物を象徴化し
- 感情や悲哀を強調し
- 後日談を自由に付加できる
という性格を持つ。結果として、史実は『吾妻鏡』に封じ込められ、物語は『平家物語』の枠組みに流入するという分業構造が生じたと考えられる。
④ 巴御前には決定的な「物語の空白」が存在した
『平家物語』において巴御前は、木曾義仲の最期の場面で鮮烈に描かれるが、その後の人生については語られない。この「空白」は、後世の語り手にとって極めて大きな想像の余地を提供した。そこに[60]、
- 捕縛
- 将軍への出頭
- 命の助命
- 有力武将への婚姻
といった展開が付加されることは、物語構造上きわめて自然である。このとき、
現実に存在した板額御前の史実と類似する展開が、巴御前の後日談として流入した可能性が高い。
⑤ 「女武者」という希少性が統合を促した
中世史料において、実名で確認できる女性武将はきわめて少ない。その中で、
- 板額御前(史実)
- 巴御前(物語)
は、ほぼ唯一の代表的存在であった。この希少性ゆえに、後世の理解においては、「女武者といえば巴御前」「しかし実話のような話も存在する」という認識が生まれ、実在のエピソードが、知名度の高い人物像へ集約されるという現象が生じたと考えられる。[要出典]
⑥ 構造的整理――史実と物語の非対称性
両者を対比すると、以下の構造が明確になる。
•板額御前
→ 実在する
→ 記録は存在する
→ しかし知名度は低い
•巴御前
→ 物語上の人物
→ 知名度は高い
→ しかし史実性は弱い
この非対称性のもとで、
史実は、より語りやすい物語へと仮託されるという中世史特有の伝承メカニズムが働いたと理解できる。
以上を踏まえると、板額御前の史実は、記録としては『吾妻鏡』に留まり、物語としては、より有名で語りやすい巴御前の人物像に仮託された可能性が高い。
補足:板額御前が物語化されにくかった要因
- 越後という地方性
- 平氏方という政治的立場
- 幕府公式記録に登場したがゆえの記述統制
これらが重なり、物語世界において自由に脚色されにくかったという側面も看過できない。
板額御前の存在を「奪われたもの」として捉えるものではない。むしろ、板額御前という実在の女武将が存在したからこそ、巴御前という女武者像が、強い現実味をもって語られ得たという、相補的関係として理解されるべきである。
画像集
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賀茂春日神社( JR春日居町駅近く、板額御前の弓・薙刀・小刀が伝わる)
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板額塚、全体像(笛吹市境川町石橋2438、板額坂交差点)
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口碑板額塚(板額御前の娘の塚で、本人の墓は上向山地区にある説有)
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板額の帯石(板額御前が安産祈願に藤垈瀬立不動に参る途次、立止まった)
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瀬立又は芹沢不動と藤垈の滝(新羅三郎義光公開基)
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藤垈の滝公園案内図(板額御前の地元、新潟県中条町からのミズバショウ)
脚注
注釈
出典
- ^ 高橋永行 2003, p. 84.
- ^ 高橋永行 2003, p. 83.
- ^ a b 高橋永行 2003, p. 81.
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- 石井進『中世武士団』(岩波書店)
- 服藤早苗『中世女性の社会史』
- 五味文彦『吾妻鏡の方法』
- 水原一『平家物語の女たち』(笠間書院)
- 市古貞次『軍記物語論』(岩波書店)
- 小林保治『平家物語研究序説』
関連作品
- 小説
- 島政大『女武将 板額』アメージング出版、2020年。 ISBN 4434274694。
関連項目
外部リンク
- 「越後が生んだ弓の名手 板額御前」 - 新潟県公式サイト地域づくりのページ
- 「板額御前」 - Facebook板額会のページ
- 「地域連帯 歴史で町おこし」 - 板額会に関するYomiuri Onlineの記事
- 「胎内市/胎内市の誇る勇婦~板額御前~」 - 胎内市 のページ
- 弓の名手の女武将 板額御前 無料公開ふるさとの偉人マンガ「板額御前物語」 発行 新潟県胎内市教育委員会 2023年3月
- 板額『大日本女性人名辞書 訂』 高群逸枝 厚生閣 昭和17
- 板額御前のページへのリンク