り‐し【李斯】
李斯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/27 09:36 UTC 版)
李斯(り し、拼音:Lǐ Sī、? - 紀元前208年)は、中国戦国時代末期の秦から秦朝にかけての政治家・文学家・書法家。字は通古が確認できる[1][2]。楚の上蔡の人。李由の父。
秦王政(後の始皇帝)に仕え、秦の天下統一に貢献し、統一後は丞相(宰相)に任命されるなど位人臣を極めた。韓非と共に法家の代表的人物とされ、法治体制の構築、文字・度量衡の統一、焚書などを行い、中国史上初の中央集権国家の成立に貢献したが、始皇帝の死後に趙高との権力争いに敗れ、処刑された。
生涯
李斯溷鼠
若い頃は楚の北部に位置する上蔡で小役人を務めていた。あるとき李斯は役所の便所にいる鼠を見ると、汚れたものを食べ、人や犬に怯えていたが、一方で穀倉の鼠は穀物を食べ、屋根の下に住み、人や犬に怯えることはなかった。李斯は鼠がまったく異なる境遇にあるのを見て、「人の賢不肖とは鼠と同じで、どこに身を置くかによって決まる[3]」と嘆息した。そして李斯は荀子に師事し帝王之術を修めたが、楚の考烈王は仕えるに値せず、また六国はいずれも衰弱して功を立てる見込みがないと判断し、秦に赴く決意をした。李斯は荀子に別れを告げ、次のように述べた。
「時を得たならば怠ってはならないのです。今は万乗の諸侯が天下を争っており、遊説の士こそが大事を成し得る時です。今まさに秦王は天下を併呑しようとしています。これは平民の身であっても志を立てるべき時、遊説の士にとっての実りの秋です。卑賤に甘んじ、何もせぬのは禽獣です。世を誹って利を厭い、無為に託すのは士の本心ではなく、ただ力がないからに過ぎないのです。ゆえに私は西に行き、秦王に説こうと思います」
秦の謀臣
荘襄王3年(紀元前247年)、李斯が秦に到着した時、ちょうど秦の荘襄王が逝去した。まず李斯は相国の呂不韋の食客となることを望むと、呂不韋は李斯を賢人と認め、郎に任じた。
李斯は秦王政に対し、「今こそ天下を統一する万世に一度の好機であり、怠れば諸侯は再び強盛となり、連合を結ばれてしまえば黄帝でも天下統一は不可能となる」と説いた。秦王政はこれを聞き入れて李斯を長史に任じ、謀臣として用いた。李斯の計策を受け、秦は密かに諸国に使者を遣わして有力者を賄賂で懐柔し、賄賂に応じない者は殺害するなどして諸侯の君臣の関係を離間させた。李斯は功績が認められ、客卿(外国出身の高官)の地位を授けられた。
諫阻逐客
始皇10年(紀元前237年)、水工の鄭国の正体が韓の工作員であることが発覚すると、秦の宗室や大臣たちは「諸侯の人々が秦に仕えに来るのは、多くの場合その主君のために遊説や間諜を行っているのであり、ゆえに全ての客卿を追放すべきである」と秦王政に言上した。実施された追放令(逐客令)の対象には李斯も含まれていたため、撤回を求めて上書を行った。この『諫逐客書』は実に理路整然とした名文で、後世の『文選』にも収録されている。秦王政はついに逐客令を取り消し、李斯は官職に復帰した[4]。その後も李斯は重用され、統一事業においては国尉の尉繚と事に当たり、官位は廷尉(最高位の司法官)に至った。
韓非謀殺
始皇14年(紀元前233年)、かつて共に荀子から学んだ同門である韓非の著書(『韓非子』孤憤篇、五蠹篇)が秦に伝わると、これを読んだ秦王政は感嘆し、「この著者と親しくできるのなら死んでも悔いはない」と言うほどに傾倒する。李斯は書の著者が韓の公子の韓非であることを教えると、すぐさま秦王政は韓非を得るために韓への攻撃を命じ、危急に迫られた韓は韓非を使者として秦に遣わした。秦王政は韓非を気に入っていたがまだ信任はしておらず、いずれ登用されれば自分の地位が危うくなると考えた李斯は姚賈と共謀し、「韓非は秦のためではなく韓のために尽くします。長く留めておいて帰せば、自ら禍根を残すことになり、法を逸脱してでも処刑すべきです」と秦王政に讒訴した。秦王政はこれを正しいと認め、韓非が雲陽の獄に繋がれると、李斯は人を遣って毒薬を送り、韓非が自殺するよう仕向けた。秦王政は後になって後悔し、韓非の赦免を命じたが、韓非は既に亡くなっていた。
こうして競争相手を抹殺した李斯はその後も謀首として活躍し、10数年かけて六国を滅ぼした秦は紀元前221年に中国を統一した。
秦朝における李斯
皇帝
始皇26年(紀元前221年)、秦王政はこれまでの「王」の称号を刷新する審議を李斯、丞相の王綰、御史大夫の馮劫らに命じた。李斯らは秦王を「泰皇」とし、その命(政治的・制度的な命令)を「制」とし、令(日常的・個別的な命令)を「詔」とし、天子の自称を「朕」とするよう上奏した。秦王政は泰皇を「皇帝」と改めた以外は他全ての意見を取り入れ、始皇帝と号した。
郡県制
王綰らは燕・斉・楚が遠隔地であることを理由に、周の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地の王として封じるようにと進言した。これに群臣は賛同したが、李斯は強硬に反対し、「周は多くの子弟を封じたが、諸侯間の血縁関係が疎遠になると仇敵のように互いに争い、王はこれを止めることができなかった。天下に異心がなければこれこそ安寧である」と述べ、一層強い集権的統治である郡県制への移行を説き、始皇帝も「再び国を立てることは戦乱の種を植えることである」として李斯の案を採用し、秦の国土を36郡とした。この決定により、中国史上初の本格的な中央集権国家としての郡県制が確立され、その後2000年にわたって中華帝国の統治形態の原型となった。
文字の統一
始皇帝は李斯の「書同文字」の建議を受け、各諸侯国に残る古代文字の使用を禁止し、一律に秦の篆書体を統一書体とすることを命じた。李斯は始皇帝の命を奉じ、大篆を簡略化させて標準字体となる小篆を創始した。統一文字を普及させるため、李斯は手ずから学習書として『蒼頡篇』を作り、人々に行き渡らせた。
その他の業績
法令の改革と制定をはじめ、単位系・度量衡・車軌(車輪の幅)・の統一、税収・行政の効率化などを推し進め、他に国内各地に離宮や別館の建設、道路網(馳道)の整備、始皇帝の天下巡狩、四夷への対外政策などに大きく関与した。
紀元前219年から紀元前210年までの間、始皇帝は数度の巡遊を行い、国内6ヶ所に7基の顕彰碑『始皇七刻石』を建てた。皇帝の功徳と絶対性を讃えた碑文の内容は李斯が撰文し、字も李斯の筆によるものと伝わる。現存しているものは極めて少ないが、史料および考証などから紀元前219年に建碑された『瑯琊台刻石』には、王離・王賁・隗状らと共に「卿李斯」として名が列せられていたことが確認できる。また、後に李斯は丞相に任命された。
焚書
始皇34年(紀元前213年)、咸陽での宴において、博士の淳于越が始皇帝に「古の王朝は子弟や功臣を封じて支えとした。天下を統一しても皇帝の子弟は無位無官、もし反乱が起きれば防ぐ手立てがなく、何事も古の法を手本としなければ長くは続かない」と封建制を再び導入するよう諫言し、始皇帝は群臣に下して議論させた。李斯は「今や天下は定まり、時代が変われば統治法も変わるというのに愚かな儒者どもにそれが理解できるはずもない」として淳于越の提言を退けると、「諸生たちは古に学んで秦朝を非難し、虚言を飾って民衆を惑わせている。古代を引き合いに出して当代を害する学説や私学は皇帝の権威を軽んじるものであり、それらは主君を誹ることを名誉とし、異説を高尚とし、下々を扇動して誹謗を生じさせている。ゆえに諸子百家の著作や『詩経』、『書経』を禁じ、秦の歴史書である『秦記』と医薬・卜筮・農業以外の書は廃棄させるべき」とする「挟書律」を建議した。始皇帝は李斯の議を裁可し、大規模な思想弾圧を実施して大量の書を没収して焼却させた(焚書)。これによって多くの書の原典が失われたと考えられており、現存する一部の史料は、壁の中に隠す(壁中書)・口伝・暗記・秘蔵するなどして逃れたものである。
始皇35年(紀元前212年)、方士の盧生と侯生が始皇帝の人格と為政を批判して逃亡し、激怒した始皇帝は咸陽の方士や儒者など諸生を全て取り調べさせ、結果、法を犯したと判断された460人余りが坑殺された(坑儒)。なお、この件に関しては李斯がどこまで関与していたのかは定かではない。また、始皇帝の長子の扶蘇がこの所業を諌めたが、それが始皇帝の怒りを買い、上郡で北方防衛を担う将軍蒙恬の監督役に左遷された。
物禁大盛
李斯の長男・李由は三川郡の郡守を務め、李斯の息子たちは皆、秦の公主を娶り、娘たちは皆、秦の公子に嫁いでいた。李由が休暇で咸陽に戻った時、李斯は自宅で酒宴を開いた。文武百官は競って李斯に酒を献じて祝辞を述べ、門前に並んだ車馬は千乗にも及ぶほどの賑わいを見せた。
しかし、李斯は深く嘆息し、「かつて荀卿が『万物は盛んになりすぎることを禁ず』と言っていたことを思い出す。元々、私は上蔡の一介の布衣(平民)に過ぎず、村里に住む黔首(庶民)であった。皇帝は私の才の低さをご存じないばかりか、抜擢してこの地位に至らせてくださった。今では臣の中で私より高位の者はおらず、まさしく富貴の極みに達したと言えよう。だが、物事は極まれば必ず衰えるもの。我が行く末はどこに向かうのだろうか」と語った。
始皇帝崩御
始皇37年(紀元前210年)7月、始皇帝が巡幸の道中で崩御した。始皇帝はいよいよ死が差し迫った時に扶蘇に宛てて、「兵を蒙恬に帰属させ、咸陽で葬儀を執り行え」とする璽書を遺しており、これは始皇帝が扶蘇を後継に指名したと捉えられるものであった。当時、巡幸に随行していた公子の胡亥・李斯・趙高・5、6人の宦官のみが始皇帝が亡くなったことを共有しており、李斯は正式な皇太子も定まっていない状況で始皇帝の崩御を公表することは混乱を招くと考え、事態を秘密裏にした。しかし、遺詔を管理していた趙高は権力を握るため、暗愚な胡亥を二世皇帝に即位させようと陰謀を巡らし、胡亥を唆すことに成功すると、次に陰謀を成就させるために絶大な権力者である李斯の説得に取り掛かった。
趙高は李斯に対し、「詔書はまだ発せられておらず、崩御を知る者はおりません。長子に賜わる書簡と符璽は手元にあります。太子を誰にするかは、君侯(李斯)と私次第なのです。事をどうなさいますか」と投げかけると、李斯は「それは亡国の言葉だ。人臣が議論すべきことではない」と非難した。続いて趙高は「ご自身は蒙恬と比べてどちらが能力で優れていますか? 功績は? 謀略の深さと誤りの少なさは? 天下の怨みがないのは? 扶蘇からの信頼は?」と蒙恬を引き合いに出すと、李斯は「五つの点すべてにおいて私は蒙恬には及ばない。しかし、なぜそこまで厳しく責めるのだ?」と言った。
趙高は、秦において罷免された丞相や功臣で二代に至るまで封爵を保った者は一人もおらず、ことごとく誅殺された事例を持ち出し、扶蘇が即位すれば必ず蒙恬を丞相とするため、李斯もまた罷免されて絶望的な末路を辿ることになると忠告した。李斯は「皇帝は私を丞相に任命し、通侯(列侯)に封じてくださった。子孫までもが高位と厚禄を得ている。国家の存亡安危を託されているのにどうして背けようか。私は忠を尽くして死を避けない者でありたい。どうかこれ以上言うな」と拒絶したが、なおも趙高の弁舌は止まず、最終的に「今、従わなければ禍いは子孫にまで及び、心胆寒くさせるに足ります。優れた者は禍いを転じて福と為します。どちらの道を選ばれますか?」という言葉に、精神的に追い詰められた李斯はとうとう折れた。李斯は天を仰いで嘆き、涙を流して息をつくと、「ああ、乱世に独り生き永らえ、死ぬこともできず、一体どこに我が命を託せばよいというのか」と言い、趙高の陰謀に加担することを承諾した。李斯は保身と一族の安寧のために忠節と道義に反したのである。
李斯と趙高は胡亥を太子に立てると、始皇帝の遺詔を偽造し、扶蘇と蒙恬に賜死を命じた。扶蘇と蒙恬が自害したという報告を聞いた李斯・胡亥・趙高の3人は大いに喜んだ。咸陽に到着すると、始皇帝の崩御を公表し、喪礼を行い、胡亥が二世皇帝として即位した。趙高は郎中令に任じられ、常に宮中に侍り政務を執った。李斯は引き続き丞相に任じられ、地位を保持した。
政争と没落、刑死
恐怖政治
趙高は諸公子や大臣たちが先の沙丘の変について疑いを抱いており、新政権転覆に繋がる恐れがあると考えた。そこで胡亥と謀議し、刑法を改悪して先帝の旧臣や皇室の公子・公主たちに冤罪を作っては連座制によって一族ごと処刑し、権力の一元化を図った。これに李斯は諫言することはせず、他の群臣と共に保身に走った。その後も胡亥と趙高による暴政は悪化の一途をたどり、法律や刑罰は日増しに苛酷になり、重税や徭役も重なって民の叛心は極限まで達していた。
阿諛追従
二世元年(紀元前209年)7月、ついに陳勝と呉広が挙兵し、秦に対する反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。これに旧六国の実力者たちが次々と呼応し、反乱軍は西進して関中の鴻門まで迫ったが章邯がこれを打ち破った。
李斯はたびたび胡亥を諌めようとしたが、胡亥は李斯の息子である李由が三川郡守でありながら反乱軍の西進を阻止できなかったことを責め、李斯に対しても厳しく詰問した。立場を危うくした李斯は保身のために胡亥に媚びへつらい、『行督責書』を上奏した。これは「名君とは厳格な法令と徹底した督責によって国家を統治するものである」と説いており、胡亥の意に迎合し、君主の絶対的権力と享楽を正当化する法家思想の極端な理論化を試みたものである。この上奏文を胡亥は大いに気に入り、税を苛烈に取り立てる者を明察な官吏と評価し、多くの人を処刑した者を忠臣と称えた。その結果、刑罰を受ける者が相次ぎ、市では死体が日々積み重なっていった。
投獄される
李斯が胡亥によって投獄される経緯は『史記』の篇によって異なる。以下は李斯列伝に基づく。
趙高は政敵の反撃を恐れ、自らが政務を全て決裁するべく、皇帝の威厳を保つためという名目で胡亥を丸め込んで常に宮中に籠もらせた。胡亥は享楽に耽って朝議にも出ないようになり、その仲介役の趙高の傀儡に成り果てた。さらに趙高は権力を一手に握るため李斯の排除を目論み、わざと胡亥が酒宴を楽しんでいる時だけ李斯が諫言するように仕向けた。趙高の思惑通り、胡亥は暇な平素の時には来ずに遊びに興じてる時に来るのは李斯が自分を軽んじているからだと激怒し、趙高はこの機に乗じ、李斯に謀反の兆候があることを偽って吹き込み、李由は職務を放棄して反乱軍を素通りさせたと誣告した。李斯は趙高の陰謀を見抜き、趙高が権力を専断し国家の危機を招いてることを上書して説明したが、胡亥は趙高が忠信で清廉な人物であると信じ込んでおり、むしろ李斯が趙高を陥れようとしているのではないかと疑い、趙高との密議の結果、李斯を投獄することを決定した。
以下は秦始皇本紀に基づく。
当時、反乱軍は日々増え続けており、朝廷は関中の兵士を絶え間なく徴発し反乱鎮圧に送り出していた。左丞相の李斯は右丞相の馮去疾と将軍の馮劫と共に胡亥に上書し、反乱の原因は苛酷な重税と賦役にあると指摘して阿房宮造営の中止と辺境の軍役・労役の軽減を請願した。しかし胡亥は「賊徒の蜂起を抑えられない上に先帝の政策を止めようとする。そんな者がどうして今の地位にあることができるのか」と糾弾し、3人は罷免されて投獄され、余罪を追及された。馮去疾と馮劫は「将相は辱められず」と述べて自殺した。
拷問による自白と最期
獄中で李斯は天を仰いで悲嘆し、胡亥は趙高のような奸臣を重用する無道な暗君であると訴え、胡亥が覚醒しなければいずれ反乱軍が咸陽に攻め入り、秦は滅亡すると予見した。
胡亥は趙高に命じて李斯親子の件を徹底追及させ、その一族や関係者を全て逮捕した。李斯は千回以上の鞭打ちによる凄惨な拷問に耐え切れず、ついに趙高が捏造した謀反の容疑を認めた。李斯はなおも一縷の望みを抱き、自らの文筆の才と功績を頼りに、獄中から上書して、自分が秦に仕えて打ち立てた7つの功績を罪状として挙げた。即ち、六国併合や度量衡・文字の統一など始皇帝の代の功績を並べ、そんな功績を立てた自分は死に値する者だとする修辞技法によって、いかに自分が秦に貢献したかを逆説的に想起させることで胡亥の心が変わることを期待したのである。しかし、李斯の頼みの上奏文は趙高によって葬られ、李斯が無実を訴えるたびに役人に偽らせた自分の食客に拷問を加えさせたため、胡亥が直接使者を遣わして確認させた時には、李斯はもはや自白を撤回しようとはしなかった。趙高が判決書を胡亥に上呈すると、胡亥は「趙君がいなければ丞相に騙されるところだった」と歓喜した。当時、李由は糾問の使者が到着する前に反乱軍との戦いで戦死していたが、趙高はついでに李由が謀反に加担したという罪状の筋書きを一通りでっち上げた。
二世二年(紀元前208年)7月、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)され、遂にその生涯を終えた。李斯の一族は三族に至るまで皆殺しにされた。李斯は処刑される直前、並んで刑場に引っ立てられた息子の一人に対して「かつてお前と黄犬(猟犬)を連れ、(故郷の)上蔡の東門を出て兎狩りによく出かけたものだが、もうそれもできなくなってしまったなあ」と述べたという。
死後
李斯の死後、胡亥は趙高を中丞相に任じた。二世3年(紀元前207年)8月、いよいよ秦の滅亡が迫ると趙高は謀反して胡亥を弑逆し、全ての責任を胡亥に押しつけようとした(望夷宮の変)。同年9月、秦王に即位した子嬰によって趙高は殺害された。翌年に子嬰が劉邦に降伏し、項羽に処刑されたことで秦は滅亡した。
評価
李斯は法家理論の完成者の韓非に対して、法家政治の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者の弾圧や古代中国文化に甚大な損害を与えた焚書に深く関わったため、後世の評判は悪いが、秦の中国統一において大きな役割を果たしていた。李斯はその生涯の晩年に至り、法家思想を極端化させてしまったため法家体系に帰属させるべきか否かは議論の余地があるが、結局のところ法家思想を最も完全に実行した人物の筆頭であったことに疑いの余地はないとされる。
『史記』蕭相国世家において、前漢王朝成立後、皇帝劉邦は「李斯が秦の皇帝に仕えていた時、善い事は君主に帰し、悪い事を君主に代わって自らが引き受けたと聞いている」と、前王朝の中心人物であったにもかかわらず高い評価を下している。
司馬遷は『史記』李斯列伝の末尾において、「李斯は里巷(平民)の出身から諸侯を歴訪し、秦に仕官して始皇帝を補佐し、ついに帝業を成就させた。李斯は三公の位に至り、その重用ぶりは誠に尊ぶべきものであった」と称賛しつつも、「李斯は『六芸』の真髄を理解しながらも、政治を明らかにして君主の欠点を補うことに努めず、爵位と俸禄の重みに固執し、へつらって迎合し、厳しい威圧と残酷な刑罰を推進し、趙高の邪説に従い、扶蘇を廃して胡亥を立てた。諸侯が既に反乱を起こしてから、ようやく諫め争おうとしたのは、あまりにも手遅れではないか。世間の人々は皆、李斯は忠義の極致に生きながら五刑に処されて死んだと言っているが、その本質を考察すれば、世間一般の評判とは異なる。もしそうでなければ、李斯の功績は周公旦や召公奭と並び称されたであろう」と評している。史料の記述や司馬遷の見解から読解するに前漢期における李斯の評判は決して悪いものではなく、むしろ君主の不明によって処刑された悲劇的な忠臣としての評価が一般的であったと考えられる。
著作
李斯の著作として、上記の『諫逐客書』や、碑文(始皇七刻石の一部)などが現存し、『全上古三代秦漢三国六朝文』にまとめられている[5]。他にも数多くの散文が記録されているが、現存するものは四篇である。
『漢書』芸文志によれば、秦臣の文をまとめた『奏事』という書物が漢代にあり、李斯の文も含まれていたと考えられるが、『奏事』は現存しない[5]。
蒼頡にちなんだ『蒼頡』という辞書を統一後に作ったと伝えられる[6]。『蒼頡』は現存しないが、後世の『蒼頡篇』のもとになったとされる[6]。『蒼頡篇』は長らく散佚していたが、20世紀に敦煌漢簡や居延漢簡で再発見された[7]。
新出文献との関係
21世紀に発見された竹簡文書『趙正書』では、胡亥が後継者に指名された経緯が『史記』とは異なっている。それによると、丞相の李斯と御史[8]の馮去疾が胡亥を後継者とするように進言し、始皇帝が裁可したという。
脚注
- ^ 中田勇次郎が引用する明代の『書史会要』巻一によると、「李斯字通古楚上蔡人始皇丞相也…」と述べている。
- ^ ただし、この字は『史記』には記載されておらず、元代の『法書考』巻一、上記の『書史会要』巻一で記されているため、懐疑する史家も多いとされている。李斯 (中文Wikipedia注釈)
- ^ 人の成功も不成功も、環境によるという意味の故事成語「李斯溷鼠(りしこんそ)」の語源である。「溷」は便所。
- ^ 『新序』によると李斯は追放の道中で上書を奉り、驪に居たところ、帰還の赦しがもたされたという。
- ^ a b 鶴間 2023, p. 34ff.
- ^ a b 鶴間 2023, p. 114f.
- ^ “『蒼頡篇』について | 中国出土文献研究会”. www.shutudo.org. 2023年10月28日閲覧。
- ^ 『史記』の「始皇本紀」によると、馮去疾は右丞相となっている。
参考文献
- 司馬遷『史記』李斯列伝、老子韓非列伝、蒙恬列伝、秦始皇本紀
- 鶴間和幸『人間・始皇帝』、岩波新書、2015年 ISBN 978-4-00-431563-6
- 鶴間和幸『始皇帝の愛読書 帝王を支えた書物の変遷』山川出版社、2023年。ISBN 9784634152168。
- 宮崎市定「史記李斯列傳を讀む」『東洋史研究』第35巻第4号、東洋史研究會、1977年3月、593-624頁、 CRID 1390853649764204288、doi:10.14989/153645、 hdl:2433/153645、 ISSN 0386-9059、 NAID 40002659606。
李斯(り し)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 00:42 UTC 版)
「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「李斯(り し)」の解説
楚で荀子の門下生として学んでいた。荀卿からは野心家と評される。春申君の弔問団に韓非と共に同行する。その後、出世の見込みのない楚を見限り、呂不韋の食客となり、その後、嬴政に重用される。魏王と信陵君、趙王と廉頗の関係を悪化させる策を放つ。
※この「李斯(り し)」の解説は、「達人伝-9万里を風に乗り-」の解説の一部です。
「李斯(り し)」を含む「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事については、「達人伝-9万里を風に乗り-」の概要を参照ください。
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