り‐せいみん【李世民】
太宗 (唐)
(李世民 から転送)
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| 太宗 李世民 | |
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| 唐 | |
| 第2代皇帝(天可汗) | |
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唐太宗李世民(台北国立故宮博物院所蔵)
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| 王朝 | 唐 |
| 在位期間 | 武徳9年8月9日 - 貞観23年5月26日[1] (626年9月4日 - 649年7月10日) |
| 都城 | 長安 |
| 姓・諱 | 世民 |
| 諡号 | 文皇帝 文武聖皇帝 文武大聖皇帝 文武大聖大広孝皇帝 |
| 廟号 | 太宗 |
| 生年 | 開皇17年12月16日 (598年1月28日) |
| 没年 | 貞観23年5月26日 (649年7月10日) |
| 父 | 高祖李淵 |
| 母 | 太穆皇后竇氏 |
| 后妃 | 長孫皇后 |
| 陵墓 | 昭陵 |
| 年号 | 貞観 : 627年 - 649年 |
| 子 | 長男李承乾、四男李泰、八男李貞、九男高宗 |
太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。諱は世民(せいみん)。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた[2]。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる[3]。
生涯
若年期の経歴
開皇18年12月戊午(598年1月28日)、武功別館にて誕生する[4]。4歳の頃、李淵を訪れたある書生がこの子を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」と言った。そのため世民という諱がついたという[5]。太宗(李世民)は幼少より聡明で賢く、深遠な見識をお持ちであり、機に臨んで果断に対処され、細事に拘らぬお人柄であられた。その深遠さは、当時の人々には到底測り知れぬものであった[6]。
大業末、煬帝が雁門で突厥に包囲された際、太宗(李世民)は救援に応募し、屯衛将軍・雲定興の配下に加わった。出発に際し、太宗は定興にこう進言した。「旗鼓を携え、疑兵を張るべきです。そもそも始畢可汗が国中の軍勢を挙げて天子を包囲するのは、我が国に迅速な援軍がないと考えているからです。ここで軍容を盛大に見せ、数十里に渡って旗幟を連ね、夜には征鼓を鳴らして呼応すれば、敵は救援軍が雲霞の如く集まったと思い、塵煙を見るや撤退するでしょう。そうでなければ、彼らが衆で我々が寡では、全軍で攻め寄せられた時、到底持ちこたえることはできまい」。定興はこれに従った。軍が崞県に駐屯すると、突厥の偵察騎兵が急ぎ始畢可汗に「隋の大軍が到着した」と報せた。これにより、突厥は包囲を解いて撤退した[7]。
高祖(李淵)が太原を守備していた時、太宗(李世民)は十八歳であった。高陽の賊将・魏刀児(自ら歴山飛と号す)が太原を攻め来ると、高祖は出撃したが、深く賊陣に突入して囲まれてしまった。そこで太宗は軽騎兵を率いて包囲を破り、敵陣に斬り込み、弓を射て進むところ、向かうところ全て敵は崩れ去り、ついに万の敵中から高祖を救い出した。折しも味方の歩兵が到着したため、高祖と太宗は共に奮戦して賊軍を大破した[8]。
晋陽起兵
時に隋の国運既に尽き、太宗はひそかに挙兵の計画を巡らせていた。常に自らの身分を低くして士に接し、財を推して食客を養ったため、侠客や豪傑らはこぞってそのために死力を尽くそうと願った。義兵が起こると、すぐに兵を率いて西河地方を攻略・平定し、これを制圧した。これにより右領大都督に任じられ、右三軍ことごとくその指揮下に属し、敦煌郡公に封ぜられた[9]。
大軍が西進して賈胡堡に至ると、隋の将・宋老生が精兵二万を率いて霍邑に屯営し、義軍を防がんとした。折しも長雨が続き兵糧が尽きたため、高祖は裴寂と協議し、ひとまず太原に退き、再挙を図ろうとした。これに対し太宗は言下に諫めた。「そもそも大義を起こしたのは蒼生を救うためであり、まず咸陽に入って天下に号令すべきです。小さな敵に遭っただけで軍を返せば、義に従う者たちが一朝にして離散する恐れがあります。太原の一城に退いて守れば、それは単なる賊徒に過ぎず、どうして自らを全うできましょうか」。高祖は聞き入れず、急いで出発を命じた。太宗は外で声を挙げて泣き、その声は幕舎の中にまで響いた。高祖が呼び出して理由を問うと、彼は答えて言った。「今、兵は義のために動いています。進んで戦えば必ず勝ち、退却すれば必ず散りましょう。味方が前で散れば、敵は後から攻め寄せ、死は瞬く間に迫ります。それゆえ悲しんでいるのです」。高祖はようやく悟り、退却を中止した[10]。
八月己卯の日、雨が上がり、高祖は軍を率いて霍邑へ進軍した。太宗は宋老生が戦いを避けて出て来ないことを懸念し、数騎を従えて城下に駆けつけ、鞭を上げて指揮を執る仕草を見せ、あたかも城を包囲せんとするように振る舞い、敵の怒りを誘った。果たして老生は怒って城門を開き、軍勢を出して城壁を背に陣を敷いた。高祖と李建成は城東で陣を合わせ、太宗と柴紹は城南に布陣した。老生は軍を指揮して迅速に進撃し、まず高祖の陣に迫った。その際、建成が落馬したため、老生はこの隙に乗じ、高祖と建成の軍はともに退却を余儀なくされた。この時、太宗は南の高台からわずか二騎を率い、険しい坂を駆け下り、敵軍を分断する勢いで突撃。兵を率いて奮戦した結果、賊軍は大敗し、武器を捨てて潰走した。城の懸門が閉じられようとした瞬間、老生は縄にすがって登らんとしたが、ついに斬り捨てられ、霍邑は平定された[11]。
河東に至ると、関中の豪傑たちは争って義軍に馳せ参じた。太宗は進軍して関中に入り、永豊倉を占領して貧窮を救い、諸勢力を糾合して長安攻略の基盤とすべきと進言し、高祖はこれを良策と認めた。太宗は先鋒部隊を率いて黄河を渡り、まず渭水以北を平定した。三輔(京畿)の官吏・民衆や各地の有力者たちが軍門に赴き帰順を願う者は日に千を数え、老人を支え幼子を連れた人々が旗下に満ちた。太宗は俊才を登用して幕僚とし、遠近にこのことを聞いた者は、皆こぞって身を寄せようとした。軍は涇陽に駐屯し、精兵九万を擁して胡賊・劉鷂子を破り、その兵力をことごとく併合した[12]。
殷開山と劉弘基を長安の旧城に駐屯させると、太宗自らは司竹へ急行した。賊将の李仲文・何潘仁・向善志らが相次いで参集し、阿城に軍を駐留させたことで、兵十三万を擁するに至った。長安の父老が牛や酒を携えて軍門に赴く者は数え切れず、太宗は労をねぎらって帰したが、一切受け取らなかった。軍令は厳正で、秋毫も犯すところなく(民衆に一切の被害を与えなかった)。まもなく主力軍と合流して長安を平定した。高祖が政務を執ることになると、太宗は唐国内史に任ぜられ、秦国公に改封された。時に薛挙が精兵十万を率いて渭水の岸辺に迫ると、太宗は自ら出撃してこれを大破し、万余りを追討して斬り、攻略地を隴坻まで広げた[13]。
義寧元年(617年)十二月、太宗は再び右元帥に任じられ、十万の兵を総指揮し東都を攻略した。帰還の際、側近に「賊(隋軍)は我が軍の撤退を見れば、必ず追撃して来るだろう」と述べ、三箇所に伏兵を配置して待ち受けた。間もなく隋将・段達が万余りの兵を率いて背後から追撃し、三王陵に差し掛かったところで伏兵が一斉に攻撃を加え、段達軍は大敗した。敗走する敵を城下まで追撃した後、これにより宜陽・新安に熊州と谷州の二州を設置して守備を固め、帰還した。この功績により、太宗は趙国公に改封された[14]。
高祖が禅譲を受けて即位すると、太宗は尚書令・右武候大将軍に任ぜられ、秦王に進封され、さらに雍州牧を授けられた[15]。
薛仁杲の討滅
武徳元年(618年)七月、薛举が涇州に侵攻すると、太宗は軍を率いて討伐に向かったが、戦果を挙げられず撤退した。同年九月、薛举が死去し、その子の仁杲が後を継いだ。太宗は再び元帥として仁杲を討ち、折墌城で対峙すること六十余日に及んだ。敵軍十余万は兵勢鋭く、幾度も挑戦を仕掛けてきたが、太宗は甲冑を据えて堅守し、その気勢を挫いた。敵軍の兵糧が尽きると、配下の将軍である牟君才と梁胡郎が投降してきた。太宗は諸将に「敵の士気は衰えた。今こそ討つべき時である」と告げ、龐玉将軍に浅水原の南に陣を布かせて敵をおびき寄せた。敵将の宗羅睺が全軍を挙げて迎撃したため、龐玉の軍は危うく敗北するところであった[16]。
やがて太宗自らが本軍を率い、突然、浅水原の北から現れて敵の不意を衝いた。宗羅睺はこれを見ると、再び軍を返して迎え撃った。太宗は数十騎の精鋭騎兵を率いて敵陣に突入すると、これに呼応するように唐軍が内外から奮戦し、宗羅暦の軍は大混乱に陥った。数千の首級を斬り、谷間に投げ落として死んだ者は数え切れなかった。太宗は二十騎余りの側近を率いて敗走する敵を追撃し、一路、折墌城へ向かいその勢いに乗じた。仁杲は大いに恐れ、城に籠って守りを固めた。夕暮れまでに本軍が到着して四面を包囲すると、翌朝、仁杲は降伏を申し出た。ここにその精兵一万余人、男女五万人を捕虜とした[17]。
やがて諸将が祝賀を述べた際、次のように尋ねた。「当初、大王は野戦で賊軍を破られましたが、その主君(仁杲)はなお堅城に拠っておられました。大王は攻城兵器もなく、軽騎兵のみを駆って歩兵を待たず、ただちに城下に迫られました。我々は勝利を疑いましたが、結局は城を落とされました。どうしてでしょうか。」太宗は答えた。「これこそ権謀(臨機の計略)をもって敵を圧迫し、その策戦の暇を与えなかったゆえに勝利したのである。宗羅睺は以前の勝利に驕り、かつ長期にわたり鋭気を養っていた。我が軍が出撃しないのを見て、我々を軽んじる思いであった。今、我が出撃したことを喜び、全軍で戦いに来た。これを打ち破ったとはいえ、捕虜や斬首はさほど多くはない。もし急追しなければ、敵は城に逃げ戻り、仁杲がこれを収容して慰撫すれば、もはや攻略は困難となったであろう。さらに、その兵士はみな隴西の出身である。一度敗走すれば後も顧みず、散り散りに隴外(隴山の外)へ帰ってしまう。そうなれば折墌城は自然に空虚となり、我が軍がこれに追い迫れば、恐れて降伏するのは当然である。これは事前の計算どおりの結果であった。諸卿はこれがおわかりにならなかったのか。」諸将は「これは並々の人物の及ぶところではございません」と答えた[18]。
敗軍の精鋭騎兵を多数獲得すると、太宗は仁杲兄弟や賊将の宗羅睺・翟長孫らにその指揮を任せた。太宗は彼らと共に狩猟や騎射を行い、少しも隔てる所がなかった。賊兵たちは恩義に感じて畏服し、皆こぞって命を捧げんと願った。時に李密が唐に帰順したばかりであり、高祖は李密に驛伝で急行させ、豳州にて太宗を出迎えさせた。李密は太宗の天与の威容と軍律の厳正さを見て、震撼し嘆服し、殷開山にひそかに「真の英主である。これほどのお方でなければ、どうして天下の禍乱を平定できようか」と語った。凱旋後、太廟に戦勝を報告し、太宗は太尉・陝東道行台尚書令に任ぜられ、長春宮に駐屯して関東の兵馬を統轄した。まもなく左武候大将軍・涼州総管を兼任することとなった[19]。
劉武周の討滅
武徳二年(619年)十月、宋金剛が澮州を陥落させると、その軍勢は極めて鋭かった。高祖は、王行本がなお蒲州に拠り、呂崇茂が夏県で反旗を翻し、晋州・澮州の二州が相次いで陷没した状況を見て、関中が震撼していることから、親筆の勅書を下した。「賊の勢いこのようでは、正面から争うことは難しい。河东の地を捨て、関西を厳かに守るのみとせよ。」これに対して太宗は上表して述べた。「太原は王朝創業の基盤であり、国家の根本であります。河东は豊かで、都を支える資源の地です。もしこれを挙げて捨てるならば、臣はひそかに憤り遺憾に思います。ぜひ精兵三万をお貸しください。必ずや劉武周を平定討滅し、汾州・晋州を回復してみせます。」高祖はこれにより関中の兵をすべて動員して太宗に付し、さらに長春宮に赴いて自ら太宗を見送った[20]。
武徳二年(619年)十一月、太宗は軍を率いて龍門関へ急行し、氷を踏んで黄河を渡ると、柏壁に進軍して駐屯し、賊将・宋金剛と対峙した[21]。
まもなく永安王・李孝基が夏県で敗れ、于筠・独孤懐恩・唐儉らは賊将の尋相・尉遅敬徳に捕らえられ、澮州へ連行されようとした。太宗は殷開山と秦叔宝を美良川に派遣してこれを迎撃し、大破した。尋相らはかろうじて単身逃れたが、配下の兵はすべて捕虜となり、太宗軍は柏壁へ帰還した[22]。
ここに至り諸将はこぞって決戦を請うたが、太宗は言った。「金剛は孤軍を千里も懸け、深く我が地に侵入している。精兵や勇将はすべてここに集結している。劉武周は太原に拠り、ひたすら金剛を楯として頼みとしている。兵卒は多いが、内部は実質的に空虚であり、その意図は速戦決戦にある。我は堅固な陣営を築き鋭気を養ってその鋒先を挫けば、兵糧が尽きて策も窮まり、自ずから敗走するであろう」[23]。
武徳三年(620年)二月、宋金剛はついに兵糧尽きて敗走し、太宗はこれを追撃して介州まで至った。金剛は南北七里に及ぶ陣を敷き、官軍を迎え撃った。太宗は総管の李世勣・程咬金・秦叔宝にその北面を防がせ、翟長孫・秦武通に南面を担当させた。諸軍の戦況が一時後退すると、賊軍はこの隙に乗じて攻勢に転じた。ここにおいて太宗は精鋭騎兵を率いて突撃し、敵陣の背後を衝いたため、賊軍は大敗を喫し、数十里にわたって敗走する敵を追撃した[24]。
武徳三年(620年)、尉遅敬徳と尋相は兵八千を率いて降伏し、太宗は敬徳に彼らの統率を任せ、自軍の陣営に組み込んだ。屈突通は彼らに異変あることを恐れ、急いで諫めたが、太宗は言った。「昔、光武帝(蕭王)は赤心を推して人の腹中に置き、人々はみな命を尽くした。今、敬徳を任ずるに、また何ぞ疑わんや」。かくして劉武周は突厥へ逃亡し、并州・汾州の地はすべて回復された。詔が下り、太宗は益州道行台尚書令を加授された[25]。
虎牢関の戦い
武徳三年(620年)七月、太宗は諸軍を総率して王世充を洛邑に攻め、軍を谷州に駐屯させた。世充は精兵三万を率いて慈澗に陣を敷き、太宗は軽騎兵でこれを挑発した。時に衆寡敵せず、重囲に陥り、側近らは皆恐れをなした。太宗は側近に先に帰還するよう命じ、ただ一人後方を守った。世充の勇将・単雄信が数百騎を率いて両側から迫り、槍を交えて競い進む中、太宗は危うく敗れそうになった。太宗は左右に矢を放つと、弦に応じて倒れない者はなく、敵の大将・燕頎を捕らえた。世充はついに慈澗の陣を撤収して東都に退いた[26]。
太宗は行軍総管・史万宝を宜陽から南下させ龍門を占拠させ、劉徳威を太行山から東進させ河内を包囲させ、王君廓を洛口から派遣し敵の糧道を断った。さらに黄君漢に命じ、夜間に孝水河を舟師で下り回洛城を急襲させ、これを陥落させた[27]。
これにより黄河以南の地域はこぞって呼応し、城砦は次々と降伏した。大軍は邙山に進軍して駐屯した。同年九月、太宗は五百騎を率いて戦場の地形を偵察中、突然、王世充の軍一万余人と遭遇、激戦の末これを再び撃破し、三千余りの首級を斬り、大将・陳智略を捕らえた。世充は単身かろうじて逃れた[28]。
世充が任命していた筠州総管・楊慶は使者を遣わして降伏を請い、太宗は李世勣に軍を率いて轘轅道から出撃させその民衆を慰撫させた。これに続いて、荥州・汴州・洧州・豫州など九つの州が相次いで降伏した。世充はやむなく竇建徳に救援を求めた[29]。
武徳四年(621年)二月、太宗はさらに進軍して青城宮に駐屯した。陣営の構築が未完了のうちに、王世充の軍二万が方諸門から出撃し、谷水に臨んで陣を布いた[30]。
太宗は精鋭騎兵を率いて北邙山に布陣し、屈突通に歩兵五千を率いさせて谷水を渡って敵を攻撃させると、次のように訓令を与えた。「戦闘が始まり次第、のろしを上げよ。我は騎兵を率いて南下し救援する」[31]。
両軍が交戦するや、太宗は騎兵を突撃させ、自ら先頭に立って進み、屈突通の軍と内外から呼応して挟撃した。賊軍は必死に抗戦し、散り散りになっては再び集結することを幾度も繰り返した[32]。
辰の刻(午前8時頃)から午の刻(正午頃)にかけて、賊軍はついに退却を始めた。太宗は兵を進めてこれに追撃し、八千を捕虜とし斬首した。ここに至り、軍は城下に進んで陣営を築いた[33]。
世充は再び出撃することはできず、ただ城に籠り守りを固めて、竇建徳の援軍を待つほかなかった。太宗は諸軍に命じて壕を掘らせ、城を包囲する長塁を巡らせて封鎖を完成させた[34]。
このとき、呉王・杜伏威が配下の将軍である陳正通と徐召宗に二千の精兵を率いさせて戦地に赴き、太宗の軍に合流させた。また、鄭(世充)の偽政権の鄭州司馬・沈悦が虎牢関で降伏し、将軍の王君廓がこれに呼応して、偽荊王・王行本を捕らえた。[35]
竇建徳が十余万の兵を率いて王世充の救援に赴き、酸棗に至った。蕭瑀・屈突通・封徳彝らは、前後に敵を受ける状況を危惧し、万全を期すため谷州へ退却して形勢を窺うよう進言した[36]。
太宗はこれに答えて言った。「世充は兵糧が尽き、内外で離反が相次いでいる。攻撃の労をかけずとも、座してその疲弊を待てばよい。建徳は孟海公を破ったばかりで、将は驕り兵は怠っている。我は進んで虎牢関(武牢)を占拠し、その要衝を扼すべきだ。賊が危険を冒して我が軍と決戦すれば、必ず打ち破れる。もし戦わなければ、十日と経たずに世充は自ら潰えよう。もし我々が迅速に進軍しなければ、賊が虎牢関に入り、我が方に新たに帰順した諸城は必ず守れない。二つの賊が合力したら、いかに対処しようというのか」[37]。
屈突通がさらに包囲を解き険地に退いて変局を待つよう請うたが、太宗は許さなかった。かくして太宗は屈突通を留め、齊王・李元吉を補佐させて世充の包囲を続行させると、自ら歩騎三千五百を率いて虎牢関へ急行した[38]。
竇建徳は滎陽から西進し、板渚に堡塁を築いた。太宗は虎牢関(武牢)に駐屯し、両軍は二十余日にわたり対峙した[39]。
斥候からの報告によれば、「建徳は官軍の秣(まぐさ)が尽きるのを窺い、河北で軍馬を放牧する機会を待って、虎牢関を急襲しようとしている」という。太宗はこの策謀を見抜くと、逆にわざと河北で軍馬を放牧して敵を誘い出した[40]。
翌朝、建徳は果たして全軍を繰り出して到来し、氾水の畔に陣を布いた。王世充の部将・郭士衡はその南側に陣を敷き、数里にわたって連なり、鬨の声を上げた。これを見た諸将は深く恐れをなした[41]。
太宗は数騎を率いて高丘に登り敵情を視察すると、諸将に向かって言った。「賊軍は山東で台頭したが、真の強敵と戦った経験がない。今、険しい地形を越えて騒ぎ立てるのは軍規の乱れを示し、城に近づいて陣を敷くのは我が軍を軽んじている証だ。我が軍が兵を動かさなければ、敵の士気は自ずから衰え、陣を長く保てば兵士は飢え、必ず退却を始める。その時を追撃すれば、勝利は疑いない。諸公とここに約束しよう。正午過ぎには必ずこれを打ち破ってみせる」[42]。
建徳の軍は辰の刻から午の刻まで陣を維持したため、兵士は飢え疲れ、皆座り込み、水を求めて争う有様だった。やがて軍は揺らぎ後退を始めた。太宗は「今だ!撃て!」と叫び、自ら軽騎を率いて進んで敵を誘引し、主力部隊もこれに続いた。建徳が軍を返して陣を立て直そうとしたが、整列も間に合わぬうちに、太宗が先頭に立って突撃し、向かうところ敵はことごとく敗走した[43]。
間もなく両軍が全面衝突し、喊声と砂塵が四方に立ち込めた。太宗は史大奈・程咬金・秦叔宝・宇文歆らを率いて軍旗を翻しながら敵陣に突入し、真っ直ぐに敵陣の背後へ突破すると、味方の旗を翻して示した。賊軍がこれを目にした瞬間、総崩れとなった。敗走する敵を三十里にわたって追撃し、三千余りの首級を斬り、五万の兵を捕虜とし、陣中にて建徳を生け捕りにした[44]。
太宗は(捕らえた)建徳を責めて言った。「我が兵を挙げて罪を問うのは、あくまで王世充が対象である。その成敗は本来、汝に関わることではない。それなのに何故、境を越えて我が軍の鋒先に立ちふさがったのか」。建徳は股を震わせながら答えた。「今、自分が来なければ、やがて遠路はるばる討伐に来られると思い、恐れて参りました」[45]。
高祖はこの報告を聞いて大いに喜び、直筆の詔書を下した。「隋朝が崩壊し、崤山と函谷関以東は(朝廷と)分断されていた。二つの勢力(王世充と竇建徳)が合力したが、一朝にして掃討された。戦いは勝利に終わり、さらなる死傷者も出なかった。(朕の)臣として恥じるところがなく、(朕の)父として心配する必要もないのは、すべて汝の功績である」[46]。
かくして太宗は建徳を東都(洛陽)の城下に連行した。世充は恐れをなし、配下の官人ら二千余人を率いて軍門に赴き降伏を請うた。ここに山東地方はことごとく平定された[47]。
太宗は宮城に入り、蕭瑀と竇軌らに命じて倉庫を封印管理させ、何一つ取り分けず、記室の房玄齢に命じて隋朝の図書や戸籍を接収させた。そして、主だった共犯者である段達ら五十余人を誅し、不当に囚われていた者はすべて釈放し、無実の罪で殺された者に対しては祭礼を執り行い弔文を捧げた。将兵を盛大に慰労し、功績に応じて差等をつけて褒賞を賜った。高祖は尚書左僕射の裴寂を遣わして、軍中で太宗を慰労させた[48]。
洛陽に府を置く
武徳四年(621年)六月、太宗は凱旋した。自ら黄金の鎧をまとい、鉄製の馬具を備えた騎兵一万騎、甲冑をつけた兵士三万人からなる軍列を組み、前後に鼓吹(楽隊)を配し、二人の偽主(王世充・竇建徳)と隋朝の器物・車輿を捕虜として太廟に献上した[49]。
高祖は大いに喜び、古代より伝わる「飲至の礼」を挙行して勝利を祝った。高祖は「古来の官爵ではこの殊勲にふさわしくない」と考え、新たに特別な称号を授けてその勲功と徳を顕彰することとした[50]。
同年十月、太宗は「天策上将・陝東道大行台」の称号を加授され、その位は王公の上に置かれた。封邑を二万戸増やされ、以前からの分と合わせて三万戸となった。さらに、金で飾った車輿一乗、衮冕の礼服、玉璧一双、黄金六千斤、前後部鼓吹および九部の楽、儀仗用の剣を携える護衛四十人を賜った[51]。
時に天下は次第に平穏に向かい、太宗は経書典籍の研究に専心し、文学館を開設して四方の有識者を招いた。行台司勲郎中の杜如晦ら十八名を学士に任じ、彼らが閣下で輪番当直する際には、いつも穏やかな表情で接し、経典の義理について議論を交わし、時には夜半に及ぶこともあった[52]。
劉黒闥・徐円朗の討滅
武徳四年(621年)末、まもなく竇建徳の旧将・劉黒闥が兵を挙げて反乱を起こし、洺州を占拠した。同年十二月、太宗は全軍を統率し東征した[53]。
五年(622年)正月、肥郷に進軍し、兵を分けて敵の糧道を断ち、二か月にわたり対峙した。黒闥は窮地に陥り決戦を迫り、歩騎二万を率いて南へ洺水を渡り、未明に官軍に圧力をかけてきた[54]。
太宗は自ら精鋭騎兵を率いて敵の騎兵隊を攻撃しこれを撃破、勝ちに乗じて敵の歩兵隊を蹂躙したため、賊軍は大混乱に陥り、一万余りの首級を斬られた[55]。
これに先立ち、太宗は洺水の上流に堰を築いて水流を浅くさせ、あえて黒闥に渡河させていた。決戦が始まると堰を決壊させたため、水勢が激増して水深一丈(約3メートル)余りとなり、敗走した賊兵のうち河に逃げ込んだ者はことごとく溺死した[56]。
黒闥は二百余騎とともに北方の突厥へ逃走し、残る兵はすべて捕虜となった。これにより河北は平定された[57]。
当時、徐円朗が徐州・兗州で兵を擁していたため、太宗は軍を返して討伐平定した。ここに黄河・済水・長江・淮水流域の諸郡県はすべて平定された[58]。
同年十月、太宗は左右十二衛大将軍の職を加授された[59]。
父子の間に隙間ができる
高祖が晋陽で挙兵した時、その計画はすべて秦王李世民(後の太宗)の献策によるものであった。高祖は世民に「もし事が成れば、天下はすべて汝の力によるものだ。汝を太子に立てよう」と言った。世民は拝礼して辞退した[60]。
高祖が唐王となると、将兵たちも世民を世子(後継者)に推挙したが、高祖が立てようとすると、世民は固辞してこれを止めさせた[61]。
太子の李建成は寛大で些細なことを気にしない性格であったが、酒色と狩猟遊戯を好んだ。斉王の李元吉は過失が多く、ともに高祖の寵愛を受けることはなかった[62]。
一方、世民の功績と名声は日に日に高まり、高祖はしばしば建成に代えて世民を立てる意向を示した。建成は内心安からず、元吉と謀りを共にして協力して世民を排斥しようとし、各自で党与を募り勢力を築いていった[63]。
高祖は晚年、後宮の寵愛を受ける女性が多く、幼い王子だけでも二十人近くに上り、彼らの生母たちはこぞって(将来の後継者となりうる)年長の皇子たちと結び付いて自らの地位を固めようとした[64]。
建成と元吉は、妃や嬪にひたすら迎合し、へつらい贈賄することを厭わず、あらゆる手段を尽くして高祖の寵愛を得ようとした。一部では、張婕妤や尹徳妃と密通しているとの噂もあったが、宮廷の奥深く秘事とされる領域のことで、真相を明らかにできる者はいなかった[65]。
当時、東宮(太子の宮殿)、諸王や公侯、妃や公主の家臣、そして後宮の親族たちが長安で横行し、勝手に法を犯しても、担当官庁は追及できなかった[66]。
世民は承乾殿に、元吉は武徳殿の後院に居住し、高祖の居所(上台)や東宮とは昼夜を問わず行き来ができ、もはや禁制や制限はなかった。太子と秦・斉の両王が上台に出入りする際は、皆馬に乗り、弓や刀などの武具を持ち歩き、互いに家族同然の礼で接した[67]。
太子の命令(太子令)と、秦王・斉王の指令(教)は、皇帝の詔勅と同等に扱われ、官庁はどれに従えばよいかわからず、ただ受け取った順番によって判断するしかなかった[68]。
世民だけは諸妃嬪に取り入ろうとせず、妃嬪たちはこぞって建成と元吉を褒め称え、世民を貶めた[69]。
世民が洛陽を平定すると、高祖は貴妃ら数名を洛陽に遣わし、隋の宮女を選抜させるとともに、府庫の珍宝を接収させた。貴妃らは私的に世民に宝物を求め、また自分の親族の官職をも請うたが、世民は「宝物はすべて記録して上奏済みであり、官職は賢才と功労者に授けるべきもの」と言って、一切許さなかった。これにより、妃嬪たちの恨みはいっそう深まった[70]。
世民は淮安王・李神通に功績があったとして、数十頃の田畑を与えた。張婕妤の父が婕妤を通じて高祖に同様の田地を求めたため、高祖は直筆の勅書でこれを賜った。しかし、神通は(世民の)教令が先だったことを理由に田地を譲らなかった。婕妤は高祖に「陛下が妾の父に賜った田地を、秦王が奪って神通に与えました」と訴えた。高祖は怒り、世民を責めて「朕の手勅は汝の教令に及ばぬというのか」と言った[71]。
後日、高祖は左僕射の裴寂に「この子は長く外で兵権を握り、書生たちに教え込まれて、もはや以前の我が子ではない」と語った[72]。
尹徳妃の父・阿鼠は傲慢で横暴であった。秦王府の属官・杜如晦がその門前を通りかかった時、阿鼠の家僕数人が如晦を馬上から引きずり落として殴打し、指を一本折った。「お前は何者だ、我が門前を通りながら下馬しないとは」と罵りながら。阿鼠は世民が高祖に訴えるのを恐れ、先手を打って徳妃に「秦王の側近が妾の実家を辱めました」と奏上させた。高祖は再び怒って世民を責め、「朕の妃嬪の家すら汝の側近に辱められるとは、まして一般の民衆はどうなるのか」と言った。世民は深く弁明したが、高祖は終いに信じようとしなかった[73]。
世民は宮中の宴に侍る際、妃嬪たちを前にすると、早世した太穆皇后(高祖の正室で世民生母)が天下統一を見られなかったことを思い、時に涙を流して嘆息した。高祖はそれを見て快く思わなかった[74]。
妃嬪たちはこれに乗じ、密かに共謀して世民を讒言した。「幸い天下は平穏で、陛下もご高齢なのですから、楽しく過ごすべきです。しかし秦王はいつも独り涙を流し、それはまさに[75]妾らを憎んでおられるからです。陛下が万歳の後(崩御された後)、妾ら母子はきっと秦王に容れられず、一人残らず害されるでしょう」。そう言うと互いに泣きながら、「皇太子(建成)は仁孝でいらっしゃいます。陛下が妾ら母子を太子に託されれば、必ずお守りくださいます」と付け加えた。高祖はこれを聞いて悲嘆に暮れた[76]。
これにより高祖は太子を替える考えを捨て、世民への態度は次第に疎遠となり、建成と元吉への親愛の情は日増しに深まっていった[77]。
武徳七年(624年)、突厥が侵攻して国境を脅かした際、太宗は豳州において彼らと相対し、わずか百騎を従えてその可汗と会見し、盟約を結んで撤退させた[78]。
建成と元吉は後宮の者と共に日夜、世民について高祖に讒言を重ねた。高祖はこれを信じ、世民を罪に処そうとした[80]。
この時、陳叔達が諫めて言った。「秦王は天下に大功を立てられました。罷免すべきではありません。またその性質は剛毅激烈です。もし抑圧を加えられれば、憂憤に耐えられず、思いがけない病に倒れる恐れがあります。そうなってから陛下が後悔されても、どうしようもありません」。高祖はこれにより思いとどまった[81]。
元吉は密かに秦王の誅殺を請うたが、高祖は「彼には天下平定の功績がある。罪状が明らかでないのに、どうして口実にできようか」と言った。元吉は「秦王はかつて東都を平定した時、勝利に乗じて帰還せず、銭や絹をばらまいて私恩を植え付け、さらに勅命にも背きました。これでは謀反と何が違いましょうか。ただ速やかに誅殺すべきです。口実にならないことがありましょうか」と主張した。高祖は答えなかった[82]。
秦王府の臣僚たちは皆、憂慮と恐れにかられ、どうすべきかわからなかった。行台考功郎中の房玄齢が比部郎中の長孫無忌に言った。「今や猜疑のわだかまりは既に深く、一旦禍の機が密かに起これば、秦王府が滅びるのみならず、実に国家の憂いとなります。いっそ周公の故事に倣うよう王を勧めて家国を安んずるに如くはありません。存亡の機は、髪一筋ほどの余裕もなく、まさに今日であります」[83]。
無忌は答えて言った。「私もかねてよりこのことを考えていたが、口に出す勇気がなかった。今、あなたが言われたことは、まさに我が心と同じである。謹んで王に申し上げよう」[84]。
そして無忌は入って世民に伝えた。世民が玄齢を呼んで策略を相談すると、玄齢は言った。「大王の功績は天地を覆うほどで、まさに大業(帝位)を継ぐべきです。今日の憂いと危機は、天が(その機会を)与えられたもの。どうか大王は疑わないでください」。こうして玄齢は府の属官である杜如晦と共に、世民に建成と元吉を誅殺するよう勧めた[85]。
敬徳は建成と元吉が自分を懐柔しようとした経緯を世民に報告した。世民は言った。「公の心は山岳の如く揺るぎない。たとえ黄金が北斗星の高さまで積まれようと、公が心を変えぬことはわかっている。贈り物は受け取って構わない。何の嫌疑があろうか。むしろそれによって彼らの密計を知ることができる。これこそ良策ではないか。さもなければ、禍は公に及ぶだろう」[86]。
まもなく元吉は壮士を使わせて夜間に敬徳を暗殺しようとした。敬徳はこれを察知し、重門を開け放し、静かに臥して動かず、刺客はたびたびその庭まで来たが、結局敢えて中に入ることはできなかった[87]。
元吉はやむなく敬徳を高祖に讒言し、詔により獄に下し取り調べた上で誅殺しようとした。世民が固く請うて許しを乞い、ようやく赦免された[88]。
元吉はさらに左一馬軍総管の程知節を讒言し、康州刺史として都から遠ざけた。知節は世民に言った。「大王の手足とも言うべき補佐たちがことごとく失われてしまいました。このままでは、お身は長くもちません。知節はたとえ死んでもここを離れません。どうか早く御決断ください」[89]。
また、元吉は金品を用いて右二護軍の段志玄を誘惑しようとしたが、志玄は従わなかった[90]。
建成は元吉に言った。「秦王府の知略に優れた人物で、恐れるべきは房玄齢と杜如晦だけだ」。二人はともに高祖に讒言して彼らを追放した[91]。
世民の腹心では、長孫無忌だけがまだ府中に残っており、彼の母方の叔父である雍州治中の高士廉、左候車騎将軍の三水侯・君集、そして尉遅敬徳らと共に、日夜、世民に建成と元吉の誅殺を勧めた[92]。
しかし、世民はためらい決断できず、霊州大都督の李靖に意見を求めたが、李靖は関与を断った。次に行軍総管の李世勣に尋ねたが、世勣も同様に断った。世民はこのことで二人を一層敬意を抱くようになった[93]。
玄武門の変
折から、突厥の
元吉は尉遅敬徳・程知節・段志玄、および秦府右三統軍の秦叔宝らを同行させるよう請い、秦王配下の精鋭兵士を選抜・検閲して元吉軍に編入させようとした[95]。
この時、
世民はこの王晊の言葉を長孫無忌らに伝えると、無忌らは世民に「先手を打って対策を講じる」よう勧めた[97]。
世民は嘆いて言った。「肉親同士が刃を交えることは、古今を通じて最も忌むべき悪である。私は確かに禍が朝夕に迫っていることを知っているが、相手が先に手を出してから、大義名分を掲げて討つのも一策ではあるまいか」[98]。
敬徳はこれに応じて言った。「人情として、誰が自分の死を惜しまないでしょう。今、人々は命を賭けて大王に奉じようとしています。これは天が与えた機会です。災いの機は今まさに発せんとしており、なおも大王が安らかとして憂いとされない。たとえ大王がご自身を軽んじられたとしても、宗廟や国家はどうなさいますか。もし大王が敬徳の言葉を用いられなければ、敬徳は野に隠れ、大王の側に留まって手を束ねて戮に就くことはできません」[99]。
無忌も続けて言った。「敬徳の言葉に従わなければ、事は今にも失敗に帰します。敬徳らは必ずや大王のものとならず、無忌もまた彼らに従って去り、再び大王に仕えることはできないでしょう」[100]。
世民は言った。「私の考えも全く捨て去るべきではない。諸公、改めて考えてみよ」[101]。
敬徳はさらに言い放った。「大王が今、事を処するに疑いを抱かれるのは、知恵とは言えぬ。難に臨んで決断されないのは、勇気とは言えぬ。そもそも大王が平素から養ってきた勇士八百余人は、外にいた者も今や宮中に入り、鎧を着て武器を執っています。事態はすでに熟しており、大王としてどうして止められましょうか」[102]。
世民が府の幕僚たちに意見を求めると、皆が言った。「斉王は凶暴で、到底その兄(太子)に仕える気はありません。以前、護軍の薛実が斉王に『大王の名(元吉)は、組み合わせると「唐」の字になります。大王はいずれ唐の祭祀を主宰されるでしょう』と言ったのを、彼は喜んで『ただ秦王を除きさえすれば、東宮(太子の地位)を取るのは手のひらを返すように容易い』と答えました。彼は太子と共に乱を謀りながら未だ成さずして、既に太子を除く心を抱いています。その乱心は飽くことを知らず、何でもしでかすでしょう。もし二人が志を遂げれば、天下は再び唐のものではなくなる恐れがあります。大王の賢明さをもってすれば、二人を制することは地面の草を拾うがごときものです。どうして一介の者の節義に拘り、国家の大計を忘れられましょうか」[103]。
世民はまだ決断しかねていた。一同は言った。「大王は舜をどういうお方とお考えですか」。世民が「聖人である」と答えると、一同は続けた。「もし舜が井戸を浚えと言われて出て来なければ、井戸の中の泥となっていたでしょう。もし物置の屋根を塗れと言われて降りなければ、物置の上の灰となっていたでしょう。どうして天下に恵沢を施し、後世に法を残せたでしょうか。つまり小さな杖打ちは受けても、大きな杖打ちからは逃れるというのが道理で、大切なものを守るがためなのです」[104]。
世民が占わせようとすると、幕僚の張公謹が外から入って来て、占いの亀甲を取り上げ地面に投げつけ、言った。「占いは疑いを決するためのものです。今や事は疑いの余地がありません。まだ何を占おうとなさいますか。もし占いが不吉だったとしても、もうやめられるはずがありません」。こうして遂に計画は定まった[105]。
世民は長孫無忌に命じて密かに房玄齢らを呼び寄せようとしたが、房玄齢らは「勅旨によって再び王に仕えることを許されていません。今もし密かに謁見すれば、必ず死罪に処せられます。教えに従うことはできません」と言った[106]。
世民は怒り、敬徳に言った。「玄齢や如晦が私に背くはずがない」。佩刀を取って敬徳に渡し、「公が行って様子を見よ。もし来る気がないならば、首を刎ねて持参せよ」と命じた[107]。
敬徳が赴き、無忌と共に彼らを諭して言った。「王は既に決断された。諸公は速やかに参じて共に謀を巡らすべきだ。我々四人が一緒に道を歩くわけにはいかない」。そこで玄齢と如晦に道士の服を着させ、無忌と共に(秦王府に)入らせ、敬徳は別の道からも到着した[108]。
己未の日、太白星(金星)が再び天空を横切った。傅奕が密かに上奏して言うには、「太白星が秦の分野(秦地に対応する星域)に現れました。秦王が天下を有するべきです」[109]。
高祖はこの奏上の文書を世民に渡した。そこで世民は密かに、建成と元吉が後宮で淫乱の行いをしていると上奏し、さらに言った。「臣は兄弟に対してほんのわずかな背きもありません。今、臣を殺そうとしているのは、まるで王世充や竇建徳の仇を討つかのようです。臣が今、無実の罪で死ねば、永遠に君と親(父)に別れを告げ、魂が地下に帰っても、諸賊(王世充ら)に顔向けできず恥ずかしい思いです」[110]。
高祖はこの上奏文を読み、驚き、次のように返答した。「明日、審問を行う。汝は早朝に参内せよ」[111]。
庚申の日、世民は長孫無忌らを率いて宮中に入り、玄武門に伏兵を配置した。張婕妤が密かに世民の上奏の意図を察知し、急いで建成に伝えた。建成は元吉を呼んで協議すると、元吉は「宮府(太子府と斉王府)の兵を統率し、病気と称して参朝を避け、形勢を窺うべきです」と言った。しかし建成は「軍備は既に厳重に整っている。弟と共に参内し、自ら消息を問おう」と言い、二人は共に玄武門へ急行した[112]。
この時、高祖は既に裴寂・蕭瑀・陳叔達らを召し出し、事件を審理しようとしていた[113]。
建成と元吉が臨湖殿に至り、異変を察知すると、すぐに馬首を返して東の宮府へ戻ろうとした。世民がこれを追いかけ呼び止めた。元吉は弓を引き絞って世民を射ようとしたが、何度も引いたが矢が放てなかった。世民は建成を射てこれを殺した[114]。
尉遅敬徳が七十騎を率いて続いて到着し、左右から射かけて元吉を馬上から墜落させた。世民の馬が暴走して林の中に入り、木の枝に引っかかって落馬し起き上がれなかった。元吉が急ぎ寄り、弓を奪おうとして世民の首を絞めようとしたが、敬徳が馬を躍らせて大声で叱りつけた[115]。
元吉は歩いて武徳殿へ向かおうとしたが、敬徳が追いかけて射かけ、これを殺した[116]。
高祖はちょうど海池で舟を浮かべており、世民は尉遅敬徳を使わせて宮中の警備に入らせた。敬徳は鎧を着込み矛を構えて、まっすぐに高祖の居所まで進んだ[117]。
高祖は大いに驚き、問うた。「今日の乱は誰が起こしたのか。卿がここに来たのはどういうわけか」。敬徳は答えた。「秦王が太子と斉王の乱を挙兵して討ち、陛下をお驚かせまいと、臣を警備に遣わしました」[118]。
高祖は裴寂らに言った。「今日このような事が起きようとは思わなかった。どうすべきだろうか」。蕭瑀と陳叔達が言った。「建成と元吉はもとより義兵(晋陽起兵)の計画にも参与せず、天下に対する功績もなく、秦王の功績の高さと声望の重さを妬み、共に奸謀を巡らしていました。今、秦王が既にこれを討ち滅ぼされました。秦王の功績は天地に満ち、天下の民心は帰一しております。陛下が太子に任じて国務を委ねられれば、これ以上問題はございません」[119]。
高祖は言った。「よいだろう。これは我がかねてからの念願である」[120]。
この時、宿衛(宮中警備兵)と秦王府の兵が、太子・斉王両宮の側近兵と戦闘を続けており、まだ収まっていなかった。敬徳は高祖に直筆の勅書を下すよう請い、諸軍をすべて秦王の指揮下に置くことを求めた。高祖はこれに従った[121]。
天策府司馬の宇文士及が東上閣門から出て勅書を宣布すると、兵士たちはようやく鎮静した。高祖はさらに黄門侍郎の裴矩を東宮に遣わして将兵を諭させ、すべて解散させた[122]。
六月四日、太宗は皇太子に立てられ、すべての政務を裁決することとなった[123]。
太宗は禁苑で飼育されていた鷹や猟犬を放ち、諸地方からの珍品の献上を停止し、政治は簡素で厳粛を重んじ、天下は大いに喜んだ。さらに百官に対し各自の意見を封書で上奏させ、人々を安んじ国を治める要諦を詳細に述べさせるよう命じた[124]。
己巳(六月七日)、次のような令を発した。「礼によれば、二つの名(諱)は個別に避諱しない。近世以降、両字をともに避けるようになり、廃止・欠落が多く、恣意的に行われて経典の教えに背いている。官職名・人名・公私の文書において、『世民』の二字が連続していない場合は、避諱する必要はない」[125]。
幽州大都督府を廃止した。辛未(六月九日)、陝東道大行台を廃し洛州都督府を置き、益州道行台を廃して益州大都督府を置いた。壬午(六月二十日)、幽州大都督の廬江王・李瑗が謀反を企てたため、庶人に落とされた。乙酉(六月二十三日)、天策府を廃止した。[126]
七月壬辰(七月二日)、太子左庶子の高士廉を侍中に、右庶子の房玄齢を中書令に、尚書右僕射の蕭瑀を尚書左僕射に、吏部尚書の楊恭仁を雍州牧に、太子左庶子の長孫無忌を吏部尚書に、右庶子の杜如晦を兵部尚書に、太子詹事の宇文士及を中書令に、封徳彝を尚書右僕射にそれぞれ任命した[127]。
即位
武徳九年八月癸亥(626年9月3日)、高祖は皇太子に譲位し、太宗は東宮顕徳殿で即位した。司空・魏国公裴寂を遣わし、南郊で柴祭(祭天儀礼)を行わせた。大赦を施行し、武徳元年以降に情状酌量の上で流刑・配流となった者をすべて放還した。文武官かつ五品以上で爵位のない者には爵一等を賜い、六品以下には勲等一階を加えた。天下の民に対し一年間の租税免除を行った[128]。
癸酉(十八日)、掖庭(後宮)の宮女三千余人を解放した。甲戌(十九日)、突厥の頡利可汗と突利可汗が涇州に侵攻した。乙亥(二十日)、突厥が武功まで進攻し、長安は戒厳令を布いた。丙子(二十一日)、妃の長孫氏を皇后に立てた[129]。
己卯(二十四日)、突厥が高陵を侵犯した。辛巳(二十六日)、行軍総管の尉遅敬徳が突厥と涇陽で交戦し、これを大破、千余りの首級を斬った[130]。
癸未(二十八日)、突厥の頡利可汗が渭水の便橋の北岸に至り、その酋長の執失思力を遣わして朝貢と称して偵察させ、自ら軍勢を誇示した。太宗は思力を拘束するよう命じ、自ら玄武門を出て六騎を馳せて渭水河畔に赴き、頡利と川を隔てて対峙し、盟約違背を責めた。間もなく諸軍が続々と到着し、頡利は唐軍の威容の盛んなことと、思力が拘束されたことを知り、大いに恐れて和を請うた。太宗は詔を下しこれを許した。即日、宮中に還った[131]。
乙酉(三十日)、再び便橋に赴き、頡利と共に白馬を犠牲として盟約を結んだ。かくて突厥は撤退した[132]。
武徳九年九月丙戌(朔日)、頡利可汗が馬三千頭・羊一万頭を献上したが、太宗は受け取らず、頡利に略奪した中国の戸籍人口を返還するよう命じた[133]。
丁未(二十二日)、諸衛の騎兵統将らを率いて顕徳殿の庭で射術訓練を行わせた。皇帝自ら臨場して試験し、的を射当てた者には弓刀や布帛を賜物として与えた。これに対し朝臣から諫言する者も多かったが、皇帝は聞き入れなかった。以来、士卒はことごとく精鋭となった[134]。
壬子(二十七日)、詔を下して民間でみだりに妖神を祀ったり、妄りに淫祀(朝廷が認めない祭祀)を設けたり、礼制にない祠や祈祷を一切禁絶した。亀卜や易占・五兆占い以外の雑多な占卜もすべて停止させた[135]。
冬十月丙辰朔(一日)、日食が起こった。癸亥(八日)、中山王の李承乾を皇太子に立てた[136]。
十一月庚寅(六日)、宗室の郡王で功績のない者の爵位を県公に降格した[137]。
十二月癸酉(十九日)、囚人を審理し(冤罪の有無を検証)[138]。
突厥討伐
貞観元年(627年)春正月乙酉(一日)、元号を改めた[139]。
辛丑(十七日)、燕郡王の李芸が涇州に拠って反乱を起こしたが、間もなく側近に斬殺され、その首は長安に送られた[140]。
庚午(同年閏正月十六日)、僕射の竇軌を益州大都督に任命した[141]。
九月十二日、太宗は使者を諸州に遣わし、被害を受けた農地を巡視させ、貧民への救済と慰問を行わせた[142]。
貞観二年(628年)三月二十二日、太宗は使者を関内各地に派遣し、財宝を出して飢民が売却した子女を買い戻すことを支援させた[143]。
同月二十三日、旱魃と蝗害の災禍を受け、太宗は自らの過失を認め、大赦を施行した[144]。
同年十一月十九日、長安城南郊において祭天の儀(郊祀)を行った。
貞観三年(629年)四月二十三日、太宗は太極殿において政務を聴き始めた[145]。
六月八日、旱魃のため、太宗は自ら囚人の罪状を審査し記録した。長孫無忌や房玄齢らを名山大川に派遣して雨乞いを行わせ、中書舎人の杜正倫らを関内各州に遣わし慰撫を行わせた。また、文武官員に対しそれぞれ密封の奏章を提出させ、朝廷の政治の得失を可能な限り述べるよう命じた[146]。
同年十一月二十二日、并州都督の李勣を通漢道行軍総管に、兵部尚書の李靖を定襄道行軍総管に任命し、突厥討伐の体制を整えた[147]。
閏十二月十七日、義軍(晋陽起兵)創建以来の交戦地において、義に殉じた勇士たちのため各地に寺院を建立する詔を下した。虞世南・李百薬・褚亮・顔師古・岑文本・許敬宗・朱子奢らに命じ、彼らのために碑を立て銘文を刻み、その功績を後世に伝えさせた[148]。
貞観四年(630年)三月十五日、大同道行軍副総管の張宝相が頡利可汗を生け捕り、長安に献上した[149]。同月二十九日、太宗は太廟において頡利可汗捕虜の報告を行った[150]。
四月二日、順天門に臨み、将兵が頡利を引き連れて戦勝を献上した。これ以降、西北の諸蕃国はこぞって太宗に対し「天可汗」の尊号を奉ることを請い、太宗は璽書を下して彼らの君主を封じた[151]。
九月八日、長城以南に散在する遺骸を収葬し、祭祀を執り行うよう命じた。同月二十日、古来の英明な君主・聖帝・賢臣・英烈の墓については刈り払いや放牧を禁じ、春秋に祭祀を行うよう命じた[152]。
十月一日、隴州に巡幸し、特例として隴州・岐州の両州に恩赦を施行し、一年間の租税と徭役を免除した[153]。
貞観五年(631年)正月十三日、太宗は昆明池において大閲兵を行い、諸蕃(少数民族)の君長らを従えてこれを閲した[154]。
貞観六年(632年)二月四日、律学(法律学教育機関)を初めて設置した[155]。
貞観七年(633年)十一月三日、新たに制定された『五経』(儒家経典の公式定本)を頒布した[156]。
吐谷渾討伐
貞観八年(634年)正月癸未(十日)、右衛大将軍の
壬寅(二十九日)、尚書右僕射の李靖・特進の蕭瑀と楊恭仁・礼部尚書の王珪・御史大夫の韋挺・鄜州大都督府長史の皇甫無逸・揚州大都督府長史の李襲誉・幽州大都督府長史の張亮・涼州大都督の李大亮・右領軍大将軍の竇誕・太子左庶子の杜正倫・綿州刺史の劉徳威・黄門侍郎の趙弘智らを四方に派遣し、風俗を視察し民情を省みさせた[158]。
同年冬十月、右驍衛大将軍・褒国公の段志玄が吐谷渾を撃破し、敗走する敵を八百余里追撃した。甲子(十六日)、九成宮から帰還した[159]。
十一月辛未(二十三日)、右僕射・代国公の李靖が病気を理由に官職を辞し、特進の官位を授けられた。丁亥(九日)、吐谷渾が涼州を侵した。己丑(十一日)、吐谷渾が唐の使者趙徳道を拘束した[160]。
十二月辛丑(二十三日)、特進の李靖・兵部尚書の侯君集・刑部尚書の任城王李道宗・涼州都督の李大亮らを大総管に任命し、それぞれ軍を率い分進して吐谷渾を討伐させた。壬子(五日)、越王の李泰を雍州牧に任じた。乙卯(八日)、皇帝(太宗)は太上皇(高祖)に従い城西で軍事演習を観閲した[161]。
貞観九年(635年)春三月、洮州の
庚寅(十三日)、勅を下して全国の戸籍を三等に分け、さらに細分化して九等に定めた[163]。癸巳(十六日)、大総管の李靖・侯君集・李大亮・任城王李道宗が吐谷渾(とよくこん)を牛心堆で撃破した[164]。
五月乙未(十九日)、さらに烏海で吐谷渾を破り、敗走する敵を柏海まで追撃した。副総管の薛万均と薛万徹は赤水源で吐谷渾を撃破し、その貴族二十名を捕らえた。壬子(六日)、李靖が西海のほとりで吐谷渾を平定し、その王
秋七月甲寅(九日)、太廟を増築して六室とした[166]。冬十月庚寅(十六日)、高祖太武皇帝を献陵に葬った[167]。戊申(五日)、高祖の神霊を太廟に合祀した[168]。
十二月甲戌(一日)、吐谷渾の西平郡王慕容順光が配下に弑殺された。兵部尚書の侯君集に軍を率いさせて現地を鎮撫し、順光の子の諾曷鉢を河源郡王に封じて部族を統治させた[169]。
内政を治める
貞観十年(636年)乙亥(十六日)、自ら長安の囚人を審理した[170]。
同年、関内と河東で疫病が発生したため、医師を派遣して薬を携行させ治療にあたらせた[171]。
貞観十一年(637年)春正月丁亥朔(一日)、郐王の李元裕を鄧王に、譙王の李元名を舒王にそれぞれ移封した。癸巳(七日)、魏王の李泰に雍州牧・左武候大将軍の官職を加授した。[172]
庚子(十四日)、新たに制定した律令を天下に頒布した。飛山宮の造営に着手した。甲寅(二十八日)、房玄齢らが編纂した『五礼』を進呈した。詔を下して関係官府に施行させた[173]。
甲子(同年閏正月八日)、洛陽宮に行幸し、漢の文帝を祀るよう命じた[174]。
三月丙戌朔(一日)、日食が起こった。丁亥(二日)、車駕(皇帝の行列)が洛陽に到着した。丙申(十一日)、洛州を洛陽宮と改称した。辛亥(二十六日)、広城沢で大規模な狩猟を行った。癸丑(二十八日)、宮中に還った[175]。
夏四月甲子(十日)、乾元殿前の槐樹に落雷があった。丙寅(十二日)、河北・淮南両道に対し、孝悌に厚く誠実で時務に通じる者、儒学に精通し師範となれる者、文辞優美で著述の才ある者、政体を理解し民を治められる者、いずれも品行方正で郷里に推挙される人材を、官駅を用いて洛陽宮に派遣するよう詔を下した[176]。
貞観十一年(637年)秋七月癸未(一日)、長雨が激しく降り続いた。谷水が氾濫して洛陽宮に流入し、水深四尺(約1.2メートル)に達して左掖門を破壊し、宮中の寺院十九か所を損壊した。洛水も氾濫し、六百戸が流された[177]。
庚寅(八日)、詔を下して災害を理由に百官に密封奏上を命じ、政治の得失を忌憚なく述べさせた。丁酉(十五日)、車駕(皇帝の行列)は宮中に還った[178]。
壬寅(二十日)、明徳宮および飛山宮の玄圃院を廃し、これらを水害被災家屋に分配するとともに、布帛を差等をつけて賜った。丙午(二十四日)、亳州に老子廟を、兖州に孔子廟(宣尼廟)を修復し、それぞれ二十戸を付属させ祭祀を担わせた。涼武昭王(李暠)の墓地周辺には二十戸を配置して守衛させ、放牧や伐採を禁じた[179]。
九月丁亥(六日)、黄河が氾濫し、陝州河北県を破壊し、河陽中潬を損壊した。白司馬坂に行幸して被害状況を視察し、被災家屋に粟と布帛を差等をつけて賜った[180]。
冬十一月辛卯(十一日)、懐州に行幸した。乙未(十五日)、済源で狩猟を行った。丙午(二十六日)、車駕は宮中に還った[181]。
貞観十二年(638年)二月乙卯(二十一日)、車駕(皇帝の行列)は長安に帰還した[182]。
癸亥(二十九日)、砥柱(黄河の急流)を視察し、銘文を刻んで功績を記録した。乙丑(同年閏二月二日)、陝州に滞在し、新橋から河北県へ赴き、夏の禹王廟を祀った[183]。
丁卯(四日)、柳谷頓に滞在し、塩池を視察した[184]。
六月庚子(九日)、初めて玄武門左右に飛騎(近衛騎兵隊)を設置した[185]。
冬十月己卯(二十一日)、始平で狩猟を行い、高齢者に粟と布帛を差等をつけて賜った[186]。
貞観十三年(639年)正月乙巳(三日)、献陵を拝謁し、三原県および行従者を赦免し、同県の当年の租税を免除するとともに、陵の宿衛を務める郎将および三原県令に爵位一階を賜った[187]。
丁未(五日)、献陵から帰還した[188]。
二月庚子(二十九日)、刺史の世襲制度を廃止した[189]。
五月甲寅(十四日)、旱魃のため正殿での政務を控え、五品以上の官人に時事について上奏するよう詔を下した。また、食事を減らし、労役を停止し、囚人を審理し、貧困者を救済したところ、降雨があった[190]。
高昌国を平定する
貞観十四年(640年)正月庚子(二日)、有司(担当官庁)が時令(季節の政令)を読んだ[191]。
甲寅(十六日)、魏王李泰の邸宅に行幸し、雍州長安県を赦免するとともに、延康里の当年の租税を免除した[192]。
二月丁丑(十日)、国子監において釈奠(孔子祭祀)を観覧し、大理県・万年県を赦免し、学官と成績優秀な学生に布帛を賜った[193]。
貞観十四年(640年)癸酉(八月二十一日)、侯君集が高昌を平定した[194]。
九月癸卯(二十二日)、高昌の部衆及び将兵に対して、父子関係で死罪に当たる者、期功の喪服関係で流刑に当たる者、大功の喪服関係で徒刑に当たる者、小功・緦麻の喪服関係で杖刑に当たる者を、すべて赦免した[195]。
閏十月乙未(十五日)、同州へ巡幸した。甲辰(二十四日)、堯山で狩猟を行った。庚戌(三十日)、同州から帰還した[196][196]。
十一月甲子(十四日)、南郊で天地の祭祀を行った[197]。
十二月丁酉(十八日)、侯君集が高昌王を捕虜として献上し、三日間の酒宴を賜った[198]。
薛延陀を討伐する
貞観十五年(641年)正月辛巳(四日)、洛陽宮に行幸し、温湯に滞在した。この時、衛士の崔卿と刁文懿が謀反を企てたが、誅殺された[199]。
三月戊辰(二十二日)、襄城宮に行幸した[200]。
四月辛卯(十六日)、詔を下して来年二月に泰山で封禅の儀を行うと発表した。乙未(二十日)、洛州の当年の租税を免除し、既に租税免除を受けていた家には更に一年分を加えて免除するとともに、八十歳以上の民には物品を賜り、孤独・寡婦・病弱で自立できない者には米二斛(約120リットル)を与えた。また、囚人の審理を行った[201]。
六月己酉(五日)、太微垣に彗星が現れた。丙辰(十二日)、泰山封禅の中止を決定し、正殿での政務を控え、食事を簡素化した[202]。
七月丙寅(二十三日)、周・隋両朝の名臣および忠烈の子孫で、貞観年間以降に流刑・配流となっていた者を赦免した[203]。
十月辛卯(十九日)、伊闕で狩猟を行った。壬辰(二十日)、洛陽宮に戻った[204]。
十一月癸酉(二日)、薛延陀が国境を侵犯したため、兵部尚書の李世勣を朔州道行軍総管に、右衛大将軍の李大亮を霊州道行軍総管に、涼州都督の李襲誉を涼州道行軍総管に任命し、討伐に向かわせた[205]。
十二月戊子(十七日)、洛陽宮から帰還した。庚子(二十九日)、三品以上の高官の嫡子に対し、東宮(皇太子)に仕えるよう命じた。辛丑(三十日)、囚人の審理を行った。甲辰(貞観十六年正月三日)、李世勣が薛延陀と諾真水で交戦し、これを撃破した。乙巳(四日)、戦死した将兵に官位三階を追贈した[206]。
李承乾を廃嫡する
貞観十六年(642年)正月乙丑(九日)、使者を西州に派遣して民心を安定させた[207]。
戊辰(十二日)、西州の守備兵を募集するに当たり、以前に流刑を犯して逃亡・潜伏していた者には自首を認め、応募を許可した[208]。
辛未(十五日)、全国の死罪囚を西州に移住させて実辺にあたらせた。中書舎人の岑文本を中書侍郎に任じ、もっぱら機密文書を管轄させた[209]。
六月戊戌(十五日)、昼間に太白星(金星)が現れた[210]。
七月戊午(五日)、長孫無忌を司徒に、房玄齢を司空に任命した[211]。
十一月丙辰(五日)、武功で狩猟を行った。壬戌(十一日)、岐山の南で狩猟を行った。甲子(十三日)、通過した六県の高齢者・孤児・病人に毛氈・寝具・粟・布帛を賜り、続いて慶善宮に行幸した[212]。
貞観十七年(643年)二月十九日、囚人の罪状を審査し記録した[213]。同月二十八日、功臣の画像を凌煙閣に描かせた[214]。
三月二日、葬礼において規範に反する儀式を禁止した。同月六日、斉王・李祐が反乱を起こし、李勣がこれを討伐に向かった。同月十四日、旱魃のため、太宗は使者を派遣して囚人の判決を再審させた。同月十五日、斉王・李祐が処刑され、詔により斉州の労役を一年間免除した[215]。
四月六日、太宗は皇太子・李承乾を廃して庶人とし、漢王・李元昌や侯君集らを処刑した。同月七日、晋王・李治を皇太子に立て、大赦を施行するとともに、文武官および五品以上の官員に対し父祖の爵位より一階進んだ爵位を賜り、民衆のうち八十歳以上の高齢者には食糧と布帛を下賜し、三日間の酒宴を許可した。同月十一日、太宗は太廟に赴き李承乾を誤って立てた過失を自ら陳謝した[216]。
六月十六日、旱魃のため正殿での政務を控え、食事を簡素化し、京官五品以上の官員に時政を議論するよう詔を下した[217]。
十月一日、各州の在京官署を設置した[218]。
十一月三日、長安城南郊で祭天の儀を挙行した。同月六日、三日間の酒宴を許可し、涼州で瑞祥の玉石が発見されたことを理由に同州に恩赦を施行した[219]。
高句麗討伐
貞観十八年(644年)二月十三日、諸州に帰属する突厥及び高昌部族の民の徭役を二年間免除した[220]。
七月三日、営州都督の張倹が幽州・営州の兵力と契丹・奚の軍勢を率いて高句麗を討伐した[221]。
八月十一日、安西都護の郭孝恪を西州道行軍総管に任じ、軍を率いて焉耆国を討伐させた[222]。同年九月、郭孝恪は焉耆と交戦し、これを撃破した[223]。
十一月八日、囚人の罪状を審査し記録した[224]。同月十日、使者を鄭州・汝州・懐州・沢州の四州に派遣し高齢者を巡視・慰問し、宴を賜い褒賞を与えさせた。同月二十四日、張亮を平壌道行軍大総管に、李勣と馬周を遼東道行軍大総管に任じ、十六の総管の兵力を統率させて高句麗を討伐させた[225]。
貞観十九年(645年)二月十二日、太宗は洛陽宮に向かい、高句麗征討の準備を進めた[226]。同月十七日、皇太子の李治を定州に留め置き、国政を代行させた[227]。
四月六日、幽州において出征の誓いを立て、将士を大いに労った[228]。同月二十六日、李勣が
五月二日、平壌道行軍総管の程名振が
六月一日、白巌城を攻略した。同月二十三日、安市城の東南山地において高句麗軍を大破したが、左武衛将軍の王君愕が戦死した[231]。
九月十八日、凱旋した。十月十一日、帰途に営州に滞在し、牛・羊・豚の三牲を用いて国難に殉じた者を祀った。同月二十一日、皇太子の李治が臨渝関に赴き太宗を出迎えた。同月二十三日、漢武台に滞在し、石碑を刻んで戦功を記録した[232]。
十一月九日、幽州において将士を大いに慰労した[233]。十二月二十五日、薛延陀部族が夏州を侵犯したが、左領軍大将軍の執失思力がこれを撃破した[234]。
薛延陀を再討伐する
貞観二十年(646年)正月八日、夏州都督の喬師望が薛延陀と交戦し、これを撃破した[235]。
同月十四日、太宗は使者二十二人を全国に派遣し、六条の規定に基づいて官吏の考課・昇降を行わせた[236]。
同月十七日、并州に恩赦を施行し、義兵挙兵時の戸籍に登録された者は徭役を三年間免除し、後に帰順した者は一年間の労役を免除した[237]。
二月一日、高句麗征討に従軍しながら戦功のなかった官人全員に勲官一階を賜った[238]。
三月七日、太宗は高句麗より長安に帰還した[239]。
六月十五日、江夏郡王の李道宗と李勣が薛延陀を討伐した[240]。
七月二十一日、李勣が薛延陀軍と交戦し、これを撃破した[241]。
九月二日、太宗は使者を嶺南に派遣して巡察させた[242]。
同月十五日、鉄勒諸部族が太宗に対して「可汗」の尊号を奉ることを請願した[243]。
十一月一日、太宗は詔を下して「祭祀の挙行、上奏文書・藩国賓客の対応、兵馬の移動、宮中警備の魚符を用いた駅馬徴発、五品以上官職の任命・解任・死罪判決についてはすべて朕に奏上すること。その他の事務は皇太子に委ね処置させる」と定めた[244]。
高句麗再征
貞観二十一年(647年)正月十日、太宗は詔を下し、来年二月に泰山で天地の祭祀を行うと発表した[245]。
同月二十七日、鉄勒諸部族を唐朝の州県に編入し、長安の民衆に三日間の酒宴を許可した。また、囚人の罪状を審査・記録し、死刑以下の刑罰を減刑した[246]。
三月二日、左武衛大将軍の牛進達を青丘道行軍大総管に、李勣を遼東道行軍大総管に任じ、三つの総管の兵力を統率させて高句麗を討伐させた[247]。
五月七日、百官に皇太子による政事裁決を告諭した。同月二十五日、李勣が南蘇城と木底城を攻略した[248]。
七月十一日、牛進達が石城を陥落させた[249]。
八月、泉州で高潮による浸水被害が発生した。同月八日、泰山での祭天儀礼の中止を決定した[250]。
十二月二十六日、左驍衛大将軍の契苾何力を昆丘道行軍大総管に任じ、三つの総管の軍勢を率いて亀茲を征伐させた[251]。
第三次高句麗遠征
貞観二十二年(648年)正月、太宗は自ら著した『帝範』十二篇を皇太子・李治に下賜し、次のように戒めた。「汝は古の聖哲の帝王を師とすべきであり、朕のような者は決して手本とするな。上を手本とすれば中を得、中を手本とすれば下を得るに過ぎぬ。朕が即位以来、過失は数多い──錦繍と珠玉を絶やすことなく前に置き、宮室や楼閣を繰り返し造営し、犬馬や鷹隼を遠方から求めさせ、四方を行幸して供応に煩わせた。これら全ては朕の最大の過失である。決して朕を模範として倣うな」[252]。
同月二十五日、左武衛大将軍の薛万徹を青丘道行軍大総管に任じ、高句麗討伐に向かわせた[253]。
二月四日、太宗は長安の父老を引見して慰労し、京城の当年の田租を半減し、畿内の租税を三分の一免除した。同月十六日、詔を下して「高句麗征討において遼水を渡り戦功を立てながら未褒賞の者については、罪を犯した場合でも既に官位を授かった者と同等に扱う」と定めた[254]。
三月七日、宜君県に恩赦を施行し、玉華宮の苑林から宜君県に移住した県民の労役を三年間免除した[255]。
四月二十七日、薛万徹が泊灼城で高句麗軍と交戦し、これを撃破した[256]。
八月二十三日、執失思力が金山において薛延陀の残党を討伐した[257]。
九月二日、昆丘道行軍総管の阿史那社爾が処月・処密の地で薛延陀残党と交戦し、これを撃破した[258]。
十月二十日、阿史那社爾が亀茲と交戦し、これを撃破した[259]。
十二月二十五日、長安・万年両県の徒刑以下の囚人を減刑した。閏十二月十七日、囚人の罪状を審査・記録した[260]。
死去
貞観二十三年(649年)、太宗は病を得、皇太子・李治に金液門で国政を代行させた[261]。五月己巳の日(西暦7月10日)、太宗は終南山の翠微宮含風殿にて崩御する。享年五十二[262]。初め文皇帝と諡され、廟号は太宗、昭陵に葬られた[263]。
唐の高宗・上元元年(674年)、諡を追加して文武聖皇帝とされた[264]。
天宝十三年(754年)、さらに文武大聖大広孝皇帝と諡を追加された[265]。
功績
政治
太宗李世民は、賢才を登用しその能力を見極めて適材適所に配するとともに、言路を開き謙虚に諫言を受け入れる姿勢を貫いた。さらに、農業を基幹とし税や労役を軽減して民力の回復に努め、倹約を励行し科挙制度を整備するなど、一連の政策を推進。これにより社会は平穏を取り戻し、繁栄の兆しが見られるようになった。この期間、政治は清明で社会は安定し、経済は繁栄、人々は安居楽業するという、史上「貞観の治」と称される治世を実現した[266]。
人材の選抜と任用
太宗の治世における成果は、その体系的かつ卓越した人材登用策に核心がある。挙兵から帝位即位に至るまで、常に天下の人材を網羅することを最優先とし、その「賢人政治」は以下のように表れている。第一に、賢才を渇望し、弘文館を設置し、たびたび求賢の詔を発して、朝廷内外や民間はもとより、過去の政敵(魏徵など)からも積極的に人材を発掘した。第二に、才能ある者を挙げることを旨とし、「短所を捨て長所を取る」ことを主張。家柄(世族・庶族)を問わず、徳行と才幹を兼ね備える者を求めた。第三に、制度による保障として、考課の法を推行し、「四善二十七最」によって官吏を考核。さらに地方の刺史の選抜と監督を制度化した。第四に、人を任用した以上は疑わず、功臣を保護したことである。誠意をもって臣下に接し(尉遅敬徳など)、原則を堅持しつつも寛容に諭し、功臣の大半を善終させ、政情を安定させた。まさにこの、「選抜・任用・考核・保全」を一体とした完結した人材体系を通じて、太宗は房玄齢、杜如晦、馬周をはじめとする数多くの傑出した人物を結集し、共に「貞観の治」の礎を築いたのである[267]。
科举制度を整備する
唐太宗時期において、人材選抜の主要な方式は科挙制であった。太宗はその制度を体系的に整備し、試験科目においては秀才科・明経科・進士科を中心とし、特に進士科の難度と地位を意図的に高めることで、社会的威信を確立した。選抜過程では、礼部による第一次試験(中進士の資格取得)と吏部による二次銓選(書・貌・言・判の実務審査)という二段階選考を導入し、官吏の実務能力を担保した。さらに常科に加えて皇帝直轄の制挙(殿試)を設け、特殊な才能や德行を評価する補充的選抜ルートを確保した。一方で、科挙と教育を統合し、『五経正義』を全国的な標準教材として定めることで、養士(人材育成)と取士(人材登用)の制度的一貫性を実現した。これらの改革により、魏晋以来の門閥主義的選考を改め、学識と能力に基づく公平な登用を推進。その結果、庶族地主層の政治的参加を拡大し、統治基盤の強化と「貞観の治」の持続的発展を支える制度的基盤を確立した[268]。
行政制度の改革
太宗の治世において、国家統治体系を強化するため、隋代に確立された三省六部制に対し決定的な改革と改善を行った。彼は中書省・門下省・尚書省の職権を明確に区分し、中書は詔書起草、門下は審議・修正、尚書は執行を担う相互抑制・協調運営の機制を構築。さらに「政事堂」議政制度を創設し、「同中書門下三品」などの官職を持つより多くの官吏が决策に参与できるようにし、合議による宰相制度を形成した。これにより君権を強化しながらも権臣の専断を防止した。同時に、太宗は賢才を積極的に登用し、房玄齢・杜如晦などを代表とする新世代の治国人材を中枢に迎え、宰相班子の最適化と世代交代を実現した。この一連の改革は、中央行政体系の職能分担と抑制・均衡を健全化しただけでなく、「貞観の治」に対し、効率的かつ安定的な制度的基盤を築いたのである[269]。
機構の簡素化
太宗は行政効率の向上と財政支出の抑制を図り、「官員の併省」による機構簡素化を断行した。まず中央では房玄齢らに命じ、官職を厳選して文武官を総計640員に限定。これにより中央政府の意思決定速度と実行力が向上した。地方では州・郡・県の三級制を州・県の二級制に改め、隋末以来乱立した行政単位を大胆に統合。貞観14年(640年)までに州360・県1557に整理し、民衆の負担を軽減するとともに地方行政の効率化を推進した。さらに全国を10の巡察区(道)に分け、特使を派遣して官吏の監察・考課を行い、中央統制を強化。これら一連の改革は、機構の冗長性を排し、統治システムの合理化を通じて「貞観の治」の基盤を確立した[270]。
『氏族志』の再編纂
太宗は、魏晋以来、山東の旧族(崔・盧・李・鄭・王など)を中心として維持されてきた伝統的な門閥秩序を打破するため、貞観六年(632年)に高士廉らに命じて『氏族志』の再編纂を行わせた。彼は旧族が「かつての地勢を頼みに驕り高ぶり」婚姻を通じて財を蓄える風潮を明確に批判し、編纂者に対し「専ら今朝の品秩を以て高下と為す」という原則に基づくよう指示。皇族を第一等、外戚を第二等と定め、伝統的な郡望ではなく現王朝における官爵を氏族序列の基準とした。この措置は、実質的に関隴軍事貴族を中核とし、新興の庶族官僚をも統合した新たな政治的アイデンティティ体系を構築するものであり、皇室と功臣集団の社会的声望を高め、唐初の中央集権統治を強化するとともに、旧来の門閥観念を変革するというイデオロギー上の転換を達成したのである[271]。
言路を開く
太宗は、天下統治を補佐させるとともに自らの施政を不断に検証するため、積極的に賢才を登用し、「犯顔直諫」を奨励する言路開放政策を推進した。具体的には、進言者に対する褒賞制度を設け(例:張行成の地域偏見指摘への賜物)、発言を制度的に保障。さらに于志寧のような実務官僚から魏徵のような核心的諫臣に至るまで、各層の直言を広く受け入れ、特に魏徵の数百に及ぶ進言は政策形成に決定的な影響を与え、「我が鑑」と称された。こうした体系的な納諫体制は、皇帝の独断を抑制し、君臣一体の議論を通じて政策の妥当性を高め、「貞観の治」の重要な精神的基盤を形成した[272]。
法制の整備
太宗は「慎刑による冤罪防止」を核心に、一連の法制改革を推進した。死刑審査では「九卿による刑案審議」制度を創設し、「五度の復奏」手順を整備。違反官僚を厳格に処罰することで誤殺を極力抑制した。獄政管理では「録囚」制度を充実させ、自ら囚犯の審録に参与し巡察職責を規範化するとともに、獄官の監督責任を明確化。冤罪や滞獄案件の是正を通じ、囚犯の基本的権利を保障した。拷問制度では、刑具規格と拷訊手続を厳格に制限し、拷問回数・間隔を設定。拷問濫用の官吏を厳罰に処し、虚偽自白の強要を根源から抑制した。これらの改革は司法監督と手続的制約を体系的に強化し、儒家的「寛仁治獄」理念を制度的実践へ転化。唐代法体系の成熟と安定の礎を築いたのである[273]。
経済
唐太宗は即位当初、隋末の動乱による人口激減と経済疲弊という困難に直面し、果断に「民を撫でて静かにする」治国方略を推進した。「国は人を本とし、人は衣食を本とする」を核心理念とし、君主は「簡静無為」を旨とし、兵役や土木工事による民衆への負担を避けて農期を確保することにより、民衆を休養生息させ、農業に専念させることを強調した。文治を重んじて武力を抑え、徭役や税負担を軽減する政策を通じ、唐太宗は農業生産の回復を国家安定と統治基盤の根本と位置づけ、社会経済の再生を推進し、唐朝の安定と繁栄の堅固な基礎を築いた[274]。
農業重視
唐太宗は「国は人を本とし、人は食を天とす」を治国の礎とし、「農業重視」を核心的な国策として確立した。これを中心に、農業の回復と発展に向けた一連の施策を体系的に推進した。均田制の施行や開墾奨励により農民の土地問題の解決に尽力し、租庸調の軽減や輸庸代役の実施を通じて民衆の負担を軽減。宮女の解放、婚姻奨励、流出人口の買い戻しなどで人口増加を促進し、水利機構の整備と陂塘の修築によって農業生産条件を改善した。さらに自ら倹約を実践し、藉田の儀礼を復活させ、農時を尊重することを厳命するなど、制度と行動の両面から農事優先を確保した。こうした「民を静めて農に務めさせる」を方針とする総合的な政策は、隋末の動乱後の経済的荒廃を効果的に転換し、社会生産力の迅速な回復と発展を促し、「貞観の治」の繁栄に確かな物質的基盤を築いた[275]。
商業貿易を重視する
唐太宗は「農業重視」を推進する一方で、「農本商末」の伝統を打破し、商業が経済を繁栄させる重要な役割を高度に重視した。積極的に各民族の交易要請を支持し、吐谷渾・高昌・西突厥を平定することで西域への商路を確保し、シルクロードを再開させた。互市監などの専門貿易管理機関を設置し、互市貿易を奨励した結果、長安は国内外の商人が集まる国際的な商業中心となった。こうした商業を積極的に支援する一連の政策は、国内及び域外貿易の隆盛を促し、貞観の治における経済の全面的な繁栄に決定的な推進力を与えた[276][277]。
軍事
軍事制度
唐太宗は即位後、辺境の防衛圧力への対応と中央集権の強化を図るため、府兵制の大規模な改革を推進した。最高統帥機関である十六衛を整備し、有能な将軍を任命するとともに、軍隊の指揮権を皇帝が厳格に掌握し、「兵は府に散じ、将は朝に帰る」という原則を徹底した。基層組織を改革し、折衝府を上・中・下の三等に分け、その下に団・旅・隊・火を設置することで、厳密な編成体制を構築した。同時に、兵役と訓練制度を充実させ、均田制に基づく農民からの兵士選抜(簡点)や服役規則を明確化し、自ら騎射を指導するとともに冬季訓練を強化して戦闘力を向上させた。さらに、辺境での屯田による食糧備蓄、烽火台を用いた警戒通信制度の再整備、馬政の充実による軍馬の増産、精強な騎兵部隊の編成など、国防施策を幅広く展開した。これらの改革により、府兵制は最盛期を迎え、三省六部制を中心とする政治制度や均田制を基盤とする経済制度と相互に連携し、唐王朝の統治体制の中核を形成したのである[278]。
禁軍の変遷
唐代の中央軍隊は府兵以外に、もう一つの重要な軍事力として禁軍が存在した。高祖李淵が長安で皇帝に即位した後、太原挙兵時の3万兵を宿衛として残留させ、「元従禁軍」と称した。これが唐代最初の禁軍である。元従禁軍は世襲兵制を採用し、一般の衛士より高い待遇を受けた。貞観初年、太宗は騎射に優れた者を選抜して「百騎」を編成し、二番制で北門の宿衛を担当させた。さらに武勇に優れた精鋭を選んで北衙七営を組織した。貞観12年(638年)には北門に左右屯営を設置した[279]。
軍事区画
唐太宗の治世において、国防強化と中央集権化を推進するため、体系的な軍事区画改革が実施された。貞観元年(627年)に全国を十道に分割し、「内重外軽」の防衛構想を確立した。すなわち関中地域を中核とし、折衝府を集中的に配置(全国で約600余府、総兵力60万人)し、関内道だけでも全兵力の三分の一以上を駐屯させることで、「関中の勢力をもって四方に臨む」という軍事配置を実現した。その後、十二道制に再編し、辺境情勢に応じて兵力を動態的に配分。吐蕃に対応する北西地域(河西・隴右・剣南道)や、突厥・奚・契丹などに対応する北方地域(河東・范陽・平盧道)の軍備を重点的に強化し、中央軍と地方軍を交差配置し、内外が連動する防衛体制を構築した。同時に辺境の安定を図るため、貞観14年(640年)から都護府を順次設置し、辺遠地域の軍政を統轄させ、唐代前期の辺防体制を完成させた[280]。
対外戦争
唐太宗の治世では、「積極的防衛・戦をもって戦を止む」を中核とする成熟した国防戦略体系が形成された。その核心は、軍事行動と制度整備を並行して推進した点にある。北方では、精確な打撃(630年の東突厥討滅など)、分化懐柔(鉄勒諸部の招撫など)、持続的抑圧(646年の薛延陀平定など)を通じて、軍事勝利を迅速に制度的支配へ転化し、都護府の設置や「参天可汗道」の整備により、「天可汗」を象徴とする羈縻(きび)支配秩序を構築した。西北では、634年の吐谷渾征服、640年の高昌平定、およびその後継的な安西四鎮の設置により西域を体系的に掌握し、シルクロードの安全を確保した。東北に対しては、持続的消耗戦略(644-648年の高句麗三度遠征)を採用し、急進的占領より軍備・経済の漸進的弱体化を図り、後世の統一基盤を整えた。こうした一連の施策は、「内重外軽」の兵力配置原則と「懐柔と威圧を使い分ける」柔軟な戦術を貫き、最終的に軍事的威嚇・政治的懐柔・制度的保障が三位一体となった辺境統治モデルを確立。これは、盛唐期の領土拡大と長期安定に対する構造的基盤を築き上げたのである[281][282]。
文化
文学芸術の発展
唐太宗は、統一王朝の強化と思想文化の規範化を図るため、典籍の整理と経学の統一を積極的に推進した。南北朝以来の経義の混乱とテキストの誤りに対処するため、まず顔師古に命じて『五経』の校訂を行わせ、『五経定本』を全国統一の教材として頒布。さらに孔穎達に『五経正義』の編纂を主導させ、経義解釈をさらに統一し、科挙の基準として確立した。この措置は長年にわたる経学派閥争いを終結させ、唐代の政治・学術のみならず後世の理学にも深遠な影響を与えた。さらに、史館を設置して歴史編纂を推進し、『史通』などの著作を生み出した。西域の音楽・舞踊・絵画・飲食などの文化を積極的に受け入れ、胡と漢の融合を促進。玄奘の経典翻訳を支持し、儒教・道教・仏教の三教併存政策を実施するなど、包容力に富んだ文化的繁栄の状況を築き上げた[283]。
弘文館を設置する
唐太宗は即位後、秦王府文学館の政策諮問と学術機能を継承するため、弘文殿に弘文館を設置し、後に納義門西へ移転させた。館内には経史子集など二十万巻余りの書物を収蔵し、虞世南ら天下の優れた学識者を選抜して本官のまま学士を兼務させ、交代で宿直勤務に当たらせた。太宗は政務の合間に学士らを内殿に召し、歴代の治乱得失を講義させるとともに当代の政事について議論を交わし、夜遅くまで続けることも少なくなかった。弘文館は典籍の校訂・著作の編纂・学生の指導といった学術教育機能に加え、実際に礼儀・法令・制度の審議制定にも参与し、学術・教育・政策諮問を融合した重要な機関として機能した[284]。
儒教尊重
唐太宗は即位後、体系的に孔子尊崇と儒教振興を推進し、儒学を官学及びイデオロギーの正統的地位に確立した。詔を下して周公の祭祀を廃し、孔子を「先聖」として国学に孔子廟を建立、顔回を「先師」と定め、広く天下の儒士を登用して官職に就かせた。貞観年間には、孔子を「宣父」と尊称して専用の廟を設けて祭祀を行うだけでなく、歴代の儒家経学の学者を顕彰し、左丘明や鄭玄など二十一の漢晋の学者を孔廟に配祀する詔を発布、今文・古文の学や南北学派の統合を図った。これらの施策は国家の文教体系を強化するとともに、経学伝統を統合することで唐代儒学の復興と科挙制度の確固たる基礎を築いた[285]。
儒教教育の重視
唐太宗の治世において、中央から地方に至る体系的な三段階の官学システムが確立された。中央では、国子監のもとに従来の国子学・太学・四門学・書学・算学の五学に律学を増設し、「六学」を構成。さらに弘文館と崇賢館(後に崇文館と改称)が生徒を受け入れることで、「六学二館」からなる中央官学の中核構造が形成された。太宗は自ら国学を視察して儒師を表彰したほか、孔穎達ら経学の重臣を教育の責任者に任命し、経典編纂と人材育成を緊密に連携させた。地方においては、州県学の制度をさらに整備し、郡県の等級に応じて生徒の定員を規定。さらに諸州に医学を普遍的に設置するという画期的な措置を講じ、医薬博士が教授を担当する体制を確立し、儒学と専門技術を共に含む教育ネットワークを構築した。この体系は科挙制度と緊密に連動し、州県の優秀な生徒は中央に推薦され常挙を受験することができた。加えて軍府にも博士を置いて教育を行わせ、高昌・吐蕃・高句麗・新羅・日本などから多数の留学生が入学し、空前の国際的教育隆盛を現出させた。これらの施策は唐代の文治隆盛に対し、堅固な制度的・人的基盤を築く礎となった[286]。
礼楽を重視する
唐太宗の治世においては、「礼楽制を整える」ことを中核として、文治と武功を融合し古今を貫く王朝の礼楽体系が体系的に構築された。即位後すぐに祖孝孫や張文収らに命じて『大唐雅楽』を制定させ雅楽の正統性を確立するとともに、建国の武功を象徴する『秦王破陣楽』を改編して『七徳舞』とし、文徳治世を体現する『九功舞』を新たに創作した。この二つの楽舞を並行して演奏させることで、「文武併用」という治国理念を儀礼的に表現したのである。礼制の面では、二度にわたる大規模な改訂を組織している。貞観七年(633年)に最初の『貞観新礼』を頒布した後、貞観十一年(637年)には房玄齢・魏徴・孔穎達らに命じて増補改訂を行わせ、138篇からなる『大唐新礼』を完成させた。これにより南北の礼学を統合し、三代の典礼を考証して、唐代国家礼典の基盤を確立したのである。太宗は礼楽の政治的教化機能を強く重視し、礼によって君臣の秩序を規範化し風俗を矯正する(例えば僧侶・道士が父母から跪拝されることを禁止)とともに、礼楽の実践を通じて王朝の正統性を顕示し、「偃武修文」へと向かう治国方針の転換を推進した。この一連の施策は、「破陣」「慶善」両楽舞併奏の制度と体系的に完備された国家礼典を形成しただけでなく、魏徴の『礼論』や張文収の『新楽書』に代表される礼楽研究の隆盛も促し、唐代礼楽文明の隆盛と東アジア礼楽体系形成の制度的・理論的基盤を築いたのである[287]。
民族文化を尊重する
唐太宗は民族政策において開放的で包容的な態度を取り、各民族の文化習俗を充分に尊重し、漢族の風習と民族の伝統に差異が生じた場合は「それぞれの習俗に従う」ことを明確に求めました。例えば、頡利可汗が突厥の礼儀に基づく火葬を行うことを許可したことがその一例です。また、広範に和親政策を推進し、宗室の女性を東突厥、鉄勒、吐谷渾、西突厥、薛延陀などの部族長に嫁がせることで、婚姻を紐帯とした政治・文化のネットワークを構築しました。中でも最も影響が深かったのは文成公主のチベット入りであり、彼女が携行した典籍、工匠、農桑技術、礼楽制度は、吐蕃社会の経済発展を促進しただけでなく、漢蔵文化交流を推進し、吐蕃の子弟を国学に入れて経学を学ばせ、現地の一部の風習を変えることにもつながりました。これらの施策は民族間の矛盾を効果的に緩和し、辺境地域の社会発展と文化融合を推し進め、唐代多民族国家の統治に実践的基盤を築きました[288]。
民族
唐太宗は在位期間中、民族関係において根本的な転換を実現し、「中華を尊び、夷狄を卑しむ」という伝統的な観念を捨て、「四海を一家の如く視る」「天下を家となす」という平等思想を明確に打ち出しました。彼は徳の恩恵をもって四夷を感化すべきと主張し、「夷狄もまた人であり、その心情は中華と異ならない」と考え、「等しく愛しむ」ことで、各民族を「父母のように皇帝に帰依させる」ことを追求しました。この思想の下、貞観の治では開明的で友好的な民族政策が推進され、羈縻州の設置や和親・会盟などの懐柔策を通じて、唐代多民族国家の融合と安定を効果的に促進しました[289]。
唐太宗の在位期間中、体系が完備され、実用的かつ柔軟な民族統治システムが構築され、制度・人事・戦略の三つの側面から多民族帝国の深い統合が推進された。政治的統合においては、官僚制度を革新し、中央に鴻臚寺や主客司などの機関を設置して蕃族事務を専門に扱わせた。さらに「員外官」制度を創設し、契丹・奚・于闐などの首領に唐朝の官職を授与することで、彼らが自らの民族的権威を保持しつつも国家の官職体系に組み込まれるようにし、「その習俗に沿って治める」ことと政治的懐柔との両立を図った。制度の創設においては、羈縻府州制を全面的に推行し、突厥・回紇・薛延陀などの地域に府州を設置して、現地の首領を世襲の都督・刺史に任命した。「その部族を丸ごと保全し、その風土と習俗に順応する」という自治政策を実施し、定襄都督府・雲中都督府・堅昆都督府などが広く辺境に設置され、内地の州県とは異なる二層の統治モデルを形成した。人材戦略においては、華夷の区別を打破し、少数民族の将領や首領を多数登用した。突厥の阿史那社爾や契苾何力に軍権を委ね、突利可汗や吐迷度らに都督・大将軍の位を授けた。賞罰においては平等を堅持し、薛万鈞や侯君集といった漢人将領への厳格な処罰を通じて、「信賞必罰、才ある者を任用する」という統治原則を明確に示した。戦略的均衡においては、多元的な懐柔手段を採用した。和親政策(文成公主のチベット入りなど)による姻戚関係の構築、薛延陀平定における軍事的抑止と懐柔の併用、さらに「天可汗」体系を借りて唐朝を中心とする冊封・朝貢秩序を構築し、「参天可汗道」を開設して連携を強化した。これらの措置は辺境の安定をもたらしただけでなく、経済・文化の相互交流と民族的アイデンティティの形成を促し、「唐人」という共同体、そして後世の統一的多民族国家の構造の基盤を築いた[290]。
外交
中外関係においても急速に活況が見られるようになった。貞観後期には、「周辺諸国の大小の君長が競って使者を派遣し献上品を携えて謁見を求めたため、道上は絶えることなく、元正(正月の朝賀)の際には常に数百千人に及んだ」と記されている[291]。
インド
太宗の治世において、唐とインド(天竺)は緊密な外交関係を築き、その進展は太宗の先見の明と唐の国威を示すものであった。 貞観5年(631年)、ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)は玄奘の紹介により初めて太宗の「神武」と唐の強盛を知り、貞観15年(641年)に使節を派遣して朝貢した。太宗は直ちに雲騎尉梁懐璥を節を持たせて慰問に遣わし、正式な往来が始まる。この関係を強化し国威を宣揚するため、太宗は貞観17年(643年)に李義表を正使、王玄策を副使とする22人の使節団を摩掲陀国に派遣、戒日王の熱烈な歓待を受け、数年かけて天竺各国を巡歴し、唐の影響力を大いに高めた[292]。
貞観22年(648年)、今や正使として再びインドに赴いた王玄策は、戒日王の死後国内が大乱し、その臣下である阿羅那順が簒奪して唐への敵対政策を採るという状況に直面した。王玄策は略奪を受けて捕らえられたが、果断にも吐蕃と尼婆羅(ネパール)に援軍を求め、寡兵ながらも中天竺を平定し、阿羅那順を捕らえて長安に送還した。この事件は天竺全土に衝撃を与え、各国が競って貢物を献上するようになった。太宗はこれを大いに賞賛し王玄策を抜擢、この措置は唐の尊厳を守ったのみならず、「四夷を賓服させる」という戦略を南アジアにまで拡大し、貞観時代の積極的な外交姿勢を体現したのである[293]。
真腊
貞観2年(628年)、太宗は
日本
貞観4年、日本の舒明天皇2年(630年)8月、日本朝廷は最初の遣唐使節団を派遣した。正使は犬上三田耜、副使は学問僧の薬師恵日であった。貞観5年、舒明天皇3年(631年)11月、遣唐使節団は長安に到着し、太宗は犬上三田耜と恵日を接見した。貞観6年、舒明天皇4年(632年)、太宗は新州刺史の高表仁を使臣として日本に返礼派遣し、日本使節の帰国を護送させた。舒明天皇は唐使の来訪を知ると、大いに重視し、直ちに盛大な歓迎団を組織し、自ら三十余隻の船を率いて難波津で唐使・高表仁を迎えた。しかし、国書授受の礼儀を巡って双方に対立が生じた。高表仁は「天皇が御座を下り、北を向いて唐使の国書を受けよ」と要求したが、舒明天皇はこの要求が過分であると考え、対等の礼でのみ応じうるとした。こうして双方が譲らず、結局高表仁は怒って太宗の国書を奉呈することを拒否し、直ちに帰国の途についた。帰国後、高表仁は太宗から厳しい処分を受け、官職を免ぜられた上、二年間の俸禄を没収されるに至った[295][296]。
林邑
貞観年間(627年—649年)、林邑はたびたび使者を派遣し、訓象(訓練された象)、鏐鎖(金の鎖)、五色帯、朝霞布(ちょうかふ、絹織物の一種)、火珠(光る宝玉)、五色鸚鵡などを献上したと記録されている[297]。
高句麗
太宗の高句麗に対する政策は、辛抱強く準備を重ねる段階から軍事的討伐へと根本的に転換した。 即位当初、太宗は高祖が受け入れた高句麗の臣従・朝貢の枠組みを引き継ぎながらも、その表面上の恭順と実態的な敵対行動に対して高度な警戒を保っていた。高句麗は隋軍将兵を辱める「京観」を撤去せず、千里に及ぶ長城を築き、新羅・百済の唐朝への朝貢路を遮断していた。太宗は隋軍将兵の遺骨を埋葬する使節を派遣し、陳大徳を偵察に赴かせるなどして圧力を加えつつ情報を収集するとともに、世子の桓権を厚遇することで表面的な関係維持を図った。貞観16年(642年)に泉蓋蘇文が君を弑して実権を握ると、双方の脆い信頼関係は完全に崩壊した。これを機に太宗は武力による解決を決断し、貞観19年(645年)より三次にわたる大規模な遠征を展開、高句麗を滅ぼすには至らなかったもののその国力を著しく削弱し、後世における朝鮮半島平定の戦略的基盤を確立した[298]。
吐蕃
唐太宗時期における対吐蕃政策は、武力衝突を経て和親による羈縻体制構築へと転換した。 貞観8年(634年)の吐蕃の朝貢に応じた太宗の使節派遣で関係が始まったが、貞観12年(638年)の和親拒絶を契機に松州の戦いが勃発。唐軍の夜襲勝利により吐蕃は撤退・謝罪したが、この衝突は双方に限界を認識させた。当時、唐の戦略重点は北方・東北にあり、西南では防衛的枠組みを模索していた。太宗は和親を通じた「舅婿関係」の構築により吐蕃を羈縻体制に組み込み、国境安定を図ろうとした。一方、吐蕃の松賛干布も先進技術導入と国内基盤強化のため和親を求め、貞観15年(641年)の文成公主入蔵によって唐朝を中心とした秩序への形式的統合が完成した[299]。
吐谷渾
太宗の吐谷渾に対する戦略は、分断瓦解から軍事征服に至る一貫した過程を経た。 太宗が即位した頃、吐谷渾はタングート(党項)と連携して唐の辺境を二十余度も侵していた。太宗はまず外交手段で吐谷渾の同盟勢力であるタングート諸部族の懐柔に成功し、これを孤立させた。機が熟すると、貞観8年(634年)に李靖を総指揮官として十万の軍を分路西征させ、空前の規模で吐谷渾を徹底的に撃破し、
百済
太宗の百済に対する政策は、柔軟な説得から戦略的警戒への転換を遂げた。 即位当初、太宗は詔書を賜ることで百済の藩属地位を明確に認めつつも、同じく唐の藩臣である新羅への侵攻を止めさせ、朝鮮半島の「平和的共存」を図ろうとした。しかし百済王の
新羅
太宗の治世において、新羅は積極的な朝貢外交と戦略的接近を通じて、自らを朝鮮半島における唐の重要な藩属国かつ戦略的支点として位置づけることに成功した。 百済と高句麗の同盟による圧迫と朝貢路遮断の危機に直面し、新羅はたびたび使者を遣わして太宗に救援を要請し、自国の安全を唐の東アジア朝貢秩序の維持と直結させた。貞観22年(648年)、金春秋親子が入唐し、「中華の制度に改める」「子を宿衛として遣わす」といった文化的・政治的な徹底的な臣従の姿勢を示すことで、太宗の深い信頼と出兵の約束を獲得した。太宗もまた、新羅が高句麗を牽制し東北戦略を実施する上で不可欠な盟友であることを認識し、特に自ら高句麗を親征して思うような成果が得られなかった後は、新羅を前線基地とした長期的な撹乱・襲撃戦略へと転換した。こうして、双方は共通の戦略的利益に基づき緊密に協力する「蜜月期間」を形成し、新羅は唐朝の東アジア秩序における地位を著しく高めたのである[302]。
中央アジアとヨーロッパ
『旧唐書』及び『新唐書』には、拂菻(ビザンツ帝国)が数度にわたり唐へ使節を派遣したことが記されている。これらの史書は、拂菻がかつての大秦(漢代におけるローマ帝国を指す)に相当するとの見解を示している。貞観17年(643年)、波多力(コンスタンス2世)は太宗皇帝のもとへ使臣を派遣した[303]。赤いガラス(紅玻璃)や緑の宝玉などの貢ぎ物を献上したと伝えられる[304]。これらの史書はまた、拂菻の風俗・習慣や、コンスタンティノープルの城壁についても簡略に記述している[305]。さらに、大食(たいしき、アッバース朝)の大将軍である摩栧(まよう、ムアーウィヤ1世。ハリファ即位前はシリア総督)がこれを包囲し、ビザンツ側に講和を請わせた戦争についても言及されている[306]。サーサーン朝最後の統治者ヤズデギルド3世は、ハリフ政権がペルシア中核地帯を攻略した際、中央アジアのフェルガナに駐在する宗主国・唐の太宗皇帝に使者を派遣して援助を求めたと伝えられる。この動きが、シリアをムスリム勢力に占領されたビザンツ帝国が、同様に使節を中国へ派遣した背景の一つとなった可能性がある。唐代の史料には、イスラム・ハリフによるペルシア征服後、サーサーン朝の王子ペーローズ3世が唐へ亡命したことが記録されている[307]。
太宗の支配下で中国が中央アジアへ拡大したことは、西方世界の注目を集めたようである。ヘラクレイオス王朝時代のビザンツ帝国歴史家・テオフィラクトス・シモカタは、「桃花石(Taugast、Taugas、古テュルク語:Tabghach。北魏を建てた鮮卑族の拓跋氏に由来するという説がある)」という名称で唐を指す記述を残している[308]。それは東方の大帝国であり、トルコ系民族を支配し、首都はインドの北東約1,500マイル(約2,400キロ)に位置する「胡姆丹」(突厥語のフムダン(Khumdan)に由来し、長安を指す)と呼ばれた。そこでは偶像崇拝を行っていたが、人々は聡明で、正義と公正な法に従って生活していた[309]。彼は中国を、長大な河川(長江)によって分割され、この川が二つの交戦国間の境界となっていると描いた。ビザンツ皇帝マウリキオス治世下において、北方の「黑衣の国」が南方の「红衣の国」を征服したと記述されている。この記述は、隋の文帝による陳朝滅亡と中国統一に関連している可能性がある。[310]シモカタは桃花石の支配者を「ταϊσαν」(タィサン)と称し、これを「天の子」、すなわち「天子」の意と解釈している。この呼称は、当時の支配者「太宗」の音訳との関連性も指摘される[311]。
後世の評価
明の顧充は『歴朝捷録』において大宗を絶賛している。
- 「今『貞観政要』を読むと善政が山のように多く、これほど栄えた時代は伝説時代である夏殷周の三代を除いては存在しなかった。李世民の能力は、闊達さは劉邦に匹敵し、武勇は曹操に匹敵し、戦乱を平定した功績は殷湯王や周武王に匹敵し、政治が良かったことは伝説の「成康の治」に近かった」[312]。
一方、南宋の儒学者朱熹は『唐総論』で下記の様に太宗を批判をしている。
- 「劉邦は私欲が少なかったが、太宗の行動の一切は、仁義の仮面を被って私欲をやっただけだ。劉邦は正当に天下を獲得し、経緯もおかしなところはないが、それに比べると太宗は天下の取り方もおかしなところが多かった。もっとも隋末は反乱が多く、それを平定しなければいけなかったので、一人のくだらない悪漢(独夫すなわち殷の紂王)を倒せば済んだ殷周革命のような訳にはいかなかったことは理解できる。しかし、隋の恭帝を擁立したりしたのはどうにも弁護のしようがない。あれは必要があったのか?そういうことから見れば、劉邦の天下取りに太宗は及ばないという評価しかできない。また、太宗は親の高祖にむりやり隋の晋陽の宮女を侍らせ、無理やり挙兵させようとしたが、あの行為には君臣・父子・夫婦の義というものがない」[313]。
- 「玄武門の変は止むに止まれぬ行為ではなかった。周公旦が殷周革命の後で反乱を起こそうとした管の叔鮮・蔡の叔度を止むに止まれず討ち果たしたのとは、比べ物にならない。太宗には周公旦のような良い心がない」[314][315]。
このような太宗の言動に対する批判的な評価や懐疑的な考察は現在の歴史学者の間でも存在しており、布目潮渢は『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』において、前述のように「貞観の治」には後世の誇張が含まれていると考え、煬帝は大宗によって意図的に過少評価されており、太宗は過大評価をされていると論じている[316]。
人物・逸話
李世民は自ら軍を率いて先陣を切ることが多く、個人の武勇も中国の皇帝の中でも屈指のものであった。以下、それぞれ述べる。
弓術
李世民の卓越した弓術は、歴史書や筆記小説に数多く記録されている。以下に事例を列挙する。
- 李世民は「四羽の大笴(長さが通常の矢の一倍近い大型矢)を用い、門扉を貫通させた」とある[317]。
- 李世民が軽騎兵を率いて偵察中、配下が散り散りになったとき、一人の兵士と丘で仮眠していた。敵兵に包囲されたが、蛇が鼠を追って兵士の顔に触れたため気づき、馬で脱出。百歩余りで追いつかれた際、大羽箭で敵の勇将を射殺し、敵を退却させた[318]。
- 尉遅敬徳に「我は弓矢を執り、公は槊を執って従え。百万の軍も我らを如何ともし得まい」と宣言。敵陣から三里の地点で遊撃兵と遭遇し、「我は秦王なり」と叫んで弓を引き、敵将一人を射殺。追撃してきた五六千騎に対し、馬上から悠然と矢を放ち、追撃兵が近づくたびに一人を射殺。計数人を仕留め、追撃を阻んだ[319]。
- 王世充の勇将・単雄信の襲撃を受けた際、左右から射かけ、弦を響かせるごとに敵兵を倒し、大将・燕頎を捕らえた[320]。
- 劉黒闼討伐の際、突厥軍に包囲されて苦境に陥ったが、自ら大箭を射ってこれを退けた。突厥兵はその矢を回し見て、「神業なり」と嘆じた。後に残された大弓一振りと長矢五本は武庫に収蔵され、代々宝物として伝えられた。毎年、郊祀や丘祭などの重大な儀礼の際には、必ず儀式用具の先頭に陳列され、武功を後世に伝える証とされたという[321]。
- 洛陽苑で民部尚書の唐儉と狩猟中、突然現れた猪群を四発で四頭射止めた[322]。
- 蕭瑀と弓矢を論じた際、「木目が正しくなければ矢筋が歪む」という物理現象から「心正しくなければ治世も正せぬ」という治国の哲理を説いた。[323]
- 『詠弓』詩において「弦に上ぐる明月の半ば」「激箭流星の遠き」などの意象で、弓を武徳の象徴とし、矢術の精妙さを詠じた[324]。
- 房玄齢は李世民の弓術を「矢は七枚重ねの鎧を貫き、弓は万石の強さを持つ」と称賛したと伝えられている[325]。
- 唐の李綽『尚書故実』では、李世民の弓を劉邦の斬蛇剣に比し、戦乱で失われたと記す[326]。
- 明代の小説『大唐秦王詞話』では、その弓を「竜淵弓(六材を逞しくし三制を誇る燕角面竜淵弓)」と称している[327]。
刀と剣
- 李世民は刀や剣といった武器にも精通していた。『資治通鑑』によれば、李世民が宋老生を攻撃する際、双刀を用いて数十人を斬り伏せ、刃は欠け、敵の血が袖口に流れ込んだが、袖の血を振り払って戦いを続けたという。[328]
また、演義小説において李世民が用いた刀は「定唐刀」と呼ばれ、『大唐秦王詞話』では正式に「鍛楚鉄煉斉金竜吞頂定唐刀」と記されている。[329]『説唐』をはじめとする演義小説でも、李世民がこの刀をたびたび使用する場面が描かれている。
- 刀だけでなく、李世民は剣術にも長けていた。唐倹と狩猟に出た際、野生の猪の群れが二人に襲いかかると、李世民は四頭を矢で射抜き、一頭が目前まで迫ったところを剣で真っ二つに斬り伏せている。[330]
唐太宗は一本の古剣を持っており、剣身に七星が刻まれ、北斗七星に応じてその輝きを隠したり現したりした。太宗は常に灯りの下でこれを試し、使者に雲気が北斗を過ぎる様子を観察させると、剣の星影もそれに従って次第に消え、瞬時の差もなく一致したという。(『膠葛』による)[331]
明代の茅元儀が著した『武備志』にも、李世民の麾下に千人もの剣士がいたと記されているが、その剣法はすでに失伝しており、断片的な歌訣(口伝詩)が残るのみで詳細は解読不能である。[332]
別の伝説では、唐の太宗李世民が李靖とともに北方の異民族征討に向かう途中、高奴を経て龍安に至ったとき、住民から大蛇の害について訴えを受けた。太宗は矢で大蛇を射ると、蛇は岩の割れ目に潜り込んだ。太宗がその尾を引っ張ると、蛇は一振りの剣へと変化したが、刃には欠けがあった。太宗が石でその剣を研ぐと、石には溝が刻まれた。宋代の元祐年間には、この地に剣匣寺が建立されたという。[333]
『大唐秦王詞話』では、李世民が用いた剣は「勝白霓欺紫電切玉犀倚天剣」と呼ばれている。[334]
また民間伝承によれば、欧冶子が鍛えた「龍淵剣」は、唐の高祖李淵の諱を避けて「竜泉剣」と改称され、この剣は李淵の佩剣として伝わり、後に太宗李世民に渡り、昭陵に共に葬られたとされる。[要出典]
太宗は能筆家としても知られ、作品としては「温泉銘」がある。臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど、書に対する関心が強かった。また、書聖と謳われる王羲之の真筆に対して、異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたり、会稽にいた智永という僧が持っており、智永の没後は弁才禅師に所有が移っていた蘭亭序の真筆を手に入れたいがあまりに三度に渡って譲渡を懇願したが聞き入れてもらえなかったので使者を遣わし、蘭亭序にけちをつけてだまし取ったほどである。こうして手に入れた蘭亭序を自身の死後に昭陵に納めさせたと伝えられている[335]。
李勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と聞いた太宗は、自らの髭を切って煎じて薬を調合した。李勣は、出血するほど頓首して泣いて感謝したが、太宗は言った。「社稷の為にしたのだ。卿の為にしたのではない。何でそこまで感謝するのか!」
李勣が宴会に参加していた時、太宗はくつろいだ様子で言った。「朕は、群臣の中に我が子を託せる者を探したが、公以上の者はいない。公はかつて李密に背かなかった。どうして朕へ背こうか!」李勣は泣きじゃくって辞謝し、指を囓って出した血を酒へ入れての飲み、酔いつぶれた。太宗は御服を脱いで、李勣に掛けてあげた。
高句麗征伐において右衛大将軍の李思摩が矢に当たって負傷した時、太宗は自らその血を吸いだして治療した。将士はこれを聞き、感動しない者はなかった。
隋の開皇18年12月戊午の日、武功の別邸にて誕生。時に二頭の龍が館の門の外で戯れ、三日後に去った[336]。
太宗は
唐文皇(太宗)は蜷れ鬚をたくわえ、たくましい容貌で、人々から「髭圣」と呼ばれた。
太宗には六匹の名馬があった。その馬たちの名前は「白蹄烏」・「拳毛騧」・「颯露紫」・「特勤驃」・「青騅」・「什伐赤」という。
貞観政要によれば蝗害の時太宗自らバッタを飲みこんで蝗害を抑えたという伝説が書かれている。
十八学士
李世民が秦王となったとき、文学館を建て、賢才を招聘した。杜如晦・房玄齢・于志寧・蘇世長・姚思廉・薛収・褚亮・陸徳明・孔穎達・李玄道・李守素・虞世南・蔡允恭・顔相時・許敬宗・薛元敬・蓋文達・蘇勗の18人を学士とした。俗に秦王府十八学士とも言われている。
当時の人々はこれを「登瀛洲」(これは、士人が栄誉を得たり、理想の境地に至ることの喩えである)と称した[337]。
後世の文学・芸術においてこの故事を引用した例は多く、例えば明代の于謙には『題唐十八学士登瀛洲図』という七言律詩があり[338]、明代の詩人鄭真には『唐十八学士登瀛洲図』という七言絶句があり[339]、南宋の画家劉松年による『十八学士図』などの作品が残されている。
元代には無名氏によって創作された雑劇『十八学士登瀛洲』があり、この劇は唐の太宗が長安の東に「瀛洲」を築いて翰林院の文人たちを集めようとする物語である。袁天罡が詔を奉じて吉日を選び工事を開始し、老将軍尉遅恭が監造官となる。やがて瀛洲が完成すると、房玄齢が命を受けて宴を催し、翰林院十八学士を集める。名士たちが一堂に会し、それぞれ詩を吟じて盛況を助けた。李道宗も瀛洲に訪れるが無学であったため、十八学士から嘲笑を受ける。増福神が下界を巡視する際、瀛洲に賢人たちが集う様子を見て、唐太宗が人材を大切にしていることを知り、鈞天大帝に報告する。鈞天大帝は大いに喜び、増福神、注禄神、金甲神、西池金母、東華帝君を人間界へ遣わし、唐太宗の福と寿命を延ばす。唐太宗は夢の中で瀛洲に祥雲が立ち込めるのを見、袁天罡が神仙降臨の夢解きをする。房玄齢は再び十八学士を集めて祭祀を行い、聖代を称え奉るのであった[340]。
二十四功臣
643年(貞観17年)、太宗は自らと共に中国統一に功績のあった功臣24名を偲んで、凌煙閣という建物に功臣たちの絵を画家である閻立本に描かせた。名を挙げた順については、当時の功臣の序列を反映したものとなっている。俗に凌煙閣二十四功臣とも言われている。
二十四功臣
後世への影響
凌煙閣に二十四功臣の肖像を描くことに由来する一連の典故において、「標凌煙」は朝廷が卓越した功績を挙げた者を表彰・記念することを指す。唐代の詩人・李賀は「請う君暫く凌煙閣に上れ」という詩句で[341][342]、この閣が功臣を象徴する意義を称えた。宋代の韓元吉は『水龍吟・寿辛侍郎』の詞で「明年看取せん、鋒旗南下し、六騾西走するを。功は凌煙に画き、万釘の宝帯、百壶の清酒」と詠み、「凌煙に上る」はその功績が極めて大きいことを言い表す[343]。宋代の黄庭堅も『満庭芳・茶』で「方圭円璧、万里名京関に動く。身を砕き骨を粉にすとも、功は凌煙に上るに合う」と記した[344]。清代の李漁は『呉太翁挽歌』で「儀容但だ未だ麟閣に図られず、姓字何ぞ凌煙に標さざる」と詠んでいる。「功凌煙に画く」は、卓越した功績を立てて名を歴史に残したことを意味する。
凌煙閣に名を連ねる多くの功臣は、後世の戯曲、小[345]説、講談などで演じられる題材となった。特に元末以降、小説や講談が栄え、『隋唐演義』『説唐』『興唐』などの小説が広く人気を博した。
長い中国の封建時代の歴史において、政治、軍事、文化・芸術などの分野で、唐王朝は最も輝かしく華麗な成果を収めた。後世に極めて豊かな遺産を残している。凌煙閣はこれらの貴重な遺産の中でも特に価値ある一部である。凌煙閣は本来、唐の宮殿・西内の禁苑にあった普通の建物であったが、様々な時期に功臣の肖像が描かれるにつれ、他とは異なる国家的な「美術館」兼「記念堂」となった。当時の人々の間では、功業を立て、家名を上げ、名を歴史に残す象徴であり基準とすら見なされるようになった[346]。
十四蕃君
太宗は先帝(高祖)の偉業を顕彰するため、工匠に命じて石碑を彫琢させ、貞観年間に降伏または帰順した諸民族の首長の姿を模刻し、その官職と姓名を刻ませた。これには以下の人物が含まれる:
薛延陀の真珠毗伽可汗
吐蕃の贊普(松賛干布)
新羅の楽浪郡王金真德
吐谷渾の河源郡王烏地也拔勒豆可汗慕容諾曷钵
亀茲王の訶黎布失畢
于闐王の伏闍信
焉耆王の龍突騎支
高昌王左武衛將軍麴智盛
林邑王の范頭黎
帝那伏帝国王の阿羅那順
合わせて十四名である。彼らの石像は昭陵司馬門北門の内側、九嵕山の北麓に整然と並べられ、大唐の武威を称えるものとなった[347]。
宗室
- 正室:長孫皇后(文徳皇后)- 鮮卑拓跋部に出自に持つ、長孫無忌の妹[348]
- 側室:貴妃 韋珪
- 側室:楊妃 - 隋の煬帝の皇女
- 側室:燕徳妃 - 楊雄の娘と燕宝寿のあいだの娘
- 側室:鄭賢妃[349]
- 側室:楊妃 - 楊素の子の楊玄奨の娘
- 十三男:趙王 李福
- 側室:陰妃 - 陰世師の娘
- 五男:斉王 李祐
- 側室:韋昭容 - 韋貴妃の叔父の韋匡伯の娘
- 側室:充容 徐恵(贈賢妃)
- 側室:楊婕妤 - 楊雄の子の楊恭道の娘
- 側室:蕭美人
- 側室:蕭才人
- 側室:崔才人
- 側室:才人 武媚
- 側室:才人 王帝釋[350]
- 七男:蒋王 李惲
- 側女:高恵通[351]
- 愛人:巣剌王妃楊氏 - 楊雄の従孫娘で李元吉の元妻
- 十四男:曹王 李明
- 生母不詳の子女
- 次男:楚王 李寛 - 早世
- 十二男:代王 李簡 - 早世
- 長女:襄城公主 - 蕭鋭(蕭瑀の子)夫人
- 次女:汝南公主 - 早世
- 三女:南平公主 - 王敬直夫人、のち劉玄意(劉政会の子)夫人
- 四女:遂安公主 - 竇逵(竇抗の子の竇静の子)夫人、のち王大礼夫人
- 六女:豫章公主 - 唐善識(唐倹の子)夫人
- 七女:比景公主 - 柴令武(柴紹の子)夫人
- 八女:普安公主 - 史仁表(史大奈の子)夫人
- 九女:東陽公主 - 高履行(高士廉の子)夫人
- 十一女:清河公主 李敬(徳賢)- 程処亮(程知節の子)夫人
- 十二女:蘭陵公主 李淑(麗貞)- 竇懐悊(竇毅の子の竇照の曾孫)夫人
- 十三女:晋安公主 - 韋思安夫人、のち楊仁輅夫人
- 十四女:安康公主 - 独孤諶(独孤信の子の独孤蔵の曾孫)夫人
- 十五女:新興公主 - 長孫敬道(長孫順徳の弟)夫人
- 十七女:合浦公主(高陽公主) - 房遺愛 (房玄齢の子)夫人
- 十八女:金山公主 - 早世
- 二十女:常山公主
登場作品
小説
- 『隋唐演義』、主要人物の一人として活躍する。前半主人公の秦叔宝とは生まれる直前に救われた恩がある。
- 『西遊記』、一時地獄に落ちるが現世へと帰還し「三蔵」の取経を乞うたところ、玄奘がそれに応える。なお、地獄に落ちるエピソードは隋唐演義と共通。
- 小前亮『李世民』(講談社、2005年/講談社文庫、2008年) ISBN 406-2761491
- 塚本靑史『李世民』(上・下)、日本経済新聞出版社、2012年 ISBN 978-4532171179・ISBN 978-4532171186/日経文芸文庫、2014年
漫画
- 夏達著『長歌行』(新世紀出版。日本では集英社。いずれも2011年から。玄武門の変で殺害された李建成の娘を主人公としている。叔父である李世民への復讐を描いた作品)
- 園沙那絵著『レッドムーダン』(集英社。『グランドジャンプむちゃ』にて、2021年11月号~2022年5月号まで連載。その後『グランドジャンプ』に移籍し、2022年16号から連載。李世民の側室であり、後に中国の女帝となった武則天の生涯を描いた作品)
映画
テレビドラマ
- 『西遊記』、『西遊記II』(1978年 - 1980年、日本テレビ、演:中村敦夫)
- 『西遊記』(1993年、日本テレビ、演:夏木陽介)
- 『西遊記』(1994年、日本テレビ、演:宝田明)
- 『則天武后』(1995年、中国、演:鮑国安)
- 『新・少林寺』(1999年、中国、演:樊少皇)
- 「大唐雙龍傳」(2004年、香港、日本未公開、演:阮徳鏘)
- 『創世の龍 〜李世民 大唐建国記〜』(2006年、中国、演:シェン・シャオハイ)
- 『皇帝 李世民〜貞観の治〜』(2006年、中国、演:マー・ユエ)
- 『大祚栄(テジョヨン)』(2006年、韓国、演:ソン・ヨンテ)
- 「貞観長歌」(2007年、中国、日本未公開、演:唐国強)
- 『淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)』(2007年、韓国、演:ソ・インソク)
- 『大唐双龍伝』(2011年、中国、演:呉慶哲)
- 『大王の夢』(2012 - 2013年、韓国、演:ユン・スンウォン)
- 『隋唐演義 〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜』(2013年、中国、演:ドゥ・チュン)
- 『武則天 -The Empress-』(2015年、中国、演:チャン・フォンイー)
- 『大唐見聞録 皇国への使者』(2018年、中国、演:張智堯)
- 『大唐女法医〜love&truth〜』(2020年、中国、演:チョン・フォン)
- 『風起花抄〜宮廷に咲く琉璃色の恋〜』(2021年、中国、演:タン・カイ)
脚注
- ^ 『旧唐書』巻3, 太宗紀下 貞観二十三年五月己巳条による。
- ^ 『詳説世界史研究(改訂版)』山川出版社。
- ^ 宮崎市定『大唐帝国』中公文庫
- ^ 『旧唐書/卷2』:隋開皇十八年十二月戊午,生於武功之別館。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗時年四歲。有書生自言善相,謁高祖曰:「公貴人也,且有貴子。」見太宗,曰:「龍鳳之姿,天日之表,年將二十,必能濟世安民矣。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗幼聰睿,玄鑒深遠,臨機果斷,不拘小節,時人莫能測也。
- ^ 『旧唐書/卷2』:大業末,煬帝於雁門為突厥所圍,太宗應募救援,隸屯衛將軍云定興營。將行,謂定興曰:「必齎旗鼓以設疑兵。且始畢可汗舉國之師,敢圍天子,必以國家倉卒無援。我張軍容,令數十里幡旗相續,夜則鉦鼓相應,虜必謂救兵雲集,望塵而遁矣。不然,彼眾我寡,悉軍來戰,必不能支矣。」定興從焉。師次崞縣,突厥候騎馳告始畢曰:王師大至。由是解圍而遁。
- ^ 『旧唐書/卷2』:及高祖之守太原,太宗時年十八。有高陽賊帥魏刀兒,自號歷山飛。來攻太原,高祖擊之,深入賊陣。太宗以輕騎突圍而進,射之,所向皆披靡,拔高祖於萬眾之中。適會步兵至,高祖與太宗又奮擊,大破之。
- ^ 『旧唐書/卷2』:時隋祚已終,太宗潛圖義舉,每折節下士,推財養客,群盜大俠,莫不願效死力。及義兵起,乃率兵略徇西河,克之。拜右領大都督,右三軍皆隸焉,封燉煌郡公。
- ^ 『旧唐書/卷2』:大軍西上賈胡堡,隋將宋老生率精兵二萬屯霍邑,以拒義師。會久雨糧盡,高祖與裴寂議,且還太原,以圖後舉。太宗曰:「本興大義以救蒼生,當須先入咸陽,號令天下;遇小敵即班師,將恐從義之徒一朝解體。還守太原一城之地,此為賊耳,何以自全!」高祖不納,促令引發。太宗遂號泣於外,聲聞帳中。高祖召問其故,對曰:「今兵以義動,進戰則必克,退還則必散。眾散於前,敵乘於後,死亡須臾而至,是以悲耳。」高祖乃悟而止。
- ^ 『旧唐書/卷2』:八月己卯,雨霽,高祖引師趣霍邑。太宗恐老生不出戰,乃將數騎先詣其城下,舉鞭指麾,若將圍城者,以激怒之。老生果怒,開門出兵,背城而陣。高祖與建成合陣於城東,太宗及柴紹陣於城南。老生麾兵疾進,先薄高祖,而建成墜馬,老生乘之,高祖與建成軍咸卻。太宗自南原率二騎馳下峻阪,沖斷其軍,引兵奮擊,賊眾大敗,各舍仗而走。懸門發,老生引繩欲上,遂斬之,平霍邑。
- ^ 『旧唐書/卷2』:至河東,關中豪傑爭走赴義。太宗請進師入關,取永豐倉以賑窮乏,收群盜以圖京師,高祖稱善。太宗以前軍濟河,先定渭北。三輔吏民及諸豪猾詣軍門請自效者日以千計,扶老攜幼,滿於麾下。收納英俊,以備僚列,遠近聞者,咸自托焉。師次於涇陽,勝兵九萬,破胡賊劉鷂子,並其眾。
- ^ 『旧唐書/卷2』:留殷開山、劉弘基屯長安故城。太宗自趣司竹,賊帥李仲文、何潘仁、向善志等皆來會,頓於阿城,獲兵十三萬。長安父老齎牛酒詣旌門者不可勝紀,勞而遣之,一無所受。軍令嚴肅,秋毫無所犯。尋與大軍平京城。高祖輔政,受唐國內史,改封秦國公。會薛舉以勁卒十萬來逼渭濱,太宗親擊之,大破其眾,追斬萬餘級,略地至於隴坻。
- ^ 『旧唐書/卷2』:義寧元年十二月,復為右元帥,總兵十萬徇東都。及將旋,謂左右曰:「賊見吾還,必相追躡。」設三伏以待之。俄而隋將段達率萬餘人自後而至,度三王陵,發伏擊之,段達大敗,追奔至於城下。因於宜陽、新安置熊、穀二州,戍之而還。徙封趙國公。
- ^ 『旧唐書/卷2』:高祖受禪,拜尚書令、右武候大將軍,進封秦王,加授雍州牧。
- ^ 『旧唐書/卷2』:武德元年七月,薛舉寇涇州,太宗率眾討之,不利而旋。九月,薛舉死,其子仁杲嗣立。太宗又為元帥以擊仁杲,相持於折墌城,深溝高壘者六十餘日。賊眾十餘萬,兵鋒甚銳,數來挑戰,太宗按甲以挫之。賊糧盡,其將牟君才、梁胡郎來降。太宗謂諸將軍曰:「彼氣衰矣,吾當取之。」遣將軍龐玉先陣於淺水原南以誘之,賊將宗羅㬋並軍來拒,玉軍幾敗。
- ^ 『旧唐書/卷2』:既而太宗親御大軍,奄自原北,出其不意。羅㬋望見,復回師相拒。太宗將驍騎數十入賊陣,於是王師表裏齊奮,羅㬋大潰,斬首數千級,投澗穀而死者不可勝計。太宗率左右二十餘騎追奔,直趣折墌以乘之。仁杲大懼,嬰城自守。將夕,大軍繼至,四面合圍。詰朝,仁杲請降,俘其精兵萬餘人、男女五萬口。
- ^ 『旧唐書/卷2』:既而諸將奉賀,因問曰:「始大王野戰破賊,其主尚保堅城,王無攻具,輕騎騰逐,不待步兵,徑薄城下,咸疑不克,而竟下之,何也?」太宗曰:「此以權道迫之,使其計不暇發,以故克也。羅㬋恃往年之勝,兼復養銳日久,見吾不出,意在相輕。今喜吾出,悉兵來戰,雖擊破之,擒殺蓋少。若不急躡,還走投城,仁杲收而撫之,則便未可得矣。且其兵眾皆隴西人,一敗披退,不及回顧,散歸隴外,則折墌自虛,我軍隨而迫之,所以懼而降也。此可謂成算,諸君盡不見耶?」諸將曰:「此非凡人所能及也。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:獲賊兵精騎甚眾,還令仁杲兄弟及賊帥宗羅㬋、翟長孫等領之。太宗與之游獵馳射,無所間然。賊徒荷恩懾氣,咸願效死。時李密初附,高祖令密馳傳迎太宗於豳州。密見太宗天姿神武,軍威嚴肅,驚悚嘆服,私謂殷開山曰:「真英主也。不如此,何以定禍亂乎?」凱旋,獻捷於太廟。拜太尉、陜東道行臺尚書令,鎮長春宮,關東兵馬並受節度。尋加左武候大將軍、涼州總管。
- ^ 『旧唐書/卷2』:宋金剛之陷澮州也,兵鋒甚銳。高祖以王行本尚據蒲州,呂崇茂反於夏縣,晉、澮二州相繼陷沒,關中震駭,乃手敕曰:「賊勢如此,難與爭鋒,宜棄河東之地,謹守關西而已。」太宗上表曰:「太原王業所基,國之根本,河東殷實,京邑所資。若舉而棄之,臣竊憤恨。願假精兵三萬,必能平殄武周,克復汾、晉。」高祖於是悉發關中兵以益之,又幸長春宮親送太宗。
- ^ 『旧唐書/卷2』:二年十一月,太宗率眾趣龍門關,履冰而渡之,進屯柏壁,與賊將宋金剛相持。
- ^ 『旧唐書/卷2』:尋而永安王孝基敗於夏縣,於筠、獨孤懷恩、唐儉並為賊將尋相、尉遲敬德所執,將還澮州。太宗遣殷開山、秦叔寶邀之於美良川,大破之,相等僅以身免,悉虜其眾,復歸柏壁。
- ^ 『旧唐書/卷2』:於是諸將咸請戰,太宗曰:「金剛懸軍千里,深入吾地,精兵驍將,皆在於此。武周據太原,專倚金剛以為捍。士卒雖眾,內實空虛,意在速戰。我堅營蓄銳以挫其鋒,糧盡計窮,自當遁走。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:三年二月,金剛竟以眾餒而遁,太宗追之至介州。金剛列陣,南北七里,以拒官軍。太宗遣總管李世勣、程咬金、秦叔寶當其北,翟長孫、秦武通當其南。諸軍戰小卻,為賊所乘。太宗率精騎擊之,沖其陣後,賊眾大敗,追奔數十里。
- ^ 『旧唐書/卷2』:敬德、相率眾八千來降,還令敬德督之,與軍營相參。屈突通懼其為變,驟以為請。太宗曰:「昔蕭王推赤心置人腹中,並能畢命,今委任敬德,又何疑也。」於是劉武周奔於突厥,並、汾悉復舊地。詔就軍加拜益州道行臺尚書令。
- ^ 『旧唐書/卷2』:七月,總率諸軍攻王世充於洛邑,師次穀州。世充率精兵三萬陣於慈澗,太宗以輕騎挑之。時眾寡不敵,陷於重圍,左右咸懼。太宗命左右先歸,獨留後殿。世充驍將單雄信數百騎夾道來逼,交搶競進,太宗幾為所敗。太宗左右射之,無不應弦而倒,獲其大將燕頎。世充乃拔慈澗之鎮歸於東都。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗遣行軍總管史萬寶自宜陽南據龍門,劉德威自太行東圍河內,王君廓自洛口斷賊糧道。又遣黃君漢夜從孝水河中下舟師襲回洛城,克之。
- ^ 『旧唐書/卷2』:黃河已南,莫不響應,城堡相次來降。大軍進屯邙山。九月,太宗以五百騎先觀戰地,卒與世充萬餘人相遇,會戰,復破之,斬首三千餘級,獲大將陳智略,世充僅以身免。
- ^ 『旧唐書/卷2』:其所署筠州總管楊慶遣使請降,遣李世勣率師出轘轅道安撫其眾。滎、汴、洧、豫九州相繼來降。世充遂求救於竇建德。
- ^ 『旧唐書/卷2』:四年二月,又進屯青城宮。營壘未立,世充眾二萬自方諸門臨谷水而陣。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗以精騎陣於北邙山,令屈突通率步卒五千渡水以擊之,因誡通曰:「待兵交即放煙,吾當率騎軍南下。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:兵才接,太宗以騎沖之,挺身先進,與通表裏相應。賊眾殊死戰,散而復合者數焉。
- ^ 『旧唐書/卷2』:自辰及午,賊眾始退。縱兵乘之,俘斬八千人,於是進營城下。
- ^ 『旧唐書/卷2』:世充不敢復出,但嬰城自守,以待建德之援。太宗遣諸軍掘塹,匝布長圍以守之。
- ^ 『旧唐書/卷2』:吳王杜伏威遣其將陳正通、徐召宗率精兵二千來會於軍所。偽鄭州司馬沈悅以武牢降,將軍王君廓應之,擒其偽荊王王行本。
- ^ 『旧唐書/卷2』:會竇建德以兵十餘萬來援世充,至於酸棗。蕭瑀、屈突通、封德彞皆以腹背受敵,恐非萬全,請退師穀州以觀之。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗曰:「世充糧盡,內外離心,我當不勞攻擊,坐收其敝。建德新破孟海公,將驕卒惰,吾當進據武牢,扼其襟要。賊若冒險與我爭鋒,破之必矣。如其不戰,旬日間世充當自潰。若不速進,賊入武牢,諸城新附,必不能守。二賊並力,將若之何?」
- ^ 『旧唐書/卷2』:通又請解圍就險以候其變,太宗不許。於是留通輔齊王元吉以圍世充,親率步騎三千五百人趣武牢。
- ^ 『旧唐書/卷2』:建德自滎陽西上,築壘於板渚,太宗屯武牢,相持二十餘日。
- ^ 『旧唐書/卷2』:諜者曰:「建德伺官軍芻盡,候牧馬於河北,因將襲武牢。」太宗知其謀,遂牧馬河北以誘之。
- ^ 『旧唐書/卷2』:詰朝,建德果悉眾而至,陳兵氾水,世充將郭士衡陣於其南,綿互數里,鼓噪,諸將大懼。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗將數騎升高丘以望之,謂諸將曰:「賊起山東,未見大敵。今度險而囂,是無政令;逼城而陣,有輕我心。我按兵不出,彼乃氣衰,陣久卒饑,必將自退,追而擊之,無往不克。吾與公等約,必以午時後破之。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:建德列陣,自辰至午,兵士饑倦,皆坐列,又爭飲水,逡巡斂退。太宗曰:「可擊矣!」親率輕騎追而誘之,眾繼至。建德回師而陣,未及整列,太宗先登擊之,所向皆靡。
- ^ 『旧唐書/卷2』:俄而眾軍合戰,囂塵四起。太宗率史大奈、程咬金、秦叔寶、宇文歆等揮幡而入,直突出其陣後,張我旗幟。賊顧見之,大潰。追奔三十里,斬首三千餘級,虜其眾五萬,生擒建德於陣。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗數之曰:「我以干戈問罪,本在王世充,得失存亡,不預汝事,何故越境,犯我兵鋒?」建德股慄而言曰:「今若不來,恐勞遠取。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:高祖聞而大悅,手詔曰;「隋氏分崩,崤函隔絕。兩雄合勢,一朝清蕩。兵既克捷,更無死傷。無愧為臣,不憂其父,並汝功也。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:乃將建德至東都城下。世充懼,率其官屬二千餘人詣軍門請降,山東悉平。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗入據宮城,令蕭瑀、竇軌等封守府庫,一無所取,令記室房玄齡收隋圖籍。於是誅其同惡段達等五十餘人,枉被囚禁者悉釋之,非罪誅戮者祭而誄之。大饗將士,班賜有差。高祖令尚書左僕射裴寂勞於軍中。
- ^ 『旧唐書/卷2』:六月,凱旋。太宗親披黃金甲,陣鐵馬一萬騎,甲士三萬人,前後部鼓吹,俘二偽主及隋氏器物輦輅獻於太廟。
- ^ 『旧唐書/卷2』:高祖大悅,行飲至禮以享焉。高祖以自古舊官不稱殊功,乃別表徽號,用旌勛德。
- ^ 『旧唐書/卷2』:十月,加號天策上將、陜東道大行臺,位在王公上。增邑二萬戶,通前三萬戶。賜金輅一乘,袞冕之服,玉璧一雙,黃金六千斤,前後部鼓吹及九部之樂,班劍四十人。
- ^ 『旧唐書/卷2』:於時海內漸平,太宗乃銳意經籍,開文學館以待四方之士。行臺司勛郎中杜如晦等十有八人為學士,每更直閣下,降以溫顏,與之討論經義,或夜分而罷。
- ^ 『旧唐書/卷2』:未幾,竇建德舊將劉黑闥舉兵反,據洺州。十二月,太宗總戎東討。
- ^ 『旧唐書/卷2』:五年正月,進軍肥鄉,分兵絕其糧道,相持兩月。黑闥窘急求戰,率步騎二萬,南渡洺水,晨壓官軍。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗親率精騎,擊其馬軍,破之,乘勝蹂其步卒,賊大潰,斬首萬餘級。
- ^ 『旧唐書/卷2』:先是,太宗遣堰洺水上流使淺,令黑闥得渡。及戰,乃令決堰,水大至,深丈餘,賊徒既敗,赴水者皆溺死焉。
- ^ 『旧唐書/卷2』:黑闥與二百餘騎北走突厥,悉虜其眾,河北平。
- ^ 『旧唐書/卷2』:時徐圓朗阻兵徐、兗,太宗回師討平之,於是河、濟、江、淮諸郡邑皆平。
- ^ 『旧唐書/卷2』:十月,加左右十二衛大將軍。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:上之起兵晉陽也,皆秦王世民之謀,上謂世民曰:「若事成,則天下皆汝所致,當以汝為太子。」世民拜且辭。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:及為唐王,將佐亦請以世民為世子,上將立之,世民固辭而止。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:太子建成,性寬簡,喜酒色游畋;齊王元吉,多過失;皆無寵於上。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:世民功名日盛,上常有意以代建成,建成內不自安,乃與元吉協謀,共傾世民,各引樹黨友。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:上晚年多內寵,小王且二十人,其母競交結諸長子以自固。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:建成與元吉曲意事諸妃嬪,諂諛賂遺,無所不至,以求媚於上。或言蒸於張婕妤、尹德妃,宮禁深秘,莫能明也。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:是時,東宮、諸王公、妃主之家及後宮親戚橫長安中,恣為非法,有司不敢詰。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:世民居承乾殿,元吉居武德殿後院,與上台、東宮晝夜通行,無復禁限。太子、二王出入上台,皆乘馬、攜弓刀雜物,相遇如家人禮。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:太子令、秦、齊王教與詔敕並行,有司莫知所從,唯據得之先後為定。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:世民獨不奉事諸妃嬪,諸妃嬪爭譽建成、元吉而短世民。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:世民平洛陽,上使貴妃等數人詣洛陽選閱隋宮人及收府庫珍物。貴妃等私從世民求寶貨及為其親屬求官,世民曰:「寶貨皆已籍奏,官當授賢才有功者。」皆不許,由是益怨。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:世民以淮安王神通有功,給田數十頃。張婕妤之父因婕妤求之於上,上手敕賜之,神通以教給在先,不與。婕妤訴於上曰:「敕賜妾父田,秦王奪之以與神通。」上遂發怒,責世民曰:「我手敕不如汝教邪!」
- ^ 『資治通鑑/卷190』:他日,謂左僕射裴寂曰:「此兒久典兵在外,為書生所教,非復昔日子也。」
- ^ 『資治通鑑/卷190』:尹德妃父阿鼠驕橫,秦王府屬杜如晦過其門,阿鼠家童數人曳如晦墜馬,毆之,折一指,曰:「汝何人,敢過我門而不下馬!」阿鼠恐世民訴於上,先使德妃奏云:「秦王左右陵暴妾家。」上復怒責世民曰:「我妃嬪家猶為汝左右所陵,況小民乎!」世民深自辯析,上終不信。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:世民每侍宴宮中,對諸妃嬪,思太穆皇后早終,不得見上有天下,或歔欷流涕,上顧之不樂。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:諸妃嬪因密共譖世民曰:「海內幸無事,陛下春秋高,唯宜相娛樂,而秦王每獨涕泣,正是憎疾妾等。陛下萬歲後,妾母子必不為秦王所容,無孑遺矣!」
- ^ 『資治通鑑/卷190』:因相與泣,且曰:「皇太子仁孝,陛下以妾母子屬之,必能保全。」上為之愴然。
- ^ 『資治通鑑/卷190』:由是無易太子意,待世民浸疏,而建成、元吉日親矣。
- ^ 『新唐書/卷2』:七年,突厥寇邊,太宗與遇于豳州,從百騎與其可汗語,乃盟而去。
- ^ 『新唐書/卷2』:八年,進位中書令。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:建成、元吉與後宮日夜譖訴世民於上,上信之,將罪世民。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:陳叔達諫曰:「秦王有大功於天下,不可黜也。且性剛烈,若加挫抑,恐不勝憂憤,或有不測之疾,陛下悔之何及!」上乃止。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:元吉密請殺秦王,上曰:「彼有定天下之功,罪狀未著,何以為辭!」元吉曰:「秦王初平東都,顧望不還,散錢帛以樹私恩,又違敕命,非反而何!但應速殺,何患無辭!」上不應。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:秦府僚屬皆憂懼不知所出。行台考功郎中房玄齡謂比部郎中長孫無忌曰:「今嫌隙已成,一旦禍機竊發,豈惟府朝塗地,乃實社稷之憂;莫若勸王行周公之事以安家國。存亡之機,間不容髮,正在今日!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:無忌曰:「吾懷此久矣,不敢發口;今吾子所言,正合吾心,謹當白之。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:乃入言世民。世民召玄齡謀之,玄齡曰:「大王功蓋天地,當承大業;今日憂危,乃天贊也,願大王勿疑!」乃與府屬杜如晦共勸世民誅建成、元吉。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:建成、元吉以秦府多驍將,欲誘之使為己用,密以金銀器一車贈左二副護軍尉遲敬德,並以書招之曰:「願迂長者之眷,以敦布衣之交。」敬德辭曰:「敬德,蓬戶甕牖之人,遭隋末亂離,久淪逆地,罪不容誅。秦王賜以更生之恩,今又策名籓邸,唯當殺身以為報;於殿下無功,不敢謬當重賜。若私交殿下,乃是貳心,徇利忘忠,殿下亦何所用!」建成怒,遂與之絕。敬德以告世民,世民曰:「公心如山嶽,雖積金至鬥,知公不移。相遺但受,何所嫌也!且得以知其陰計,豈非良策!不然,禍將及公。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:既而元吉使壯士夜刺敬德,敬德知之,洞開重門,安臥不動,刺客屢至其庭,終不敢入。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:元吉乃譖敬德於上,下詔獄訊治,將殺之。世民固請,得免。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:又譖左一馬軍總管程知節,出為康州刺史。知節謂世民曰:「大王股肱羽翼盡矣,身何能久!知節以死不去,願早決計。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:又以金帛誘右二護軍段志玄,志玄不從。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:建成謂元吉曰:「秦府智略之士,可憚者獨房玄齡、杜如晦耳。」皆譖之於上而逐之。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民腹心唯長孫無忌尚在府中,與其舅雍州治中高士廉、左候車騎將軍三水侯君集及尉遲敬德等,日夜勸世民誅建成、元吉。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民猶豫未決,問於靈州大都督李靖,靖辭;問於行軍總管李世勣,世勣辭;世民由是重二人。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:會突厥郁射設將數萬騎屯河南,入塞,圍烏城,建成薦元吉代世民督諸軍北征;上從之,命元吉督右武衛大將軍李藝、天紀將軍張瑾等救烏城。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:元吉請尉遲敬德、程知節、段志玄及秦府右三統軍秦叔寶等與之偕行,簡閱秦王帳下精銳之士以益元吉軍。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:率更丞王晊密告世民曰:「太子語齊王:『今汝得秦王驍將精兵,擁數萬之眾,吾與秦王餞汝於昆明池,使壯士拉殺之於幕下,奏雲暴卒,主上宜無不信。吾當使人進說,令授吾國事。敬德等既入汝手,宜悉坑之,孰敢不服!』」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民以咥言告長孫無忌等,無忌等勸世民先事圖之。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民歎曰:「骨肉相殘,古今大惡。吾誠知禍在朝夕,欲俟其發,然後以義討之,不亦可乎!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:敬德曰:「人情誰不愛其死!今眾人以死奉王,乃天授也。禍機垂發,而王猶晏然不以為憂,大王縱自輕,如宗廟社稷何!大王不用敬德之言,敬德將竄身草澤,不能留居大王左右,交手受戮也!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:無忌曰:「不從敬德之言,事今敗矣。敬德等必不為王有,無忌亦當相隨而去,不能復事大王矣!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民曰:「吾所言亦未可全棄,公更圖之。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:敬德曰:「王今處事有疑,非智也;臨難不決,非勇也。且大王素所畜養勇士八百餘人,在外者今已入宮,擐甲執兵,事勢已成,大王安得已乎!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民訪之府僚,皆曰:「齊王凶戾,終不肯事其兄。比聞護軍薛實嘗謂齊王曰:『大王之名,合之成「唐」字,大王終主唐祀。』齊王喜曰:『但除秦王,取東宮如反掌耳。』彼與太子謀亂未成,已有取太子之心。亂心無厭,何所不為!若使二人得志,恐天下非復唐有。以大王之賢,取二人如拾地芥耳,奈何徇匹夫之節,忘社稷之計乎!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民猶未決,眾曰:「大王以舜為何如人?」曰:「聖人也。」眾曰:「使舜浚井不出,則為井中之泥;塗廩不下,則為廩上之灰,安能澤被天下,法施後世乎!是以小杖則受,大杖則走,蓋所存者大故也。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民命卜之,幕僚張公謹自外來,取龜投地,曰:「卜以決疑;今事在不疑,尚何卜乎!卜而不吉,庸得已乎!」於是定計。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民令無忌密召房玄齡等,曰:「敕旨不聽復事王;今若私謁,必坐死,不敢奉教。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:世民怒,謂敬德曰:「玄齡、如晦豈叛我邪!」取所佩刀授敬德曰:「公往觀之,若無來心,可斷其首以來。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:敬德往,與無忌共諭之曰:「王已決計,公宜速入共謀之。吾屬四人,不可群行道中。」乃令玄齡、如晦著道士服,與無忌俱入,敬德自它道亦至。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:己未,太白復經天。傅奕密奏:「太白見秦分,秦王當有天下。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上以其狀授世民。於是世民密奏建成、元吉淫亂後宮,且曰:「臣于兄弟無絲毫負,今欲殺臣,似為世充、建德報仇。臣今枉死,永違君親,魂歸地下,實恥見諸賊!」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上省之,愕然,報曰:「明當鞫問,汝宜早參。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:庚申,世民帥長孫無忌等入,伏兵於玄武門。張婕妤竊知世民表意,馳語建成。建成召元吉謀之,元吉曰:「宜勒宮府兵,托疾不朝,以觀形勢。」建成曰:「兵備已嚴,當與弟入參,自問消息。」乃俱入,趣玄武門。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上時已召裴寂、蕭瑀、陳叔達等,欲按其事。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:建成、元吉至臨湖殿,覺變,即跋馬東歸宮府。世民從而呼之,元吉張弓射世民,再三不彀,世民射建成,殺之。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:尉遲敬德將七十騎繼至,左右射元吉墜馬。世民馬逸入林下,為木枝所絓,墜不能起。元吉遽至,奪弓將扼之,敬德躍馬叱之。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:元吉步欲趣武德殿,敬德追射,殺之。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上方泛舟海池,世民使尉遲敬德入宿衛,敬德擐甲持矛,直至上所。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上大驚,問曰:「今日亂者誰邪?卿來此何為?」對曰:「秦王以太子、齊王作亂,舉兵誅之,恐驚動陛下,遣臣宿衛。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上謂裴寂等曰:「不圖今日乃見此事,當如之何?」蕭瑀、陳叔達曰:「建成、元吉本不預義謀,又無功於天下,疾秦王功高望重,共為奸謀。今秦王已討而誅之,秦王功蓋宇宙,率土歸心,陛下若處以元良,委之國務,無復事矣。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:上曰:「善!此吾之夙心也。」
- ^ 『資治通鑑/卷191』:時宿衛及秦府兵與二宮左右戰猶未已,敬德請降手敕,令諸軍並受秦王處分,上從之。
- ^ 『資治通鑑/卷191』:天策府司馬宇文士及自東上閣門出宣敕,眾然後定。上又使黃門侍郎裴矩至東宮曉諭諸將卒,皆罷散。
- ^ 『旧唐書/卷2』:甲子,立為皇太子,庶政皆斷決。
- ^ 『旧唐書/卷2』:太宗乃縱禁苑所養鷹犬,並停諸方所進珍異,政尚簡肅,天下大悅。又令百官各上封事,備陳安人理國之要。
- ^ 『旧唐書/卷2』:己巳,令曰:「依禮,二名不偏諱。近代已來,兩字兼避,廢闕已多,率意而行,有違經典。其官號、人名、公私文籍,有『世民』兩字不連續者,並不須諱。」
- ^ 『旧唐書/卷2』:罷幽州大都督府。辛未,廢陜東道大行臺,置洛州都督府,廢益州道行臺,置益州大都督府。壬午,幽州大都督廬江王瑗謀逆,廢為庶人。乙酉,罷天策府。
- ^ 『旧唐書/卷2』:七月壬辰,太子左庶子高士廉為侍中,右庶子房玄齡為中書令,尚書右僕射蕭瑀為尚書左僕射,吏部尚書楊恭仁為雍州牧,太子左庶子長孫無忌為吏部尚書,右庶子杜如晦為兵部尚書,太子詹事宇文士及為中書令,封德彞為尚書右僕射。
- ^ 『旧唐書/卷2』:八月癸亥,高祖傳位於皇太子,太宗即位於東宮顯德殿。遣司空、魏國公裴寂柴告於南郊。大赦天下。武德元年以來責情流配者並放還。文武官五品已上先無爵者賜爵一級,六品已下加勛一轉。天下給復一年。
- ^ 『旧唐書/卷2』:癸酉,放掖庭宮女三千餘人。甲戌,突厥頡利、突利寇涇州。乙亥,突厥進寇武功,京師戒嚴。丙子,立妃長孫氏為皇后。
- ^ 『旧唐書/卷2』:己卯,突厥寇高陵。辛巳,行軍總管尉遲敬德與突厥戰於涇陽,大破之,斬首千餘級。
- ^ 『旧唐書/卷2』:癸未,突厥頡利至於渭水便橋之北,遣其酋帥執失思力入朝為覘,自張形勢,太宗命囚之。親出玄武門,馳六騎幸渭水上,與頡利隔津而語,責以負約。俄而眾軍繼至,頡利見軍容既盛,又知思力就拘,由是大懼,遂請和,詔許焉。即日還宮。
- ^ 『旧唐書/卷2』:乙酉,又幸便橋,與頡利刑白馬設盟,突厥引退。
- ^ 『旧唐書/卷2』:九月丙戌,頡利獻馬三千匹、羊萬口,帝不受,令頡利歸所掠中國戶口。
- ^ 『旧唐書/卷2』:丁未,引諸衛騎兵統將等習射於顯德殿庭,謂將軍已下曰:「自古突厥與中國更有盛衰。若軒轅善用五兵,即能北逐獯鬻;周宣驅馳方、召,亦能制勝太原。至漢、晉之君,逮於隋代,不使兵士素習干戈,突厥來侵,莫能抗禦,致遺中國生民塗炭於寇手。我今不使汝等穿池築苑,造諸淫費,農民恣令逸樂,兵士唯習弓馬,庶使汝鬥戰,亦望汝前無橫敵。」於是每日引數百人於殿前教射,帝親自臨試,射中者隨賞弓刀、布帛。朝臣多有諫者,曰:「先王制法,有以兵刃至御所者刑之,所以防萌杜漸,備不虞也。今引裨卒之人,彎弧縱矢於軒陛之側,陛下親在其間,正恐禍出非意,非所以為社稷計也。」上不納。自是後,士卒皆為精銳。
- ^ 『旧唐書/卷2』:壬子,詔私家不得輒立妖神,妄設淫祀,非禮祠禱,一皆禁絕。其龜易五兆之外,諸雜占卜,亦皆停斷。
- ^ 『旧唐書/卷2』:冬十月丙辰朔,日有蝕之。癸亥,立中山王承乾為皇太子。
- ^ 『旧唐書/卷2』:十一月庚寅,降宗室封郡王者並為縣公。
- ^ 『旧唐書/卷2』:十二月癸酉,親錄囚徒。
- ^ 『旧唐書/卷2』:貞觀元年春正月乙酉,改元。
- ^ 『旧唐書/卷2』:辛丑,燕郡王李藝據涇州反,尋為左右所斬,傳首京師。
- ^ 『旧唐書/卷2』:庚午,以僕射竇軌為益州大都督。
- ^ 『旧唐書/卷2』:九月辛酉,命中書侍郎溫彥博、尚書右丞魏徵等分往諸州賑恤。
- ^ 『旧唐書/卷2』:三月戊申朔,日有蝕之。丁卯,遣御史大夫杜淹巡關內諸州。出御府金寶,贖男女自賣者還其父母。
- ^ 『旧唐書/卷2』:庚午,大赦天下。
- ^ 『旧唐書/卷2』:甲子,太宗始於太極殿聽政。
- ^ 『旧唐書/卷2』:六月戊寅,以旱,親錄囚徒。遣長孫無忌、房玄齡等祈雨於名山大川,中書舍人杜正倫等往關內諸州慰撫。又令文武官各上封事,極言得失。
- ^ 『旧唐書/卷2』:庚申,以並州都督李世勣為通漢道行軍總管,兵部尚書李靖為定襄道行軍總管,以擊突厥。
- ^ 『旧唐書/卷2』:建義以來交兵之處,為義士勇夫殞身戎陣者各立一寺,命虞世南、李伯藥、褚亮、顏師古、岑文本、許敬宗、硃子奢等為之碑銘,以紀功業。
- ^ 『旧唐書/卷3』:三月庚辰,大同道行軍副總管張寶相生擒頡利可汗,獻於京師。
- ^ 『旧唐書/卷3』:甲午,以俘頡利告於太廟。
- ^ 『旧唐書/卷3』:夏四月丁酉,御順天門,軍吏執頡利以獻捷。自是西北諸蕃咸請上尊號為「天可汗」,於是降璽書冊命其君長,則兼稱之。
- ^ 『旧唐書/卷3』:九月庚午,令收瘞長城之南骸骨,仍令致祭。壬午,令自古明王聖帝、賢臣烈士墳墓無得芻牧,春秋致祭。
- ^ 『旧唐書/卷3』:冬十月壬辰,幸隴州,曲赦隴、岐二州,給復一年。
- ^ 『旧唐書/卷3』:五年正月癸酉,大蒐於昆明池,蕃夷君長咸從。
- ^ 『旧唐書/卷3』:二月丙戌,置三師官員。戊子,初置律學。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十一月丁丑,頒新定《五經》。
- ^ 『旧唐書/卷3』:八年正月癸未,右衛大將軍阿史那吐苾卒。辛丑,右屯衛大將軍張士貴討東、西五洞反獠,平之。
- ^ 『旧唐書/卷3』:壬寅,命尚書右僕射李靖、特進蕭瑀楊恭仁、禮部尚書王珪、御史大夫韋挺、鄜州大都督府長史皇甫無逸、揚州大都督府長史李襲譽、幽州大都督府長史張亮、涼州大都督李大亮、右領軍大將軍竇誕、太子左庶子杜正倫、綿州刺史劉德威、黃門侍郎趙弘智使於四方,觀省風俗。
- ^ 『旧唐書/卷3』:冬十月,右驍衛大將軍、褒國公段志玄擊吐谷渾,破之,追奔八百餘里。甲子,至自九成宮。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十一月辛未,右僕射、代國公李靖以疾辭官,授特進。丁亥,吐谷渾寇涼州。己丑,吐谷渾拘我行入趙道德。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十二月辛丑,命特進李靖、兵部尚書侯君集、刑部尚書任城王道宗、涼州都督李大亮等為大總管,各帥師分道以討吐谷渾。壬子,越王泰為雍州牧。乙卯,帝從太上皇閱武於城西。
- ^ 『旧唐書/卷3』:九年春三月,洮州羌叛,殺刺史孔長秀。壬午,大赦。每鄉置長一人,佐二人。乙酉,鹽澤道總管高甑生大破叛羌之眾。
- ^ 『旧唐書/卷3』:庚寅,敕天下戶立三等,未盡升降,置為九等。
- ^ 『旧唐書/卷3』:癸巳,大總管李靖、侯君集、李大亮、任城王道宗破吐谷渾於牛心堆。
- ^ 『旧唐書/卷3』:五月乙未,又破之於烏海,追奔至柏海。副總管薛萬均、薛萬徹又破之於赤水源,獲其名王二十人。庚子,太上皇崩於大安宮。壬子,李靖平吐谷渾於西海之上,獲其王慕容伏允。以其子慕容順光降,封為西平郡王,復其本國。
- ^ 『旧唐書/卷3』:秋七月甲寅,增修太廟為六室。
- ^ 『旧唐書/卷3』:冬十月庚寅,葬高祖太武皇帝於獻陵。
- ^ 『旧唐書/卷3』:戊申,祔於太廟。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十二月甲戌,吐谷渾西平郡王慕容順光為其下所弒,遣兵部尚書侯君集率師安撫之,仍封順光子諾曷缽為河源郡王,使統其眾。
- ^ 『旧唐書/卷3』:乙亥,親錄京師囚徒。
- ^ 『旧唐書/卷3』:是歲,關內、河東疾病,命醫賚藥療之。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十一年春正月丁亥朔,徙鄶王元裕為鄧王,譙王元名為舒王。癸巳,加魏王泰為雍州牧、左武候大將軍。
- ^ 『旧唐書/卷3』:庚子,頒新律令於天下。作飛山宮。甲寅,房玄齡等進所修《五禮》。詔所司行用之。
- ^ 『旧唐書/卷3』:甲子,幸洛陽宮,命祭漢文帝。
- ^ 『旧唐書/卷3』:三月丙戌朔,日有蝕之。丁亥,車駕至洛陽。丙申,改洛州為洛陽宮。辛亥,大蒐於廣城澤。癸丑,還宮。
- ^ 『旧唐書/卷3』:夏四月甲子,震乾元殿前槐樹。丙寅,詔河北、淮南舉孝悌淳篤,兼閑時務;儒術該通,可為師範;文辭秀美,才堪著述;明識政體,可委字人:並志行修立,為鄉閭所推者,給傳詣洛陽宮。
- ^ 『旧唐書/卷3』:秋七月癸未,大霪雨。谷水溢入洛陽宮,深四尺,壞左掖門,毀宮寺十九所;洛水溢,漂六百家。
- ^ 『旧唐書/卷3』:庚寅,詔以災命百官上封事,極言得失。丁酉,車駕還宮。
- ^ 『旧唐書/卷3』:壬寅,廢明德宮及飛山宮之玄圃院,分給遭水之家,仍賜帛有差。丙午,修老君廟於亳州,宣尼廟於兗州,各給二十戶享祀焉。涼武昭王復近墓二十戶充守衛,仍禁芻牧樵採。
- ^ 『旧唐書/卷3』:九月丁亥;河溢,壞陜州河北縣,毀河陽中潭。幸白司馬阪以觀之,賜遭水之家粟帛有差。
- ^ 『旧唐書/卷3』:冬十一月辛卯,幸懷州。乙未,狩於濟源。丙午,車駕還宮。
- ^ 『旧唐書/卷3』:二月乙卯,車駕還京。
- ^ 『旧唐書/卷3』:癸亥,觀砥柱,勒銘以紀功德。甲子,夜郎獠反,夔州都督齊善行討平之。乙丑,次陜州,自新橋幸河北縣,祀夏禹廟。
- ^ 『旧唐書/卷3』:丁卯,次柳谷頓,觀鹽池。
- ^ 『旧唐書/卷3』:六月庚子,初置玄武門左右飛騎。
- ^ 『旧唐書/卷3』:冬十月己卯,狩於始平,賜高年粟帛有差。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十三年春正月乙巳朔,謁獻陵。曲赦三原縣及行從大闢罪。
- ^ 『旧唐書/卷3』:丁未,至自獻陵。
- ^ 『旧唐書/卷3』:二月丙子,停世襲刺史。
- ^ 『旧唐書/卷3』:甲寅,避正殿,令五品以上上封事,減膳罷役,分使賑恤,申理冤屈,乃雨。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十四年春正月庚子,初命有司讀時令。
- ^ 『旧唐書/卷3』:甲寅,幸魏王泰宅。赦雍州及長安獄大闢罪已下。
- ^ 『旧唐書/卷3』:二月丁丑,幸國子學,親釋奠,赦大理、萬年系囚,國子祭酒以下及學生高第精勤者加一級,賜帛有差。
- ^ 『旧唐書/卷3』:癸巳,交河道行軍大總管侯君集平高昌,以其地置西州。
- ^ 『新唐書/卷2』:九月癸卯,赦高昌部及士卒父子犯死、期犯流、大功犯徒、小功緦麻犯杖,皆原之。
- ^ a b 『旧唐書/卷3』:閏月乙未,幸同州。甲辰,狩於堯山。庚戌,至自同州。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十一月甲子朔,日南至。有事於圓丘。
- ^ 『旧唐書/卷3』:十二月丁酉,交河道旋師。吏部尚書、陳國公侯君集執高昌王麴智盛,獻捷於觀德殿,行飲至之禮,賜酺三日。
- ^ 『新唐書/卷2』:十五年正月辛巳,如洛陽宮,次溫湯。衞士崔卿、刁文懿謀反,伏誅。
- ^ 『旧唐書/卷3』:三月戊申,幸襄城宮。
- ^ 『新唐書/卷2』:四月辛卯,詔以來歲二月有事于泰山。乙未,免洛州今歲租,遷戶故給復者加給一年,賜民八十以上物,惸獨鰥寡疾病不能自存者米二斛。慮囚。
- ^ 『新唐書/卷2』:六月己酉,有星孛于太微。丙辰,停封泰山,避正殿,減膳。
- ^ 『新唐書/卷2』:七月丙寅,宥周、隋名臣及忠烈子孫貞觀以後流配者。
- ^ 『新唐書/卷2』:十月辛卯,獵于伊闕。壬辰,如洛陽宮。
- ^ 『新唐書/卷2』:十一月癸酉,薛延陀寇邊,兵部尚書李世勣為朔州道行軍總管,右衞大將軍李大亮為靈州道行軍總管,涼州都督李襲譽為涼州道行軍總管,以伐之。
- ^ 『新唐書/卷2』:十二月戊子,至自洛陽宮。庚子,命三品以上嫡子事東宮。辛丑,慮囚。甲辰,李世勣及薛延陀戰于諾真水,敗之。乙巳,贈戰亡將士官三轉。
- ^ 『新唐書/卷2』:十六年正月乙丑,遣使安撫西州。
- ^ 『新唐書/卷2』:戊辰,募戍西州者,前犯流死亡匿,聽自首以應募。
- ^ 『新唐書/卷2』:辛未,徙天下死罪囚實西州。中書舍人岑文本為中書侍郎,專典機密。
- ^ 『新唐書/卷2』:六月戊戌,太白晝見。
- ^ 『新唐書/卷2』:七月戊午,長孫无忌為司徒,房玄齡為司空。
- ^ 『新唐書/卷2』:十一月丙辰,獵于武功。壬戌,獵于岐山之陽。甲子,賜所過六縣高年孤疾氈衾粟帛,遂幸慶善宮。庚午,至自慶善宮。
- ^ 『新唐書/卷2』:二月己亥,慮囚。
- ^ 『新唐書/卷2』:戊申,圖功臣于凌煙閣。
- ^ 『新唐書/卷2』:三月壬子,禁送終違令式者。丙辰,齊王祐反,李世勣討之。甲子,以旱遣使覆囚決獄。乙丑,齊王祐伏誅,給復齊州一年。
- ^ 『新唐書/卷2』:四月乙酉,廢皇太子為庶人,漢王元昌、侯君集等伏誅。丙戌,立晉王治為皇太子,大赦,賜文武官及五品以上子為父後者爵一級,民八十以上粟帛,酺三日。丁亥,楊師道罷。己丑,特進蕭瑀為太子太保,李世勣為太子詹事:同中書門下三品。庚寅,謝承乾之過于太廟。癸巳,降封魏王泰為東萊郡王。
- ^ 『新唐書/卷2』:六月己卯朔,日有食之。壬辰,葬隋恭帝。甲午,以旱避正殿,減膳,詔京官五品以上言事。
- ^ 『新唐書/卷2』:十月丁未,建諸州邸于京城。
- ^ 『新唐書/卷2』:十一月己卯,有事于南郊。壬午,賜酺三日,以涼州獲瑞石,赦涼州。
- ^ 『新唐書/卷2』:丁巳,給復突厥、高昌部人隸諸州者二年。
- ^ 『新唐書/卷2』:七月甲午,營州都督張儉率幽、營兵及契丹、奚以伐高麗。
- ^ 『新唐書/卷2』:八月壬子,安西都護郭孝恪為西州道行軍總管,以伐焉耆。
- ^ 『新唐書/卷2』:辛卯,郭孝恪及焉耆戰,敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:十一月戊寅,慮囚。
- ^ 『新唐書/卷2』:庚辰,遣使巡問鄭、汝、懷、澤四州高年,宴賜之。甲午,張亮為平壤道行軍大總管,李世勣、馬周為遼東道行軍大總管,率十六總管兵以伐高麗。
- ^ 『新唐書/卷2』:十九年二月庚戌,如洛陽宮,以伐高麗。
- ^ 『新唐書/卷2』:乙卯,皇太子監國于定州。
- ^ 『新唐書/卷2』:四月癸卯,誓師于幽州,大饗軍。
- ^ 『新唐書/卷2』:癸亥,李世勣克蓋牟城。
- ^ 『新唐書/卷2』:五月己巳,平壤道行軍總管程名振克沙卑城。庚午,次遼澤,瘞隋人戰亡者。甲申,克遼東城。
- ^ 『新唐書/卷2』:六月丁酉,克白巖城。己未,大敗高麗于安市城東南山,左武衞將軍王君愕死之。
- ^ 『新唐書/卷2』:九月癸未,班師。十月丙午,次營州,以太牢祭死事者。丙辰,皇太子迎謁于臨渝關。戊午,次漢武臺,刻石紀功。
- ^ 『新唐書/卷2』:十一月癸酉,大饗軍于幽州。
- ^ 『新唐書/卷2』:己未,薛延陀寇夏州,左領軍大將軍執失思力敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:二十年正月辛未,夏州都督喬師望及薛延陀戰,敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:丁丑,遣使二十二人,以六條黜陟于天下。
- ^ 『新唐書/卷2』:庚辰,赦幷州,起義時編戶給復三年,後附者一年。
- ^ 『新唐書/卷2』:二月甲午,從伐高麗無功者,皆賜勳一轉。
- ^ 『新唐書/卷2』:三月己巳,至自高麗。
- ^ 『新唐書/卷2』:六月乙亥,江夏郡王道宗、李世勣伐薛延陀。
- ^ 『新唐書/卷2』:李世勣及薛延陀戰,敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:九月辛卯,遣使巡察嶺南。
- ^ 『新唐書/卷2』:甲辰,鐵勒諸部請上號為「可汗」。
- ^ 『新唐書/卷2』:十一月己丑,詔:「祭祀、表疏,藩客、兵馬、宿衞行魚契給驛,授五品以上官及除解,決死罪,皆以聞,餘委皇太子。」
- ^ 『新唐書/卷2』:丁酉,詔以來歲二月有事于泰山。
- ^ 『新唐書/卷2』:甲寅,以鐵勒諸部為州縣,賜京師酺三日。慮囚,降死罪以下。
- ^ 『新唐書/卷2』:三月戊子,左武衞大將軍牛進達為青丘道行軍大總管,李世勣為遼東道行軍大總管,率三總管兵以伐高麗。
- ^ 『新唐書/卷2』:五月戊子,幸翠微宮。壬辰,命百司決事于皇太子。庚戌,李世勣克南蘇、木底城。
- ^ 『新唐書/卷2』:七月乙未,牛進達克石城。
- ^ 『新唐書/卷2』:八月,泉州海溢。壬戌,停封泰山。
- ^ 『新唐書/卷2』:十二月戊寅,左驍衞大將軍契苾何力為崑丘道行軍大總管,率三總管兵以伐龜茲。
- ^ 『資治通鑑/卷198』:春,正月,己丑,上作《帝范》十二篇以賜太子,曰《君體》、《建親》、《求賢》、《審官》、《納諫》、《去讒》、《戒盈》、《崇儉》、《賞罰》、《務農》、《閱武》、《崇文》;且曰:「修身治國,備在其中。一旦不諱,更無所言矣。」又曰:「汝當更求古之哲王以為師,如吾,不足法也。夫取法於上,僅得其中;取法於中,不免為下。吾居位已來,不善多矣,錦繡珠玉不絕於前,宮室台榭屢有興作,犬馬鷹隼無遠不致,行遊四方,供頓煩勞,此皆吾之深過,勿以為是而法之。顧我弘濟蒼生,其益多;肇造區夏,其功大。益多損少,故人不怨;功大過微,故業不墮;然比之盡美盡善,固多愧矣。汝無我之功或而承我之富貴,竭力為善,則國家僅安;驕惰奢縱,則一身不保。且成遲敗速者,國也;失易得難者,位也;可不惜哉!可不惜哉!」
- ^ 『資治通鑑/卷198』:丙午,詔以右武衛大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管,右衛將軍裴行方副之,將兵三萬餘人及樓船戰艦自萊州泛海以擊高麗。
- ^ 『新唐書/卷2』:乙卯,見京城父老,勞之,蠲今歲半租,畿縣三之一。丁卯,詔度遼水有功未酬勳而犯罪者與成官同。
- ^ 『新唐書/卷2』:三月丁亥,赦宜君,給復縣人自玉華宮苑中遷者三年。
- ^ 『新唐書/卷2』:丙子,薛萬徹及高麗戰于泊灼城,敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:辛未,執失思力伐薛延陀餘部于金山。
- ^ 『新唐書/卷2』:九月庚辰,崑丘道行軍總管阿史那社爾及薛延陀餘部處月、處蜜戰,敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:己巳,阿史那社爾及龜茲戰,敗之。
- ^ 『新唐書/卷2』:十二月辛未,降長安、萬年徒罪以下。閏月癸巳,慮囚。
- ^ 『資治通鑑/卷199』:辛酉,上力疾至顯道門外,赦天下。丁卯,敕太子於金液門聽政。
- ^ 『新唐書/卷2』:己巳,皇帝崩于含風殿,年五十三。
- ^ 『旧唐書/卷3』:八月丙子,百僚上謚曰文皇帝,廟號太宗。庚寅,葬昭陵。
- ^ 『旧唐書/卷3』:上元元年八月,改上尊號曰文武聖皇帝。
- ^ 『旧唐書/卷3』:天寶十三載二月,改上尊號為文武大聖大廣孝皇帝。
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- ^ Yule (1915), pp 29–31; footnote No. 3 on p. 31.
- ^ Yule (1915), p. 30; footnote No. 2 on p. 30.
- ^ Yule (1915), p 29; footnote No. 4 on p. 29.
- ^ 清の陳夢雷『古今図書集成』理学彙編・経籍典・第388巻に引く原文では「閲《貞觀政要》之書,善政累々,榮一時之史籍;治道之盛,三代以還未有也。議者曰:『闊達類漢高,神武同魏祖,除亂比湯武,致治幾成康。』豈虚語哉?」となっている。
- ^ 原文では「漢高私意分數少,唐太宗一切假仁借義以行其私。 漢高祖取天下,卻正當為他直截恁地做去,無許多委曲。唐初,隋大亂如此,高祖、太宗因群盜之起,直截如此做去,只是誅獨夫,為他心中打不過,又立恭帝, 假援回護,委曲如此,亦何必爾?所以不及漢之創業也。唐太宗以晉陽宮人侍高祖,是致其父於必死之地,便無君臣父子夫婦之義。」
- ^ 原文では「太宗殺建成元吉,比周公誅管蔡,如何比得!太宗無周公之心」
- ^ 前述の清の陳夢雷『古今図書集成』理学彙編・経籍典・第388巻に引く、朱熹『唐総論』
- ^ 布目『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』清水書院 (清水新書 44) 1984
- ^ 『酉陽雜俎/卷一』:好用四羽大笴,長常箭一膚,射洞門闔。
- ^ 『資治通鑑/卷188』:世民嘗自帥輕騎覘敵,騎皆四散,世民獨與一甲士登丘而寢。俄而賊兵四合,初不之覺,會有蛇逐鼠,觸甲士之面,甲士驚寤,遂白世民,俱上馬,馳百餘步,為賊所及,世民以大羽箭射殪其驍將,賊騎乃退。
- ^ 『資治通鑑/卷189』:世民謂尉遲敬德曰:「吾執弓矢,公執槊相隨,雖百萬眾若我何!」又曰:「賊見我而還,上策也。」去建德營三里所,建德遊兵遇之,以為斥候也。世民大呼曰:「我秦王也。」引弓射之,斃其一將。建德軍中大驚,出五六千騎逐之;從者咸失色,世民曰:「汝弟前行,吾自與敬德為殿。」於是按轡徐行,追騎將至,則引弓射之,輒斃一人。追者懼而止,止而復來,如是再三,每來必有斃者,世民前後射殺數人,敬德殺十許人,追者不敢復逼。
- ^ 『太平御覽/0109』:太宗命左右先歸,獨留後殿。世充驍將單雄信數百騎夾道來逼,交槍競進,太宗幾爲所敗。太宗遣行軍總管左右射之,無不應弦而倒,獲其大將燕頎。
- ^ 『新唐書/卷086』:逐黑闥也,為突厥所窘,自以大箭射卻之。突厥得箭,傳觀,以為神。後余大弓一、長矢五,藏之武庫,世寶之,每郊丘重禮,必陳於儀物之首,以識武功雲。
- ^ 『太平御覽/0831』:唐儉授民部尚書,從太宗於洛陽苑射猛獸。儉見群豕突出林中,太宗引弓,四發殪四豕。
- ^ 『太平御覽/0347』:太宗謂蕭瑀曰:「朕少好弓矢,自爲能盡其妙。近得良弓十數,以示弓工,乃曰:『非良材也。』朕問其故,工曰:『木心不正,脉理皆斜,弓雖剛勁,而遣箭不直,非良弓也。朕始悟焉。』朕以弧矢定四方,使弓多矣,有天下之日,淺得爲治之意,固未及于弓。弓猶失之,何况于治乎。」自是遂延耆老問之政術,京官五品已上更宿中書內省,上每延與語,詢訪外事,務知百姓疾苦、政教之得失焉。
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- ^ 舊唐書/卷58:後從幸洛陽苑射猛獸,群豕突出林中,太宗引弓四發,殪四豕,有雄彘突及馬鐙,儉投馬搏之,太宗拔劍斷豕,顧笑曰:「天策長史,不見上將擊賊耶!何懼之甚?」
- ^ 『瑯嬛記/卷下』:唐太宗有古劍,七星隱顯,隨於北斗。恒在燈下試之,使人視雲氣過斗,劍上逐星漸隱,頃刻不差。〈《膠葛》〉。
- ^ 『武备志』:唐太宗有剑士千人,今其法不传,断简残篇中亦有歌诀,不详其说。
- ^ 『陕西通志』:劍匣寺在縣治北五十里古洞臨崖院宇幽勝攷碑記唐太宗偕李靖領兵征北番過髙奴抵龍安界土人奏大蟒為害太宗射蟒入石罅挽其尾化為劍缺刃按劍磨之石為之虧宋元祐中建寺于此
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- ^ 唐會要/卷020:上欲闡揚先帝徽烈。乃令匠人琢石。寫諸蕃君長。貞觀中擒伏歸化者形狀。而刻其官名。突厥頡利可汗。右衛大將軍阿史那出苾。突厥頡利可汗右衛大將軍阿史那什缽苾。突厥乙彌泥孰候利苾可汗右武衛大將軍阿史那李思摩。突厥都布可汗右衛大將軍阿史那社爾。薛延陀真珠毘伽可汗。吐番贊普。新羅樂浪郡王金貞德。吐谷渾河源郡王烏地也拔勒豆可汗。慕容諾曷缽。龜茲王訶黎布失畢。于闐王伏誾信焉耆王龍突騎支。高昌王左武衛將軍麴智盛。林邑王范頭黎。帝那伏帝國王阿羅那順等十四人。列于陵司馬北門內。九嵕山之陰。以旌武功。
- ^ 松浦友久『李白伝記論』研文出版、1994年9月、75頁。 ISBN 978-4876361205。
- ^ 『唐会要』巻21
- ^ 2024年出土の『大唐故才人王氏墓志』より
- ^ 『刀人高恵通墓誌』によると、秦王時代の刀人(側女。品位は無かった)
参考文献
外部リンク
李世民(り せいみん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:20 UTC 版)
「西遊妖猿伝」の記事における「李世民(り せいみん)」の解説
唐初代皇帝・李淵の次男(秦王)で、2代目皇帝(太宗)。史上名高い玄武門の変において、兄・建成と弟・元吉を殺害、皇帝となる。宮城を破壊して逃走した悟空の捜索を魏徴に命じる。史実では中国史上最高の名君とされるが、同時にその事績には粉飾が多いとも言われる。本作では平民の台頭を嫌う象徴的な権力者として描かれ、野心家かつ短気な部分があるなど、否定的な描写が多い。
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