智証大師とは? わかりやすく解説

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ちしょう‐だいし【智証大師】

読み方:ちしょうだいし

円珍(えんちん)の諡号(しごう)。


ちしょうだいし 【智証大師】

円珍

円珍

(智証大師 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/20 09:57 UTC 版)

円珍
弘仁5年3月15日 - 寛平3年10月29日
814年4月8日 - 891年12月4日
智証大師像(金倉寺蔵、重要文化財
(金剛名号)智慧金剛
諡号 智証大師(醍醐天皇より)
生地 讃岐国
宗派 天台宗寺門派
寺院 園城寺
義真
著作 『法華論記』ほか
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円珍(えんちん)は、平安時代天台宗仏教天台寺門宗(寺門派)の宗(派)祖。諡号智証大師智證大師、ちしょうだいし)。宝号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」。

で学んだ入唐八家(最澄空海常暁円行円仁恵運円珍宗叡)の一人。

概説

弘仁5年(814年)、讃岐国金倉郷(現香川県善通寺市)に誕生。多度郡弘田郷の豪族佐伯氏の一門のひとり。俗姓は和気は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り、延暦寺義真に師事、12年間の籠山行に入る。天長10年(833年)、年分度者となった[1]承和5年(838年)、座禅中の円珍の前に黄金に輝く不動明王が現れた。この不動明王が円珍がその後信仰することとなる黄不動尊であった[1]

承和12年(845年)、役行者の後を慕い、大峯山葛城山熊野三山を巡礼し、那智の滝に参篭した。これは三井修験道の起源をなすものとなり、大峯山は智証門流の修験者により霊山として発展していった。承和13年(846年)、延暦寺一山の真言学頭となる。仁寿3年(853年)、新羅商人の船で入唐した。この入唐は、円珍の夢の中に度々山王明神が現れ、唐にいくのを勧められたからという伝説が残る。この航海の途中で暴風に遭って台湾に漂着してから、同年8月に福州連江県に上陸した。以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。その際、日本からの留学生のために止観堂(天台日本国大徳僧院)を建立した。斉衡2年(855年)には長安を訪れ、青竜寺法全和尚から「両部大教阿闍梨位潅頂法」という密教の奥旨を伝授され、 法全秘蔵の「五部心観」を付与され、真言密教を伝授された[1]

天安2年(858年)、唐商人の船で帰国。その際、四百四十一部一千巻もの経典を持ち帰った。この経典は新羅明神の夢告により、園城寺(三井寺)唐院に永蔵されることとなった[1]。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていたようである。その後、比叡山の山王院に住し、貞観八年(866年)五月二十九日、太政官牒をもって真言・止観両宗弘伝の公験を賜わり、 円・密・禅・戒の四宗に併せて修験の一道を加える天台寺門の教法が正式に認められた[1]貞観10年(868年)に延暦寺第5代座主となる。これに先立つ貞観元年(859年)に園城寺の長吏別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山延暦寺において、円仁が祖である山門派と円珍が祖である寺門派(天台寺門宗)が争い、最終的に園城寺が寺門派の拠点となった[1]

寛平3年(891年10月29日、入寂。享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる『黄不動』『新羅明神像』等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。

延長5年(927年12月27日醍醐天皇より「法印大和尚位」と「智証大師」の諡号を賜る。

著作

著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である『法華論記』『授決集』の他、自身の書いた入唐旅行について記した『行歴抄』など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。『行歴抄』では、円載との確執が描写されている[2]

肖像

国宝の智証大師像(中尊大師)。園城寺所蔵。平安時代の作。

円珍は、園城寺では開祖として尊崇され、同寺には国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。同寺唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と称する2体の智証大師像があり、いずれも国宝に指定されている。いずれの像も頭頂が尖り、頭部の輪郭が卵型を呈する独特の風貌に特徴がある。これを「霊蓋」(れいがい)といい、左道密教では未来を予知できる能力を備えるとされ、非常に崇められた。反面、その験力を得ようと切り取られることもあったため、入唐時に諭され非常に警戒された。

円珍の書

円珍自筆書状(僧正遍照宛、年未詳5月27日)。東京国立博物館蔵、国宝「円珍関係文書」の一つ。

書風は「枯枝のような」と評される独特のものである。真跡は20余点現存し、その代表的なものは次のとおりである。

  • 僧正遍照宛円珍書状(国宝)[3]
東京国立博物館所蔵の国宝「円珍関係文書」のうち。古今集の歌人である遍照僧正への返信で、年はなく5月27日の日付があるのみであるが、晩年の手紙と推定される。一見稚拙のようだが、古渋な勁い書である。
  • 請伝法公験奏状案(でんぽうくげんをこう そうじょうあん)(国宝)
園城寺所蔵の国宝「智証大師関係文書典籍」のうち。入唐からの帰国後、伝法のための公験(証明書)を請求するため、朝廷に提出した文書の案である。貞観5年(863年)11月13日の日付がある。書風は行書風の特徴ある楷書

円珍関係文書典籍の「世界の記憶」登録

円珍が唐に渡る際に、九州大宰府で交付された渡航証明書や、唐の役所で発給された通行許可証など合計56件で構成される「智証大師円珍関係文書典籍―日本・中国の文化交流史―」が2023年5月24日、ユネスコの「世界の記憶」に登録された[4][5]

脚注

関連項目

参考文献

外部リンク

智証大師円珍関係文書典籍ー日本・中国の文化交流史ー|総本山 三井寺



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