星野氏とは? わかりやすく解説

星野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/03 10:13 UTC 版)

星野氏(ほしのし)は、日本氏族

  1. 尾張星野氏は、源頼朝伯父由良御前の兄)である熱田神宮大宮司星野範信熱田大宮司流)を祖とし、院近臣などを多く輩出して天の羽衣の調進役なども務めた[1][2]。(藤原南家季範流熱田神宮大宮司家・熱田大宮司流
  2. 筑後星野氏は、源頼朝の推挙で議奏となった徳大寺実定の子・星野胤実を祖とし、生葉郡竹野郡に1000町(約1万石)を領した国人領主
  3. 上野国の星野氏は、清和源氏流であり、星野あい津田塾大学学長)、星野直樹(満洲国国務院総務長官)などが出た[2]
  4. 藤原北家に連なる星野氏。
  5. 伊賀の宇多源氏佐々木流の星野氏。
  6. 越後の桓武平氏清盛流の星野氏。
  7. その他に陸奥国越後国武蔵国河内国丹後国紀伊国安芸国豊前国などにも諸流が存在する[2]
  • このうち、下記の本項では、筑後国の星野氏について述べる。

星野氏
亀甲藤丸 きっこう ふじまる
本姓 藤原氏藤原北家?)
家祖 星野胤実
種別 武家
出身地 筑後国生葉郡星野邑
主な根拠地 筑後国生葉郡星野邑
凡例 / Category:日本の氏族

筑後星野氏(ちくご ほしのし)は、筑後国生葉郡星野邑を拠点とした大身国人領主。鎌倉時代初期に興り、生葉郡竹野郡などに1000町(約1万石)を領し、筑後十五城の一つに数えられた。南北朝時代は南朝方として懐良親王良成親王を奉じて活躍したが、戦国時代立花山城の戦いで所領を失い、その後は小城藩士などとして九州を中心に存続した。

出自

嘉禄2年(1226年)、源頼朝の推挙で議奏となった徳大寺実定の子(あるいは 後鳥羽院の子)の星野胤実が、猫尾城黒木大蔵大輔源助能猶子となって筑後に下り、筑後星野氏の祖となったと伝えられている[3][4][5]八女市黒木町に伝わる近世初期の『黒木物語』によれば、胤実の母は待宵の小侍従とされ、現在[いつ?]上臈という地名が残されている。『黒木物語』では星野氏の出自にまつわる悲話が語られており、後にこの地を訪れた柳原白蓮大正天皇の従妹)の歌碑[6]黒木大藤近くの公園に建てられている。

弘安3年(1279年)年、星野胤実が霊夢の中で神託を受け小室谷付近で金鉱を発見したのを星野金山の始まりとする言い伝えがある(『星野家譜』)。

弘安の役後の正応元年(1288年)、恩賞により上座郡下座郡の一部を所領とする[7]

南北朝時代

鎌倉時代末期、星野氏は菊池氏とともに後醍醐天皇方を支持し、続く南北朝時代においても南朝方として一貫して重要な位置を占めた。

元弘の乱では菊池武時の敗死後、外様従士の間で大友貞宗支持の動きがあると、星野胤親は元弘3年(1333年)3月24日、250騎を率いて討伐戦を実施。まず、首謀者の志波庄烏山城城主の松平遠盛を攻め滅ぼし、ついで28日 ~ 4月4日にかけ「三ヶ月城主の井手 本忠」・「鵜木城主の久保山 左近清閑」・「松尾城主の宝珠山 山城守 元文」・「烏嶽城主の木村 了心」らの居城を次々と取り囲み、従属を表明させた。4月5日、もう一人の首謀者である山下 五郎左エ門 貞之とその舎弟・貞盛の居城である茶臼山の岩切山城を取り囲み、5日間にわたる攻防の末に山下兄弟を敗死せしめた[8][9]

延元元年/建武3年(1336年)、九州へ落ち延びた足利尊氏との多々良浜の合戦に、星野家能が菊池氏・阿蘇氏らとともに出陣したが、松浦党裏切りによって敗北した。

正平14年(1357年)、菊池武光征西将軍懐良親王後醍醐天皇の第8皇子)を奉じて少弐氏と戦った筑後川の戦いに、星野忠実・鎮種・実世らも出陣して勝利し、南朝の征西府が大宰府を押さえることとなる。太祖倭寇の鎮圧にあたり、懐良親王を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。

文中元年/応安5年(1372年)6月、室町幕府によって九州探題に任じられた今川貞世(了俊)の活躍により、征西府は大宰府を失った。文中2年/応安6年(1373年菊池武光が病死し、文中3年/応安7年(1374年)には懐良親王征西将軍職を良成親王後村上天皇の第6皇子)に譲り星野村大円寺に退くなど、九州南朝方は弱体化したが、その後も星野氏は菊池氏・五条氏・黒木氏・草野氏らとともに、征西将軍宮良成親王を擁して戦った。文中3年(1374年)、生葉荘に攻め入った今川軍を、星野氏は出撃して撃退している。天授元年(1375年)、今川了俊少弐冬資が不和になった際には、星野実能は冬資の弟少弐頼澄を妙見城に預かった(少弐冬資は水島の変で誅殺)。

元中8年(1391年)、八代の名和氏が降伏し、九州南朝方の拠点は、筑後の矢部星野だけになり、明徳3年(1392年)に南北朝合一をむかえることとなる。

戦国時代

筑後十五城(ちくごじゅうごじょう)と呼ばれる大身の1つとして大友氏幕下で勢力を維持したが、大内氏に通じるなどし、たびたび独立を試みた。

星野重泰

星野 常陸介 重泰は大友氏に従わなかったため、大友義長妙見山城を包囲した。少弐資元も大友氏を支援して兵を送ったが、妙見山城は難攻不落で、いたずらに日を重ねた。その後、大友義長の家臣「竹尾 新左衛門」が偽って星野重泰に仕え、その信任を得て、ついに入浴中の重泰を殺害することに成功した。重泰の死によって妙見山城も落ち、義長は星野 筑後守 親実を妙見山城主とした。 永正14年(1517年大友義長が残した遺言状に「星野九郎(興泰)は重泰の息子である。重泰は度々征伐を行ったが手にかけることはできなかった。それを臼杵安芸守親連の知謀によって、竹尾新左衛門に暗殺させた。(中略)星野九郎の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」との旨の記述がある。

星野吉実

戦国時代の星野吉実(ほしの よしざね)は、龍造寺隆信が黒木氏の所領に侵攻した際、同族である黒木氏の側に立ち、自らは黒木氏の猫尾城に入り、次男の正実(まさざね)を福丸城に配して抗戦した(系図には親忠の子)。吉実の嫡男の親忠(ちかただ)は、侵攻してきた大内義隆毛利元就の数万の兵と妙見城にて戦い討死。正実が周防方に組した時、親忠のの重実(しげざね、表記は「鎮実」とも)は大友氏方に属して戦った。

星野親忠

天文2年(1533年)、大友義鑑は、自立して従わなかった星野親忠を生葉城に攻め、攻略できなかった。天文3年(1534年)、大友義鑑は、京に使いを送って幕府令を受け、九州の兵を募って星野を攻略にかかった。星野親忠はよくこれを禦ぎ戦ったが、天文4年(1535年)閏5月に至り城を脱し、新潟県藍川(北魚沼郡)に落去したと伝えられている。この子孫は今も小千谷市にあり、越後国小千谷・川口方面を拠点としていた平子氏大内氏重臣仁保氏の親族)の手引きによるものとされている[10]

星野鑑泰

重実には子がおらず、蒲池氏に嫁いだ娘の子である蒲池鑑泰(あきやす、のち鎮泰(しげやす))が母方の星野氏の名跡を継ぎ、重実の死後、大友方として白石城・福丸城と転戦し、肥前国勝山[11](永祿2年(1559年)4月2日の侍島の戦いに参戦した。)にて討死した(「」の字や「」の字を大友義鑑や義鎮(宗麟)から賜っていることからも、大友氏に従属していたことがうかがえる。)。鑑泰の嫡男の鎮虎(しげとら)は、大友方として白石城にて龍造寺氏を迎え撃つが守りきれず、豊後国に逃れた。鑑泰の次男の鎮胤(しげたね)は龍造寺氏、または島津氏に従属し、福丸城から筑後鷹取城に移り、正実の子の高実(たかざね。伯耆守 鎮忠。一閑[12]。)の所領1000町を領した。

立花山城の戦い(高鳥居城の戦い)

天正14年(1586年)8月に、星野鎮胤(吉実)と弟の鎮元(しげもと)は、立花山城の戦いにおいて島津軍殿として立花宗茂と戦い筑前国糟屋郡高鳥居城にて討死した。

その後

鎮胤(吉実)の子である長虎丸(鎮之(しげゆき))と弟の熊虎丸は、父の筑前出陣中、本城を守っていたが、老臣・星野右衛門佐が叛き、鍋島氏によって鎮圧された。その為、長虎丸と熊虎丸は鍋島氏家臣となった。弟・熊虎丸は、元服して星野 七兵衛 親昌と云い鍋島直茂に仕えた後、元和3年(1617年小城藩創設時に、直茂より譲り受けた八十三士の一人として鍋島元茂の家臣となった(小城藩士星野家)[13]。兄・鎮之の系譜は佐賀藩において連なり、『葉隠』には、星野了哲の記述が、『葉隠考補方六巻』には星野惣右衛門英鉄(後に入道英鉄)が佐賀楠神社の創始者の1人である記述が見受けられる。

近代では、久留米高等女学校(現・明善高等学校)や久留米女子職業学校(現・久留米高等学校)などの開設に貢献した星野フサなどが出ている[14]。また、越後国においては衆議院議員や小千谷市市長をつとめた星野行男新潟県議会議長をつとめた星野伊佐夫などがいる。

黒木瞳(女優)は、星野家の重臣をつとめた樋口家の子孫である[15]

白壁の街並みで有名なうきは市筑後吉井は、星野氏の離散により、その城下町が移動して形成された。

福岡市博多区吉塚は、立花山城の戦いで戦死した星野鎮胤(中務大輔吉実)と星野鎮元(民部大輔吉兼)の兄弟を祀る吉塚地蔵尊に因んだ地名である。

関連作品

脚注

 

  1. ^ 藤原氏”. minkei.jakou.com. 2023年5月16日閲覧。
  2. ^ a b c 丹羽 1970, p. 286.
  3. ^ 須佐弘美 2016.
  4. ^ 『太宰菅内志 筑後の部』
  5. ^ 星野氏(星野氏ホーム)”. mfj.co.jp. 2023年5月16日閲覧。
  6. ^ 柳原白蓮「ひとをのみし淵かやここは上臈の都恋しとなきにけむかも」黒木町観光協会
  7. ^ 小石原村教育委員会 編『鼓釜床1号古窯跡 : 福岡県朝倉郡小石原村大字鼓所在高取焼窯跡の調査』1994年3月、5頁。NDLJP:13323587/12 
  8. ^ 安陪光正 編『三奈木村史資料』 3巻、1980年11月、22 - 27頁。NDLJP:9574757/16 
  9. ^ 今村和方ほか 編『星野家譜』大円寺、1982年3月、185 - 187頁。NDLJP:12210923/96 
  10. ^ 佐賀県史編纂資料「星野村地勢附城塞と諸嶺峰」
  11. ^ 『筑後国史 中巻』 (日本語) - P.189
  12. ^ 『柳川の歴史2・蒲池氏と田尻氏』P.218。
  13. ^ 星野家文書 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2023年5月16日閲覧。
  14. ^ 20世紀日本人名事典. “星野 フサ(ホシノ フサ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年5月17日閲覧。 (日本語)
  15. ^ 黒木瞳、初めて知る自身のルーツに涙”. plus.tver.jp (2015年5月14日). 2023年5月17日閲覧。 (日本語)

参考文献


「星野氏」の例文・使い方・用例・文例

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