早坂啓
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はやさか けい
早坂 啓
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| 生誕 | 1925年9月8日 |
| 出身校 | 東海科学専門学校 |
| 職業 | 銀行家 |
| 親 | 早坂順一郎・ともよ |
| 親戚 | 早坂康(長弟) |
早坂 啓(はやさか けい、1925年(大正14年)9月8日 - 没年不明)は、日本の銀行家。德陽シティ銀行社長を務めた。
来歴・人物
早坂順一郎・ともよの長男として、現在の大崎市で生まれる[1]。
古川高等学校、東海科学専門学校を卒業[2]。1950年に三徳無尽に入社。翌年の相互銀行法の施行に伴い、三徳無尽は「德陽相互銀行」に改称した。入行後、経理、業務各課長、業務部次長を歴任し、1962年4月取締役に選任される。その後、常務、専務、副社長を経て、1980年1月社長に就任した[2]。このほか、東北放送、仙台空港ビル、宮城県開発の各取締役、仙台商工会議所副会頭、仙台経済同友会副代表幹事も務めている[1]。
啓が社長に就任した頃の德陽相互銀行は、東北の相互銀行界ではトップに位置し、全国でも資金量(1986年3月末現在6187億円)では18位で上位グループに属した[1]。また地域に密着したコミュニテイバンクを志向し、仙台を中心に県内61店を基盤にし、県外では東京(上野)、新宿、宇都宮、郡山、福島、一関、花巻、盛岡と、東北縦貫道に沿って拠点を張り、広域店舗網を展開していた[1]。ところが社長に就任後、父が進めた乱脈融資が明らかとなり、大蔵省の行政指導によって、不良債権処理が進められることになった[3]。バブルの時代には、その尻拭いに追われ、バブルの狂乱を指をくわえてみているしかなかった[4]。啓は不良債権は5年で回収できると胸を張っていたが、バブル崩壊で回収作戦は頓挫し、経営は急激に悪化した[4]。そのため1984年4月、啓は会長に退き、日銀から天下っていた甲斐秀雄が社長に就任した[4]。だが、普銀転換が認められなかったことから、1990年6月、大蔵省出身の大谷邦夫を社長に迎え、同年8月にやっと普銀転換が実現し、「德陽シティ銀行」となった[4]。しかし、1997年11月26日、コール市場において資金調達ができず、德陽シティ銀行は経営破綻した[5]。
破綻するまで会長にとどまっていた啓は、整理回収機構から、1979年の簿外の裏保証など度重なる不祥事や関連会社への過剰融資で不良債権が膨らんだことに対する経営責任を追求された[6]。退職金や在任中に賞与を受け取っていなかったことが勘案され、4500万円のペナルティを支払うことで合意している[6]。
親族
- 妻
- 長女
- 次女
- 長男
- 長弟 早坂康(徳陽相互銀行専務を経て武南開発社長)[1]。
脚注
参考文献
- 『日本金融名鑑 1989年版 上巻』日本金融通信社、1988年10月。
- 『財界家系譜大観 第8版』現代名士家系譜刊行会、1988年11月。
- 有森隆『銀行の墓碑銘』講談社、2009年2月。ISBN 978-4062152709。
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