揚雄とは? わかりやすく解説

よう‐ゆう〔ヤウ‐〕【揚雄】

読み方:ようゆう

[前53〜後18中国前漢文人思想家成都四川省)の人。字(あざな)は子哲学的著作として「易経」に擬した太玄経(たいげんきょう)」、「論語」を模した揚子法言」がある。一方辞賦をよくし「甘泉賦」「羽猟賦」などを残したほか、当時各地方方言集めた揚子方言」などもある。楊雄


ようゆう 【揚雄】

揚は楊とも。中国前漢文人学者四川成都の人。字は子宮廷詩人で作「甘泉賦」が有名。『易経』にならって宇宙論書『太玄経』を、『論語』にならって思想書揚子法言』を著した。(前五三~後一八

揚雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/04 15:31 UTC 版)

揚雄
揚雄

揚 雄(よう ゆう、紀元前53年宣帝甘露元年) - 18年王莽天鳳5年))は、中国前漢から王莽の文学者・儒学者・言語学者(小学)・術数学者である。出身は蜀郡成都(現在の成都市郫都区)。楊雄とも表記される[1]は子雲。

揚雄は、多分野にわたり多数の作品を残した上、その多くの作品が今に伝わっている。そして揚雄自身による自伝「揚雄自序」が『漢書』揚雄伝に収録されており、揚雄自身によって自らの辞賦や著作について制作の意図や経緯を説明している。このように揚雄は、その作品および生涯に関する豊富な資料が現在にまで伝わっている点で、中国古代の人物としては比類のない存在である。このように揚雄の作品や資料が伝承されてきたことは、後世において揚雄がいかに重要視されていたかを示している。

生涯

上京前(成都にて)

甘露1年(前53)蜀郡成都に生まれる。その先祖は周室の伯僑であり、黄河と汾水の間にあった晋の楊を采地とした。その後、楊侯と称したが、戦国期には楚の巫山に逃れた。漢になると長江を遡り、巴の江州に住んだ。5世の祖の楊季は廬江の太守となったが、元鼎年間に岷山の南にある郫に移り住み、代々農桑を業とした(『漢書』揚雄伝・上)。

揚雄は年少の頃から学問を好み、厳遵・林閭翁孺に学んだ(『漢書』王貢両龔鮑伝、「答劉歆書」)。厳遵は『老子』や『易』に通じた在野の学者であり、林閭翁孺は小学(言語学)に造詣の深い人物であったらしく、揚雄の学問形成に強い影響を与えたものと考えられる[2]

自序によると、揚雄は広く書を読んで見ていない書物がないほどであったが、人と激しく言い争うことはせず、黙って思索に耽ることを好んだ。また富や名声を求めようとしなかった。家産は十金にすぎず、わずか1石(約31キロ)か2石の米のたくわえもない貧しさであったが、安らかで落ち着いており、度量が大きかった。

また揚雄は、世に容れられず自ら江水に身を投じた屈原の「離騒」に深く感銘を受けて「反離騒」を作り、長江に投じてその死を哀悼した。このほか『楚辞』にならい「広騒」「畔牢愁」を作ったほか(「反離騒」、『漢書』揚雄伝・上)、『楚辞』天問について「天問解」を著したらしい(王逸『楚辞章句』天問叙)。また「蜀都賦」「蜀王本紀」も蜀での作と思われる。

成帝期(上京後)

30歳代で長安の都に上ると、大司馬車騎将軍の王音が揚雄の文雅を重んじて門下の史とし、やがて揚雄は待詔に推薦され皇帝の下問に答えるようになった[3]

同郷の郎官の楊荘が成帝の前で雄の「緜竹頌」「県邸銘」「王佴頌」「階闥銘」「成都城四堣銘」などを誦したところ、成帝は司馬相如に似るとしてこれらの作品を好み、揚雄に拝謁を許した[4]

元延2年(前11)43歳の時、 「甘泉賦」「河東賦」を上奏し、同年12月に成帝の羽猟に随行して「校猟賦(羽猟賦)」を献じたことで郎に任ぜられ黄門に給事した。

なお郎に任ぜられた後、3年にわたり禄を受けず、石室の書を観て学識を深めた[5]

また『漢書』揚雄伝賛には、黄門に給事したことで王莽劉歆と同僚になったように記されるが、年次が合わないため、この記事は揚雄があくまで王莽・劉歆らと同じ官に進んだことを示唆するものと考えられる[6] 。しかしながら揚雄が劉歆と交友を深めていたことは「答劉歆書」や『漢書』揚雄伝賛の記述からも明らかであり、王莽は揚雄が仕えた王音の縁戚である上、後に王莽のために「元后誄」「劇秦美新」を作ったことから、両人の親密な関係がうかがえる。

このほか揚雄は『漢書』を著した班固の曾祖父の班斿と交友があった。班斿は「博学にして逸材」(『漢書叙伝』)と称され、劉向とともに書物を校訂する仕事に携わる人物であった。さらに班斿の子の班嗣は道家思想に精通していた人物であったから、揚雄が蜀において厳遵などから学んでいた道家思想を深める契機ともなった[7]

元延2~綏和2(前11~前7)43~47歳 成帝の命を受け、「趙充国の頌」を奏上する[8]。このほか成帝期には「酒箴」を作って成帝を諷諫したり[9]、「繍補、霊節、竜骨之銘詩三章」を作って、成帝の意を得ている[10]

元延3年(前10)44歲「長楊賦」を作り上奏したが、賦を用いて婉曲的な諷喩を行なっても皇帝に諒解されないことを悟り、皇帝に賦を献じることを止める。それはまたこの頃に賦を好んだ成帝が逝去し、哀帝の代へと移り変わったためとも考えられる。

文心雕龍』を著した南朝梁劉勰によれば、揚雄の賦は、彼以前の司馬相如らのそれが字句の彫琢に腐心しているのに比べ、経書などを多く引用して学術的傾向を持っており、新境地を開いていると評価する[11]。しかし揚雄は、「賦なる者は童子の雕蟲篆刻にして、壮夫は為さざるなり」(『法言』)と述べ、学問研究に身を投じた。

哀帝

哀帝期(前7~前1)47~53歳 『太玄』「解謿」を著す[12]

建平2年(前5)49歲 「哀帝の災異を問ふに対ふ」を上奏し、宮廷での鐘の鳴ったかのような大音声は「鼓妖(つづみの怪異)」であり、時の丞相(朱博)と御史(趙玄)に原因があると答申する[13]

建平4年(前3)51歲 哀帝に「上書して単于の朝するを許すこと勿きを諫む」を上書し、匈奴との和親策を主張。この主張が認められ、帛50匹と黄金10斤を賜る[14]

王莽

元始4年(後4)57歲 この頃『法言』の執筆に取り組む[15]

元始5年(後5)58歲『蒼頡』に続けて『訓纂』『蒼頡訓纂』を作る[16]。この頃、「劉歆に答ふるの書」を送り、『方言』の制作を進めたらしい[17]

元始5年(後5)~始建国4年(後12)58~65歳 「州箴」を作る[18]

初始1年(後8)・始建国1年(後9)60・61歲 王莽が帝位を簒奪し新を建国すると、雄は中散大夫となる[19]。また「劇秦美新」を作ったのは、このころ以後と考えられる[20]

始建国1年(後9)以前「官箴」を作る[21]

始建国3年(後11)64歲 劉歆の子の劉棻に符命に用いる奇字を教えたとの嫌疑を受け、天禄閣より投身する。王莽は事を荒立てることなく不問に付したが、都では「惟(こ)れ寂 惟れ寞にして自ら閣より投じ、爰(ここ)に清 爰に静にして符命を作る」(揚雄「解謿」の一節を捩ったもの)と囃し立てられたという[22]。その後、病気のため官を免ぜられるも、また召されて大夫となる[23]

始建国5年(後13)66歲 元后(王政君)が没し、王莽の詔により「元后誄」を作る[24]

天鳳5年(後18)71歲 逝去。弟子の侯芭、安陵阪上(咸陽市・恵帝陵)に墳墓をなし、3年の喪に服す[25]。如子礼も葬礼に加わり、桓譚は香奠を集め墓所を定めて祠を立て、「玄冢」と名付けた[26]

作品と学問

揚雄の71年に及ぶ生涯は、郷里成都における約30年、上京後と成帝に召された後の計17年、哀帝に仕えた7年、王莽が主権を掌握した17年に分けることができ、その作品と学問もこの4期において大きく変化している。

在蜀期

まず蜀においては、「反離騒」「広騒」「畔牢愁」のほか「天問解」を著したように、長江流域の文化の影響が強い。また「蜀都賦」「蜀王本紀」や、後に成帝に献じた「緜竹頌」「県邸銘」「王佴頌」「階闥銘」「成都城四堣銘」のように、郷里成都との結び付きが強い作品が多い。また蜀において厳遵に学んだ『老子』や『易』は、後に『太玄』の制作を導いた。

揚雄の蜀における早年の学問形成について、これ以上に明らかなことはなく、特定の専家より師承を受けた形跡もないことから、揚雄は独学によりその学問を形成したと判断できる。そして揚雄が独学で学問の基礎を形成できたのは、後に『訓纂』『蒼頡訓纂』や『方言』を著した能力から理解できるように、卓抜した小学の知識に拠るものと考えられる[27]

なお辞賦の制作について、郷里の先輩である司馬相如に学んだとされるが、同郷の作家王褒からの影響も考えられる。このように在蜀期は辞賦や小学を学んだほか、『老子』『易』への理解を深めた時期であった。

成帝期

30歳代で上京し、王莽の縁戚である王音に仕えた後、成帝に召された。「酒箴」によって成帝を諷諫しつつも、「繍補、霊節、竜骨の銘詩三章」によって成帝の意を得たように、揚雄は宮廷作家として生活していた。

そして成帝の勅命を受け「趙充国の頌」を奏上し、武帝・昭帝・宣帝期の名将趙充国への画賛を献上した。これは成帝が腐心した匈奴対策に応じたものである。

成帝に献じた「甘泉賦」「河東賦」「校猟賦(羽猟賦)」「長楊賦」は、漢代を代表する長編辞賦作品であり、揚雄の四大賦と呼ばれる。いずれも成帝の行幸や狩猟を讃美し、表現を尽くしたものである。『漢書』揚雄伝に見られる自序によれば、そこには諷諫の意が込められているというが、いずれも婉曲的な表現にとどまっており、「微諫」とも評される[28]。そしてこうした辞賦による皇帝への諷諫の効果ないことを悟り、「長楊賦」献上後は献賦することををやめる。

しかしながら四大賦などが評価され、黄門郎に任じられた後には、3年間俸禄を受けないかわりに石室(宮中の図書館)の書を学ぶことを願い出て許可された。そこで宮中の書籍を閲読することにより存分に学識を深めたようである。

このように成帝期の揚雄は、宮中にあって力を尽くして筆を揮い、数々の名作を発表するとともに、漢朝の蔵書によって学問を深めている。

哀帝期

行幸を好んだ成帝が逝去し、方術を好む哀帝が即位すると、揚雄は「哀帝の災異を問ふに対ふ」を上奏する。

このほか「上書して単于の朝するを許すこと勿きを諫む」を上申し、哀帝より帛50匹と黄金10斤を授かっている。揚雄にあっては記録に残る数少ない政治上の発言である。上書が嘉納され報奨を受けたことは、揚雄得意の一件だったのであろう、晩年の作『法言』孝至にもこの件について書き留めている。

しかしながらこの時期にあって最も重要なのは、『太玄(経)』を著したことである[29]。『太玄(経)』は、『周易』の陰陽二元論を三元論に改めた上、陰陽・五行思想のほか天文学や暦学・声律学など術数学の知識を一書に集大成した術数書である。そして『太玄(経)』については、「解謿」「解難」によってその意図を説き明かしている。

哀帝期の揚雄は、哀帝の身近に仕えて進言したほか、蜀にて厳遵より学んだ『老子』『易』の学に術数学を加えて『太玄(経)』を著し、術数学者としての道を歩んでいる。

王莽期

哀帝が即位後7年で薨じると、次には平帝が即位し、王莽が実権を掌握する。平帝期に揚雄は『訓纂』『蒼頡訓纂』を作り、「劉歆に答ふるの書」を送り、『方言』の制作を進めた。当時にあって『方言』は、小学家として知られる張敞の孫の張竦に高く評価されていることから、揚雄の小学家としての能力はきわめて高い水準にあったと認められる。

しかしこの小学の知識が災いし、符命を作るために奇字を教えたとの嫌疑を受け、獄吏に捕らわれそうになっている。その時揚雄は、捕縛されることを恐れて天禄閣より投身し重傷を負ったが、後に嫌疑は晴れ、召されて大夫となっている。揚雄の嫌疑を解き大夫に任じたのは、当時実権を握っていた王莽であった。

そして揚雄は王莽のために、「劇秦美新」を献じて王莽新の治世を賛頌したほか、王莽に請われ、王莽の台頭を導いた王政君の逝去を悼む「元后誄」を制作した。このほか「州箴」「官箴」も王莽に奉じたものと思われる。こうしたことから揚雄と王莽・王氏との繋がりは浅からぬものがあったと考えられる。

『太玄(経)』と双璧をなす揚雄の主著『法言』を著したのは、晩年のことである。『法言』は伝統的な儒学を継承する書であったから、儒学を学び古文経学を好んだ王莽の意を得たものと思われる。『法言』の末尾は王莽を讚える辞で結ばれている。

以上、揚雄の作品全般についてしばしば言われるのは、いずれの作品も基づく粉本があり、その模倣に過ぎないという評価である。それは次項「人物と評価」に挙げる班固『漢書』揚雄伝賛に始まるものである。大変わかりやすい評価であるが、各作品について検証を加えてみると、粉本とされる作品の骨格や口吻に倣うところはあるとはいえ、新たに加えられた要素も少なくなく、後世には典拠表現とされる文学的修辞法の新たに切り開いた先駆と近年は理解されている[30]

人物像と後世の評価

『漢書』揚雄伝は「揚雄自序」に基づくものであり、揚雄自身による作品の引用と作品の説明が中心になっている[31]。それを補うように、揚雄の人物像や経歴・評価が、班固によって『漢書』揚雄伝賛に述べられている。

たとえば「揚雄の家はもとより貧しかったものの、酒を好み、人の来訪することはまれであった。時に好事家が酒肴を携えて訪れ、揚雄に学を問うことがあった」と言い、「鉅鹿の侯芭は常に揚雄のかたわらにおり、『太玄』『法言』を伝授された」と言う。

また「当時の人々は揚雄を軽視したものの、劉歆と范逡は敬意を示し、桓譚は比類ない人物と認めていた」と言う。その一方で劉歆は『太玄』について、「後世には見向きもされず、醤油壺の覆いとされるだろう」と批判したが、揚雄はそれを一笑に付したと「揚雄伝賛」には記されている。

このほか「揚雄の訃報に接すると大司空の王邑と納言の厳尤は、桓譚に揚雄の書が後世に伝えられるか否かをたずね、桓譚は次のように答えたという。「必ず伝わるはずですが、私たちはそれを知ることはできません。人は身近な者を賤しみ遠い者を貴ぶもので、身近に見た揚雄の禄位や容貌が驚くほどのものではなかったがために、揚雄の書を軽んずるのです。揚雄の書は文章・内容ともに深遠で、聖人の道にかなったものです。優れた主君に巡り会ったなら、揚雄の智慧と才能にふれて称えられ、必ずや他の諸子をしのぐことでしょう」」という。

他方「ある儒者は、「揚雄は聖人ではないのに経書を作った。それは春秋時代に呉や楚の君主が王を名乗ったようなもので、一家断絶の罪に匹敵する」と批判した」とある。

班固自身は、「王莽・董賢が、揚雄とはじめ同じ官職に就きながら後には三公にまで至ったのに対し、揚雄が成帝・哀帝・平帝と三代のあいだ官職を進めることなく、晩年になりようやく大夫に任ぜられるほど、揚雄は権勢や名利に恬淡としていた」と評するほか、「揚雄の作品はいずれも粉本に倣って作られた」とし、「『太玄』は『』に、『法言』は『論語』に、『訓纂』は『倉頡』に、「州箴」は「虞箴」に、「反離騒」などは「離騒」に、甘泉・河東・校猟・長楊の四大賦は司馬相如の作に依るものである」と断じている。また「揚雄の没後40余年が経つが、その著『法言』は世に大いに行なわれているのに対し、『太玄』は、世に顕れていないが、散佚することなく伝わっている」と伝える。

「揚雄伝賛」の評価は以上の通りであり好意的な評価は少ないものの、前漢末期から新へと時代が大きく移り変わる30年以上にわたり、揚雄は堅実な官界生活を送ったものと認められる。

日本における研究

7世紀前半の唐抄本『漢書』楊雄伝(上)が、平安時代10世紀中頃(948年)に日本に将来されている[32]。現在は京都国立博物館に蔵され、『国宝漢書楊雄伝第五十七』として出版され[33]、揚雄伝に対する古注や訓点を見ることができる。

その後、万治2(1659)年には司馬光『法言集注』が訓点を加えて和刻され、『和刻本諸子大成(3)説苑・揚子法言・忠經集註詳解・潛夫論ほか』に影印出版されている[34]。このほか寬政8(1796)年には桃井源蔵が司馬光『法言集注』に増註を加えて刊刻している[35]

近代以降においては、鈴木由次郎『太玄易の研究』[36]鈴木喜一『法言』[37]や田中麻紗巳『法言 もうひとつの「論語」』[38]、嘉瀬達男『楊雄の生涯と作品』がある。その他の著書・論文は、『楊雄の生涯と作品』附録「楊雄硏究和文文献目録」にまとめられている。

出典

  1. ^ 姓が本来木偏の楊であったとする説は、王先謙『漢書補注』揚雄伝・上のほか張震澤『揚雄集校注』前言、劉韶軍『楊雄与《太玄》研究』第1節1などに見える。しかしながら昨今は、手偏の揚姓の方が通用しているとして従う者が多いため、本項においても手偏としている。
  2. ^ 『楊雄の生涯と作品』第1部第1章 蜀における前半生と學問
  3. ^ 『漢書』揚雄伝賛、周寿昌『漢書注校補』
  4. ^ 「答劉歆書」(張震澤『揚雄集校注』参照)、『文選』甘泉賦・李周翰注
  5. ^ 「答劉歆書」(張震澤『揚雄集校注』参照)
  6. ^ 『楊雄の生涯と作品』第1部第8章 「元后誄」の背景と表現
  7. ^ 渡邉義浩ほか編著『はじめて学ぶ中国思想 思想家たちとの対話』(揚雄:辛賢担当)ミネルヴァ書房、2018年4月20日。ISBN 9784623081066 
  8. ^ 『漢書』趙充国伝
  9. ^ 『漢書』游侠伝
  10. ^ 「答劉歆書」(張震澤『揚雄集校注』参照)
  11. ^ 『文心雕龍』事類篇・才略篇
  12. ^ 『漢書』揚雄伝・下
  13. ^ 『漢書』五行志・中下
  14. ^ 『漢書』匈奴伝・下
  15. ^ 『法言』孝至
  16. ^ 『漢書』平帝紀、芸文志・小学
  17. ^ 劉歆「与楊雄書」、揚雄「答劉歆書」
  18. ^ 『漢書』王莽伝・上・中
  19. ^ 『漢書』雄伝賛、『文選』劇秦美新
  20. ^ 『文選』劇秦美新
  21. ^ 『漢書』王莽伝・中
  22. ^ 『漢書』揚雄伝賛、王莽伝・中
  23. ^ 『漢書』揚雄伝賛
  24. ^ 『漢書』元后伝
  25. ^ 『漢書』揚雄伝賛、沈欽韓『漢書疏証』
  26. ^ 芸文類聚』巻40「楊雄家諜」
  27. ^ 『漢書』藝文志・六藝略・小学や「劉歆に答ふるの書」の記述よりわかる。
  28. ^ 『文選』甘泉賦・李善注に見える。
  29. ^ 日本では『太玄経』と呼ばれることが多いが、揚雄自身は『太玄』と名付けたと考えられる。敬称として「経」字を加え『太玄経』と呼んだのは後世の事であるから、中国の研究者は多く『太玄』とする。そこで本項では『太玄(経)』と表記する。
  30. ^ 『法言』の『論語』模倣に関しては𢎭和順「揚雄『法言』と『論語』」(『論語の思想史』松川健二編、汲古書院、1994)、「揚雄『法言』における摸倣と創造」『中国研究集刊』30、大阪大学文学部中国哲学研究室、2002)などがあり、「官箴」と典拠との関係については福井佳夫『六朝文体論』第4章「典故論--揚雄「百官箴」を中心に」(汲古書院、2014)がある。また『楊雄の生涯と作品』序言・五参照。
  31. ^ 『楊雄の生涯と作品』第1部第9章「楊雄自序」と楊雄の生涯
  32. ^ e国宝 - 漢書楊雄伝第五十七”. emuseum.nich.go.jp. 2025年11月27日閲覧。
  33. ^ 『国宝漢書楊雄伝第五十七』勉誠出版、2019年。 ISBN 978-4-585-28046-0 
  34. ^ 『和刻本諸子大成 (3)説苑・揚子法言・忠經集註詳解・潛夫論ほか』汲古書院、1979年。 ISBN 9784762920561 
  35. ^ 藤川正數「「法言」注釋史上における増註(桃白鹿著)の地位について」(『日本中国学会報』27、1975年)
  36. ^ 『太玄易の研究』明徳出版社、1964年。 
  37. ^ 『法言』明徳出版社、1972年。 
  38. ^ 『[国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13277179/1/4 法言 もうひとつの「論語」]』講談社、1988年。 ISBN 4061914294。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13277179/1/4 

参考文献

  • 小竹武夫訳『漢書』上・中・下、筑摩書房、1977-1979年
  • 張震澤『揚雄集校注』上海古籍出版社、1993年、ISBN 9787532514670
  • 嘉瀬達男『楊雄の生涯と作品』朋友書店、2025年、 ISBN 9784892812095



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