ねん‐かん〔‐クワン〕【年官】
年官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/07 17:16 UTC 版)
年官(ねんかん)とは、日本の古代・中世前期において、皇族及び貴族が保有していた官職推薦権を指す用語。太上天皇をはじめ皇族、公卿に対して毎年、一定の官職を給与し、給与を受けた者が任官希望者を募り、任料を納めさせる代わりに希望者を申任させる制度である。また、任料を目的とせず、自己の親族や家司を申任させて経済的な恩恵を給付する方法としても用いられた。叙爵・加階の推薦権である年爵と合わせて、年給とも称される[1]。
沿革
一種の封禄としての意味を持ち、平安時代初期(淳和・仁明朝)に三宮に給与したのに始まり、当初は院宮(太上天皇・后妃)を対象としていたが、後に他の皇族や公卿、寺社(主に造営費用に充てるため)にも認められるようになり、宇多天皇の時代に制度として確立された[2]。
原則としては、諸国の下級国司(掾・目・史生)の官職が推挙の対象となるが、院宮には一部京官の推挙も認められていた[1]。
一方で地方官にはその国に本籍を持つ者は任命できないという原則が存在していたが、権力者の推挙を背景とした年官はその抜け穴になった。朝廷は現地に本籍を持つ者を推挙することを禁じていたが、年官制度の円滑な運用との板挟みになった結果、10世紀後期にはこれを許容することになり、地方の有力者が年官を利用して地元の国司に任命される道を開くこととなった[3]。
成功(じょうごう)と同じく売官としての性格を持っていたが、在庁官人制度の確立などによって次第に衰退した(平安京在住者は下級国司としての地方赴任を厭い[3]、地方在住者は在庁官人として国司の称号を名乗れるようになったため[4])。一方で、給主が家司などの配下に与えることで給与の代わりとしても用いられており、そちらの意味での年官は引き続き行われていた。
運用
給数
『敍除拾要』[注釈 1]及び『江家次第』・『大間成文抄』によれば、天皇以下に与えられていた年官の給数は以下の通りである[5]。なお、下記に登場する「分」は官職を公廨稲の配分率で表記した単位であり、三分は掾、二分は目、一分は史生・国博士・国医師など四等官未満の官職が相当した[6]。
- 天皇-掾2人・目3人・一分20人
- 院宮-掾1人・目1人・一分3人・京官1人[注釈 2]
- 親王-目1人・一分1人[注釈 3]
- 太政大臣-目1人・一分3人
- 大臣-目1人・一分2人
- 納言-目1人・一分1人
- 参議-目1人
- 女御-目1人・一分1人
- 尚侍-目1人・一分1人
- 典侍-一分1人
- 掌侍-一分1人
二合
実際の申請においては「二合」と呼ばれる方法がしばしば使われた。これは2つの年官の権利(2人分の推薦)を合わせて1つ上の等級の官職の権利(1人分の推薦)を得る方法で、主として目(二分)と一分の推薦権と引き換えに掾(三分)の推薦権を行使される事例が多い[7]。二合の権利を認められていたのは親王(この場合は内親王を含む)・大臣・納言(中納言以上)に限定され、後に参議・女御・尚侍に対しても認められるようになった[7]。
親王は「巡」と呼ばれるいくつかのグループに編成され、毎年順番に1つの巡に対して二合の申請を許された(巡給)。大臣と納言は『寛平御遺誡』によって4・5年に1回二合が許されていたが、11世紀初頭までに大臣は隔年で二合が認められるようになった。参議は本来は二合を認められていなかったが、後に五節舞姫を献上した翌年に限って二合が許されることとなった[注釈 4]。また、公卿に対しては自分の子息の任官のために原則1度だけ二合が許された(子息二合)。また、女御には10世紀後半以降、尚侍には11世紀前半以降に二合が認められていたと思われる記録がある[7]。
備考
- 希望者を得られない、任料が納められないなどを理由に、給主(年給を与えられた者)がその年に与えられた年官を行使出来ない場合があり、その場合には翌年以降への繰り越しも認められた。こうした繰り越し分は「未給」と呼ばれた[9]。
- 給主が配下などを年官によって推挙した場合、一旦除目によって任命された国司を後から給主側の都合によって申請して変更することもあった(申請の際に任符[注釈 5]を返上することから、その申請を「任符返上」と称した)。任命者を変える場合は「名替」、任命国を変える場合は「国替」、両方変更する場合には「名国替」と称された[9]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 手嶋大侑『平安時代の年官と地方社会-都と諸国の人的ネットワーク』[1]吉川弘文館 2025年2月 ISBN 9784642046879
関連項目
年官と同じ種類の言葉
- >> 「年官」を含む用語の索引
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