崔鳴夏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/01 17:07 UTC 版)
|
|
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2016年2月)
|
| 崔 鳴夏 최명하 |
|
|---|---|
| 生誕 | 1918年3月6日 |
| 死没 | 1942年1月20日(23歳没) |
| 所属組織 | |
| 最終階級 | 大尉 |
| 崔 鳴夏 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 최명하 |
| 漢字: | 崔 鳴夏 |
| 発音: | チェ・ミョンハ |
| 日本語読み: | さい めいか |
| 各種表記(創氏改名・通名) | |
| 漢字: | 武山 隆 |
| 日本語読み: | たけやま たかし |
崔 鳴夏(チェ・ミョンハ、최명하)は大日本帝国陸軍の軍人。創氏改名による日本名は武山隆。
経歴
1918年3月、慶尚北道善山に生まれる。大邱中学校卒業。1939年9月、陸軍航空士官学校第52期[1]卒業。士官学校時代は、両親から送ってもらった朝鮮人参をいつもかじりながら「これを食べていると、まるで郷里にいるような気がする」と両親を慕っていた親思いの青年士官であった[2]。1939年11月1日、陸軍航空兵少尉[3]。1940年5月25日、武山隆に改名[4]。
飛行第64戦隊所属。太平洋戦争勃発後の1941年12月、ラングーンの攻撃に参加。戦隊の任務は、爆撃隊を無事に掩護することであったが、崔と第1中隊(中隊長代理:奥村弘中尉)は爆撃終了直後から爆撃掩護の位置を離れて敵機と交戦したため[5]、戦隊長の加藤建夫少佐から飛行停止を命じられる[6]。ようやく飛行停止が解けて、翌年1月にスマトラのパレンバン飛行場を空襲。戦隊長に続いて、飛行場に敵機に一連射を浴びせたが、座席前方で腔発が起きて、破片がエンジンを貫いた。どうにかパカンバル湖まで飛行したものの、エンジンが停止してしまい、滑空で湖畔の広場に不時着した[7]。崔は、即座に地図に火をつけて漏れているガソリンの中に投げ入れて乗機の焼却をはかった[7]。煙が立ち昇り、これを目当てに追ってきたオランダ軍と拳銃で応戦したが、もう駄目だと悟ると自決した[2]。死後、大尉に昇進した[8]。
出典
- ^ 陸軍航空士官学校史刊行会編『陸軍航空士官学校』1996年、426頁。
- ^ a b 檜與平『隼戦闘隊長加藤建夫』光人社、1987年、129頁。
- ^ 大蔵省印刷局 編『官報 1937年11月2日』日本マイクロ写真、1937年。NDLJP:2960343/8。
- ^ 大蔵省印刷局 編『官報 1940年09月21日』日本マイクロ写真、1940年。NDLJP:2960613/14。
- ^ 檜與平『隼戦闘隊長加藤建夫』光人社、1987年、109頁。
- ^ 檜與平『隼戦闘隊長加藤建夫』光人社、1987年、110頁。
- ^ a b 檜與平『隼戦闘隊長加藤建夫』光人社、1987年、128頁。
- ^ “第15号 昭和18年1月29日 陸軍異動通報” (PDF). アジア歴史資料センター. 2017年11月9日閲覧。
- ^ “06년 12월6일 이완용 등 친일반민족행위자 106명 명단 확정 공개” (朝鮮語). 한국일보 (2021年12月6日). 2022年7月25日閲覧。
参考文献
- 姜徳相『朝鮮人学徒出陣』岩波書店、1997年。ISBN 4-00-001381-5。
- 崔鳴夏のページへのリンク