岩手氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/01 16:41 UTC 版)
| 岩手氏 (甲斐国) | |
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| 本姓 | 清和源氏義光流 甲斐源氏流岩手氏 |
| 家祖 | 岩手縄美 |
| 種別 | 武家 士族 |
| 出身地 | 甲斐国山梨郡岩手郷 |
| 著名な人物 | 岩手縄美 岩手信盛 |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
岩手氏 (甲斐国)
清和源氏義光流甲斐武田氏の支流。甲斐源氏16代当主武田信昌の四男岩手縄美を祖とする。
明応元年(1492年)に信昌が嫡子・信縄に家督を譲った後、信昌は信縄と対立し、二男・信恵に家督を譲ろうとした。ここに守護武田氏と甲斐国人の争いや、国人同士の争い、外部勢力の介入等も加わって、家督相続をめぐる信昌方と信縄方の争いは甲斐国中を巻き込んだ争いへと発展した(甲州乱国)。この内訌の際の縄美の動向は定かではないものの、信昌方について信縄方と争ったとみられている。
その後双方は和睦し、永正元年(1504年)に縄美は信昌から所領として甲斐国山梨郡岩手郷を与えられた。その後、父・信昌と長兄・信縄が相次いで死去し、信縄の嫡男・信虎が武田氏当主となると、油川信恵は反旗を翻し縄美も行動を共にしたが、永正5年(1508年)10月4日の勝山合戦で信虎方に大敗を喫し、縄美は信恵ともども討ち取られたが、岩手氏の存続は許された。
一族の信盛が武田氏の下で旗奉行を務め、子孫はこれを世襲した。信盛の出自については岩手氏の系図類に依拠して縄美の子と見るのが通説だが、歴史学者の平山優や丸島和洋は系図の信憑性を疑問視し、縄美の孫ではないかとしている。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡の際には信盛の嫡男・信景が誅殺された。三男・信政は信盛と共に徳川家康に仕え、信盛の死後その遺領は信政が継承した。
その後信政は徳川頼宣に付けられ、子孫は紀州藩士として存続している。信景の嫡男・信重も旗本として仕え、子孫は濃州代官となっている。岩手氏の子孫の中には岩出と改姓した家もあり、『寛政重修諸家譜』には岩出氏を含む5家が旗本としてみえるが、中には断絶・没落した系統もある。また、岩出氏の傍系は伊勢無足人となっており、この系統は明治維新まで存続していることが確認出来る。
系譜:
岩手和信(信敬) - 岩手信定 - 岩手信就 - 岩手信守 - 岩手信温
信政系系譜:
岩手信政 - 岩手信護 - 岩手信義 - 岩手信弁 - 岩手信猶 - 岩手信方
岩手氏 (美濃国)
清和源氏為義流、おなじく土岐氏頼基流、その他に桓武平氏鎌倉氏流長江氏の支流などの諸説がある。竹中氏はその支流である(岩手氏 (美濃国)を参照)。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 山梨日日新聞社企画局出版部編『武田史跡めぐり』山梨日日新聞社、1980年。
- 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書・42〉、2019年。ISBN 978-4-86403-335-0。
- 丸島和洋「総論 武田家御一門衆と親類衆」(丸島和洋編『武田信玄の子供たち』(宮帯出版社、2022年)所収)
関連項目
岩手氏 (甲斐国)
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清和源氏義光流甲斐武田氏の支流。甲斐源治16代当主武田信昌の四男岩手縄美を祖とする(岩手氏 (甲斐国)を参照)。 岩手氏 (甲斐国) 本姓清和源氏義光流甲斐源氏流岩手氏 家祖岩手縄美 種別武家士族 出身地甲斐国山梨郡岩手郷 著名な人物岩手縄美岩手信盛 凡例 / Category:日本の氏族
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