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夏恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/03 21:52 UTC 版)

夏恭
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1872年[1]
[旧暦]同治11年11月[2]
死去: 没年不明(1943年2月時点では存命)
出身地: 山西省大同府大同県[1][2][3]
職業: 官僚・政治家
各種表記
繁体字 夏恭
簡体字 夏恭
拼音 Xià Gōng
ラテン字 Hsia Kung
和名表記: か きょう
発音転記: シャー ゴン
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夏 恭(か きょう、1872年同治11年11月〉 – 没年不明)は、清末の官僚・政治家。後に親日地方政権である晋北自治政府の最高委員となり、蒙古聯合自治政府では副主席に就任した。

事績

清末の活動

1897年光緒23年)に挙人となる。清末において、帰綏で書院の山長[注 1]や総教(教官)となり、道公署で幕賓を兼ねた。その後は吏部で知県の資格を取り、陝西省で藩署文案や統計処総合総務処行走[注 2]、県政調査局財政統計「掌股」(担当)などを兼務した。また、龍王辿厘局[注 3]委員にも任ぜられた。中華民国では出仕せず、故郷に引退している[2]

親日蒙古政権での活動

1937年民国26年)9月、日本軍が山西省大同県を占領する。在野にあった夏恭は日本軍により招聘され、同月30日に組織された晋北治安維持会で委員長となった。10月15日、維持会を改組した晋北自治政府において、夏が最高委員に任命された[1][3][注 4]。11月22日、張家口において、蒙古聯盟(主席:デムチュクドンロブ〈徳王〉)[注 5]察南(最高委員兼会議代表:于品卿)、晋北(最高委員兼会議代表:夏恭)の3自治政府による代表者会議が開催された[4]。その結果、蒙彊聯合委員会が成立し、夏は総務委員兼交通専門委員会委員となる[5]

1939年9月1日、上記3自治政府の合流により蒙古聯合自治政府(主席:徳王)が成立し、夏恭は于品卿と共に副主席として任命された[1][3][6]。蒙古聯合自治政府での夏は、馬永魁(財政部長、後に経済部長)や田汝弼(晋北政庁長官)と共に晋北(自治政府)系派閥(「晋北派」)の一員と目されるようになる。

しかし翌1940年1月10日、夏恭は蒙古聯合自治政府副主席を僅か4か月余りで「依願退職」し、「前任官待遇」で大同炭鉱株式会社理事長に移った[7]。徳王の回顧によれば、理由は不明ながら、政府最高顧問・金井章次が徳王らに突然提案、実行した人事であったという。なお、副主席1名は約1年5か月にわたって空席となり、1941年6月1日、ようやく蒙古軍総司令・李守信が副主席を兼任した[8][9][注 6]

蒙古聯合自治政府から離れた後の夏恭は、在野での社会的活動に転じた。大同炭鉱株式会社理事長以外にも、義務職晋北協進会会長、晋北仏教学院院長、蒙疆仏教学総会会長に就任するなどしている[2]

没年について

徐友春主編『民国人物大事典 増訂版』によれば、夏恭は1941年死去としている[3]。これは李守信が自身の回顧録(「李守信自述」)において、夏の死亡により自身が(軍総司令と)副主席を兼任した旨を記載しているためと考えられる[10]

しかし、1943年2月12日に勲三等旭日章を受章した際の雑誌『蒙古』記事では、夏恭について「大同炭鉱理事長」と記載されている[11]。また、『朝日年鑑』昭和19年(1944年)版の「大東亜人名録」(636頁)でも、大同炭鉱株式会社理事長として存命人物扱いでの記載がある。

以上から「李守信自述」の記載は誤りと見られ[注 7]、夏恭は1943年2月時点において存命の可能性が高い。その後においては、夏の生死・行方は不詳である。

訪日と褒章

訪日

晋北自治政府最高委員時代の昭和13年(1938年)10月19日から11月20日にかけて、夏恭は徳王・于品卿と共に日本を訪問した。この際、昭和天皇に拝謁して靖国神社も参拝している[12]

褒章

脚注

注釈

  1. ^ 「山長」とは、旧時における書院管轄者を指す。
  2. ^ 「行走」とは、旧時において専官を設けていないところに勤務したり、兼任したりすることを指す。
  3. ^ 「厘局」とは、旧時において厘金(国内関税の一種)を徴収する機関を指す。
  4. ^ 『東京朝日新聞』の報道(「晋北十三県民結束 自治政府成立す 反閻運動の烽火揚ぐ」昭和12年(1937年)10月16日、2面)では、夏恭と馬永魁(晋北治安維持会副委員長)の2名で最高委員就任との記述がある。しかし、晋北自治政府組織法第2条条文では最高委員1名と規定されていることから、誤りと見られる。他の史料においては、馬は定数2の(政府)委員任命とされており、こちらが妥当と見られる。
  5. ^ この会議には、徳王の代理としてチョトパジャップ(卓王)が出席した。
  6. ^ 徳王の回顧によれば、副主席1名の地位が空白となったため、政務院長・呉鶴齢が李守信を後任の副主席にしようと試みたという。これには副主席の片方をモンゴル族に就かせること、また、軍事実力者である李への機嫌伺いという動機があったとされる。ところが、徳王の同意を得た呉が金井章次に話を持ち掛けたところ、「晋北民衆」(注:文脈からして漢族を指すか)が納税しなくなる可能性を指摘し、難色を示した。そこで呉は駐蒙軍司令部と折衝して支持を得、これで金井はようやく同意する。なお駐蒙軍は、李が張家口に駐在する方が任務に都合がよいと判断したものとされる。その後は晋北・察南両政庁の推薦を獲得する必要があったため、李の副主席就任には時間がかかったものとされている。
  7. ^ 李守信は、馬永魁の死亡時期についても誤った回顧をしている。当人記事を参照。

出典

  1. ^ a b c d 東亜問題調査会編(1941)、32頁。
  2. ^ a b c d 満蒙資料協会編(1942)、1057頁。
  3. ^ a b c d 徐主編(2007)、1132頁。
  4. ^ 「蒙疆聯合委員会 調印を了す きのう厳粛に挙行」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)11月23日、2面。
  5. ^ 「蒙疆聯合委員会成立」『同盟旬報』1巻16号通号16号、昭和12年11月下旬号、同盟通信社、7-8頁。
  6. ^ 「蒙古聯合自治政府 きょう晴れの誕生 三政権を打って一丸」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)9月1日、2面。
  7. ^ 「大同炭鉱創立総会」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)1月11日、4面。
  8. ^ 「蒙古政府 機構改革」『朝日新聞』昭和16年(1941年)5月31日、2面。
  9. ^ ドムチョクドンロプ著, 森訳(1994)、281-282頁。
  10. ^ 李(1985)、185頁。
  11. ^ a b 「徳主席らに叙勲」『蒙古』10巻4号通号130号、昭和18年4月、善隣協会、80頁。
  12. ^ 「蒙疆代表 感謝の入京」『読売新聞』昭和13年(1938年)10月21日夕刊、1面。
  13. ^ 「汪主席、徳王に勲章御贈進 満州国皇帝陛下」『朝日新聞』昭和18年(1943年)5月8日、1面。

参考文献

 晋北自治政府
先代
(創設)
最高委員
1937年10月 - 1939年9月
次代
(廃止)



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