塩谷眞康
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塩谷 眞康
しおのや しんこう
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| 生年月日 | 文久3年12月14日(1864年1月22日) |
| 出生地 | 上野国吾妻郡小泉村(現・群馬県吾妻郡東吾妻町) |
| 没年月日 | 1918年3月24日(54歳没) |
| 出身校 | 慶應義塾 卒 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1898年 - 1902年 |
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉[1][2][3] - 大正7年〈1918年〉3月24日[4][1][2][3])は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)[3][5]。
生涯
上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身[1][2][3]。父は塩谷真雄[2][5]。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後[1][2][3][5]、郷里で教員となる[2][5]。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業[1][3]。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった[1][2][3][5]。
1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選[1][3][5]。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる[1][3][5]。日清戦争が勃発すると従軍したが、外地渡航の手続に誤りがあったため議員資格を失った[2][5]。
1898年(明治31年)、第6回衆議院総選挙に立候補し当選[1][2][3][5]。吾妻郡で最初の国会議員であり[3][5]、1期務めた。1902年(明治35年)の第7回総選挙では次点で落選した[3][5]。
1908年(明治41年)からは学務委員を務めた[1]。郷里で植林事業も手がけ[1][2][3][5]、碓氷社支部で養蚕の経営にも取り組んだ[2][5]。
1913年(大正2年)12月22日、眞康に改名[1][3]。
晩年は事業の失敗と、健康を害したことが重なり不遇であった[2][5]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l 『群馬県吾妻郡誌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g h i j k l 太田村誌編纂委員会 編『あがつま太田村誌』太田村誌編纂委員会、1965年9月30日、358-362頁。doi:10.11501/3027501。(
要登録) - ^ a b c d e f g h i j k l m n 群馬県議会図書室 編『群馬県議会史』 別巻《群馬県議会議員名鑑》、群馬県議会、1966年12月15日、227頁。doi:10.11501/3025553。(
要登録) - ^ 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年、p.306。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、246頁。doi:10.11501/12189010。(
要登録)
参考文献
- 『衆議院議員列伝』山崎謙編、衆議院議員列伝発行所、1901年。
関連文献
- 「鹽谷五十足」三田商業研究会 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年、859-860頁。(近代デジタルライブラリー)
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