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塩谷眞康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/17 00:52 UTC 版)

塩谷 眞康
しおのや しんこう
生年月日 文久3年12月14日1864年1月22日
出生地 上野国吾妻郡小泉村(現・群馬県吾妻郡東吾妻町
没年月日 (1918-03-24) 1918年3月24日(54歳没)
出身校 慶應義塾
衆議院議員
当選回数 1回
在任期間 1898年 - 1902年
群馬県会議員
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塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日1864年1月22日[1][2][3] - 大正7年〈1918年3月24日[4][1][2][3])は、日本の政治家教育家衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)[3][5]

生涯

上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身[1][2][3]。父は塩谷真雄[2][5]群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後[1][2][3][5]、郷里で教員となる[2][5]。その後上京し1887年明治20年)に慶應義塾を卒業[1][3]。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった[1][2][3][5]

1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選[1][3][5]1894年(明治27年)に再選され常置委員となる[1][3][5]日清戦争が勃発すると従軍したが、外地渡航の手続に誤りがあったため議員資格を失った[2][5]

1898年(明治31年)、第6回衆議院総選挙に立候補し当選[1][2][3][5]。吾妻郡で最初の国会議員であり[3][5]、1期務めた。1902年(明治35年)の第7回総選挙では次点で落選した[3][5]

1908年(明治41年)からは学務委員を務めた[1]。郷里で植林事業も手がけ[1][2][3][5]碓氷社支部で養蚕の経営にも取り組んだ[2][5]

1913年大正2年)12月22日、眞康に改名[1][3]

晩年は事業の失敗と、健康を害したことが重なり不遇であった[2][5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 群馬県吾妻郡誌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 太田村誌編纂委員会 編『あがつま太田村誌』太田村誌編纂委員会、1965年9月30日、358-362頁。doi:10.11501/3027501 (要登録)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 群馬県議会図書室 編『群馬県議会史』 別巻《群馬県議会議員名鑑》、群馬県議会、1966年12月15日、227頁。doi:10.11501/3025553 (要登録)
  4. ^ 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年、p.306。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、246頁。doi:10.11501/12189010 (要登録)

参考文献

  • 『衆議院議員列伝』山崎謙編、衆議院議員列伝発行所、1901年。

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