城長茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/17 05:08 UTC 版)
|
|
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2019年2月)
|
|
|
|
|---|---|
| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
| 生誕 | 仁平2年(1152年) |
| 死没 | 建仁元年2月22日(1201年3月28日) |
| 改名 | 助茂(助職、資職)→長茂(長用、永茂、永用) |
| 別名 | 城四郎、白川御館(しらかわみたち) |
| 官位 | 従五位下、越後守 |
| 主君 | 平清盛→平宗盛→源頼朝(梶原景時) |
| 氏族 | 桓武平氏維茂流、城氏 |
| 父母 | 父:城資国(助国) |
| 兄弟 | 資永、長茂、坂額御前 |
| 子 | 不詳 |
城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて越後国を基盤としたの武士。越後平氏(桓武平氏維茂流)城氏の一員。初諱は助茂[1]。治承5年(1181)に兄・城資永の急死を受けて家督を継承し、同時期に長茂と改名した。[2]城資国の子、資永(助長)の弟。「白河御館」と呼ばれ、越後国蒲原郡白河荘(新潟県北蒲原郡東南部)に居館を置いていたと推測される。
略歴
治承5年(1181年)、平氏政権より信濃で挙兵した木曾義仲追討の命を受けていた兄の資永が急死したため、急遽、長茂が家督を継ぎ、1万の軍を率いて信濃に出兵した。平家からは絶大な期待を寄せられていたが、3千ほどの義仲軍のに大敗した。逃走先として奥州会津(「藍津之城」=陣が峰城)へ入るが奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる(『玉葉』寿永元年七月一日条)。
横田河原の戦いで大敗を喫し、以後急速に政治的・軍事的地位を失っていたにもかかわらず、平宗盛は、寿永元年(1182)8月15日、長茂を越後守に任じた。この国司任官は、義仲牽制という政治的意図によるものであったが、当時の都の貴族社会は、長茂の国司任官を「天下の恥」と非難している。一方で、長茂自身は「良家之子」であるとの自己認識を一貫して保持し、帯刀流・平維繁の一族で諸大夫の家に出自するという自尊意識を強く有していた[3]。
吾妻鏡「寿永元年(1182)赤谷に大壇塚を設け、妙見菩薩を祀り源氏滅亡を呪詛した事を聞いた」 越後国の城四郎長茂は、同国小河庄赤谷(あかたに)─現在の新潟県新発田市赤岩─に城を構え、そればかりか、妙見大菩薩(みょうけん・だいぼさつ)を崇拝し、源家を呪詛しているとの噂が流れた。
越後守となるも長茂は国衙を握る事は出来ず、寿永2年(1183年)7月の平家都落ちと同時に越後守も罷免された。
元暦2年(1185年)に平氏滅亡後は、囚人として鎌倉政権に拘束され、梶原景時に身柄を預けられる。文治4年(1188年)9月、熊野の僧・定任のとりなしで頼朝と対面する。頼朝との面会の際、長茂は白の水干に立烏帽子を被っていた。これは長茂が横田河原合戦の後に平氏政権から従五位下・越後守に叙任されていたという、武家貴族的自尊心を示すためであったと考えられる[3]。そして、畠山重忠と梶原景時を最前として二列に座す御家人達の間を通り過ぎ、頼朝のいる簾中を背にして横敷の座に着いた。景時がそこは頼朝の座るところである旨を告げると、長茂は「知らなかった」と言って立ち上がり、すぐにその場から退出したと言う[3]。囚人の立場であるにもかかわらず、頼朝の面前でも臆さない長茂の態度は、武家貴族・平維茂の子孫という自尊心に支えられていた[3]。
翌文治5年(1189年)の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた。
頼朝の死後、正治2年(1200年)の梶原景時の変で庇護者であった景時が滅ぼされると、1年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げる。正治3年(1201年)、軍を率いて景時糾弾の首謀者の1人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた(建仁の乱)。
城長茂の生涯は、平氏政権から鎌倉政権への権力移行期において、地方武士が抱えた「武家貴族的身分意識」と新興武家政権との緊張関係を象徴する事例であり、その行動原理は軍事的能力よりも家格意識と政治的自負に強く規定されていた点に特徴がある。
吾妻鏡
源頼朝との謁見。
文治四年九月小十四日丁未。尊南坊僧都定任自熊野參向。是年來給置御本尊〔大將王像〕并御願書。御祈祷積薫修也。二品偏令恃二世悉地給。而城四郎長茂者。爲平家一 族。背關東之間。爲囚人所被預置于景時也。是又以定任爲師檀。仍以參上之次。有免許。可被召加御家人之由。頻執申之間。二品被仰可召仕之由。今日定任參御 所。被召入簾中。談世上雜事給。御家人等着座侍〔二行。以東爲上〕南一座重忠。北一座景時也。爰長茂參入。諸人付目。長七尺男也。着白水干立烏帽子。融二 行着座中。參進着横敷。宛簾中於後。自其内。二品御一覽。不被仰是非。定任見此躰頗赭面。景時對長茂云。彼所者二品御座間也云々。長茂稱不存知。起座即退 出。其後定任不及執申云々。此長茂〔本名資茂〕者。鎮守府將軍〔余五〕維茂〔貞盛朝臣弟也〕男。出羽城介繁成七代裔孫也。維茂勇敢不耻上古之間。時人感 之。將軍 宣旨以前。押而稱將軍。而以武威雖爲大道。毎日轉讀法華經八軸毎。年一見六十巻〔玄義。文句。止觀〕一部。亦謁惠心僧都。談往生極樂要須。繁成 生而則逐電。乍含悲歎。經四ケ年。依夢想告。搜求之處。於狐塚尋得之。將來于家。其狐令變老翁。忽然來授刀并抽櫛等於嬰兒云。於翁深窓。令養育者。可爲日 本國主。於今者。不可至其位云々。嬰兒者則繁成也。長茂繼遺跡。給彼刀于今帶之云々[4]。
文治四年(1188)九月十四日。尊南坊定任という僧が、熊野より鎌倉へ参上した。定任は、源頼朝が深く帰依し、大切にしている持仏「大将王尊」と、祈願文書を預かり、現世・来世の宿願成就を期して修行に励んでいる僧であった。さて、城長茂は平家一門として関東に背いた咎により、囚人として「梶原景時」に預けられていたが、この長茂と定任とは、仏教の「師匠と旦那」の関係にあった。そのため定任は、頼朝に謁した折、「長茂を赦し、御家人にお取り立て下され」と、しきりにとりなした。頼朝はこれを聞き入れ、長茂を御家人に加えるよう命じたのである。
この日、定任は御所に召され、御簾の内に招かれて頼朝と世間話を交わしていた。御家人たちは侍所に居並び、南側の筆頭には「畠山重忠」、北側の筆頭には「梶原景時」が座していた。そこへ、城四郎長茂が入って来た。背丈は七尺もあろうかという大男である。白き麻の水干に立烏帽子を着け、二列に並んだ御家人の間を進み出て、上がりがまちに座し、あろうことか御簾に背を向けてしまった。御簾の内から頼朝は、ちらりとこれを見たが、何も仰せにならなかった。
定任は、己が推薦した長茂のあまりの無作法に、顔を赤らめた。梶原景時は長茂に告げる。「そこは、頼朝様のお出ましの御座所であるぞ。」城四郎長茂は、「それは知らなかった」とだけ言い、立ち上がると、そのまま退出してしまった。これにより、定任は推薦を取り消したという。
この長茂は、鎮守府将軍「平維茂」、秋田城之介繁成の後裔である。平維茂は、その勇敢さに、将軍に任ぜられる以前より、「将軍」と呼ばれていた。武をもって世に立ちながら、日々法華経八巻を摺り読みし、年に六十巻、すなわち玄義・文句・摩訶止観を一部通読したという。また、恵心僧都源信に会い、極楽往生について語り合ったとも伝えられる。
その維茂の子、城繁成は、生まれてほどなく行方不明となった。人々が悲嘆に暮れること四年、夢のお告げに導かれて探し求めたところ、狐塚にてこの子を見出し、家へ連れ帰ったという。その折、狐が老人の姿に変じて現れ、刀と挿し櫛を子に与え、こう語った。「この子を、老いた私が人里離れた地で育てていれば、日本を征服するほどの英雄となったであろう。しかし人の世に戻った今は、その位に就くことはあるまい。」この子こそが、繁成である。城長茂は、その血を継ぐ者として、今なお、その刀を所持していると伝えられている。
(「七尺の大男」という表記がある。現代の七尺(約212cm)ではなく、当時の「唐小尺」(約24cm〜25cm)を用いた七尺(約175cm)程度と考えられる[5]。当時の服装や出土資料などから、成人男性の平均身長が155cm〜165cmと考えられているため、長茂は確かに大柄ではあるが、現代的な感覚での「巨漢」とは言い難い。)
奥州合戦
文治五年七月小十 九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。此刻。景時申云。城四郎長茂者。無双勇士也。雖囚人。此時被召具。有何事哉云々。尤可然之由被仰。仍相觸其趣 於長茂。々々成喜悦。候御共。但爲囚人差旗之條。有其恐。可給御旗之由申之。而依仰用私旗訖。于時長茂談傍輩云。見此旗。逃亡郎從等可來從云々[6]。
文治五年七月小廿 八日丙戌。着新渡戸驛給。已奥州近々之間。爲知食軍勢。仰御家人等面々。被注手勢。仍各進其着到。城四郎々從二百餘人也。二品令驚給。景時申云。相從長茂 之輩。本自數百人也。而爲囚人之時。悉以分散。今聞候御共之由。令群集歟。就中此邊者本國近鄰也云々。于時御氣色快然云々。
文治五年(1189)七月十九日。巳の刻(午前十時頃)、奥州平泉の藤原泰衡を討つため、出発することとなった。「梶原景時」が頼朝様に進み出て申し上げた。「城四郎長茂は、今は囚人の身ですが、並ぶ者のないほど勇ましい武士にございます。こういう時にこそ、お供に加えなければ意味がありませぬ。」頼朝様はしばらく考え、「もっともだ。そうせよ。」と答えた。これを伝えられた城長茂は、大いに喜び、進んで従軍を願い出た。しかし頼朝様は、「囚人のままでは旗印が無かろう。わしの旗を貸してやろうか。」と仰せになった。すると長茂は、「いえ、自分の旗印を持っております。」と答え、許しを得てそれを用いることになった。さらに長茂は、そばにいた仲間にこう語った。「この旗を見れば、散り散りになっている我が部下たちも、きっと集まってくるであろう」と。
文治五年七月二十八日。一行は新渡戸宿に到着した。奥州が間近に迫ったため、頼朝様は軍勢の総数を把握すべく、御家人たちに命じ、それぞれが率いている兵の人数を再確認した。御家人たちは次々と名簿を差し出した。城長茂のもとには、家来が二百人以上も集まっていた。これを見た頼朝様は、大いに驚かれた。景時が事情を説明した。「城長茂の家来は、囚人となった折に散り散りになってしまったのですが、今、頼朝様のお供をしていると聞き、再び集まってきたのでしょう。とくにこの辺りは、長茂の旧領・奥山荘にも近うございますから。」これを聞いた頼朝は、長茂の家来たちの変わらぬ忠義心に深く感心し、たいそう機嫌を良くされたと伝えられている。
建久三年(1192)六月大十三日癸丑。幕下渡御新造御堂之地。畠山次郎。佐貫四郎大夫。城四郎。工藤小次郎。下河邊四郎等引梁棟。其力已如力士數十人可盡筋力事等。各一時成功。觀者驚目。幕下感給。凡云犯土。云營作。江間殿〔義時〕以下自手沙汰之。
頼朝様は、新築しているお堂へ様子を見に行かれました。そこでは、畠山重忠、佐貫広綱、城長茂、工藤行光、下河邊政義達が、梁や棟木を引き上げています。その力たるや、まことに凄まじく力士が数十人がかりで働くほどの勢いであった。皆の筋力を合わせ、一気に持ち上げてしまいました。これを見物していた人々はその怪力に驚嘆し、頼朝様もまた、深く感心されました。この造成工事も地鎮祭も、そして建築の一切は、江間殿(義時)が自らこれを指図しております。
正治元年(1199) 梶原景時の変
正治三年二月小三日甲申。未尅。掃部入道。佐々木左衛門尉定綱。小山左衛門尉朝政〔爲大番勤仕在京〕等飛脚參着。申云。去月廿三日。天皇朝覲行幸仙洞〔二條殿〕。春宮。七條院。一宮同臨幸。爰越後國住人城四郎平長茂〔城四郎助國四男〕引率軍兵。圍朝政三條東洞院宿廬。朝政供奉行幸留守程也。所殘留之郎從等禦戰之間。長茂引退。即行幸還御以前推參仙洞。閇四門。申可追討關東之宣旨。然而依無勅許。長茂逐電。有淸水坂之由。風聞之間。朝政等雖馳向。不知行方云々。彼使者先到着大官令亭。次參御所。此間。諸人群參。鎌倉中騒動。依被加制止。入夜靜謐云々。
正治三年(1201)二月三日午後二時頃、中原親能・佐々木定綱・小山朝政らのもとから伝令が到着し、「去る正月二十三日、土御門天皇が、後鳥羽上皇の仙洞へ挨拶のため行幸なさいました。このとき、皇太子・七条院・一宮も、同様に御供として出向かれました。その折、越後国奥山荘の豪族、城長茂(城資国の子)が軍勢を率い、小山朝政の三条東洞院の宿舎を取り囲みました。朝政は天皇行幸の警護のため留守でありましたが、屋敷に残っていた家人たちが防戦したため、長茂はついに退散しました。長茂はそのまま、天皇の行幸が戻る前に、後鳥羽上皇の仙洞へ押し入り、四方の門を閉ざしたうえで、『関東を攻め滅ぼすべし』との宣旨を下されるよう、しきりに願い出たとのことです。しかし、上皇はこれをお許しにならず、長茂は逃れて清水坂の方にいるとの噂が立ちました。そこで朝政が急ぎ向かいましたが、すでに行方は知れなくなっていた、とのことであります。」この報告を聞いた人々は、「いよいよ戦が近い」と騒ぎ立ち、鎌倉中が不安に包まれた。しかし、やがて「心配するには及ばぬ。落ち着くように」との命が出され、夜になるころには、町は静まり返ったという。
正治三年(1201)二月小五日丙戌。京都飛脚等歸洛。長茂事。可伺尋有所之由。被仰京畿御家人等云々。
建仁元年三月小四日甲寅。京都飛脚參着。去月廿二日。城四郎長茂并伴類新津四郎已下。於吉野奥被誅畢。長茂先立遂出家。同廿五日。長茂并伴黨四人首被渡大路。
建仁元年三月小十二日壬戌。京都飛脚參申云。去月廿九日。城四郎長茂餘黨城小二郎資家入道。同三郎資正。本吉冠者隆衡。以官軍被誅云々。
建仁元年四月大二日辛巳。晴。越後國馳驛參申云。城小太郎資盛〔城太郎助永男。長用甥〕於當國招北國之輩。擬企叛逆。佐渡越後兩國軍兵雖襲之。資盛振猛威之間。敢不能破陣云々。
正治三年(1201)二月小五日丙戌。京都からの伝令が帰りました。長茂の事件や居場所を調べるように、京都周辺の御家人に命令を出しましたとさ。
建仁元年(1201)三月四日。京都の伝令が着きました。先月の二十二日に、城長茂とその同盟者の新津を始めとする連中が、吉野の奥山で殺されました。城長茂は死を覚悟をして出家をしました。その二十五日には、城長茂と同盟者四人の首が掲げられ、大路を練り歩きました。
建仁元年(1201)三月十二日。京都からの伝令がやってきて申し上げるのには「先月の十九日に城長茂の共犯者の城資家、同じ城資正、本吉隆衡を政府軍に殺させました」と。
建仁元年(1201)四月大二日辛巳。晴れ。越後国(新潟県)の飛脚がやってきて、報告するには「城資盛〔城資永の息子で長茂の甥〕が、越後の国で北国の連中を呼び集め、謀反をたくらんでいます。佐渡と越後の兵隊を集めて攻めていますが、資盛が猛威を振るい、陣を破ることができません」。
脚注
関連項目
固有名詞の分類
- 城長茂のページへのリンク