四念処
(四念住 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/17 23:31 UTC 版)
| 仏教用語 念処 |
|
|---|---|
| パーリ語 | सतिपट्ठान (satipaṭṭhāna) |
| サンスクリット語 | स्मृत्युपस्थान (smṛtyupasthāna) |
| 中国語 | 念處 |
| 日本語 | 念処 (ローマ字: nenjo) |
| クメール語 | សតិបដ្ឋាន (Satepadthan) |
|
|
この記事には複数の問題があります。
|
四念処(しねんじょ、巴: cattāro satipaṭṭhānā, チャッターロー・サティパッターナー)とは、仏教における悟りのための4種の観想法の総称。四念処観(しねんじょかん)、四念住(しねんじゅう)[注釈 1]とも言う。三十七道品の中の1つ。
昭和期に活躍した仏教学者の中村元は、『パーリ仏典』は釈迦の死後に段階的に発展・成立したとする説を唱え、四念処を釈迦は説かなかった可能性があるとした。一方、近年の研究では『パーリ仏典』段階発展説を否定する見解もある(仏教#釈迦の修行法)。中村元は最古の経典と見られるスッタニパータに四念処などの仏教の基本教義が見えないことを理由に、『パーリ仏典』の教義や戒律などの大部分は釈迦入滅後に段階的に成立したとする説を唱えたが、清水俊史は言語学的にスッタニパータが最古層の仏典であることは認めるが、スッタニパータのような韻文は大衆向けの通俗的なもので仏教の教義を体系的に網羅したものではないので中村説は前提が誤っているとし、『パーリ仏典』に見られる教義や戒律は古くから存在するもので後年に段階的に発展したものではないとしている[1]。
仏教信者の主張によれば、四念処は、釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である[要出典]。四念処によって五蓋を捨断すると、釈迦は説いた[2]とされる。
上座部仏教の理論によると、釈迦の涅槃後の5000年以内に、四念処の修行によって、真理を悟り、預流果と阿羅漢に至る。且つ、四念処の修行は悟りになる唯一の方法である。四念処に関する本を読むこと、例えば、マハシ・サヤドーまたはアジャン・チャーによって編纂された著作を読むと四念処の正しい修行方法が把握できると考えられる。
内容
Imesaṃ kho bhikkhave pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ saññojanānaṃ pahānāya cattāro satipaṭṭhānā bhāvetabbā. Katame cattāro:
Idha bhikkhave bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
Vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
Citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
Dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
Imesaṃ kho bhikkhave pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ saññojanānaṃ pahānāya ime cattāro satipaṭṭhānā bhāvetabbāti.
比丘たちよ、これら五蓋の捨断のため、四念処を修習するべきである。いかなる四か。
比丘たちよ、とある比丘が、身(kāye)について身を観ずる者となり、念、正知をそなえて世間(loka)における貪(abhijjhā)と憂(domanassaṃ)を除く。
受(Vedanā)について受を観ずる者となり、念、正知をそなえて...(以下同文)。
心(citta)について身体を観ずる者となり、念、正知をそなえて...(以下同文)。
法(dhamma)について法を観ずる者となり、念、正知をそなえて...(以下同文)。
比丘たちよ、五蓋を捨断するため、このように四念処を修習するべきである。
四念処の内容は、身念処、受念処、心念処、法念処である[3]。
説一切有部アビダルマにおいては、これを無常、苦、空、無我の四顛倒や、不浄、苦、無常、無我の四行相によって見ようとしている[4]。
- 身念処(身念住) - 身体が不浄に満ちていることを観ずる(不浄観)[5][6]
- 受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
- 心念処(心念住) - 心(citta)の無常を観ずる(諸行無常)
- 法念処(法念住) - 諸法の無我を観ずる(諸法無我)
仏典の記述
パーリ語経典においては、『大般涅槃経』等で繰り返し言及される他、以下でも、詳しく説かれている。
脚注
注釈
出典
- ^ 清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021)p40-50
- ^ パーリ仏典, 増支部九集, 念処経, Sri Lanka Tripitaka Project
- ^ パーリ仏典, 長部 22.大念処経, Sri Lanka Tripitaka Project
- ^ 田中教照「有部の四念住について」『印度學佛教學研究』第2号、1983年、499-503頁、doi:10.4259/ibk.31.499。
- ^ 下田正弘「四念処に於ける不浄観の問題」『印度學佛教學研究』第33巻第2号、1985年、545-546頁。
- ^ a b c 安藤正見「原始仏教における四念処について」『印度學佛教學研究』第2号、1981年、628-629頁、doi:10.4259/ibk.33.545。
関連項目
- 四念住のページへのリンク